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現代・青春・学園系短編

右手を捨てた絵描きの少女

作者: 楠瑞稀

 松原秋穂まつはらあきほには右手がない。肘から下がきれいに失われている。

 願いを叶えることと引き換えに、悪魔にくれてやったからだ。

 だから秋穂は左手で絵を描く。

 描き上げた絵はすぐに破り捨てるか火にくべてしまう。

 左手で描くそれは単なる戯れに過ぎないからと、そういう理由で。

 右手をなくして以来、秋穂は絵をコンクールに出すことも展覧会を開くこともなくなった。贔屓にしていた画廊とさえも縁を切った。そうするのが当然のことであるかのように。

 そんな秋穂が左手で絵を描く姿を、俺は今もずっと見続けている。



 俺、木嶋貴雪きじまたかゆきが秋穂と初めて出会ったのは、五限の授業をサボって散歩をしていた初夏の季節のことだった。

 その日は薄曇りで、風さえ吹けば蒸し暑い教室内よりも外の方がよっぽど過ごしやすく、寿司詰めの教室で汗をかきながら授業を受けることがあまりにも馬鹿らしかったので、俺は涼しい風の吹く土手をいつものように散歩していた。

 一瞬だけ強い風が吹き抜けた時、ふいに足元を黒い日傘が転がっていくのが目にとまった。反射的につかみ取り、周囲を見回す。日傘の後を追うように白い画用紙が数枚飛んでくる。視線をやるとセーラー服を着た後ろ姿が土手に座り込んでいるのが見えた。

 届けてやろうなどと考えたのは、そのセーラー服が自分の学校のものだと気付いたからだ。

「ほらよ」

 土手を下り、サボり仲間に日傘を差し出す。

 だがその女子学生は手を伸ばして受け取ることも、振り返ることもしなかった。いや、例えその気があったとしても、どちらにせよ彼女には手を伸ばして即座にそれを受け取ることはできなかったに違いない。

 彼女は紐を取付けた画板を首から下げ、絵を描いていた。左手にはコンテが一本。画用紙はクリップで画板に取り付けられ、右腕で紙の端を押さえていた。肘から先のない右腕で。

 松原秋穂、と俺はすぐに相手の正体に気が付いた。



 右手を失うよりも前からすでに、この町に松原秋穂の名を知らない者はいなかった。町が誇る天才画家として。

 それは歳の割には絵が上手いなどというどころの話ではなく、十代の始めの頃からすでに秋穂は一人前の絵描きだった。

 秋穂が絵を描けばすぐさま画商がやってきてその絵を売りに出した。絵は数十万、時には数百万という高値で売れた。

 秋穂は自分の絵で生計を立てることさえしていた。

 そんな秋穂であるから、彼女がレベルの高い美術部のある私立学校や、美術大学付属の学校ではなく、なんてことのないこの高校に進学してきた時、誰もがそれに驚いた。その理由を尋ねられると秋穂は、「ここが一番家から近いから」とあっさりと答えた。

 だが、どんな高名な画家であってももはや秋穂に教えられるような師はいなかっただろうから、それはある意味では賢い選択だったかもしれない。


 俺は日傘を差したまま、ずっと秋穂が絵を描く様子を眺めていた。

 いや、魅せられていたと言ってしまってもいいだろう。

 これまで秋穂の絵を見たことは一度もない俺だったが、確かに秋穂の絵は素晴らしかった。

 モノクロの絵であるにも関わらず、その絵は鮮やかな色彩に溢れているように見えた。

 どこにでもあるような見慣れた川辺の景色が、驚くほどの臨場感と躍動感を持って生き生きと描き出されていく。それは現実の風景よりもずっと鮮明で美しくあるのにもかかわらず、目の前の風景以外の何物でもない。それどころか絵を見た後にその景色を見れば、現実の景色までもが美しく輝いて見えるような、そんな絵だった。

