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オーバーロード:前編 作者:丸山くがね
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王都-1


 リ・エスティーゼ王国、王都リ・エスティーゼ。
 人口900万ともなる王国の首都でもあるそこを一言で表現するなら、古き都市という言葉が最も相応しいだろう。これは歴史あるという意味でもあり、淡々と続く日常の延長でもあり、古めかしいだけのしょぼくれた都市――そんな毛色の違った様々な意味合いを持った言葉でもあった。
 それは1つの通りを歩けば直ぐに理解できるだろう。
 左右に立ち並ぶ家々は古く無骨な物が多く、新鮮さや華やかさというものがまるっきり欠けている。ただ、それをどのように見るかは人によって違う。
 そう、歴史ある落ち着いた佇まいと見る者だっているだろう。

 そんな都市でもある王都は、舗装されていない道路が多く、雨に濡れれば直ぐに泥まみれとなってしまう。いや、別に王国が劣っているわけではない。ただ、帝国や法国と比べる方が悪いのだ。

 そんな通りは道幅もそれほど大きいものは無い。
 流石に馬車の前――通りのど真ん中を歩く者はいないが、通りをごちゃごちゃと歩いているその姿には、ごみごみとした猥雑さがあった。
 そんな通りを、王都の住人は慣れたものですり抜けるように歩いていく。互いに正面から歩いていっても、ギリギリのところで器用に回避するのだ。

 そんな都市の一角をセバスは歩いていた。
 王都では珍しいとも言って良い、石畳でしっかりと舗装された大きな道幅を持った通りである。
 というのもその通りの左右に立ち並ぶ家屋は大きく立派なものが多い。言うなら王都のメインストーリーである。確かに人は多いし、活気に満ちている。
 そんな人々が幾人も振り返る中、セバスは意に介さずにぴんと背筋を伸ばし、もくもくと歩く。

 目的地をしっかりと定めた、迷いの無い足取りは、幾度と無く通っている者の歩運びだ。そう、セバスが向かっている場所は、王都に来て以来、幾度と無く通ったところである。
 やがて、その目的地が僅かに見えてくる。

 長い壁が続く。壁の高さは6メートルほどであり、一辺150メートルほどはあるだろうか。その壁の向こうに、角度的に少しばかり頭の部分を見せている塔がある。高さ的にはそれほどではない。せいぜい5階建て程度だろうか。しかしながら周囲にその塔ほどの建築物が無いために、対比的に非常に高く感じる。
 そしてその塔に隣接するように複数の建物があった。
 これら全てを含めて、王国の魔術師の多くが所属する団体の本部であり、新たな魔法の開発を行う研究機関、そして魔法使いの育成を行う教育機関の一端を担っている――王国魔術師ギルド本部である。

 セバスはその壁に沿って歩き、やがてしっかりとした門の前に立つ。金網状の扉は大きく開かれ、門の左右には武装した戦士の姿が見える。
 戦士に止められることなく――一瞥されるだけで――、セバスは門を潜る。
 その先、少しばかりの白い昇り階段があり、3階建てほどの荘厳さを感じさせる古き白亜の建物に繋がる扉があった。無論、その扉も来訪者を歓迎するように開かれている。

 セバスは扉を潜る。
 そこにはエントランスホールが広がった。3階ほどの吹きぬけて作ったような高い天井からは、魔法の明かりを灯したシャンデリアが幾つも垂れ下がっている。
 右手の方にはソファー等が置かれ、客を迎えて話せるようになっていた。
 左手にはボードが置かれている。そこに張り出された羊皮紙を幾人かの魔法使いや、冒険者のような者達が真剣に眺めていた。
 奥にはカウンターが置かれ、幾人かの年若い男女が座している。皆一様に、建物に入る際に掲げられていたエンブレムを、胸元に刺繍されているローブを着用していた。
 カウンター横手の左右にはデッサンの人形を思わせる、目も鼻もない等身大のほっそりとした人形――ウッドゴーレムが立っていた。警備兵ということだろうし、人間を置かないのは魔術師ギルドとしての見栄だろう。

 セバスは左右に置かれたものには目もくれずに、コツコツと規則正しい足音を立てつつ、カウンターに向かう。

 カウンターに座していた青年が、セバスを確認し、僅かに目で挨拶を送ってくる。セバスはそれに答えるように軽く頭を下げた。間を置かずに数度来ている――そしてその青年が管理者の1人なのか大抵いるために、もはや顔見知りの領域だ。

