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オーバーロード:前編 作者:丸山くがね
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王都-2


 現在セバスが滞在している家は、建築ギルドに頼んで借り受けたそこそこ大きな屋敷だ。周辺に立ち並ぶ館は大きく立派なものが多く、王都でも治安の良い分類に入る区画に建てられた館だ。
 セバスとソリュシャンというたった2人で住むにしては非常に大きすぎる館ではあるが、遠方の大商人の家族というアンダーカバーを被っている以上、みすぼらしい館に住むことは出来ない。

 そんな館に着き、家の扉を潜ると、即座に出迎えてくる者がいた。この館にはセバスを除けばたった1人しかいないのだから、当然出迎えた人物はもう1人――セバス直轄の戦闘メイドのソリュシャン・イプシロンである。

「おかえり――」

 ソリュシャンの言葉は止まり、下げかけた頭も動きを止める。ソリュシャンの冷たい視線はセバスが胸の前で掻き抱いたものへと向けられていた。

「……セバス様。それは一体?」
「拾いました」

 その短い返答にソリュシャンは何も言わない。だが、空気が一瞬だけ重いものと変化した。

「……そうですか。ではそれをどうされるのですか?」
「そうですね。まずは彼女の傷を癒して欲しいのですが、お願いしてもよろしいですか?」
「傷ですか……」ソリュシャンはセバスの抱いた女の様子を伺い、納得したように頭を振ってから、セバスをじっと見つめた。「もしそうだとするなら、神殿に置いてくれば良かったのではないでしょうか?」

 セバスが始めて目を見開く。

「……でしたね。私としたことがそれに気づかないとは……」

 そんなセバスをソリュシャンが冷たい目で見据え、ほんの一瞬だけ両者の視線が交差する。先に目を逸らしたのはソリュシャンだ。

「今から捨ててきますか?」
「いえ。ここまで連れてきてしまったのです。私たちで有効活用する手段を考えるべきでしょう」
「……畏まりました」

 ソリュシャンは演技を除けば、あまり表情を大きく動かすタイプの存在ではないが、今のソリュシャンの表情はまさに能面であった。そしてその目に宿る感情の光は、セバスをして理解できないもの。
 ただ、現在の状況がソリュシャンにとってはあまり歓迎していないことぐらいは手に取るように分かる。

「まずは肉体の健康状況を調べていただけますか?」
「了解しました。では早速ここで調べましょうか?」
「それは流石に……」ソリュシャンからすればその程度の存在なのかもしれないが、玄関で行うべき行為ではないだろうとセバスは判断し、言葉を紡ぐ。「空いている部屋もありますし、そちらでお願いしてもよろしいですか?」
「……了解しました」

 玄関から客室に女性を運ぶ間、互いに話そうとはしない。ソリュシャンもセバスも無駄話というものはあまりしない性質だが、それ以上に微妙な空気が2人の間にあった。
 客室の扉を女性を抱いたセバスに代わり、ソリュシャンが開ける。現在は厚手のカーテンが閉められているため室内は暗いが、淀んだ雰囲気はまるで無い。幾度も開けられているために空気は新鮮なものだし、室内は綺麗に掃除が行き届いている。
 入ってくる光がカーテンの隙間から漏れるものと、扉から入ってくるものだけだが、セバスの足取りに狂いはまるで無い。清潔なシーツが敷かれたベットの上に女性を静かに下ろした。

「では」

 隣に並んだリュシャンが無造作に女性の体に巻きつけた布を毟り取る。その下からは女性のボロボロの肢体が晒される。そんな酷い姿を目にしても、ソリュシャンの表情に変化は無い。

「……ソリュシャン任せます」

 セバスはそれだけ言うと部屋から出て行く。女性を触診し始めたソリュシャンに、それを止める気配はまるで無い。
 廊下に出ると、中のソリュシャンに聞こえないよう小さく呟く。