 まるで、魔法のような絵だった。


 俺が絵から目を離せずにいるうちに、秋穂は絵を描き終わった。そしてようやくそこで俺に気付いた。

「あら……」

 秋穂は振り返ってそう呟く。

 俺はどきりとする。それは芸能人や著名な先生など、自分の手にはけして届かない雲の上の人間に幸運にも声を掛けてもらえたような、そんな高揚感をもたらした。

 松原秋穂の風体は、どこにでもいるようなありきたりの少女のそれでしかなかった。

 顔は極めて十人前。背中の中ほどまである二つに分けて結わいた髪は、脱色をしてないにも関わらず傷んで毛先が広がっていた。

 しかしだからこそ、こんな少女がこれほどまでにすばらしい絵を描くことできるということが、目の前で見ていたのにも関わらず俺には信じられなかった。

 秋穂はにっと口角を吊り上げる。

「日傘を差していてくれていたのね、ありがとう」

「……あんた、松原秋穂だろ?」

 俺は動揺する自分に気付きつつも、たずねる。俺の目は自然と、その右手があったはずの場所へ引き寄せられていた。

 昔から有名であった秋穂には良い噂、悪い噂と様々な噂が流れていた。いわく、秋穂は才能と引き換えに悪魔と取引をした。あるいは、秋穂は借金を抱えた両親に無理やり絵を描かされている。大金持ちのパトロンがいる、病気の家族がいる、ゴッホの生まれ変わりだ、などなど。そんな無責任な町の噂の中で、秋穂は重度のスランプにおちいりノイローゼとなって、自分の利き腕を切り落としたと語られていた。もっともそれに関しては、その右腕は事実自分でやったことだと本人も公言していたらしいが。

 だが、いま目の前で絵を描いていた秋穂は本当に楽しそうで、スランプどころか喜んで絵を描いていることが俺にもはっきりと伝わってきていた。

「そうよ、あたしが松原秋穂」

 秋穂が立ち上がる。そうすると彼女は随分と小さく、俺の胸元までしか背がないことがわかった。

「あなたは木嶋貴雪よね」

 そう聞き返されて、俺はぎょっとする。

 確かに秋穂と自分は仮にも同じ学校の同級生だが、まさか彼女に自分の名前が知られているなんて、これっぽっちも考えていなかったのだ。

「入学式の時に新入生代表として挨拶してたわよね」

 受験番号の関係で無理やり押し付けられた当時のことが、ふいに脳裏によみがえる。自分にとっては早く記憶から葬り去りたい恥ずかしい思い出だったが、秋穂はこともなげに口にした。

「名前が気に入ってたから覚えていたの。あたし、好きなの。雪が」

 秋穂は画板から描き上げたばかりの絵を外すと、おもむろに端を口にくわえる。そして何のためらいもなく、いきなり絵を真っ二つに破り捨てた。

「あっ……!」

 思わず声をあげてしまったことを、俺は恥じた。秋穂はそんな俺を見上げきょとんとした顔をしていたが、すぐにその理由に気付いたようだった。

「こんなもの、ただの戯れよ」

 そう言って、秋穂はイヒヒと笑った。



 そんなことがきっかけで、俺と秋穂は知り合いになった。そしてその後もちょくちょく顔を合わせるようになった。

 俺の散歩ルートと秋穂のデッサンスポットは重なる部分が多いようで偶然に逢うこともあれば、俺が秋穂を探しに行くこともある。逆に秋穂が俺の側にやってきて絵を描きはじめることもあった。

 秋穂はたいてい一人だった。絵を描くばかりの日々を送っていた秋穂には、大人の知り合いは多いが同年代の中に友人と呼べる相手はいなかったらしい。だから俺はここ十年近くの中で久しぶりにできた友人なのだと、秋穂は笑って言っていた。

 美術には興味のない俺だったが、俺は秋穂の描く絵が好きだった。だから秋穂が左手で絵を描く様子を、俺はいつも眺めていた。

 秋穂は描きあげた絵はその場で躊躇なく破り捨てた。口には出さなかったが、俺はそれを毎回勿体なく思っていた。だが、そんな思いを口にしたら最後、完成した絵をほんのわずかでも見ることができるという幸運を失ってしまいそうで、俺は破かれ細切れになる傑作の、その永遠に失われる様を黙って見ているだけであった。

「なぁ、右手がなくて不便じゃないのか?」

 思わずそう尋ねてしまったのは、いつものように作品を残さないスケッチが終わり後片付けをしている最中のことだった。

 秋穂は準備から片づけまでの全ての工程において手を出されることを極端に嫌っていた。だからそれらはすべて秋穂が自分の片腕だけで行っていた。

 俺も、秋穂の絵を描く行為のすべてが不可侵であるように思えて、手伝いを申し出ることはなかった。唯一の例外は、日差しの強い日、あるいは雨の降っている日に、秋穂に傘を差すことだけだった。秋穂も、それだけは黙認していた。

