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魔王の器 作者:月野文人

第四章 大陸大乱編

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捜査中

 旧皇都領、大陸西方北部における最大都市アンファング。その城内の執務室でアルトは書類の山に囲まれながら、うんうんと唸っている。もう半月以上もろくに睡眠時間も取れないくらいに働き続けているのだ。

「ふっ。お前がそんなに苦しんでいるとは珍しいな」

 そのアルトの様子を、テーレイズが笑みを浮かべて眺めている。

「そう思うなら手伝ったらどうだ? これはお前の国の仕事だ」

 アンファングの王はテーレイズだ。

「……お前の国の仕事と言われてもな。好きでなった王ではない。お前の主に脅されて、仕方なくなっただけだ」

 本人は嫌々なったのだとしても。

「それはカムイに借りを作るほうが悪い。借りたものは返さないとな」

「それはそうだが」

 もう政治には関わらないと決めていたテーレイズを強引にカムイは引きずり出した。それを拒否するには、テーレイズはカムイたちの世話になり過ぎていた。
 今、生きていることさえ、アウルのおかげなのだ。

「だが俺は王には向いていない」

「皇国の皇帝になろうとした奴が何を言ってやがる」

「だが成れなかった。俺には運がないのだ。それは上に立つ者には大切な資質だと思っている」

「運……言いたいことは分かる」

 テーレイズがもしもっと早くカムイと出会っていたら、テーレイズだけでなく、皇国の運命も変わっていた。
 テーレイズがもし病気になっていなかったら、皇帝の座はテーレイズのものだったかもしれない。
 もしと思えることは確かにある。

「そうだろ? だから、俺は王になるべきではない」

「そりゃあ違うな」

 言いたいことは分かるとしながら、アルトはテーレイズの言い分を否定する。

「どう違う?」

「お前に一番足りねえのは粘りだ。諦めが早すぎんだよ」

「……そうだろうか?」

「今だから言えることだが、もし、もっと必死にカムイに自分の味方をしてくれと頼んでいたら、案外、カムイは乗り換えたと思うぜ」

「あのカムイが妹との約束を破ると?」

 約束は必ず守る。契約を大事にする魔族の考えをカムイも尊重している。テーレイズにはカムイが妹であるソフィーリアを裏切ったとは思えない。

「ソフィーリア様は、本人に限らずソフィーリア皇女派は、こちらを何度も裏切った。契約が成り立っていたとはいえねえ」

 契約は双方の信頼と誠実な履行によって成り立つ。カムイに対して誠実とはいえなかったソフィーリア皇女派は契約相手としては不適格だった。

「……なるほど」

「機会は何度もあった。学院時代だけじゃねえ。その後も、ノルトエンデに来た後だって、本気で皇国を何とかしたいとカムイに頼めば、それこそ本当の反乱を起こしたかもしれねえ」