「愚かな行為です」

 呟いた言葉は即座に廊下に消え、答えるものは当然誰もいない。
 セバスは髭を無意識に触る。何故あの女を助けたのか。セバス自身はっきりとした理由を言うことはできない。もし仮定するなら、窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、というところなのだろうか。
 いや違う。

 何故助けたか。

 それは――彼女が弱者だからだ。
 セバスはナザリックのランド・スチュワートであり、その忠誠は至高の41名――全てに捧げられている。現在はアインズ・ウール・ゴウンの名をその身に宿した、ギルド長。彼こそが全てを捧げて仕えるべき存在である。
 その忠誠に偽りは無く。己が命すらも容易く捨てることを迷わないだけの忠義を捧げているつもりだ。

 だが、しかしながら――もし仮に、至高の41名の中で1人だけに忠義を払えといわれれば、選ぶだろう存在がいる。


『たっち・みー』
 セバスを生み出した、『アインズ・ウール・ゴウン』最強の存在。ワールド・チャンピオンと言われる9人からなる桁の違う存在の1人。
 システム上許されているからといってPKに代表される行為を行うことで、より強大になっていたギルド。その前身たる集まりを、彼が最初の9人として作ったのは弱者の救済のためだというと冗談の話のようだろう。しかしそれが事実なのだ。
 モモンガがPKに合い続け、腹を立てゲームをやめようとしたところを救った。ぶくぶく茶釜がその外見から一緒に冒険をする相手が見つからなかったところを進んで声をかけた。そんな人物なのだ。

 そう。
 ――そんな人物に創造されたセバスも似たところを持っていたのだ。


「これは呪いなんですかね……」

 暴言だろう。もしこの台詞に込められた真意を、他のアインズ・ウール・ゴウンに属する存在――至高の41人に創造された存在が聞けば不敬だと攻撃される可能性だってある。それほどの言葉だ。
 しかし――

「アインズ・ウール・ゴウンに属さぬ存在に哀れみという感情を持つことは正しくは無い」

 セバスは重々しく呟く。
 至極当然のことだ。
 一部の例外――至高の41人にそう設定された存在、例えばペストーニャのような者を除き、アインズ・ウール・ゴウンに属さぬものは容易に切り捨てる行為こそ正しい。例えばある村の少女とメイドの1人、ルプスレギナは仲が良い。だが、状況によってはルプスレギナはその少女を即座に切り捨てるだろう。
 これは冷酷なのではない。もしその行為を冷酷だとなじる存在がいたら、よく分からないとそんな不思議そうな表情を浮かべながら返答するだろう。至高の41人に創造された存在の思考であり忠義。それを単なる人間の――くだらない感情で判断すること事態が間違っているのだ。

 セバスが一直線に唇を噛み締めた頃、ソリュシャンが扉から出てきた。

「どうでしたか?」
「……梅毒にあと2種類の性病。肋骨の数本及び指にヒビ。右腕および左足の腱は切断されています。前歯の上下は抜かれています。内臓の働きも悪くなっているように思われます。裂肛もありました。その他の打ち身や裂傷等は無数にあるために割愛させていただきたいと思いますが……まだいくつかありますが他のご説明が必要ですか?」
「いえ、その必要は無いでしょう。重要なのはこの一点ですから。――治りますか?」
「容易く」

 即答であり、セバスも予測していた答えだ。しかし、一応、念をいれて確認を取る。

「……腱の切断等もですか?」
「無論です」
「では、お願いします」

 僅かにソリュシャンの目が細まり、そして即座に伏せられる。

「……畏まりました。あの女性を無傷の状態――そう、あのような行為が行われる前までの、肉体の状態を戻すということでよろしいですか?」セバスの首肯を受け、ソリュシャンは丁寧に頭を下げた「直ちに治癒を行いたいと思います」
「では治療が終わったら、お湯を沸かせて彼女の体を拭いてもらえますか? 私は食事を買ってきます」
「畏まりました。……セバス様。肉体の治療は容易いことですが……精神の傷を癒すことは私には不可能です」ソリュシャンはそこで言葉を句切ると、セバスをじっと見つめ尋ねる。「精神を癒すのであればアインズ様をお呼びするのが一番だと思われますが……お呼びしませんか?」
「……アインズ様に来ていただくほどのことはありません。精神の方はそのままでかまわないでしょう」