「もともと両利きだったから」

 顎に画板を挟み地面に散らばせたコンテや練り消しを拾い上げながら、秋穂は答える。

「不自由はないわ」

「だから、左手でも絵を描くことができるのか」

「そう。描くだけならね」

 秋穂はなんてことないようにうなずく。

「右手で描く絵と左手で描く絵は、そんなに違うのか?」

 そこまで訊ねてから、俺は自分の失言に遅ればせながら気が付いた。それは永遠に失われてしまったかつての秋穂と、現在の、それからこの先の秋穂を比べる言葉だった。そして今と未来の秋穂を見下していると、そう捉えられてもおかしくはない言葉だった。

 だが、しまったと後悔すると同時に、それが俺の本心からの疑問であることも間違いないと気付いた。

 秋穂とすれ違う人の大抵は右腕を見て痛ましげにため息をつく。あるいはあからさまに、何て勿体無いことをと非難する者さえいた。

 けれど、秋穂の絵は今だって下手な訳ではない。それどころか、平均から極めて飛び抜けた、見事な絵だと言ってしまってもいいだろう。絵には詳しくない俺ですら、秋穂の絵は素晴らしく、その技量は並み外れていると自信を持って言えるほどだった。

 だが片付けを終えた秋穂はおもむろに近付き俺を見上げると、イヒヒと笑う。

「違うのよ」

 あっけらかんと、しかしはっきりと秋穂は答えた。

「右手と左手の描く絵は、ぜんぜん違うの」

「じゃあなんで――、」

 右手を捨てたのか。途中まで出かけた言葉を俺は飲み込む。それは今更口に出しても何の意味も無い言葉だからだ。

「……そろそろ戻るか」

「そうね」

 俺の言葉に秋穂はうなずく。俺と秋穂は横に並び、歩いて帰った。

 気がつけば季節は秋に近づいていた。




 その日、秋穂は学校には来なかった。たぶん、授業をサボってどこかでスケッチでもしているのだろう。

 秋穂はまともに学校に来ることのほうが珍しかった。去年の今頃も秋穂は長い間姿をくらませていたが、久々に人前に姿をあらわした時にはすでにその腕から右手は消えていた。

 もっとも右手を失ってからも秋穂が特別な人間であることには変わりなく、表立って彼女をとがめる教師はこの学校にはいなかった。


 去年よりも昔、俺は一度だけ学校以外でも秋穂を見たことがあった。その時にはまだ秋穂の両手は揃っていた。

 性質の悪い風邪をこじらせた俺がここから少し離れた所にある大きな総合病院の受付で精算を待っていたとき、偶然秋穂が廊下を歩いてくるのが目に入ったのだ。

 その頃は特に親しいわけでもなかったので声は掛けずにいたから、たぶん秋穂は俺に気付いていなかったに違いない。秋穂は車椅子に乗った顔色の悪い少年と一緒だった。その時の秋穂がどんな表情をしていたか俺は覚えていないが、二人は仲睦まじく、絵筆を手にしていない彼女はどこにでもいるような一人の少女に過ぎないようにも見えた。


 ずいぶん風が冷たくなってきたとは言え、今日は天気も良いし俺もこのままサボろうかなどと考えていると、ふいに背後から声をかけられた。

「お前、まだ松原秋穂と関わっているのか」

 振り返ると、その顔には見覚えがあった。名前は知らない。だが以前に秋穂と校内を歩いていたとき、「なんて馬鹿な奴だ」と面と向かって秋穂を罵った相手だということを俺は覚えていた。