「確かに、俺は自ら皇国皇帝の座を手放したのだな。まあ、成りたいとは思っていなかったから仕方がない」

 この割り切りの早さを、アルトは欠点だと言っているのだが、いきなり治るはずもない。

「嫌でもやらなきゃいけねえことってあるだろうよ」

 アルトもカムイもそれをやっているのだ。

「それが出来ないから今なのだ」

「だから、その今をちゃんとしてくれよ。この国の王はお前だ。これまでのようでは困る」

「だから、それが」

「マリーに聞いた。本気になったお前は、カムイに対抗出来るだけの能力があるってな」

 皇国の皇子時代のテーレイズはカムイの動きを読んでいた皇国で唯一の存在だ。その読みを皇国の為に活かしていれば、これもまた今とは違った状況になっていたかもしれない。

「それは無理だ」

「だから何でだよ?」

「俺にはお前がいない」

 テーレイズには忠臣と呼べる者がいない。と本人は思っていた。

「マリーがいた。ヒルデガンド様もマティアスも。人がいなかったと言わせねえ」

「……そうだったな。すまない」

 テーレイズは謝罪の言葉を口にする。この場にはマリーもいるのだ。

「謝罪は良いから手伝っておくれよ。アルトも無駄口叩いてないで、さっさと仕事しな」

「……悪い」

 何気にアルトはマリーの尻に敷かれている。夫婦としては、この方が正解だろう。

「手伝うといっても何をやっているのか俺は知らん」

 アルトとマリーがずっと忙しくしているのは知っていたが、何をしているかをテーレイズは知らない。それが気になって、今日、この執務室に来てみたのだ。

「これまで突っ走ってきた中で置き忘れていた問題を解決してる」

「置き忘れてきた問題?」

「そんな勿体つけた言い方しないで、分かりやすく説明しなよ。今やってんのは、草をあぶり出してるのさ」

 アルトの回りくどい言い方が面倒で、マリーは自分の口で説明した。ただこれも簡潔すぎてテーレイズには分からない。

「草のあぶり出しというのは?」

「あんたの妹を殺したのは王国が送り込んだ草だろ? 宰相まで上り詰めた草がいるんだ。貴族家にいてもおかしくない、ていうか、絶対いるだろうね。それも一人や二人じゃない」

「その草か……」

「ノルトエンデから外に出たことで、多くの新参者が加わった。その中に草がいないという保証はないだろ?」

 臣下として認める過程で、かなり慎重に調べてはいるが、それでも絶対とはいえない。
 草とは敵国に同化してこそ草。それをあぶりだすのは容易ではない。

「……どうやって?」

 テーレイズも草を見つけ出す困難さは理解している。アルトたちがどうやって炙り出すつもりか想像がつかなかった。

「草は敵国に潜り込んでこそ草。そして、今はその絶好の機会だ。これを逆に利用する」

 旧皇国は今、混乱の真っ最中にある。出来るだけ良い形で独立を実現しようと貴族家は離合集散を繰り返している。人が入り乱れるこの状況は、草のような存在が潜り込むには絶好の機会だ。

「……こちらに付こうとする者が怪しいと?」

「簡単に言うとそうだ。その中でも、理由もなく帝国が独立を唆そうとしない貴族家、主が独立しようとしているのにこの国に残ろうとする者。この辺りは極めて怪しい」

「しかし、忠誠心に厚い可能性もある」

「まだ何も与えられていねえのに? 実際にそこまで高潔な奴が存在するなら、確かに惜しいけどな」

 共和国が北部に進出し、多くの貴族家が臣従したが、本格的な統治を行う前に今の状況になっている。共和国に属したことによる恩恵など、これまで何も与えられていない。
 それで共和国に忠誠を持つ者が現れるとはアルトは考えていない。

「……かなり排除することになるのでは?」

 アルトの考えでは北部に進出してから臣従してきた者は誰も信用出来ないということになる。それを排除すれば、アンファングを治めるに必要な人材がいなくなる。
 共和国の宿命ともいえる人材不足問題がまた顕在化する。

「排除するのは、それなりの立場に置く者だけだ。まあ、下から出世してこられたら、あれだけど、その時はその時。出来るだけのことはするが、完璧には出来ないことも分かっている」

「その、それなりの立場の者の代わりはどうする?」

 それなりの立場とは国政の中枢を担う者たちだ。それを失っては国政は動かせない。

「ノルトエンデから回す。それに、臣下はすぐに増えることになる」

「……どうして?」

 ずっと人材不足に悩んでいたはずが、やけにアルトは簡単に言う。この理由がテーレイズは分からない。

「……大丈夫か? のんびり暮らし過ぎて呆けてんじゃねえか?」

「それは……」

 アルトがこんな言い方をするということは、割りと簡単な答えということだ。ただ、アルトの言う通り、テーレイズは本来の知性を発揮出来ていない。引退気分が抜けていないのだ。

「お前を王に選んだのには、それなりに理由がある。息子がまだ幼いってだけじゃねえからな」

「……皇国か」

 アルトにヒントをもらって、ようやくテーレイズは答えを見つけた。

「そう。帝国への臣従に不満を持つ者たちがかなり姿をくらましている。帝国に刃向かおうって考えている者もいるだろう。そこにお前が国を持ったという話が届けば」

「そういった者は俺を頼りに集まってくる」

「臣下には困らねえだろ? それに元々皇国の国政に関わっていた奴らだ。完璧とは言えねえが、少しはマシなはずだ」

 王国の草であった宰相による暗殺事件。事が起こった後、皇国は何もしなかったわけではない。宰相と接点があった者を中心に国政に関わる立場の者の素性を徹底的に洗い、怪しい者は排除している。
 アルトが少しはマシと言っているのは、これが理由だ。