 ソリュシャンは深く一礼すると扉を開け、中に入っていく。セバスはそんな後姿を見送ると、ゆっくりと背中を壁に持たれかけさせる。

 彼女を神殿に置いてくる。ソリュシャンはそう言った。それに対してセバスは忘れていたといったが、あれは嘘だ。無論、セバスがそのことに気づかなかったわけが無い。いや、実のところセバスは最初に神殿に連れて行ったのだ。女性に姿を包んでいた布はそこで貰ったものなのだから。
 セバスの入った神殿で神官にどれだけ驚かれ、どれほど非難めいた眼で見られたか。完全にセバスが女性に酷い行いをしたと思われたのだ。
 どうにか誤解を解き、治癒を依頼したのだが、そこで問題が1つ出てきた。ざっと診察をしてもらったのだが、性病等の病気の治療は出来るし、打ち身なども治せる。しかし、腱の切断や強引に抜かれた歯等の古傷は神殿では癒せないと言われたのだ。これは単純に古傷すら治せる治癒魔法――そこそこ上位の魔法を使える者がいなかったためだ。

 そこでセバスは逡巡した。彼の約束した保護。
 それはどこまでの行為をそれと呼べば良いのか、不明だったからだ。

 病気を癒し、良い環境で休ませれば体力は回復はするだろう。だが、将来的に出来上がる右手と左足は動かずに、食事を噛み砕くのも少しばかり難しい、そんな女性の姿がセバスの約束した保護なのだろうか。
 確かに普通の人間であればそれだけで充分な保護だ。しかしセバスは違う。

 彼ならばもっとより良い状態に彼女を助けることが出来る。
 ソリュシャンはアサシンであるが特殊なクラスを保有しているために、神殿で行える治癒よりもより上位の治癒が行える。そう思ったからこそ連れてきたのだ。そして結果、彼女の体はかなり戻るだろう。衰えた肉体だって、各種の治癒系魔法を行えば短期間で完全に癒せるはずだ。


 問題はそこからだ。
 彼女をどうするのか――。


 セバスは息を1つ大きく吐き出す。
 内部に溜まった様々なものをこうやって吐き出せたなら、どれだけ楽になれるか。しかし、何も変わらない。心は混乱し、思考にはノイズが入る。

「愚かな話です。この私があのような女1人に……」

 セバスは偽りの結論を出す。
 答えは出ない。ならばせめて問題を後に回そう。時間稼ぐにも似た行いだが、セバスからすればそれが納得の出来る最大の答えだったのだ。

 靴の音を響かせ、セバスは歩き出した――。



 ソリュシャンは指の形を変える。ほっそりとした指がより伸び、数ミリほどの細い管のような形まで変わった。元々ソリュシャンは不定形のスライムであり、外見はかなり変えることが出来る。指先の形を変えることなど容易いことだ。

 部屋の扉を一瞥をし、外にセバスの気配がなくなっていることを鋭敏に知覚すると、ソリュシャンはベットに横になった女の元に静かに近寄る。

「セバス様の許可もいただきましたし、面倒ごとは早急に解決させていただきます。あなたもその方がよろしいでしょうしね。それに気づいてないでしょうし」

 ソリュシャンは変形してない手を広げ、体内に隠しいれていたスクロールをズルリと取り出す。
 ソリュシャンが隠し入れているのはこのスクロールだけではない。スクロールに代表される消費系マジックアイテムから始まり、武器や防具なども当然に仕舞いこんでいる。人間であれば数人は飲み込めるのだ、なんの不思議も無いだろう。

