十月三十日午後十二時五十分。天気は快晴。音声良好。場所、留戸中学校屋上。
俺は、今日一番の疑問を投げかけた。
「なに、してんの? 危ないよ」
それは弁当を食べようと一人屋上へ上がって来た昼休みの話。フェンスを越えた先の狭い場所で、
体育座りをし、グランドを見据える七海加子に、俺は声をかけた。
ただのフェンスならいい。だけどここは屋上。つまりフェンスを越えた先は超危険区域だった。誰がどう見ても危ない。七海と喋ったことは一度たりとも無かったけれど、危険を注意することくらい俺にも出来る。しかし、そんな俺の忠告を無視し、50センチも無い場所に腰掛けたまま平然と七海は答える。
目線は相変わらずグランド。
「だーいじょうぶ、大丈夫だよ。あたし飛べるし」
「どこが大丈夫なんだ? お前、受験前で頭がやられたか?」
ドアから七海のいるフェンスまで、タイル5個分。屋上のドアを開けてすぐに話しかけたから、俺と七海の距離はきっちり5メートル。声のボリュームは少し上げ気味に話さなくてはならなかった。
「なんでそんな所からグランド見てんの?」
グランドに視線を移すと、運動部がお互いの領域をミリ単位で守りながら、昼練に勤しむため蠢いていた。ここから見ると、まるで蟻か何かみたいだった。
「別にグランド見てた訳じゃないよ。ここから下まで何メートルくらいかなって思ったの」
俺は大股に5歩歩いて、フェンスにがしゃんと両腕を預けた。なるほど。蟻が蠢く下界までは、天界にいる俺たちからは随分遠い……何言ってるんだ、俺。
「…大体12、3メートルってところかな? 目測だけど」
「13メートルかぁ。じゃあここは飛ぶには低すぎるね」
「………………ちょっと待て……飛ぶって、誰が?」
「あたしが」
「お前、本当に大丈夫か? 自殺ならもう一度考え直せ。俺たち15歳、人生まだまだだ」
「違う違う、大丈夫だって。あたし、いつか絶対に空を飛ぶから。飛べるから」
嫌に自信たっぷりに言い切って、七海はフェンスを越え、内側の世界へ戻ってきた。外の世界は飽きたらしい。ああやっと何処かに行ってくれる。これで俺も弁当が食える。
七海は俺の目の前に座った。
「さて、お昼ご飯にしますか」
お前もここで食うのかよ!
そんな俺の心の突っ込み空しく、七海は元気良く、そしてお行儀良く両手を合わせた。
「いたーだきーます! 高井田、早く食べないと昼休み終わるよ」
「え…あ、うん…いや、そうじゃ無くて……」
なんて情けないんだ、俺! 言いたいことすら意見できない。
「高井田も屋上で食べてるんでしょ?ほら、さっさと食べないと!」
沈黙の時間。七海が俺の目を睨み付けるように見る。ここで食べろ、と言わんばかりに。
「……い、いただきます…」
言っておくが別に断ったら後で怖いなとか思ったわけではない。もう人肌恋しい秋、十月なのだ。たまたま居合わせた七海と一緒に食べることになっただけだ。それに今日だけ。
妙な言い訳をしながら、前を向く。やはり、他人にと一緒に何かを食べるのは緊張する。七海は俺の視線に気づいてにっこり笑った。可愛い。変なことを口走るけど、案外良いやつなのかも知れない。そんな七海の箸にはこんがり焼けた鮭が挟まれている。
ん? しゃけ?
