クラウディア皇女という存在
クラウディア・ヴァイルブルクとは何者なのか――このことは、後世の歴史家の中で、この時代における一つの謎となっている。
ある者はクラウディアをこう評している。
クラウディアは、尊敬する姉ソフィーリア皇女を皇位につけるために尽力しながら、人を見る目のなさと優柔不断な性格のおかげで、ことごとく裏目を取った愚か者だ。
また、ある者は言う。
彼女の精神は幼く無垢であった。それを周りから利用され、振り回されたことに彼女の不運がある。彼女は時代に翻弄された悲劇の女性である。
そして別の者は彼女をこう評した。
クラウディアの不幸は、脇役の身で主役の座に祭り上げられたことだ。分に合わないことをすると、人は不幸になる。彼女はそれを見事に証明している。
何故、クラウディアが謎の人物とされるのか。この時代の人物が語るクラウディア像で共通しているのは、世間知らずのお人好し、という印象である。
だが、クラウディアは結果的に『傾国』と言われる役割を果たしている。悪女のイメージがないクラウディアが、何故、『傾国』と呼ばれるような役割を果たすことになるのかが、後世の者にはわからないのだ。
そんな中で、後世の歴史家が注目する一つの記録がある。
カムイ・クロイツの夫婦喧嘩の様子を記録したものだ。何故、そんなものが残されていたかについては、絶対的強者であるカムイ・クロイツにも恐れる者が居る、これを知らしめることで、カムイ・クロイツへの人々の恐れを和らげようという、アルトあたりの策だろうというのが、一般的な考察である。
この記録が残された理由は、クラウディアを考える上では関係ない。関係があるのは、その中に、カムイ・クロイツがクラウディアを評すような言葉が残されているからだ。
それが注目される理由は、記録に残されている中では、カムイ・クロイツのクラウディアに対する評価としては唯一のものであり、その発言が他者のそれとは異質であるからだ。
カムイ・クロイツはこう語っている。
「俺を女たらしだと言うけど、俺はクラウディアとは違って意識してやっているわけじゃない。ああ、あれは人たらしか。とにかく、無意識のことを責められても困る」
別の女性に好かれたことへの言い訳である。それによって、無意識のほうが性質が悪いと、なおさら相手を怒らせてしまうのだが、それはここでは関係ない話だ。
問題は、カムイ・クロイツがクラウディアを人たらしだと思っていたことにある。しかも、意識してそれを行っていると。
このカムイ・クロイツの言葉についても、歴史家の考えは割れている。
多くの者は、クラウディアが人たらしであったことは事実であるが、それは彼女の愛らしい容姿と頼りなさが、周りの者に庇護欲をそそらせることによってもたらされたのだ、と言う。意識的にそれをしているような言い方は、カムイ・クロイツの言い訳だと。
だが、一部の者はこう考えた。カムイ・クロイツはクラウディアの本質を知っていた。何故なら、クラウディアは常にカムイ・クロイツの行動を阻害する敵対者であったからだ。そういった者に対して、カムイ・クロイツが注意を払わないはずがないと。
クラウディアは愛らしい仮面の裏で謀をめぐらす悪女だと。
この説が支持を集めないのは、クラウディアは、カムイ・クロイツの敵対者という位置に置くには、あまりにも器量不足であるという評価のせいだ。歴史家から見ても、彼女は明らかに脇役なのだ。
色々と意見が分かれる中で、唯一、共通している認識がある。
クラウディアの本質を正しく知る者は、常に彼女の側近くに居た、クラウディアにとっての最大の不幸、愚臣、売女、最低の裏切者などの散々な評価を受けているテレーザであろうということ。
◇◇◇
自室の椅子に腰掛けて、足をぶらぶらと振りながら、物思いに耽っているクラウディア皇女。彼女も既に十八歳。どこかに嫁いでいてもおかしくない年齢になっているのだが、子供っぽい仕草は相変わらずだ。
「どうしたのですか? 元気がないですね?」
そんなクラウディア皇女に部屋に戻ってきたテレーザが話し掛けた。
「う、うん」
「何かありましたか?」
「何だか、最近、ディーフリートさんが冷たいなと思って。それにケイネルくんも、ディーフリートさんの所にばかり行っているし」