「さて、セバス様が戻ってくる前に食べてしまうとしますか」

 ソリュシャンは封を切り、スクロールを広げる。中に込められた魔法は《ヒール/大治癒》。第6位階の高位治癒魔法であり、なおかつ病気等のバッドステータスをあらかた回復させる魔法だ。
 通常、スクロールはその魔法を使うことのできるクラスを保有していないと効果を発揮しないもの。つまりは神官系のスクロールを使うのには神官系のクラスを持っていなくてはならない。しかし一部の盗賊系クラスが保有するスキルはそれを偽り、持って無くても持っているように使いこなすことが出来る。
 ソリュシャンはアサシンとして盗賊系クラスの延長を幾つも習得している。そのためソリュシャンが本来は使えないはずの《ヒール/大治癒》のスクロールを使おうとするのも、そういう種があってのことだ。

「まずは眠らせて、と」

 ソリュシャンは体内で睡眠効果を有する毒と筋弛緩系の毒を、クラス能力として調合すると、女に覆いかぶさるように動いた。



 セバスが食料を買い込んで戻ってくると、ソリュシャンが部屋の外に出てくるのはほぼ同時のタイミングだった。ソリュシャンの左右の手には湯気の立つ桶が2つあり、その中には手ぬぐいが数枚放り込まれている。
 お湯は両方とも汚れており、手ぬぐいにも汚れが付着しているようだった。どれだけ彼女が汚れていたかを示唆するようだった。

「ご苦労様でした。治療の方は問題なく解決した……ようですね」
「はい。なんら問題なく終わりました。ただ、服が無かったので適当なものを着せましたがよろしかったでしょうか?」
「当然かまいません」
「左様ですか……そろそろ睡眠系毒の効果が切れる頃だと思います。……これ以上するべきことが無いのであれば、私はこれで下がりますが?」
「……特別はありません。ご苦労でした、ソリュシャン」

 ソリュシャンは頭を下げると、セバスの横を通り歩き出す。
 セバスは扉をノックすると、扉を静かに開ける。

「入ります」

 厚手のカーテンは開けられ、室内に太陽の明かりを入れている。そんな室内のベッドの上には、1人の少女が寝起きなのか非常にぼんやりとした表情で、半身を起こした状態でいた。

 それはまさに見間違えるようだった。
 ぼさぼさで薄汚れていた金髪は今では綺麗な艶やかさを湛えていた。こけて落ち窪んでいた顔は、この短期間ではありえないほど急速に肉付きを取り戻している。かさかさに割れた唇も健康的なピンク色の輝きに変わっていた。
 外見を総合的に評価するなら美人というよりは、愛嬌のあるという言葉が似合いそうな女性だ。
 こうやって見ると、年齢もなんとなく判別が付きそうだ。恐らくは10台後半ぐらいだろうが、その経験したであろう地獄が年齢以上の重みを表情に作り出している。
 ソリュシャンが着せた服は白いネグリジェだ。ただ、ネグリジェにありそうなフリルやレースといった装飾を極力そいだ質素なものである。

「体の状態はどうですか? 完全に癒えたとは思いますが、何か変なところはありませんか?」

 返答はまるで無い。ぼんやりとした視線にもセバスの方へと動こうとする意志はまるで無かった。だがセバスはそんなことを気にもしないように言葉を続ける。いや、最初っから余り期待してなかったのが明白な行動だ。
 彼女のボンヤリとした表情は、寝起きだからという類のものではないとセバスは直感したためだ。心がこの場に無い、そんな人間の表情だと。

「お腹が減っていませんか? 料理を持ってきましたよ」

 セバスやソリュシャンは調理が出来ないため、買ってきたのは即座に食べれるものだ。胃腸の状態まで回復しているかは不明のため、14種類の材料を使ったという粥を買ってきたのだ。
 木の器に盛られた粥には、僅かに色を付けた出汁で作られている。その中に風味をつけるために入れられたごま油が、食欲をそそらせる匂いを漂わせていた。
 その匂いに反応し、女性の顔が僅かに動く。