 そして目の前に立ったセバスに青年はあるかなしかの微笑を浮かべ、いつもの挨拶を行う。

「ようこそ、いらっしゃいました、セバス様。当、魔術師ギルドへ」数度の呼吸を置いて、青年は続ける。「ご用件をお伺いしても?」
「はい。魔法のスクロールを売って頂きたい、そう思ってまいりました」
「ご要望のスクロールはございますか?」
「いえ、とりあえず、いつものリストを見せていただけますか?」
「畏まりました」

 ここまでという、少し長い何時もの挨拶を終え、青年はカウンターの上に大きめの書物を置く。
 中は紙を使い、表紙には皮を張って作った立派なものだ。表紙に金糸を使った文字を縫いこんである部分も考えれば、これだけでそこそこの値が付くだろうというものだ。
 セバスはそれを自らの手元に引き寄せると、ページを開く。
 そこに書かれた文字は残念ながらセバスの読める文字ではない。いや、ユグドラシルの存在では読むことが出来ないというべきか。言葉はこの世界の奇怪な法則によって理解できても、文字は別だ。
 しかし、そんな問題を解決するためのマジック・アイテムをセバスはアインズより預かっている。

 セバスは懐から眼鏡ケースを取り出し、開く。
 中には1つの眼鏡が入っていた。ほっそりとしたフレームの部分に使われているのは銀のような金属。そして良く見れば細かな文字――紋様にも思えるものが掘り込まれている。レンズの部分は蒼氷水晶を非常に薄くまで磨きかけたもの。
 それを取ると目にかける。
 僅かに青い視界の中、読めなかった文字がセバスにも読めるようになっていた。

「ふむ……」

 呟き、丁寧だが、すばやくページを捲る。
 そのまま止まることが無いと思われたセバスの手が急に止まった。そして僅かに視線を動かす。

「何かございましたか?」

 カウンターにいた女性の1人に、セバスは優しく声をかける。

「あ、いえ……」

 顔を赤くし、うつむく女性。

「綺麗な姿勢だな……と思いまして」
「そうでしたか?」

 セバスは僅かに微笑む。その微笑を受け、女性は僅かに顔を赤らめる。
 白髪の紳士という言葉が相応しいセバスは、漂わせる雰囲気や姿勢が綺麗であり、見ているだけで惚れ惚れしてしまうような存在だ。確かに顔立ちも整っているが、それ以上にその他の部分が目を集めてしまう。街中を歩けば女性の9割は年齢に関わらず振り返らせる、そんな人物なのだ。そんなわけでカウンターに座る女性がセバスを凝視しても、仕方がないことだし、良くあることだ。
 女性がセバスに視線を送っていた理由に納得したセバスは、再び視線を本に落とす。

 しばらくの時間が経過し、セバスは顔を上げる。

「申し訳ないのですが、この魔法――《フローティング・ボード/浮遊板》の詳しい内容を聞かせてもらえますか?」
「畏まりました」青年は詳しい内容を話す。「《フローティング・ボード/浮遊板》は第1位階魔法であり、半透明の浮遊する板を作り出すものです。板の大きさや最大搭載重量は術者の魔力によって左右されますが、スクロールからの発動の場合は1メートル四方、搭載重量50キロが限界です。作り出した板は術者から最大5メートルまで離した上で後ろを付いてこさせることが出来ます。これは後ろを付いてこさせるだけなので、前に動かしたり等の行動は取れなく、もし術者がその場で180度回転した場合は、その場で止まったまま術者が接近するまで待っています。基本的には運搬用の魔法であり、土木工事関係で見られる場合があります」
「なるほど」セバスは1つ頷く。「ではこの魔法のスクロールを売ってもらえますか?」
「畏まりました」

 打てば響くように青年は答える。人気の無い魔法をセバスが選んだことに対し、青年に驚きの色は無い。なぜならセバスが買い求める魔法のスクロールは大抵の場合がこういったあんまり人気の無い魔法だ。それに余剰在庫が捌けるというのは魔術師ギルドにとっても良いことなのだから。

「スクロールを一枚でよろしいですね?」
「はい、お願いします」

 青年が隣に座った男に対し軽く頭を動かす。
 今までの話を聞いていた男は即座に立ち上がると、カウンターの後ろの壁、奥へと続く扉を開けて中に入っていく。スクロールは高額の商品でもある。流石に警備しているからといって、カウンターにドンと置くわけにはいかないのも当然だ。

