第十章五行における具体的計略:水計
水計の基本戦略と応用編
水の基本構造は形を変えることと流動性である。
水は山で累積した落ち葉が腐敗して出来た栄養を里山にもたらす。山から流れ出た水は単なる水ではなく
栄養分を含んだ水であった。それが海に流れ出て海草を育てる養分となり、海草が魚を育てた。
山の木を刈り取り、山を破壊しつくすと海に養分がいかず、磯焼けを起こす。
人類は古来より水によってもたらされた肥沃な栄養分が植物を豊かに育てることを知っていた。
水がもたらすものは蓄積によってもたらされるものであり、が運んでくる養分を人間が得るためには、
土木工事によって水を人間の居住環境まで引水してくる必要性がある。
つまり、灌漑設備を構築せねばならず、水を利用するためには継続的努力と労働を必要する。
井戸を作るにも掘削の労働がともなう。
自然にもたらされる雨も降ってすぐ土に吸い込まれ、ため池をつくらなければすぐに消えてしまうものであった。水と安全は古来よりタダではなかった。それをもたらしたのは古来からのたゆまぬ土木工事の累積であった。その蓄積の上に人類は存在をゆるされている。
つまり、水智の根本は継続的蓄積と試行錯誤である。水智の根本にあるのがその基本構造である流動性によってもたらされる蓄積である。蓄積を活用するためには努力がいる。
これは知識という変化し、蓄積する要素にも同様の事がいえる。知識を活用するためには本を大量に読んで、知識を蓄積し、それを思考する(流動化)させることによって、現状を認識することである。
水智における智とは、常に流動化し、その流動化したものを蓄積し、累積したものを活用することによって現状を認識することである。
そして、ここで出て来るのが水剋土、智剋信である。
水源は人の乾きを癒し、人に肥沃な養分を提供する。それに対して、土が大量に流入した泥沼化した
水は飲むことができず、流動化が緩慢なため人は足をとられ、底なし沼化して人を殺す。
流動性をなくした智は死をもたらす。
水は土によって殺される。智は信によって殺される。
智の本質とは何か、それは、色々な努力によって現状を認識することであって、知識はより正確に
事実はなにか、真実はなにかを見極めるための材料なのである。その現状をより正確に把握するためには、常に、知識を累積しつづけなければならない。
しかし、そのためには、常に努力をし続けなければならない。その努力は苦痛につながる。しかし、
人間は努力し続けないかぎり、正確な現状認識を続けることはできない。なぜなら、現実派常に流動化するからだ。
しかし、そうした努力の辛さ、現状認識の辛さから逃げて、虚栄の世界に逃げ込むことが信じることなのである。
一度学んだ知識、人から与えられた知識を何の疑問も持たず、信じる。飲み込んで妄信する。
すると、自分の頭で考える作業をしなくてすむから楽なのである。
人は、楽のために人から与えられた知識を妄信し、それによってあたかも自分が何かを知った気になる。
これが無知であり、人は無知であるというテーゼに対して、この無知である事実を認識するという
アンチテーゼを経て、無知であるかこそ、常に新しい知識を取り込む努力をし、その知識の累積によって
常に流動化する知識を把握し続ける作業を続けなければならない。これがアウフヘーベンである
無知の知である。
事実が何であるか把握した時、人は大いなる感動と快楽を得る。それは、えもいえぬ快感である。
しかし、それを可能とするためには努力が必要であり、そのせっかく、努力によって得た事実認識も
流動化によって変化するので、また、同じ努力を繰り返さねばならない。
人は本能的にこの努力を忌避しようとする。その行為の先にあるものが妄信である。
妄信という土は智という水を阻害する。
この土は何からもたらされるかといえば火礼である。
火生土
権威ある立場の人、東京大学の教授、テレビのコメンテーター、いわゆる権威の言ったこと、
有名人の言ったことを人々は妄信して楽になる。それを否定する行為は「失礼じゃないか!」と
非難されることとなり、たとえ間違った内容であっても、智によって否定された火は「無礼者」
「くだらない人間」「オレを批判する奴はニートとアルバイトとヒキニートだけだ!」というような
言説につながる。つまり、火礼を攻撃する水智は火剋水で「人格攻撃」にさらされることとなる。
あいつの言っていることはただしいかもしれないが、「あいつは無礼だ」「あいつはクズだ」という