「あー! 俺のメインディッシュ! 唯一冷凍食品じゃ無いやつ!!」
「いいじゃん、いいじゃん。あたしたち、仲良しランチ仲間でしょ?」
「良くない!」
前言撤回。七海は嫌なやつだ。そして鮭くらいでムキになる俺もきっと嫌なやつだ。
七海加子と俺。同じクラスになってもう半年が経つというのに、今日、初めて喋った二人。全くもって奇妙なランチタイムだったが、不思議と弁当は美味かった。
* * *
「カッキーはね、空を飛ぶのが夢なんだって」
「は?」
『カッキー』とは、もちろん例の屋上の、七海加子のことだ。
昼休みも終わり授業が始まったというのに、一向に戻って来ない七海が心配になって俺は、前の席の笹山(眼鏡をわざとずらして掛けている女子)に声をかけた。もちろん、先生の目を盗んでこっそりと。
「空を飛ぶって………空を飛ぶってことだよな?」
「日本語おかしいよ、高井田。言ったまんまだよ」
「それはアレか? 飛行機に乗ってとかパラシュートを着けてとかじゃなくて、自分の力でってことか?」
「だからそうだって。カッキーは純粋に空を飛びたいんだよ」
「ふぅん。イマイチわかんねぇなー」
「高井田ァ、そろそろ授業を真面目に聞かんと、本当に分からんようになるぞー」
密談、強制終了。
俺がやっとノートを開いていると、ポケットの中の携帯が一回震えた。メールだ。
先生にこれ以上怒られないようにこっそりとメールを確認すると、笹山からだった。
『詳しいことはカッキーに直接聞きなよ★☆』
おいおい笹山、最初からそうすれば良かったんじゃねーか。後悔したと同時に、チャイムが鳴った。
「くそぅ…あの先生筆圧濃いんだよ……」
取りあえず。罰としてやらされている黒板消しは、七海もやる必要があると俺は思う。これには正当な理由もある。
「何が、保健室で休んでます、だよ」
先生騙されてはいけません。それは俗に言うサボりというものです。それに、さっき屋上で見たとき、奴は保健室で寝なければならないほど気分悪そうには見えなかった。むしろ清々しそうな。
しかし、七海加子というヤツは心底おかしな奴だと思う。というか危ない奴。
自分の力で空を飛ぶ? いやそれはさすがに無理だろ。
* * *
「無理じゃないよ。あたしは飛べるんだから」
放課後、気になって屋上へ足を運んでみれば案の定七海がいた。こいつ、昼休みからずっとここに居たのか。
ただ、昼休みと少し違うのはフェンスの向こう側ではなく、普通の、いわゆる『屋上』に寝そべっていることだった。
はっきり言って健全な受験生の姿ではない。
「無理じゃないって……本当に飛べるのか?」
「うん。高井田やみんなには黙ってたけどね、実はあたし、天使なんだ。だからお空も簡単に飛べちゃうよ! こりゃラッキー! いえーい、アイアムエンジェルー」
「嘘吐け」
「うん嘘だよ」
よっ、と勢いよく七海が起きあがった。そして俺の隣に、さも指定席のように座った。なぜだか、隣に空いていた穴が、すっぽりと無くなった気がした。
「ちょっと信じた?」
「いや全然」
「あ、そ。つまんない奴ー。冷血漢ー」
「そこまで言うか」
「あっ、ねぇ。高井田はタンポポになりたいと思わない?」
「思わない」
「そっか。あたしはさ、タンポポの綿毛になって、ふわふわ風に流されてみたいんだよね。だから、彼氏にするならあたしと一緒にタンポポになってくれる人が良いんだ。だから今のはいわゆる彼氏試験って言うやつ」
お前しか使わない言葉は『いわゆる』とは言わない。それとも、そんな言葉も知らない俺が馬鹿なのか。
「なんでその彼氏試験を俺にするんだ」
「ん? だっていつも誰かに聞いておかないと、いつまで経っても彼氏が出来ないでしょ?」
「なるほど」
本音を言うと、全然なるほどな気分じゃなかったけど、とりあえず。
「はっきり言って高井田はタンポポって言うより、花全般が似合わないよね」
「うるさいなー」
平然と嘘を吐いて、人を試した隣人はまだケタケタ笑ってやがる。余りにもリズムよく会話が続くのですっかり忘れていたが、俺と七海は今日初めて喋ったわけで。