「あ、ああ。そのことですか」
ディーフリートが冷たいと感じるのは自業自得なのだが、そういう意識はクラウディア皇女にはない。辺境領の件が、クラウディア皇女の口からソフィーリア皇女に進言されたものだと知ったディーフリートは、さすがに腹に据えかねているのだ。
ただ、そうだからといって冷淡な態度を取る程、ディーフリートは子供ではない。冷たいという印象は、クラウディア皇女にとってであって、ディーフリートはただ単に忙しい中で、相手をしていられないというだけだ。
一方でケイネルはというと、ディーフリートの怒りを買ったことに、かなり焦りを覚えていた。ディーフリートは将来、皇帝になるかもしれない人物。そこまで行かなくても貴族の頂点に立つ人物だ。
そんな人に睨まれては自分の将来はないと思って、懸命に媚を売っているのだ。
それぞれ理由は違うが、クラウディア皇女にとって自分の相手をしてくれないということに変わりはない。それを不満に思って、ここ最近ずっと鬱屈した毎日を送っていた。
「私、失敗しちゃったのかな?」
「そんなことはないですよ。カムイに力を持たせ過ぎるのは、良くないことです。それに、策に誤りがあったとしても、それはケイネルの責任です。クラウディア様が責められるようなことじゃありません」
「そうかな?」
「そうですよ」
「そうだよね?」
「はい。そうです」
「やっぱり、テレーザだけだね。私が信頼出来るのは」
「いや、それ程でも」
反省という言葉を知らないクラウディア皇女とテレーザであった。
「でも、姉上のようにはいかないな」
「ソフィーリア様のようにですか?」
急にソフィーリア皇女の話になって、テレーザはわずかに戸惑った。ただ、こういう展開はクラウディア皇女相手ではいつものことだ。
「だって、姉上の周りには、どんどん人が集まっているよ。私の周りからは人が去って行くのに」
「いや、それはだって、ソフィーリア様が皇帝候補なわけですから。仕方ないですよ」
「そうだよね。姉上は私の憧れの存在だからね。素敵な姉上の下に人が集まるのは当たり前だよね?」
「そうですよ」
クラウディア皇女にとって、姉であるソフィーリア皇女は憧れの存在。憧れという言葉は良い意味であるのだが、それも過ぎれば毒になる。
「私もディーフリートさんみたいな、素敵な人と結婚したいな」
「へっ?」
「素敵じゃない? ディーフリートさんって」
「ま、まあ。でも、クラウディア様にはオスカー様という素敵な方が居るじゃないですか?」
「そうね。でも、オスカーさんは」
「何ですか?」
「テレーザはオスカーさんのことが好きなのでしょ?」
「ひえっ! いや、その……」
実に分かりやすい反応。さすがは単細胞のテレーザだ。
「テレーザは強い人が好きだものね?」
「そ、そんなことは……。いや、強い男は好きですけど、オスカー様はクラウディア様の婚約者であって……」
「まだ、婚約してないよ。だから、テレーザにも可能性はあるわ」
「……でも、クラウディア様のお相手が」
これはもう、完全にオスカーを好きだと認めている言葉なのだが、テレーザ自身はそれに気が付いていない。
「私は……。誰か居ないかな? ディーフリートさんみたいな人が」
「ディーフリート様のような方ですか……。外見ですか? 人柄ですか?」
「全部」
「いや、それは難しいと」
「そうだよね? 姉上と私は違うものね」
クラウディア皇女の姉への憧れ。その気持ちはもう過ぎたものになっている。ソフィーリア皇女が持っているものと同じものが自分も欲しい。ありとあらゆるものだ。それが更に進むと、それは憧れではなく、成り代わりたいという欲望に変わる。
今、クラウディア皇女に、そうであるのかと問えば、心底驚いた顔で否定するだろう。そういった欲望は、クラウディア皇女自身も気が付かない心の奥底に沈んでいるのだ。
だが、お互いに不幸なことに、クラウディア皇女の側にはテレーザが居た。幼いころから、クラウディア皇女の側にいるテレーザは、クラウディア皇女自身が気付いていない心の奥底にある気持ちを察してしまう。
察するのは良い。それをテレーザ自身も心の奥にしまっておけば。だがテレーザは、常にそれを、クラウディア皇女本人の前で言葉にしてしまうのだ。