「直ぐにご用意いたしますので、少しお待ちください」
「ええ」

 了解したとセバスは頭を軽く下げると、カウンターを離れ、その横手に立つ。カウンターで仕事をしている人数は決まっているのだから、その邪魔にならないようにということだ。
 5分ほどして先ほど出て行った男が戻ってくる。その手には丸めた一枚の羊皮紙が握られていた。

「セバス様」

 セバスは懐から小さな皮袋を取り出しながら、カウンターに再び近寄る。

「こちらになります」

 カウンターに置かれた羊皮紙に、セバスは目をやる。丸められた羊皮紙には、しっかりとしたもので、その辺で簡単に手に入るものとは外見から違う。黒いインクで魔法の名前が記載されており、その名前と自らの求めた魔法名が一致することをセバスは確認した。それからやっと眼鏡を外した。

「確かにそうですね。これを頂きます」
「ありがとうございます」青年は丁寧に頭を下げる。「こちらのスクロールは第1位階魔法ですので金貨10枚を頂戴します」

 ポーションに比べれば安い値段だが、これはスクロールが同系統の魔法を使える者にしか通常は使えないということに起因する。つまりは誰にでも使えるポーションの方が高くなるのは自明の理ということだ。
 勿論、安いといっても金貨10枚は非常に高額ともいえる。しかしセバス――いやセバスの仕える人物からすれば大した金額ではない。
 セバスは懐から皮袋を取り出す。その口を緩めると中から一枚の硬貨を取り出す。
 白金貨だ。
 金貨の10倍の価値のあるそれを青年の手の上に乗せる。

「確かに」

 青年は硬貨をセバスの目の前で確認するようなことをしたりはしない。それぐらいの信頼は勝ち得る程度は取引を行っているのだから。



「あのおじいさん。カッコイイよねー」
「うん!」

 セバスが魔術師ギルドを出て行くと、カウンターに座っていたものたちが口々に騒ぎ立てる。
 そこにいたのは叡智を宿した女性ではなく、まるで憧れの王子様に出会った少女のようだった。カウンターに座る男性の1人が僅かに顔を顰め嫉妬の表情を浮かべるが、決して口には出そうとはしない。
 他の男性は逆に女性の発言を肯定するような意見を口に出す。

「ありゃ、かなりの大貴族に仕えていたことのある人だよな」
「うん、立ち振る舞いが凄い綺麗だものな」

 うんうんとカウンターに座る一同は頷く。
 セバスの姿勢や顔立ち、服装。そしてかもし出す雰囲気。それはまさに気品に満ち満ちたものだ。大貴族本人だと言っても納得がしてしまう、そんなレベルのものだ。

「お茶とか誘われたら、絶対行っちゃうよね」
「うん、行く行く!」
「凄い知識も持ってそうだしなぁ。というか、魔法の知識を持ってるけど、あの人も魔法使いなのかな?」
「かもしれないなぁ」

 幾つもの魔法の名前が載った書物を読むことが出来る。そしてその中からセバスが選ぶ魔法は、的確につい最近開発された魔法ばかりだ。つまりは魔法に関する充分な知識も持っているということが推測として立つ。もし命令をされて買いに来たのならば、書物を開かないで即座にカウンターでその名前を出せば良いはず。それをしないで書物から選ぶということはセバスが買う魔法を選んでいるということだ。
 単なる老人では決して出来ない、つまりは専門的な教育を受けた者――魔法使いと考えるのも当然だろう。

「それにあの眼鏡……すごく高そうだしな」
「マジック・アイテムかね?」
「いや、単なる高級品眼鏡じゃないかな? ドワーフ製とか」
「うん、あんな綺麗な眼鏡持ってるんだから凄いよね」
「俺はあの時一緒に来た美人さんにまた会いたいなぁ」

 ポツリと思い出したように呟いた男性に、反対の声が上がる。

「え、あの人はちょっと煩すぎるよね」
「うん、セバスさんがかわいそうだったもの」
「まぁ、絶世っていってもいい美人だけど、あんな騒がしいのはなぁ……」
「さ、おしゃべりはそれぐらいにしよう」