つまり七海の声を上げて笑うところを、正面から見たのも初めてな訳で。
すこし、七海が可愛いと思う。変なところは無視して。
「まあ、嘘を吐いたのは謝るけど、飛んだことがあるのは本当だよ」
「まじで?」
「うん、小さい頃の話なんだけどね。あたし、高いところが大好きな子供でさ。自分より高いものには大概登ってきた。お父さんの肩とか、自分の家の屋根の上とか。今はこの屋上かな? もう木登りなんか毎日の日課みたいなもんで、馬鹿は高いところが好きって言うけど、それくらい馬鹿みたいに毎日登ってた」
黙って聞いていると、はいそこ拍手! と叱られた。そこ、拍手するところなのか? 七海の無駄に高いテンションにどれだけついていけるか、俺の課題だ。
「それでね、山の上に公園があって、一番高い銀杏の木があった。冬が来てて、葉っぱが全部落ちた後だったから、てっぺんが見えたの。先がすぅっと空に吸い込まれたみたいに細くなってて、そこが見えた瞬間にね『ああ、あたしはあそこを登るために今まで木登りをしてたんだ』って思った。変なコでしょ」
「そんなことないよ」
変な奴。
「本当?」
「うん。で、どうしたの?」
「あ、もちろん登ったよ。登るしかないじゃない。運命感じたんだもん」
運命。
女子ってなんでそういう鳥肌立つ言葉が好きなんだろうか。
「ちょっと子供にしては大きな木だったけど、一生懸命、そりゃもうパンツが見えることなんて気にしないくらい一生懸命に登った。一つの大きな枝に足を掛ける度にね、あたしに羽が生えていく気がした。空に近付いて行ってるんだもん、勘違いもするよ」
うっとりするような目で、七海は空を見つめた。七海の続きを催促する。向こうの世界に行ってしまわれては困るのだ。
「………で? いつ飛んだんだ?」
「そうそう。でね、あたしはとうとう登り切ったの! 大きな銀杏の木を! あのときに見下ろした景色は最高だったなー…。自分の家の屋根とか見つけてさ、すごい! って。なんか、大きいと思ってた自分の町が、すごくちっぽけに見えたなぁ」
「そりゃあ山の上の、そのまた木の上だもんな」
「うん。でね、こっからがびっくりなの」
七海が俺の方へと重心を動かした。俺も耳を七海に近づける。活動している運動部の掛け声がやたらと耳につく。
「あたしね、銀杏の木から、」
「うん」
「落ちたの」
「うん、って…ええ!?」
落ちる。なんと不吉な言葉だ。受験生には禁句だろうに。
「落ちたって、お前」
「でもでも! あたしはその瞬間に、身体がふわって浮くのを感じた! あたしはその時空を飛んだの! そりゃ落ちた後は痛かったよ。全身がじんじんして死ぬほど痛かった。でも、爽快感のほうが勝ってた」
それはきっと飛んだのではなく、ジェットコースターに乗ったときに感じる、あの心臓が浮くような奇妙な浮遊感だ。幼い七海はそれを勘違いしてしまったに違いない。落ちる寸前の感動と、落ちた後のショックで混乱していたのだ。なぜなら、人間は飛べないのだから。絶対に。
「信じてないでしょう? いいよ別に。どれだけ話しても、誰も分かってくれなかった」
そう言って七海はそっぽ向いた。俺の隣から離れて、フェンスの向こうへと行ってしまった。よく分からないが、俺は少し寂しかった。
しばらく、屋上には下界の蟻たちがせっせとボールを仲間に繋いでいく声しか聞こえなかった。こんなにも高くて風通しの良い場所なのに、すごく居心地が悪い。
俺は、この場の空気を変えるべく、思い切って七海に声を掛けようとフェンスに目をやった。
「なっ…」
ああ、人はこれを既視感って言うんだ。
「なに、してんの? 危ないよ」
七海は、フェンスの向こう側の超危険区域で、立っていた。
危なすぎる。
「高井田に、飛ぶところを見せてあげようと思って」
「馬鹿! 止めろ!! 死にたいのか?」
「死なないよ。あたし飛べるんだもん」
「飛べない!!」
「嘘!!」
