あら、いらっしゃい。珍しいわ、こんな夜中にお客様なんて……どうぞ、中にいらして。
ここは、主に何もしてあげられない場所……あなたがどんなに困っていても、ね。
けれど、一つだけお話を聞かせてあげられるわ。それは、永きに渡って綴られてきた、けれど誰も知らない物語……悦び、哀しみ、怒り……何でも在るの。
なんでそんなことをするのか、ですって?
やりたい物事に理由は無いわ、お嬢さん。ただ、わたしがあなたに伝えたいだけなの。
けれど、一つ約束があるわ。…そうよ、それは『あなたもそのお話を語り継ぐこと』……だって、わたしが話して終わる物語なんて、なんだか哀しいじゃない?
だから、そのお話が潰えることのないよう、あなたにもそれを継承していってほしいの。お解りかしら?
……いいわ、それでは、あなたに伝える物語はこれよ。わたしがとても気に入っているお話なのよ。今まで他の誰にも話さなかった、秘密の物語……ある一人の男の、哀しい物語……
特別に、あなただけにはお話しするわ。だから、よく聞いておいてね。
いい?喋るわよ?
題名は、『千から始まり零に繋がる物語』
男は、少女に連れられてこの森に来た。そこは、あらゆる自然を感じることができ、木洩れ日が暖かな素晴らしい森だった。
失職し、離婚し、途方に暮れていた男が出会ったこの少女は、人形のように透き通る肌を持ち、一つの芸術にさえ感ぜられた。男は、街角で出会ったその少女に腕を引かれ、この森に辿り着いた。しかし、街の人々はそれが見えていないかのように、全く見向きもしなかった。
そして、今、二人はこの森に居る。
男は、この少女に興味を持ち始めていた。いきなり腕を引き走り出したのには、やはり何か理由があったのだろうから。それに、この後、少女が何をしてくれるのか、非常に期待していたのだ。
しかし、どれほど待っても少女には何かを始める仕草も何もない。男は、次第に不安になりはじめた。
そして、少女の肩に手を伸ばしかけた、まさにその半瞬後の出来事──
そこは、街角だった。しかし、先程のそれとは、どこか様子が違う。
そう、人が居ない。
昼間はあんなに混みあっていた街が、今はいきなり静寂だ。
男には、何が何だか全く解らなくなっていた。
仕方がないので、自らの家に戻ろうと歩き出した。
しばらく歩いて辿り着いた、見慣れたはずの我が家も、しかし今では違って見えた。
ドアを開け、いつものように中へ入る。
変わらぬ形なのに、やはり変だ。
男は、出ていった妻の部屋に辿り着いた。そこには、大きな古い鏡が備わっていた。
そして、その鏡を覗き込み、驚愕する。
男自身が、映っていないのだ。
その恐怖は、絶大だった。誰も居ない世界で、いきなり自らの姿が否定される恐怖は、計り知れないだろう。
男は、自らを確認するため、体のありとあらゆるところを触った。だが、その感覚は在る。
おかしいのは、鏡の方だ。
しかし、何度見ても鏡には背景しか映らない……いや、それすらも映らない。
男は気付いたのだ。鏡に映るはずの背景が、鏡の中でも反転していないことに。
そして、声は唐突に聞こえてきた。
──ようこそ、ここはあなたの深層心理の世界──
不意に聞こえてきたその女性の声は、とても澄んでいた。
──あなたは、全ての人が居なくなれば良いのに、と願ったでしょう?ここは、その願いのif……もしもを見せる世界、鏡の世界──
彼は、その澄んだ声が発した言葉に、心当りがあった。職と妻を失った直後の彼は、確かにそう願ったのだ。
──けれど、ここはあくまでifの世界……現実とは違う。もう一度その鏡を通り抜けたなら、そこはあなたが望まない世界──
その言葉の重みは、彼には大きすぎた。
A.小を捨て小の苦難の中で生きるか?
B.大を捨て永遠の安楽の中で生きるか?