 カウンターに向かって歩いてくる冒険者の格好をした人物を目にし、青年は口にした。





 魔術師ギルドから外に出、軽く空を見上げてから、セバスは次に行くべき場所に思いをはせる。

 第一として自らの主人より与えられた命令は、国家が保有するであろう兵器。これについての情報収集である。無論、兵器に関する情報を入手せよといわれて簡単に行えることではない。例えば王家秘蔵の兵器とかになれば情報を集めるのは、調査系ではないセバスには困難極まりない。
 そのため予測される兵器に関する情報収集に着手した。これは警備についている兵士の様子や、冒険者を相手にしている酒場の主人の話等から得る手段だ。
 これで全体的な王国の兵器レベルの予測をしようというのだ。

 次に科学技術レベルと魔法技術レベルが一体どの程度なのか。何ができて何ができないのか、特に最優先は情報収集系の技術である。
 魔法というものが存在するこの世界にあって、科学技術はさほど発展していない。確かに魔法使いという一部の技術者しか使えない技術よりは、多くの者が使える技術を研究するものは多少いるが、画期的なものは見つかってはいないのが現状だ。
 そのため魔法技術さえ手に入れれば、アインズからの指令はこなしたも同然だ。
 現在セバスが行っているのは、そのための準備である。まずは顔を売ろうとしているのだ。

 最後が強者の存在の確認だが、これに関してはセバスは置いておいても良いと判断している。それは強者の存在が一切確認できないからだ。一応、王都でも最強とされる冒険者の姿は遠目から確認したが、大した強者のようにも思えなかった。

「いや、彼女だけは別ですか……」

 セバスはたった一人だけ、強者と思われる存在を思い出す。セバスと比べればはるかに弱いが、直轄のメイドと比較するなら、敗北の可能性が極僅かだがある存在。
 要注意という人物を。
 セバスは彼女の顔――いや姿を思い出し、軽く首を振った。
 彼女に関しては主人より、調査の凍結指令が下っている。面倒ごとになりかねない問題は一先ずおいておけという旨でだ。
 そのため取り急ぎ、セバスがしなくてはならない懸案事項は無い。

「さて、どうしますか」

 セバスは呟き、己の髭を撫で付けると、ふらりと歩を進める。
 特別、目的地を定めたものではない。
 この頃のセバスの趣味である、都市の散策。それを行おうと思っただけだ。片手に持っていたスクロールをくるりと回し、歩き出すその姿は、機嫌の良い子供のようでもあった。

 王都の中でも中央とされる治安の良い部分から外へ外へと遠ざかるように、足を進める。
 やがて幾つも通りを曲がり続ける中、路地は薄汚れた雰囲気を纏い出し、わずかな悪臭が漂う。生ゴミや汚物の臭いだ。服に染み込んでくるようなそんな空気の中をセバスは黙々と歩く。

 そしてふと立ち止まると、周囲を見渡す。完全な裏道に入ったのか、狭い路地は人がすれ違うのが限界なほどの細さだ。

「ふむ……」

 無造作に歩いたのだが、目印が無いこんな路地にいても、自分が今どのあたりにいるのかセバスは直感的な意味合いで大体の場所を掴んでいる。そのためかなり自分が歩いたということが即座に理解できた。
 セバスの肉体能力を持ってすれば大した距離ではないが、普通に歩いて帰るとなるとそこそこの時間が予測される。あまり遅くなるのも家で待っている者に悪い。

「……帰りますか」

 もう少し散策を続けたのも事実ではあるが、自らの趣味に時間を割きすぎるのは仕えるものとして良い行動とは言えない。
 セバスは踵を返すと、細い路地を歩き出す。
 もくもくと歩くセバスの前――20メートル先にあった鉄の重そうな扉が、軋みを上げながらゆっくりと開いていく。セバスは立ち止まると、何が起こるのかと只黙って見ていた。
 重い扉が完全に開かれ、どさりとかなり大きい袋が外に放り出される。中に詰まっていただろう柔らかいものがぐにゃりと形を変えるのが見て取れた。
 扉がセバスの方に開くため、扉の影に隠れてほうり捨てた人物の確認は出来ない。しかしながら扉は開いてはいるものの、ゴミでも捨てるように放った人物は一旦中に入ったのだろうか、続いての行動を起こさない。

 セバスは一瞬だけ眉を顰め、そのまま歩を進めるべきか、それとも別の方向に足を進めるか迷う。わずかな逡巡の後、静まり返ったその細く薄暗い路地へとそのまま歩を進める。
 やがて大き目の袋との距離が迫る。口は開いているが、セバスはそれから視線をそらす。そしてその袋の口から漂ってくる臭いからも意識をそらす。同じように僅かに開いている扉からもだ。