「あんたは……」

「おれは河鍋昌俊かわなべまさとし。美術部の三年生だよ」

 河鍋は苦々しい表情で俺を睨んでいた。だから俺も険のある視線を河鍋に返す。

「別にそんなこと、あんたに言われる筋合いはないと思うが?」

「今頃松原と関わっても、意味は無いだろうと言っているんだ」

 俺は眉をひそめる。その言葉は、俺にとっては決して容認できないものだった。

「意味がないなんて、そんなことは無い。秋穂の価値が右腕だけにしかないように言うな」

「右手だけなんだよ、あいつの価値は」

 河鍋はきっぱりと断言する。かっとなった俺は反射的に河鍋の襟首を掴み上げた。

「ふざけるなっ」

「お前は昔の秋穂の絵を見たことがないから、そんなことを言えるんだっ」

 苦しそうに顔を歪めながらも、河鍋はさらに言い募るのをやめない。俺は乱暴に河鍋から手を離す。尻餅をついた河鍋は苦しそうに咳き込みつつ、俺を涙目で見上げた。

「一度、秋穂の絵を見てみろ。そうすれば、奴がどれだけ許し難いことをしたか分かるはずだっ」

「どんなに才能があっても、秋穂の右手は秋穂のものだ。それを本人がどうしようと、他人がとやかく言う問題では無いだろう」

「お前は自分の命なら、粗末に扱おうが自分から手放そうが本人の自由だと考える類いの人間か?」

 俺は釈然としない思いで河鍋を見下ろす。

「それとこれとはぜんぜん別の問題だろう」

 河鍋はつまらなそうに鼻を鳴らし、視線を逸らした。

「秋穂の昔の絵を見ろ。それからじゃないと話にならない」

「なぁ、なんでそこまで秋穂に拘る」

 秋穂がかつての画力を失ってしまったことを惜しむ気持ちは分かる。

 だがいくらなんでも、こうやって赤の他人が親の仇のように秋穂に憎しみの感情を向けることが理解できない。

「お前は何にも分かってない……」

 河鍋は悔しげに唇を噛み、俯く。握り締めた拳は細かく震えていた。

「今の秋穂の絵には、何の価値もない。おれも絵を描くが、おれは自分が決して天才でないことを知っている。だが、秋穂は天才だった。紛れもない天才だったんだ」

 河鍋は顔を上げると鬼気迫る表情で、俺を鋭く睨みつけた。

「秋穂のしたことは絵を描くすべての人間に対する侮辱であり、絵画を愛する人間に対しての裏切りだ。だから、おれは絶対に秋穂を許さないっ」

 そのあまりの迫力に、俺は言葉を失った。河鍋は立ち上がると廊下を走り去る。その後姿を俺はただ呆然と見送った。

 一人の人間をここまで激昂させる理由がかつての秋穂の絵にあるのだと、俺に理解できたのはそれだけだった。



 秋穂が右手を捨て、そしてもう二度と誰かに見せるための絵を描かないと告げた後、見る目のある者は我先にと争うように秋穂の絵を買い占めた。もともと秋穂は自分の絵を取っておくと言うことはせず、すぐに画商に渡し売り払ってしまう。だから今となっては秋穂の右手で描かれた絵を見ることは難しい。

 だがこの学校には一枚だけ、秋穂の絵が残っていた。それは秋穂が学校に乞われて寄贈した絵で、秋穂が卒業するまでは飾ってはいけないという約束で温度調節の効く資料室に大事に保管されているものだった。その約束の理由を秋穂は、「自分の見えるところにいつも絵が置いてあるのは恥ずかしいから」とイヒヒと笑って答えた。

 俺は職員室に入ると、何食わぬ顔で鍵庫に近寄り、資料室の鍵を取り上げた。こうして堂々としていれば、案外気付かれにくいのだと言うことを俺は知っていた。

 鍵を手に入れた俺は資料室に入り込む。そして秋穂の絵を探した。秋穂の絵は油紙に包まれて、大事に保管されていた。

 俺は小さく息を吸い、慎重に油紙を剥がしていく。

 天才と言う称号を欲しいままにしたかつての秋穂の絵。

 それが果たしてどのようなものなのか、現在の絵をずっと見続けてきた俺にはなんとなく想像できるつもりでいた。

 だが、その実物は俺の予想をはるかに超えていた。

 

 それは、この学校を描いた絵だった。

 見慣れた校舎内の風景。窓から明るい日差しが差し込み、生徒たちが楽しそうにはしゃいでいる。それを暖かい目で見守る教師の姿。

 ただ、それだけの絵。それだけの絵であるにもかかわらず、この絵は世界中に存在するありとあらゆる絵とも異なっていた。

 日差しの眩しさに目が眩みそうだった。

 生徒たちの息遣いが、喜びに溢れた感情が伝わってくるようだった。

 教師の慈愛に満ちた眼差しに、胸が熱くなるようだった。

 そのいっさいが調和し、緻密に計算しつくされると同時に、ただそこにあるだけだった。

 それは全ての理解と全ての感動を飲み込み、ただそこにあった。

 

 気が付けば、俺の目に涙が溢れていた。

 一瞬のうちに、何かとてつもないものが去来し、そして過ぎ去っていく。その喪失感が耐えようもなく苦しく、けれど胸の中に残ったわずかな欠片がどうしようもないほどに愛おしかった。