「だが、それを受け入れればアンファングは帝国への反抗の拠点になる」

「それは仕方ねえ。軽はずみな暴発は国王として何とか抑えろ。暴発するにしても時期ってもんがある」

「……何だか騙された気がするが、俺以上に帝国は騙されているな。臣従は策か?」

「カムイはカムイなりの理由で臣従を選んだ。その気持ちは尊重する。だが俺はカムイ以外に臣従した覚えはねえ」

「カムイに背くのか?」

 アルトを初めとした孤児院からの仲間は、カムイへの絶対の忠誠心を持っている。テーレイズはこう思っていたのだが、今、アルトはカムイの意思に反した行動を取ろうとしているように見える。

「……そうはならねえな。皆、誤解している。カムイは俺なんかより遥かに性格が悪い。見えている一面をカムイの全てだとは思わねえことだ」

「……そうか」

「まっ、ここから先は俺にも読み切れねえ。だからこそ、今、最善と思うことをやるだけだ」

「その結果は……」

「混沌。これまでよりももっと激しく、もっと広い範囲で色々なものが動き出す。これまでの戦乱なんて生ぬるいと思える状況になるはずだ」

 なるはずではなく、するつもりなのだ。帝国による大陸支配という形を固めさせるつもりはアルトにはない。帝国を、大陸全体を混乱させ、安定を許さない。
 その混沌の先に、アルトたちが望む世界が待っている。こう信じていた。

◇◇◇

 ルースア帝国皇帝ニコライの名で非合法奴隷の売買および保有の禁止が布告されてから、およそひと月後。ルースア帝国領の西部。中央諸国連合に近い位置にある貴族領で、早々に騒動が起きている。

「何の権利があって、当家を調べようというのだ?」

 いきなり屋敷に押しかけてきて、中を調べると言って来た者たち。そんな真似は許さないと、この家の執事が入り口で立ち塞がっている。
 執事だけではない。この家に仕える騎士たちも殺気を振りまきながら入り口を固めていた。