「では、どうぞ」

 完全に己の世界に閉じこもっているわけではないと把握し、セバスは木のスプーンを入れた器を彼女の前に差し出す。
 女性は動かないが、セバスも無理に勧めるような行動は取らない。両者がそのままの姿勢で動かないという、空白の時間がしばし流れる。
 もしこの場に第三者がいれば焦れるだけの時間が経過し、ゆっくりと女性の腕が動く。痛みに怯え、強張ったような動かし方で。例え外傷が完全に癒えようと、記憶に刻まれた痛みの記憶は、今でも深々と開いているのだ。

 彼女は木のスプーンを掴み、その中に粥を薄く掬う。
 そして口に運ばれ、垂下した。五分粥と同量の水分のこの粥はどろりとしたものであり、セバスの依頼で非常に細かく切ってもらい、じっくりと煮た14種類の具材は、よく噛まずとも良いほどだ。

 喉が動き、粥が胃の中に納まる。
 女性の目が僅かに動く。本当にわずかな動きだが、それは精巧な人形から人間への変化だった。
 もう片方の手がブルブルと震えながら動き、セバスから器を取る。セバスは器に手を添えたまま、彼女が置きたい場所に動かす。自らの元に抱え込んだ器に木のスプーンを突き刺し、女性は流し込むような勢いで粥を食べる。
 ちょうど良い熱さまで冷えていなかったら、絶対に火傷をして悶絶しただろうという食べ方だ。口から毀れた粥がネグリジェの胸元を汚す。
 最初の頃は全然想像もつかない速度で食事を食べる。それはまさに飲んでいるというのが正解な勢いだ。

 即座に空になった器。
 それを抱えこんだまま、彼女はホウとため息をつく。完全に人間の顔となった彼女の目が僅かに細まる。粥が胃に収まり、清潔で肌触りの良い服、体を綺麗にされたことなどの相乗効果が彼女の精神を緩め、睡魔が取り付きだしたのだ。
 だが、瞼が閉ざされかかると、彼女は大きく目を見開く。そして怯えるように身を縮めた。
 瞼を閉じることに恐怖を持っているのか、はたまたは今の状況が失われてしまう――幻のように消えてしまうことを恐れたのか。それとももっと別のことによることなのか。傍から見ているセバスでは分からない。
 もしかすると彼女自身分からないことかもしれなかった。

 だからセバスは安心させるように、優しく話しかける。

「体が睡眠を欲しているのでしょう。無理はされずにゆっくり眠られると良いでしょう。ここにいれば何も危ないことはありません。この私が保証します。目を覚ましてもこのベッドの上にいますよ」

 初めて女性の目が動き、セバスを正面から捕らえる。
 青い瞳にはさほど光は無く、力も無い。ただ、あのときの死者の瞳ではなく、生者の瞳になっている。

 口が僅かに開き――閉ざす。そして再び開き――再び閉ざす。そんなことを数度繰り返す。セバスはそんな行いを暖かい微笑みを浮かべながら見守る。決して焦らせたり、何かしようとはしない。ただ、黙って見つめる。

「あ……」

 やがて唇を割って、小さな声が漏れた。一度毀れれば、その先は早い。

「あ……ありが……ござ……ぃます」

 自分の置かれている状況への確認等ではなく、感謝を最初に口に出す。彼女の性格の一端が掴め、セバスは作り笑いではない笑みを浮かべた。

「お気にされずに。私が拾い上げたからにはあなたの身の安全は出来る限り保障しましょう。41人の方々を除き、何者が来ようとも負ける気はしませんので」

 少しばかり女性の目が見開く。それから口がわなないた。
 青い目が潤み、ボロボロと涙が毀れる。それから大きな口を開け、女性は泣き出す。火の付いたように。そんな言葉がまさに正しい泣き方だ。
 泣き声に混じり、呪詛が吐き出される。
 己の運命を呪い、その運命を与えた存在を憎悪し、助けがあのときまで来なかった事を恨む。その矛先はセバスにも向けられていた。
 もっと早く助けてくれれば。そういう恨み言だ。
 セバスの優しさを受け――人としての扱いを受けたことで、今までの耐えに耐えてきた何かが崩壊したのだ。いや、人間の心を取り戻したが故に、今までの記憶に耐えられなくなったというべきなのだろうか。