 この絵を一言でいうのならば、まさしく《奇跡》そのものだろう。

 確かに秋穂は天才だった。

 俺ははじめてそれを理解した。そしてこの途方もない才能は、すでに世界から永遠に失われてしまったのだということにようやく気付いた。

 俺は秋穂の、そして河鍋の言葉にようやく納得がいった。

 秋穂の右手で描かれた絵と、左手で描いた絵は違う。それは、どうしようもないくらいに違っていた。



「――そう、見ちゃったのね」

 俺はぎょっとして振り返る。いつの間にか秋穂がすぐ真後ろに来ていた。いや、さらに言えば窓から見える景色は暗くなっていた。一体どれだけこうして秋穂の絵を見続けていたのか、俺は愕然となる。

「秋穂……」

 俺はどれだけ苦心しても、自分の目に責めるような色が混じることを止めることができなかった。

「どうして、右手を捨てたんだ……?」

 秋穂は天才だった。それも並外れた天才である。

 このままいけばきっと、秋穂の名は百年後にまで語り継がれる存在になっていてもおかしくはなかった。

 だがその未来は失われた。秋穂の右腕とともに、永遠に。

「どうしてなんだよっ」

 秋穂は悪戯を見つけられた子供のような、そんな途方に暮れた表情を浮かべていた。

 イヒヒと秋穂は呟くように笑う。

「取引を、したのよ」

「取引……?」

 俺は眉をひそめる。秋穂はこくんと小さくうなずいた。

「ある日悪魔がやってきて、あたしに告げたの。このままだと世界が終わってしまう。だけど、あたしの右手と引き換えにだったら世界を救ってあげてもいいって」

「秋穂……」

 俺は思わず非難めいた声を出す。俺はそんな作り話を聞きたいんじゃない。

 けれど、秋穂は冗談を言っているような顔ではなく、ただまっすぐに俺を見ていた。

「だから、あたしは右手を悪魔にあげることに決めたの。だってあたしが絵を描き始めたもともとの理由はこの世界が好きだったから。この世界を描き残しておきたくて絵を描き始めたのが最初だから。なのに、世界がなくなってしまうというのなら、もう絵を描いたって仕方がないもの」

「秋穂っ!!」

 俺は声を張り上げる。それ以上のつまらない誤魔化しを拒絶するために。だが、びくりと身を震わせた秋穂を見たとき、俺の中にとっさにひらめくものがあった。

「……秋穂。お前のその世界の名は、もしかして……『家族』、なのか?」

 この時ようやく、俺の中で全ての線が繋がった。

 昔から自分の絵で生計を立て、家を支えてきた秋穂。

 描いた絵はほぼ残らず全て売り払っていた秋穂。

 秋穂に関して語られていた数多くの荒唐無稽な噂のひとつは確か、彼女には難病を抱えた家族がいるというものではなかったか。

「病院で見たのは弟なんだな……」

 俺の呟きに秋穂は驚いたようにわずかに目を見開いて、苦笑を溢した。

「なんだ、知っていたのね」

 それなら話は早いと、秋穂は静かな声で語りだした。

「――あたしの弟は重い病気を患っていたの」

 秋穂の年の離れた弟である春樹は、生まれた時から重度の心臓病を抱えていたらしい。病弱で病室から出ることのできない幼い弟に秋穂がしてあげられることは、外の景色を絵に描いて見せてあげること。そして病室に一人でいても寂しくないようにと、家族の絵を何枚も描いてあげることだけだったと言う。

 そうした思いをきっかけに絵筆を握り始めた秋穂だったが、やがて秋穂は絵を描くこと、特に『家族』の姿を描き残すことに躍起になるようになっていった。それはいつ壊れて失われてしまうか分からない自分の世界――『家族』をこの世に繋ぎ止めるための、彼女なりの願掛けであったのかも知れない。

 もともと絵を描くことが好きだったにせよ、そうした必死さが彼女の才能を開花させるきっかけとなったのは、まさに皮肉としか言いようがないだろう。

「だけど弟の容態は年を追うごとに悪くなったわ。それどころかできるだけ早く心臓移植をしてあげないといけなかった」

 様々な要因から国内での施術が難しかったため、必然的に弟の命を救うためには海外での移植手術が必要となった。だが、そのためにかかる費用は莫大なもの。それは秋穂が絵を描くことで得た稼ぎでも、到底追いつかないほどに。