 好奇心、猫をも殺す。

 厄介ごとの雰囲気が漂う袋や家の中に、興味を持っても良い事は無いだろう。セバスはそう判断したのだ。

 セバスは袋を避けるように路地の反対側の壁により、すれ違う。

 そして――コツコツという規則正しい足音が止まった。
 セバスのズボン、そこに何かが引っかかったような軽い感触があったのだ。セバスは視線を下げることを迷い、目を前に向けたまま動きを止める。セバスは動揺し、困惑していたのだ。
 それは非常に珍しい光景だ。もしこの場にナザリックに属する者がいれば驚きの表情を浮かべただろう。それほどの状況にセバスは今立たされていたのだ。
 そして覚悟を決めて視線を下に動かした。そこで予測されていたものを見つける。

 セバスのズボンを掴むその細い枝のような手を。
 そして袋から姿をみせている半裸の女性を――。

 袋の口が今では大きく開き、その女性の上半身が大きく外に出ていた。
 元は活発だったのだろう青い目は今ではどんよりと濁りきっている。ぼさぼさに伸びたさほど長くない金髪の髪は乏しい栄養環境によるものか、非常にボロボロになっていた。顔立ちからは美醜は判別が付かない。当たり前だ。殴打によってボールのように膨らんだその顔で、判断が付くはずが無いだろう。
 そしてがりがりに痩せきった体には、生気といえるようなものがほんの一滴も残っていなかった。そのため年齢を判断することはまるで出来ない。老婆のようにも、まだ幼い女性のようにも思えるほどだ。
 枯れ木のような皮膚には爪くらいの大きさで、淡紅色をした斑点が無数に出来ていた。

 それはもはや人間の死体だ。いや勿論、死んでいるわけではない。そのセバスのズボンを掴む手が雄弁に語っている。だが、息をするだけの存在を生きているとはっきり言い切れるだろうか。
 彼女はそんな存在なのだ。

「……手を離してはくださいませんか?」

 セバスの言葉に反応は無い。聞こえていて無視をしているのではないのは一目瞭然だ。瞼が膨らんでいるために僅かに線のように開かれた、中空を見るように投じられた濁った瞳には何も写っていないのだから。

「手を離してはくださいませんか?」

 セバスは重ねて問う。
 セバスが足を動かせば、その枯れ枝以下の指を払うことは用意である。もはや力の入ってないその指がセバスのズボンを掴んだのは幸運程度の何かでしかないのだから。
 そう、幸運は2度も起こる訳はない。

「……私に何か言いたいことでも?」

 セバスが動こうとした時――

「おい」

 どすの効いた低い声がセバスにかかる。
 扉から男が姿を見せていた。盛り上がった胸板に太い両腕。顔には古傷を作った、暴力を生業にするもの特有の雰囲気を多分に匂わせた男だ。

「おい、爺。こんなところで何を見てんだ?」

 男は目を細くし、セバスを睨みつける。それからこれ見よがしな大きな舌打ちを1つ打つと、顎をしゃくる。

「失せな、爺。今なら無事に帰してやるよ」

 セバスが動かないのを見ると、男は一歩踏み出す。男の後ろで扉が重い音を立てて閉まる。

「おう。爺、耳が遠くて聞こえねぇのか?」

 肩を軽く回し、次に太い首を回す。右手をゆっくりと持ち上げ、握り締める。暴力の使用を決して迷わないタイプだというのが明確な態度だ。

「ふむ……」

 セバスが微笑む。老年の紳士とも言うべきセバスの深い微笑みは、安堵と優しさを強く感じさせるものだ。だが何故か、男は強大な肉食獣が突如目の前に現れたような気分に襲われた。

「おぉ、おう、なん――」

 セバスの微笑みに押され、言葉にならない言葉が男の口から漏れる。呼吸が荒いものに変わっている事さえ気付かず、男は後ろに僅かに下がろうとする。
 セバスは今まで片手に持っていた魔術師ギルドの印の入ったスクロールをベルトに挟む。それから一歩だけ、開いた分の距離を詰めるように正確に男の方に足を進め、手を伸ばした。その動きに男は反応することさえ出来ない。音にならない音を立て、セバスのズボンを摘んでいた女性の指が路地に落ちる。
 まるでそれが合図だったかのように、セバスの伸ばした手が男の胸倉を掴み、そして――男の体がいとも容易く持ち上がった。