 彼女は頭を掻き毟り、ブチブチという音が共に髪が毟られる。ほっそりとした指に、金の糸が無数に絡んだ。

 セバスはそんな彼女の狂乱を黙って見ている。粥を入れていた器がスプーンと一緒にベットに転がる。それを取ろうともせずに黙って見つめる。セバスからすれば彼女の恨み言は全く的外れなものであり、勝手な言い分にしか過ぎない。
 人によっては彼女の恨み言は不愉快であり、激怒して然るべきものだろう。しかしセバスの表情の怒りの色は全く無い。その皺の刻まれた顔には慈悲のようなものがあった。
 セバスは身を乗り出すと彼女の体を抱く。
 男が女を抱くというのではなく、父親がわが子を抱きしめるような色気の無い、ただ愛情のみがある抱き方だ。
 一瞬だけ彼女の体が硬直し、その今までの彼女の体を貪ってきた男達とは違う抱き方に、凍りついた体が僅かに緩んだ。

「もう大丈夫です」

 その言葉を呪文のように幾度も唱えながら、彼女の背中をポンポンと優しく叩く。泣いている子供を宥めるように。

 一瞬だけ、しゃくりあげ――それからその行為に反応し、彼女はセバスの胸に顔を埋めるとさらに泣く。だが、先ほどの泣き声とは少しばかり違うものだった。


 暫しの時間が経過し、セバスの胸元が彼女の涙で完全に濡れた頃、ようやく彼女の泣き声が止む。ゆっくりとセバスの胸元から離れ、その真っ赤になった顔を隠すように俯く。

「あ……ごめ……さい」
「気にしないでください。女性の涙に服がどれだけ濡れたとしても何にも問題はありません。いえ泣かれる女性に胸を貸したというのは男にとっての誇りですよ」

 セバスは懐から、綺麗に洗われた清潔なハンカチを取り出すと、それを彼女に差し出す。
 しかし、その綺麗に折り目のついたハンカチを前に彼女は逡巡する。これほど綺麗で高額そうなものを使っても良いのだろうかと。

「お使いください」
「です……ど、こん……きれいな……おかり……のは」

 おどおどとセバスを伺う女性の顎に手をかけると上を向かせる。そして彼女が何が起こったのかと硬直している間に、瞳に――そして未だ残っている涙の跡を優しくふき取る。

「あ……」
「さぁ、どうぞ」セバスは僅かに湿ったハンカチを彼女の手に握らせる。「それに使われないハンカチは可哀想なものです。特に涙を拭うことのできないハンカチはね」

 セバスは微笑みかけると、彼女から離れる。

「さぁ、ゆっくり休んでください。起きたら色々と今後について相談しましょう」

 魔法とは万能なもので、ソリュシャンの魔法による治療によって肉体は回復し、精神的な疲労も全て抜け切ってはいる。そのため今から普通に行動することだって出来るだろう。しかしながら彼女が地獄にいたのはせいぜい2時間ほど前の話。精神的な傷が、長時間の会話によって何らかの影響に繋がり兼ねない恐れはある。
 実際、先ほど泣き出したように、彼女の精神の均衡は安定しているとは言い切れない。いや安定はまだ全然していないだろう。一時的に魔法によって精神的なものを癒すことは出来るが、根本の治療にはならない。肉体とは異なり、ぱっくりと開いた傷を癒すことは出来ないのだ。
 精神的な傷の完全なる治療が出来るのは、セバスの知る限り自らの主人――それと可能性としてはペストーニャ――ぐらいだろう。
 セバスはそのため話を打ち切り、休ませようとするが彼女は口を開く。

「こんご、で……か?」
「ええ」セバスはこのまま話を続けてよいか、彼女の精神的に不味くないか思案し、結果続けることにする、「このままこの都市にいるものあれでしょう。どこか頼れるところは?」