「そんなことはないですよ。そうですよね。考えてみればクラウディア様だって、今となっては継承権第三位の皇女です。それに相応しい相手を選んでもおかしくありません」
他の皇子皇女に継承権の放棄を働きかけておきながら、自身は未だに放棄していないという事実。このことを知っている者は居るが、その意味を考えたものは誰も居ない。
もう少し年月が経ち、カムイがそれを知るまでは。
「それってどういう意味?」
「いや、ソフィーリア様の競争相手となってもおかしくないかなと……」
「もう、そういうことを言っているんじゃないわ」
言葉で聞くことによって、クラウディア皇女の心の奥底に沈んでいる欲望が、そろりと表面に浮かんでくる。それを無意識の中で感じ取ると、クラウディア皇女はそれをもう一度、押し沈めようとする。
あくまでも沈めるだけ。欲望が消えるわけではない。数が増え、一つ一つの欲が結びつき、更に大きな欲望に変わっていく。そうなるともう押さえつけることは出来ない。完全に意識の表に出て、欲望のまま行動するだけ。
だが、その日が来るのは、もう少し先の話だ。
「あ、ああ。すみません。変なことを言いました」
「もう。今みたいなことを聞かれたら姉上に叱られるよ」
「本当にすみません」
こうして不用意な発言は、全てテレーザのものになるのだ。
「もうこの話は止めね」
「はい」
「……そういえば、姉上の婚約式にはカムイさんも来るのよね?」
「え、ええ」
いつの間にかさん付に戻っている。クラウディア皇女の中で、カムイへの評価が変わった証拠だ。
「カムイさん、大活躍だね?」
「そうですね。短期間の間に何度の戦いに出たのでしょう。しかも、その度にきちんと戦功をあげています」
「ついに王国とも戦ったって話だね?」
初陣を飾って以来、クロイツ子爵領軍は、あちこちで反乱鎮圧の戦いに出ていた。そして先般はついに王国軍との戦争にも参加することになった。
反乱を起こした東方辺境領の鎮圧という名目だったのだが、実際には、王国軍が反乱軍に偽装して戦争に参加していたことが、捕えた騎士の証言で明らかになったのだ。
当然、王国がそれを認めるはずはなく、ただちに王国との戦争という事態には至ってはいないが、両国の関係は、より一層悪化している。
「カムイの実力を測る為ではないかと、ディーフリート様もゼンロック殿も話していました」
「王国って強いのかな?」
「どうでしょう? こちらの圧勝だということなので、それだけを聞くと弱いと言えますが、今回の戦いでは王国も小手調べという程度でしょうから」
「そう」
「どうしたのですか? 王国が気になりますか? 今回、あれだけやられれば、しばらく大人しくしていると思いますけど」
「私、あんまり役に立ちそうもないから、王国に行くのもありかなと思って」
「はあ!?」
クラウディアのまさかの台詞に、話の急変には慣れているテレーザも驚きの声が大きくなる
「ほら、友好の懸け橋っていうの? そういう役目で」
「王国に輿入れするってことですか!?」
「それで争いがなくなるなら、それも悪くないかなって少し思ったの」
「……王国の王妃を目指す訳ですね?」
又、口に出さなくて良いことをテレーザは口にしてしまう。
「嫌だ。そんな大それたことは考えていないわ。ただ戦争を失くしたいってだけ」
「その志は立派です。でも、それを考えるには、まだ早いかなと私は思います」
「どうして?」
「悔しいですけど、やっぱりカムイは凄いです。さっき王国は小手調べと言いましたけど、皇国だって正規軍が参加していません。それで圧勝ですから」
「えっと、どういうことかな?」
「国内が落ち着けば、皇国は王国を攻め滅ぼせちゃうんじゃないかと思って」
「……そっか」
「もし、そうなったらクラウディア様は敗戦国の王妃になってしまって、肩身が狭い思いをすることになります」
「そんなことは気にしないよ。でも、争いは無くならないのか」
王国の王妃という選択肢はクラウディア皇女の中で限りなく小さくなった。
「皇国が勝てば無くなります」
「そうだね……。カムイさんは、やっぱり凄いんだね?」
ここでまたクラウディア皇女はカムイに話題を戻してきた。
「まあ」
「私、カムイさんにも嫌われているからな」