 それは第三者がもしこの場にいれば、まるで冗談のような光景のように感じられただろう。
 外見的な特長であれば、セバスと男を比べるならセバスに勝ち目は無い。若さ、胸板、腕の太さ、身長、体重、そして漂わす暴力の匂い。どれを取ってもだ。
 そんな紳士然とした老人が、その腕で屈強で十分な体重があると思われる男を片手で持ち上げているのだから。これが逆だったのならまだ信じることができたという光景だ。

 ――いや、違う。その場でもしその光景を見る者がいたら、その二者の間にある『差』というものを鋭敏に感じ取ったかもしれない。人間は生物が持つ勘――生存本能というものが鈍いといわれるが、これだけはっきりしたものを突きつけられれば即座に悟っただろうから。


 セバスと男の間にある『差』。
 それは――

 ――絶対的強者と絶対的弱者という差。


 完全に地面から両足を持ち上げられた男は、両足をばたつかせ、体をくねらせる。そして両腕でセバスの腕を掴み掛かろうとして、何かに悟ったように、恐怖の感情が目の中に宿った。
 遅いながらも、ようやく男は気付いたのだ。目の前にいるセバスが、外見とはまるで違う存在だということに。無駄な抵抗が、目の前の化け物をより苛立てる行為に繋がると。

「彼女は『何』ですか?」

 静かな声が恐怖で硬直しつつあった男の耳に飛び込む。
 感情のまったく感じさせない、いや清流のごとき静けさを湛えた声。それは男を平然と片手で持ち上げるという状況にまるで似合わないものだ。だからこそ恐ろしい。

「う、うちの従業員だ」

 僅かに緩んでいるために声は出せる。男は必死に、恐怖によって裏返る声を上げた。そんな男の返答に、セバスは即座に返す。

「私は『何』ですかと尋ねました。それに対するあなたの答えは『従業員』ですか」

 何か言うべき言葉を間違えたかと男は考える。しかしこの場合、最も正解に使い筈の答えのはずだ。男は大きく見開いた目を怯える小動物のようにキョトキョトと動かす。

「いえ。私の仲間にも人という存在を物のように扱う者たちがいます。あなたがその認識ならば、このような扱いは当然だろうと思ったのです。ですが従業員という答えから推測すると、同族であると認識し、このような行為を行っていたと理解していたわけですね。それでは重ねて質問をさせていただきましょう。彼女をどうするので?」

 男は少し考える。だが――

 ミシリと音が鳴ったようだった。
 セバスの腕により力が入り、男の呼吸が一気に苦しくなる。

「――ぐぅう!」

 セバスが掴む手に力を入れたことによって、男は呼吸が難しくなりにより奇怪な悲鳴を上げた。そこにある意志は『考える時間は与えないから、とっとと話せ』である。それが理解できただろう男は、即座に口を開いた。

「び、病気だから神殿につれて――」
「――嘘をあまり好きませんね」
「きひぃっ!」

 セバスの腕に込められた力が強くなり、より一層呼吸が苦しくなった男は、顔を真っ赤に染め上げながら奇怪な悲鳴を漏らす。袋に入れて運搬するという行為を百歩譲って認めたとしても、袋を路地に投じたその姿に、病気だから神殿に連れて行くという愛情は一切感じられなかった。
 あれがゴミを捨てる行為だというのならば認められるが。

「やめ……かぁ」

 息が苦しくなりだし、命の危険に晒されはじめた男は、後のことを一切考えずに暴れだす。顔面を狙って飛んでくる拳は、容易く片手で迎撃する。バタつかせた足がセバスの体に当たり、服を汚す。しかしながらセバスの体は一切動かない。
 ――当然だ。
 数百キロを思わせる鋼鉄の塊を、単なる人間の足で動かせるはずがない。太い足で蹴られながらも、平然と、まるで痛みを感じないようにセバスは続ける。

「正直に話されることをオススメしますが?」
「がぁ――」

 完全に呼吸が出来なくなった男の真っ赤に染まった顔を見上げ、セバスは目を細める。完全に意識を失うギリギリの瞬間を狙って、手を離す。
 聞く者が痛そうに顔をゆがめてしまうほどのガツンという大きな音を立て、男が路地に転がった。