「何の権利って、皇帝陛下の直々の命令ってとこかな」

 騎士たちの殺気を全く気することなく答えたのはイグナーツだ。イグナーツも一人ではない。数人の兵士を同行している。

「何だと?」

 ニコライ皇帝の命令と聞いて、執事が驚きをみせた。

「非合法奴隷の売買、保有禁止については聞いていない? 我々はそれに違反する者たちを捜査する権限を皇帝陛下に与えらえている」

「いや、しかし、あの布令が届いたのは、ほんの数日前で」

 執事であるからには、当然把握している。ほんの数日前に布令書が届いたばかりだ。

「つまり届いている。陛下の命令を知っていて、それに背くのは大罪だ。調べさせてもらうよ」

「だから届いたばかりだと言っている!」

「だから言っている。命令を知っていて守らないのは陛下に背くと同じだって。そんなに焦るってことは、後ろめたいことがあるのかな?」

「……そんなはずはない」

 執事は否定するが、これこそ、そんなはずはない。非合法奴隷を保有していることが分かっているから、イグナーツたちはこの貴族家に押しかけているのだ。

「じゃあ調べさせてもらおうか。何も見つからなければ、それで引き上げるから」

「しかし……」

 ニコライ皇帝の命令だと言われれば、拒否することも出来ない。かといって、屋敷の中を調べられるのも不味い。
 執事はどうして良いのか、途方に暮れることになった。

「調べる必要などない!」

「ご主人様!」

 執事では抑え切れないと見て、領主であるステパン・イワレフ伯爵が現れた。顔半分を覆うような豊かな髭をたくわえた壮年の男だ。

「貴方はイワレフ伯ですか?」

 分かっていながらイグナーツはイワレフ伯爵に問い掛ける。 

「ああ、そうだ。人の屋敷に押しかけて何をしておる?」

 イグナーツの問いに対して、イワレフ伯爵を鷹揚な態度で応えて見せた。

「皇帝陛下の命により、屋敷を調べさせていただきます」

 イワレフ伯爵がどんな態度で来ようと、イグナーツのやることは変わらない。

「だから、それは無用だと言っておる」

「そういうわけにはまいりません。非合法奴隷禁止令に違反している者がいないか取り締まるのが、陛下より命じられた我々の仕事ですから」

「我が屋敷に非合法奴隷などおらん」

「それは調べてから判断いたします」

 イグナーツには一歩も引く気はない。引く理由など微塵もないのだから、当たり前だ。

「……調べて、何も見つからなかった場合、どう責任を取るのだ? 我が家を辱めた罪は決して軽くないぞ?」

 イグナーツに引く気がないとみてイワレフ伯爵は脅しを使ってきた。これも又、イグナーツに対しては、全く意味がない。

「結果は結果。我らは与えられた任務を誠実にこなすだけです」

「そんな言い逃れは通用せんぞ。イワレフ伯爵家は何代にも渡ってルースア王国に尽くしてきた。おぬし等のすることは、この忠誠を侮辱することだ。ただで済むと思うなよ?」

 更に脅しを重ねてくるイワレフ伯爵。

「……分かりました」

「そうか。ようやく分かったか」

 そんなはずはない。

「責任を取れというなら取りましょう。ということで屋敷を調べさせていただきます」

「何だと? 貴様、命が惜しくないのか?」

「そのようなことにはなりません。何故なら、この屋敷には非合法奴隷からいますから」

「……そんなものはおらん」

 イワノフ伯爵が非合法奴隷の存在を否定するのと、それが現れるのはほぼ同時だった。

「奥の部屋に地下につながる階段があります。非合法奴隷は、その地下に閉じ込められています」

 黒装束の女性がイグナーツに非合法奴隷の居場所を伝えてきた。その瞳は赤く、輝いているように見える。ミトが束ねる諜報組織の一人だ。

「……魔族だと?」

 いきなり現れた魔族にイワノフ伯爵が驚いている。イグナーツたちが何者か分かっていなかったのだ。

「ご苦労様。さて、非合法奴隷の存在は確認された。つまり貴方は犯罪者だ」

「……ち、ちょっと待て? お前らは一体、何者なのだ? どうして魔族がいる?」

「貴方に分かりやすく言うと、ノルトエンデの者だ」

「何だと? ノルトエンデの奴らにどうして我が家が調べられなくてはならんのだ?」

 イグナーツたちの素性を知った途端に、イワノフ伯爵の顔に侮蔑の感情が浮かんだ。ノルトエンデだけでなく、他国は帝国の属国。自分のほうが立場は上だと考えているのだ。
 間違いというわけではない。ただ、相手が悪かった。

「皇帝陛下の直々のご指名を受けてのこと。つまり、勅命を受けてのことです」

「それがなんだ? 根も葉もないデタラメで我が家を貶めようとしても無駄だ。陛下は必ずや、私の潔白を信じてくださるだろう」

 非合法奴隷の存在をイワノフ伯爵は恍けることに決めた。属国の者たちの言い分と、帝国貴族である自分の言い分であれば、間違いなく自分の言い分が認められると考えてのことだ。

「それはどうかな?」

「強がっても無駄だ。諦めて大人しく引き下がるのだな」

「……引き下がってやっても良い。でも、それをするには、見返りがないとね?」

「見返りだと?」

 イグナーツがいきなり見返りを要求してきたことにイワノフ伯爵は戸惑っている。見返りが何かは分かっている。だが、ここで要求してくる理由が分からないのだ。

「分かるでしょ?」

「……最低の奴らだな? 任務がどうだと言っておきながら、結局はただのゆすりか?」

「金で手を打つほうがそちらの為だと思っただけ。感謝して欲しいくらいだ」

「愚か者が。こちらの話が理解出来んのか? 陛下はお前らのような者の言葉は信用されん。事実がどうであろうとな」

 侮蔑の笑みを浮かべながらイワノフ伯爵は、イグナーツに告げてきた。罪を捻じ曲げようという自分自身も侮蔑されておかしくないと分からないようだ。
 しかも、イグナーツが、ノルトエンデがこんな生ぬるい交渉をするはずがないとも分かっていない。