「いや、それは……、私のせいです。すみません」
一応はテレーザにもこの自覚はあった。
「仲直り出来ないかな?」
「仲直りですか? それは出来ないことはないと思いますけど。でも、ちょっと方法が思いつきません」
「まずは、テレーザが仲直りするのはどう?」
「わ、私ですか……。ちょっと難しいかなと」
今更、カムイとどうやって仲良くすれば良いのか、テレーザには全く方法が思いつかない。
「でも、カムイさんとの仲はテレーザのせいで……。あっ、ごめんね。人のせいにしてはいけないね」
「いえ……」
クラウディアの為に、という思いは、これで無かったことになる。
「何とかならないかな……」
「あの、頑張ってみます」
「どうやって」
「それは……。思いつきません」
「じゃあ、いっそのこと、テレーザとカムイさんが結婚しちゃうなんてどう?」
「はあっ!? そ、それは絶対無理です!」
とんでもない提案を口にするクラウディア皇女に、テレーザは目をむいて、全力でそれを否定する。だが、それでもクラウディア皇女は話を止めようとしなかった。
「どうして?」
「どうしてって……。私はカムイに嫌われています」
「それをなんとかするのでしょ? 仲直りをしようって考えているんだよ?」
「でも、どう考えても無理です」
「そうかな。案外、頑張ってみれば大丈夫かもよ?」
「あの、どうして、そんな風に思えるのですか? 私にはとても」
あまりに楽観的なことを言うクラウディア皇女にさすがのテレーザも少し呆れてきた。
「だって、ヒルデガンドさんだって、カムイさんに頑張ってアプローチしていたじゃない」
「そうですけど」
「多分、凄く頑張ったのよ。だって、カムイさんはヒルデガンドさんのことも嫌っていたはずよ。それなのに、最後はあんなに仲が良くなったわ」
「そうは言いますけど、どう、頑張れっていうのですか?」
「どう? そうだね……。まずは男女の関係からかな?」
「は、はい?!」
「ヒルデガンドさんも、案外そうやってカムイさんを籠絡したんじゃないかな? 二人きりで部屋に居たのは何度かあるものね」
「……あの、クラウディア様。どこでそんなことを? というか男女の関係だなんて」
テレーザにしてみれば、とてもクラウディア皇女の口から出るような内容と思えない。戸惑いが心の中に広がっていた。
「あっ、私だって、もう大人だもん、それくらい知っているよ。子供扱いしないで」
口ではこう言いながらも、その後で頬を膨らませて、拗ねた様子を見せるクラウディア皇女の仕草は、とても大人の女性のそれではない。
こういう仕草を見てしまうと、テレーザの疑念は綺麗に消え去ってしまうのだ。
「クラウディア様が口にするようなことじゃないです。ケイネルあたりの策ですか?」
「教えない」
「やっぱり……。あの野郎、とっちめてやる」
「駄目だよ。私、ケイネルくんの策だなんて言ってないからね」
ケイネルの策ではないとも言ってはいない。
「そうですが」
「それに、悪いことじゃないわ。テレーザとカムイさんが結婚すれば、私の信頼できる人が二人になるもの。カムイさんだって、テレーザが奥さんになれば、きっと私のことも好きになってくれるよね?」
「…………」
「そうなると嬉しいな」
「私は……」
「テレーザも幸せになれるね。カムイさんは強いからテレーザの理想の男性だよ」
ついさっき、オスカーのことを好きなのだろう、可能性がある、などと言っていた口が平気でこんなことを話すのだ。
「……はい」
「あっ、嫌だ。さっきの冗談だよ。テレーザにカムイさんに無理やり、その、迫れだなんて……」
「……わかっています」
「もう、そんなに暗くならないで。他に仲良くなる方法を考えれば良いんだからさ」
これは取りようによっては、他に方法が見つからなかったら、そうしろと言っているようにも聞こえる。実際にテレーザはそう受け取った。
「そうですね。他にあれば」
「じゃあ、私も考えておくから、テレーザもちゃんと考えてね」
「はい……」
女性の武器を使って次々と男を籠絡する売女。テレーザにつけられた悪評のひとつだ。テレーザのそんな行動はこの日がきっかけである、
愛らしい仮面を被った悪女と、悲劇の忠臣――これが、後世には伝わらなかった二人の関係の、真実の姿である。