 女性は顔を伏せる。その反応はセバスに失言という言葉を思わせるに充分な行為だ。

「そうですか……」

 さて、困ったとセバスは口にはせずに思う。しかし、即座に何か行動しなくてはならないということもないだろう。明日に回してもまずいということは無いはずだ。

「ではそうですね。お名前とか聞かせてもらえますか?」
「あ……わた……は、ツー……ツアレ……す」
「ツアレですか。そうそう、私の名前を告げていませんでしたね。私の名前はセバス・チャンといいます。セバスと呼んでくださって結構です。私はこの館の持ち主であるソリュシャンお嬢様に仕えることを仕事とする者です」
「そ……ゅしゃん……ま……」
「ええ、ソリュシャン・イプシロン様です。とはいえあなたが会うことはあまり無いと思われますよ」
「……?」
「お嬢様は気難しいお方ですから」

 その言葉で全てを語ったと言わんばかりにセバスは口を閉ざす。それから少しだけ静かな時間が過ぎてから、セバスは再び口を開いた。

「さぁ、今日はゆっくり休んでください。あなたのこれからに関しては明日にでも相談しましょう」
「はい」

 ツアレがベットに横たわるのを確認すると、セバスは粥を入れていた器を手に、部屋を後にする。
 部屋を出たところで気配を完全に隠して立っていたのはソリュシャンだ。アサシン系のクラスを有しているソリュシャンが完全に気配を隠すと、セバスですら発見は困難であるが、そこにいるだろうと予期していたセバスに驚きは無い。

「どうしましたか?」

 ソリュシャンが立っていたのは盗み聞きのためだろうが、セバスはそれを咎めることはしない。
 そしてソリュシャンもセバスに叱られるとはまるで思っている様子は無い。だからこそ隠れずに立っていたのだが。

「……セバス様。あれはどうなされるのですか?」

 セバスは少しばかり自らの背後の扉に意識を向ける。扉はしっかりとしたものだが、完全に音を遮断するほどの防音効果は無い。ここで話していれば中に多少は聞こえるはずだ。
 セバスは歩き出し、ソリュシャンも無言でその後ろに続く。
 少しだけ歩き、ツアレに音が届かなくなっただろうというところで足を止める。

「……ツアレのことですね。とりあえずは明日、どのようにするか決めようと思っていますが」
「……出すぎた言葉かもしれませんが、あれは邪魔になる可能性が非常に高いと思われます。早急に処分を行うべきかと」

 処分というのがどう意味を含んでいるのか。
 ソリュシャンの冷酷な言葉を聞き、セバスはやはりと思う。これがナザリック――至高の41人に従うものとして、ナザリックに属さぬ存在に対し最も正しい考え方だ。ツアレに対するセバスの方が異常なのだ。

「その通りです。アインズ様より与えられた命令に邪魔になるようなら早急に対処しなくてはならないでしょう」

 ソリュシャンが若干不可思議そうな表情を浮かべた。それが分かっていながら、何故という表情だ。

「もしかすると彼女にも使い道があるかもしれません。拾ってしまったのですから、単純に捨てるのではなく。有効に使う方法を考えなくてなりません」
「……セバス様。あれがどこでどのような理由で拾ってきたものかは存じておりませんが、あのような傷を負う環境にあったということは何かをしてきた人間がいるということ。そいつらが生きていては厄介ごとだと思うのでは?」
「それに関しては問題ないでしょう」

 言い切るセバスに対し、ソリュシャンは不審そうに顔をゆがめる。何を隠しているのかと疑う表情だ。

「もう既にその者たちは処分したということでしょうか?」

 殺害は騒ぎの種になりかねない行為だといわんばかりのソリュシャンに、セバスは苦笑をもらす。まるで逆の立場だ、と。

「いえ違います。ただ、もし、問題が生じるようであれば、何らかの手段をとります。ですからそれまでは様子を見てもらえますね? よろしいですね、ソリュシャン」
「……畏まりました」

 直属の上司たるセバスに言われてしまっては、不満は非常に残っているがソリュシャンも言い返すことはできない。それに問題が何も生じないのならば、確かに黙認しても良い問題だろうから。
+注意+
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