彼は悩んだ。鏡の向こうに繋がる世界は、決して自らが望む世界ではない。しかし、現実で再びやり直すことができたら、職も妻も取り戻すことが可能なのだ。失敗すれば、終焉だけが待っている。
今なら、全てを捨てて、自由なこの鏡の世界で永遠の安楽を得ることができる。
悩み抜いた末の、男の苦渋の選択…………
それは、この世界に留まるというものだった。
──そう、では、あなたの傍にこれを置いてあげる──
声はそう言い残し、消えた。
鏡の前に神々しい光が現れ、一つの影を産み出した。
男はそれを手に取り、唖然とした。
それは、一体の人形だった。
しかも、それは、街角で出会った少女の姿だったのだ。
しかし、男には、その意味がまるで解らなかった。
それからの男の生活は、だらしなく、不清潔なものとなっていった。
朝、目覚めればテーブルの上にはパンとコーヒーが並び、昼、空腹を感じれば望んだランチが姿を現し、夜、やはり望めばスパゲッティやコーンのスープなどのコースが並ぶのだった。
職に就かずとも生きていける、けれど、そこに『生きる理由』がない。
男は、この飽和した世界に、今さらながら後悔をしていた。
ある日、男はあの日授かった一体の人形に問う。
──きみはなぜ、わたしをこの世界に導いたのか──
人形は応えない。男は、それを知りながら、しかし問いを切らさない。
──また、あちらの世界に戻りたいよ。どうすればよいのだ──
人形は応えない。男は、しかし尚も問い続ける。
──いったいこの世界はどうなってしまっているのだ──
人形は応えない。
男の絶望は、もはや運命だった。
しかし、そこに現れたのは、あの声だった。
──愚かな人形……彷徨える、無様な人形──
男は、僅かな期待を抱いて問うた。
──わたしは後悔している。わたしをどうか、元の世界に戻してはくれぬか──
その悲願は、とても苦しいものだった。
──望みなら何でもしよう。妻が戻らずとも良い、職ももう要らない。ただ、あの世界に戻りたいだけなのだ──
声は、その悲願に、しかし無慈悲に言い放った。
──あなたが望んだ真実は、あなたの心理では変えられない──
男は、いよいよ落胆した。
この飽和した世界に生きる価値など皆無……つまり、自らの価値すらも、皆無なのだ。男の落胆は、果して絶大だった。
──では、せめて、この人形の意味だけでも教えてはくれぬか──
男の最期の悲願は、しかし果たされた。
──よいでしょう。彼女は、そう、あなたがあの日『現実に生きる』ことを選んでいた場合の、未来のあなたの『娘』です──
嗚呼、なんという皮肉……
そう、今まで何の意味も無いと思っていたその人形の真の姿は、男の娘だったのだ。
男は、泣いた。
泣いて、泣いて、しかし、時間も何も戻らない。
ただただ泣いて、その晩、彼は命を絶った…………
……あなたには、解ったかしら?その男の狂った欲望が招いた、最悪の結末を……
千を捨てた男に残ったのは、壱ですらなく、零だったの。
彼は、自業自得と言われても何も言えないわ。それだけの罪を犯したのですもの。
けれど、真に罪なのは、それに気付けなかった彼の心なの。
彼が、その弱い心に打ち勝てたなら、それは起きなかったのだから。
感想は要らないわ、お嬢さん。もうこんな時間よ、早くお家にお帰りなさいな。
……ええ、ありがとう、きっとその物語を伝えてね。あなたの、心から大切な誰かに。
それじゃ、おやすみなさい。
…………どうしたの?帰らないの?
……………………え?何故それを見た当事者が居ないのにその物語は伝えられてきたのか、ですって?
それはね、居たのよ、唯一の当事者が…………
残念だけれど、それだけは教えられないわ。
……ええ、ありがとう、また来てくれるのね。嬉しいわ。
そうね、今日はもうお別れ…………良い夢を見るのよ。おやすみなさい、お嬢さん…………
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