ことになる。
また、水は木を産む。
木は水という知識を得て、技術を身につける。しかし、木剋土であるために、仁剋信となる。
これは、生み出すものが事実でなくてもよい、信つまり「嘘をつかない」という行為を否定している。
智によってもたらされた知識は「真実」「事実」である。これに対して、水によって育てられた
木が形成する知識は「フィクションの世界」なのである。これは水が木をコントロールしてやらないと
木の性質の人は常に「たのしかったらいい」「面白いお話を製造する」ことだけに熱中する。
これがどういう弊害をもたらすかというと、本来、真実を知った快楽というのは、たゆまぬ努力によって
得られることとなる。しかし、木がつくる「フィクション」は必ずしも事実でなくてもいい。
実際にはそれが「嘘」であるにもかかわらず、嘘によって都合のいい成功がもたらされるという
「フィクションの現実」を人々に信じ込ませることができる。つまり、水が木に正しい事実を注入
しつづけないかぎり、木はタダ単に「面白いだけの」「事実ではない可能性がある」物語を
垂れ流してしまうことになる。そして、土信の頭を狂わせて間違った方向に狂信暴走させてしまう。
この行為が木剋土なのである。
これは、木が火の礼である権威主義を生み出したときに発生する。
その構造をマルクスが発見したため、愛の象徴である宗教、この場合は「キリスト教」はアヘンであり、
これを排斥することによって人々は幸福になると考えたのである。
しかし、本来は、この木を水がコントロールし、「愛知」を人々に提供することによって人々を
導くことにつながるのであって、木という物語が人々に「道徳心」「正しい判断」を提供するすべを
失ったため、信は暴走し、狂信による間違った価値判断によって正義を遂行し、殺戮を繰り返すこととなる。これがマルキシズムが内包する危険性である。
よって、水がなすべきは、木の放棄ではなく、木のコントロールなのである。
木をコントロールすることによって、木は土をコントロールすることができる。
これが水のあるべき姿である。
応用編
水剋土、智剋信であるから、水である智が嘘をついたとき、崩壊が始まる。
水が知恵をつかって、嘘デタラメを流布すると、信用がうしなわれ、その人は嘲笑され、その後、
本当のことを言っても、誰も聞いてくれなくなる。つまり破滅である。
水、知識の保有者は嘘をついてはいけない。水を殺すのは土なのである。
水である学者、教師、指導者は困ったことに信である無学な大衆に対して無力である。
その事実を知って、心を蝕まれ病んでしまう智性派も多い。しかし、そこには解決策がある。
それは木剋土である。
土による妄信、狂信を抑制できるのは木である。
つまり、「物語」「小説」「映画」「マンガ」の中に本当の真実、事実、道徳心、規律などを封入
することによって土、つまり大衆をコントロールすることができる。
しかし、それが間違ったものであった場合、巨大な狂信の暴走を生み、多くの人の殺戮を産む。
たった一人の学者マルクスが「共産主義革命」という物語を木である物語の作り手に放流したため、
その架空の物語「すべてを破壊し尽くせば、その先に新しい未来が見えてくる」という間違った
フィクションのストーリーが信である大衆の頭に注入され、それを自分の頭で考えることなく
妄信した民衆が狂信し、カンボジアで発生したような大量虐殺の破壊を生み出した。
本来、智は累積と蓄積によって生まれる。つまり、いままで蓄積した知識や文化を蓄積し、それの上に
新しい知識を付加することで、より高みにのぼることができる。つまり、常に少しずつ、現状の変化に
あわせてマイナーチェンジを行うことによって文明は発展するのに、それをすべて破壊してしまえば、
そこには破滅と殺戮と絶望しかないのである。
にもかかわらず、一旦、物語として流布されてしまった「全てを破壊すれば人々が幸せになれる」という
嘘の物語は現在も人々の間に蔓延し、間違った物語の再生産によって、自分の頭で物事をかんがえない
土信、つまり大衆の頭に注入され続けているのである。
智は過去からの蓄積の積み重ねによって形成される。
より高い智を得るためには、まず現状を認識し、そこで発生した小さな問題点を洗い出し、不都合な部分を
マイナーチェンジすることでしか改善できない。
全てを破壊してしまいえば、いままでの累積を破棄することになる。それは最悪の結果しか生まない。