「その通り。事実がどうであろうと関係ない。皇帝陛下の真意はね。それを見誤っていると後悔するよ?」

「……何を行っておるのだ?」

 自信満々の笑みを浮かべて話すイグナーツを見て、イワノフ伯爵の胸にわずかに不安がよぎる。

「狡兎死して走狗煮らるって言葉知ってる?」

「何だそれは?」

「すばしっこい兎を捕まえる猟犬も、兎が死んでいなくなれば用無しになって煮て食べられるって意味」

「だから、それがどうした?」

「これって魔族に伝わる遥か昔のことわざでね。敵国が滅びてしまえば、それに尽くした功臣も不要になってしまうって意味」

「な、なんだって?」

 イワノフ伯爵はようやうイグナーツが何を言いたいか分かった。

「どうして人って強欲なのだろう? 広大な領土を手に入れたのに、それが他人のものであることが許せない」

「そ、そんなことは」

「どうして人って臆病なのだろう? 今、心から忠誠を向けている相手でも、いつかそれが消え、自分を貶めようとするのではないかと疑ってしまう。相手が優秀であれば尚更」

「……それは」

 イグナーツの言葉にイワノフ伯爵は反論出来なくなってきた。イグナーツが告げたことわざをイワノフ伯爵は知らなかったが、大陸の歴史の中で忠臣が誅された例や臣下が大量に粛清された例はいくらでもある。

「勅命に逆らったとなれば、取りつぶしになってもおかしくない。これから、そういう家が増えていくだろうね」

「ほ、本当に陛下はそんな……」

「聞いた話では、兄に対するコンプレックスが激しいみたいだね? 自分と兄を比較した臣下のことを内心ではかなり恨んでいたみたいだ」

「…………」

 いかにも有り得る話をされて、イワノフ伯爵は黙り込むしかなくなってしまった。兄であるアレクセイ王子が生きていれば。この台詞を口にした覚えはイワノフ伯爵にもあった。

「信じないのであれば、皇帝陛下に自分は無実だと訴えれば良い。結果が分かった時には手遅れだけどね」

 更にダメ押し。これでイワノフ伯爵にニコライ皇帝に訴えるという選択肢はなくなった。

「ど、どうすれば良いのだ?」

「ひたすら目立たないように大人しくしているしかないのでは? 我々がここに派遣されたからには、貴方はもう目を付けられていると思った方がいい」

「し、しかし。もう……」

「だから見返り。分かった? 我々も私利私欲だけで見返りを求めたわけじゃない。あまりにも可哀想だから、うまくしてやろうとは思うけど、我々もリスクを負うわけだからね」

「……そうだな」

 罪を隠せばイグナーツたちも同罪。この思いがイワノフ伯爵にイグナーツたちへの信用を生む。もっとも信用してはならない相手だとも分からずに。

「非合法奴隷は当然解放してもらう。その上で見返りは一人当たり金貨一枚というところで」

「……金貨一枚?」

 非合法奴隷を買った時の値段はこんなものではない。見返りというからには、相当の金品を要求されると覚悟していた分、あまりの安さにイワノフ伯爵は呆気に取られている。

「私利私欲の為じゃないと言った。ただ、条件はこれだけじゃない」

「……何だ?」

 案の定、イグナーツがさらなる要求をしてきたことで、イワノフ伯爵の気持ちはまた引き締まった。

「売買契約書に署名してもらう」

「……何の契約書だ?」

「非合法奴隷の売買契約書。これで我々は共犯者になる」

「……ふむ」

 イグナーツの説明を受けて、イワノフ伯爵は少し悩む様子を見せている。相手に犯罪の証拠を与えることになる。だが同時に相手の弱みも握れる。利害のバランスを考えていた。

「考えるだけ無駄。これを断れば、こちらは貴方を摘発する。貴方には署名する以外の選択肢はない。そうであるなら、こちらと友好的な関係を結んだほうが良いと思う」

「……確かにそうだが」

 イグナーツの言う通り、断ることは出来ないと分かっている。だが何となく無理やり従わせられる状況が気に入らないのだ。

「友好的な関係は、きっと貴方に利をもたらす。諜報能力において、この大陸で我々に匹敵する組織はないのですよ?」

 出来ることなら望んで署名をしてもらいたい。上手く関係を構築出来れば、情報を与えるだけでなく、得ることも出来るようになるのだ。

「そうか……」

「分かってもらえました? 帝国中央が何を考えているかは、この先の貴方には何よりも貴重なものとなるでしょう」

「分かった。条件は飲む」

 イワノフ伯爵は非合法奴隷の受け渡しに同意した。形としてはこうだが、その中身はノルトエンデとの協力関係を結ぶことに合意したことになる。
 これの本当の意味をイワノフ伯爵はまだ分かっていない。このような活動がルースア帝国本国のあちこちで行われていることも。
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