運の女神(3分、コメディー)
『ハア、ハア……』
男は荒い息をついて、額から流れる汗を拭った。目の前にある黒い形をした箱。破壊のプログラムの前でどれぐらいの時間が経っただろうか。数分か? 数時間か? 時の単位が狂ってるように男は感じていた。
『くそ、手が震えやがる』
爆弾テロの予告があり、爆弾処理のエキスパートである男が一人、解体にあたっていたのだ。
『一体どちらのコードなんだ?』
赤と黒。どちらかのコードを切れば処理が終わる所まできて、男は悩んでいた。
デパートの地下に設置された時限爆弾。武骨に備え付けられた時計の表示は、爆発まで残り数分という現状を冷静に示している。
早く処理を済まさなければならない。だが仮に間違えたとしたら…… どれだけの被害がでるか考えた時、男の背筋は凍りついた。男の決断に数百人もの生命が握られているのだ。
男は再び汗を拭おうとした。その時ふと自分の左手の薬指に残る指輪の跡に気がついた。選択を誤れば自分の命も一瞬に消え去る。だが男には愛する家族、帰りを待つ女はいなかった。
まぶたを閉じれば鮮烈に甦ってくる別れた妻の姿。
『あなた聞いてよ〜 駅前のパーラーの店員ったら、呼んでも来ないわ、愛想が悪いわ、イケメンはいないわ、ひどいのよ〜』
『……』
自分が責任ある職務を果たしているというのに、パチンコ浸りになって家業をおろそかにした女。
『あなた大変よ〜 今月の生活費、あの店が持ってっちゃったの〜 ぷん、ぷん』
『……』
男は離婚した。別れて正解だったと思っている。
しかし今まで過酷な職務を遂行して生きて帰って来れたのは、底抜けに明るかったあの女が待っていたおかげではないか。そう男は思い始めていた。そう思い込みたかった。
『あいつが幸運の女神だったかもしれねえ』
チッチッチッ……
無情に過ぎる時間の中で、男は愛した女を捨てたことを後悔し始めていた。生き延びる理由が欲しい。帰りを待つ女がいる、それだけで強くなれると。
『いや、まだ間に合う』
この危険な職務を成功させたなら、もう一度やり直そうと男は誓った。女の好きだった赤色のコードを切断することに決める。震える手つきで特殊ニッパーを構え、そして――
『俺は信じる!』
《パツッ!》
切断した感触が指先から肘に、そして肩口へと向かう。そのあいだ、男は閉じたまぶたの裏で美しかった妻の幻を見ていた。お気に入りだった赤のワンピースに身を包んで、家で男を待つ姿を……
それは確かに昔にあった光景。決まって女は罰が悪そうに舌を出したものだ。
『ごめんね〜 今日も運は味方してくれなかったの〜』
爆発する刹那、男はパチンコで勝てたためしがない妻を思い出していた。
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