 そんななか、秋穂にとある取引を持ちかけた者がいた。

「つまり、右腕と引き換えに資金を援助すると……?」

 秋穂は、ただ黙ってうなずいた。

 ゴッホをはじめとして、有名な絵描きの絵は本人が死んでから価値が出ることが多い。そうでなくとも、物が少なければその分価格が高騰するのは絵に限らずによくあることだ。

 まだ十代の秋穂。その右腕は永遠に失われ、描かれた絵のほとんどは買い占められ滅多に市場には出回らない。

 今後、秋穂の名が世に知れ渡るに連れて、その価値はどんどん上がっていくことだろう。

 俺は迷子の子供のように立ち尽くしている秋穂の右腕を見る。

「痛くは、なかったのか……?」

 空っぽの袖を左手でぎゅっと掴んで、秋穂はイヒヒと笑った。

「べつに」

 そんな取引を持ちかけられたのは事実。そしてそれに真剣に迷っていたのも本当のこと。

 だが結局のところ、秋穂が右腕を失った直接の原因は交通事故だったらしい。

 辛い選択を目の前に突きつけられていた秋穂の身に起きたその災難は、残酷な神かあるいは優しい悪魔の後押しだったのかもしれない。事故の瞬間、秋穂は刹那の判断の中で右腕を庇うことをやめた。そしてその結果、ほぼ再起不能に近い状態にまで痛めつけられた腕を切り落とすか、あるいは長い時間を掛けてリハビリをするかという選択を医者に迫られた秋穂は、あっさりと腕を切り落とすことを選んだ。

「腕を失った原因の半分は偶然。でも、もう半分は自分の意志でしたこと。たいしたことは、なかったわ」

 はっきりと答える秋穂の声からは後悔の色はうかがえない。

 だがそんなはずはない。麻酔などの処置をしていても、利き腕を捨てる喪失感は他の誰よりも絵描きである秋穂が一番辛く感じていたに決まっている。

 秋穂は当時を思い出したのかわずかに青ざめた顔で、しかしあっけらかんと告げた。

「あたしは絵を描ければ幸せなの。それが上手いか下手かは関係ない。ただ、好きなように絵を描ければ幸せなのよ。だから、自由に絵を描ける今、あたしは幸せ」

 それに弟も無事に手術を受けられたしと顔を上げた秋穂はイヒヒと笑う。

「そうか……」

 俺は小さくうなずいた。当の秋穂がそう言うのならば、俺から言うことは何もない。

 俺は古い秋穂の絵を油紙に包むと、もとのように大切にしまった。これは言わば、もうどこにもいない天才・松原秋穂の形見でもあるのだから。

「秋穂、帰るか」

「ええ」

 秋穂はうなずく。しかし秋穂は突然はっと顔を上げると、まっすぐ窓辺に駆け寄っていった。何事かとぎょっとする俺に、秋穂は嬉しそうに振り返った。

「見て、雪よ」

 窓から外を見れば、白い雪がちらちらと空から舞い落ちてくるところだった。

 秋穂は子供のように目を輝かせて、その様子に見入っている。

「雪は好きなの。雪で真っ白になった世界は、まるであたしのためだけに用意されたキャンパスのように思えるから」

 そう呟くその言葉を、俺は以前にも聞いたことがあった。その言葉は、その表情は、はじめて会った時土手で嬉しそうに絵を描いていた、あの時の秋穂を思い起こさせるものだった。

 だから俺も気付かざるをえなかった。

 しがらみを捨て、天才の右腕を捨ててはじめて秋穂は、誰のためにでもない自由な絵を描けるようになったということに。そして秋穂にとって大事なのは、本当にただそれだけのことであったということに。

「ああ、いくらでも、好きなだけ描けばいいさ」

 右手を捨てた絵描きの少女を縛るものは、もはや何もない。

「あんたが絵を描くあいだ、俺は秋穂が濡れないように、いくらでも傘を差すから」

 彼女の右手が描いた絵がどれだけ素晴らしいものであろうと、俺がいまの彼女が左手で描く一瞬だけの絵を、なにより大切に思っていることに変わりは無いのだ。

 そう言う俺に、秋穂は嬉しそうに笑みを返す。

 俺は彼女の隣に立つと、その大切な左手を宝物のようにそっと握った。

 真っ白に塗り替えられつつある世界は、そこに新しい絵が描かれることをいまかいまかと待ちわびていた。 



【終】

この作品は筆者のHP「飛空図書館」に掲載されているものと同じです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 短い物語の中にも周到な伏線が仕込まれており、おもしろかったです。 ゴッホの生まれ変わりで、自ら腕を切り落とした、という噂に、画家の天才と狂気が鮮烈に込められていて、衝撃的でした。とても好き…
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