お互いに声を張り上げた。七海は今にも落っこちそうだった。フェンスに走り寄りながら、俺は七海をこの世界に引き留めるありとあらゆる言葉を探した。思いついた言葉を、思っていた言葉を。
「飛べない! 七海だけじゃない、俺も、下にいるあいつらも!! 人間は飛べないんだ!」
「飛べる! あたしはあの時飛んだ!」
「違う! 七海は落ちたんだ! 落ちたときのことを勘違いしてるだけだ!」
フェンスを越えるのは怖かったが、そんなことよりも七海の命だった。越えてすぐに七海の腕を自分の方に寄せた。
「……あたしさ、なんとなく、そうかなあって思ってたんだ……はは…高井田に言われると、なんか、うん。すっきりした……」
七海は、静かに泣きながら、しゃがみ込んだ。俺も、一緒に座った。
* * *
十分も経ってなかったと思う。
七海はもう赤くない両目で、俺のことを見つめて話し始めた。
「高井田はさ、気づいてなかったかも知れないけど、あたしは四月の終わりからずっと屋上に通ってたんだ」
「そうなんだ…。ごめん、全然気づかなかった」
「うん。いいんだ。あたし、見つからないように隠れてたし。高井田って、お昼ご飯を食べるとき、時々空を見てるでしょ? あたしもよくする癖だったから、親近感が沸いて、この建物の裏でこっそり一緒に食べてた」
七海はフェンスの向こう側の、立方体の建物を指さして言った。屋上へ通じる階段の建物だ。
俺は入ってすぐのドア近くでよく食べていたから、七海はドアの無い側で食べていたのだ。
「知らなかった。言ってくれれば良かったのに。今日みたいなテンションでさ」
「声を掛けようと思ったら、足が竦んじゃって…。可笑しいでしょ? フェンスを越えたときも、銀杏の木に登ったときも全然怖くなかったのに、こうやって高井田に話しかけることは怖かった。でもね、ぜったいに仲良くなりたかったから、特別な今日だけは思い切ってみた」
「今日って、なんかあったっけ?」
「あたしが、ここで初めて高井田を見つけたのが四月三十日だったから、今日は半年記念だったんだ。あたしの中で」
ぶい、とピースをしてくるので、俺も習ってピースした。
「だから、思い切ってあんな質問も出来ちゃったぞー」
あんな質問。タンポポの話。そこから、七海はまただんまりになった。
そろそろ疎らになりだした、疲れた蟻たちを見て思う。
俺は、七海なら、飛べると思う。こんなにも純粋で空に恋している良いやつは、きっと飛べる。
それから、伝えなくてはならないことある。
俺が、放課後にわざわざここへ上がってきたのは、七海ともう一度話がしたかったのもあるが、言いたいことがあったからでもあること。
「七海」
「なに?」
「これからはさ、ドアの近くで弁当食えよ。その、なんていうか……俺、今日七海と一緒に食べた弁当が、今までで一番美味しかったからさ」
折角乾いた頬を濡らしながら、七海が何度も頷いた。今日は良い日だ。なんていったって、俺たちの出会いから半年記念日なんだから。
だから、おれも、普段は言えないことも言えてしまう。
「それからさ……よっ、と」
七海と同じように、上手にフェンスは越えられなかったが、俺一人屋上に戻る。七海が呆けて俺の姿を見ている。
「俺、お前とならタンポポになってみるのも悪くないかなって。空、飛んでみたいし」
言ってすぐに、おれは逃げた。
言い逃げだ。別にいい。何とでも言いやがれ。返事は、明日に聞けば良いんだから。明日から毎日会えるんだから。答えは、急がなくても良い。
全速力で走って校門まで行くと、まだ屋上に七海が居た。もうフェンスは越えたようだ。
今更恥ずかしくなって、はぁ、としゃがみ込むと、鮮やかな黄色と白色が目に飛び込んできた。タンポポだ。最近はぽかぽか暖かかったから狂い咲きだろうか。
秋のヒンヤリした風に揺られて、白色がふわりと宙に舞った。そして不規則に、だけど確実に風に運ばれていく。まるで七海みたいだ。ふわふわしてて、掴めない奴。
「良い場所に飛んでこいよ」
飛べ、飛べ、タンポポ。
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