「げぎゃぁあああ」

 肺の中に最後に残った空気を悲鳴として吐き出し、それからカヒューカヒューとむさぼるように酸素を取り入れる男をセバスは静かに見下ろす。それから再び手を喉元に伸ばす。

「ちょっっ、ま、まってくれ!」

 セバスの伸ばした手がどのような意味を持つものか。それが理解できるほど、その身に恐怖として焼き付けられた男は痛みに耐えながら、セバスの手から転がるように離れる。

「ま、まってくれ。本当だ。神殿に連れて行くつもりだったんだ!」

 意外に心が強い。それとも別の恐怖を与えられているからか。
 セバスはそう判断し攻撃の手を変えることを検討する。ここはある意味敵の陣地だ。男が扉の奥に助けを求めないということは、即座に援軍は来ないだろうが、それでも長時間ここにいることは面倒になるだけだ。

「神殿に連れて行くといいましたね。ならば私が連れて行っても問題は無いかと思いますので、私が預かりましょう」

 驚き、男の目が左右に動く。それから必死に言葉を紡いだ。

「……あんたが本当に連れて行くっていう証拠がねぇだろ」
「ならば一緒に行けばよろしいのでは?」
「今は用事が会っていけねぇ。だから後で連れて行くんだよ」セバスの顔に何かを感じた男は、早口で言葉を続けた。「それは法律上、おれたちのものだ。あんたが何かをするのなら、それはあんたがこの国の法律を破ったってことになるぜ!」

 ぴたりと動きを止め、セバスは初めて眉を寄せる。
 最もセバスにとって痛いところを突かれた。
 アインズはある程度は目立つ行動をとってもかまわないと言ってはいたが、それは金持ち娘というダミーを演じるための行為としてだ。出来る限り騒ぎを起こさずに、静かに情報収集を行う。それが主人の本当の意志だ。
 法律を破るというのは下手すると司法の手が伸び、調査された場合は被っているアンダーカバーが破られる可能性まで繋がりかねない。
 つまりは大きな騒ぎに直結しかねない問題だということだ。

 ならばこの女性を見捨てるのが正しい行為か。

 男には法律知識を収めた雰囲気はまるで無い。それに関わらず、その言葉には自信に満ち溢れていた。とするとそういった法律に関しての入れ知恵をしている者がいるということ。ならばその法律関係の話は適当に言っているのではなく、理論武装した結果の真実である可能性が高い。
 セバスが腕力に物を言わせて押し通すことは容易だ。しかしこうなってしまうと、その行為は当然セバスの首を絞める。
 勿論、法律なんか糞食らえと行なうことも出来る。ただ、それは最後の手段であり、自らの主人の目的に関わるときのみの最終手段だ。この見知らぬ女性のために行って良いものではない。

 男の下卑た笑いが、迷うセバスを苛立てる。

「主人に内緒で厄介ごとを抱え込んで良いのかぁ?」

 にたにたと笑う男に、初めてセバスははっきりと分かるように眉を顰めた。そんな態度に男は弱みを感じ取ったのだろう。

「どこぞの貴族に仕える方か知らないけどなぁ。法律を破るのはご主人様に迷惑がかかるんじゃねぇか? あん?」
「……私の主人がその程度どうにかできないとでも? 法律は強者にとっては破るためのものですよ?」

 一瞬だけ男は怯んだような雰囲気を見せるが、すぐに自信満々な姿を見せつけた。

「……ならやってみるか? うん?」
「…………ふむ」

 セバスのはったりに、男が怯んだ様子は無い。実際にこの男――そして後ろ盾が実際にいるなら、なんらかの権力者との強いコネがあり、それだけでは司法は動かないという自信があるのか。
 この方面からの攻撃は効果が無いと判断し、セバスは別の角度からの攻撃に移る。

「……ですが、彼女が助けを求めた場合、例えどのような形態の従業員であろうと、彼女の意志を尊重するべきだと思われますが?」
「む……いや……それは……」

 男が困ったようにブツブツと呟く。
 化けの皮がはがれた。
 セバスは男の演技力の無さ、そして頭の回転の遅さに安堵する。もし男がそれも法律上と嘘でも言い出したら、この国の法律関係の知識に乏しいセバスには、どうすることも出来なかっただろう。結局、法律関係の知識を己の物とせずに聞きかじっただけだからこのざまなのだ。セバスにとっては有利なことに。
 セバスは男を視界から追い出すと、女性の頭を抱き上げる。

「助けて欲しいですか?」

 セバスは問いかける。それから女性のひび割れ、かさかさの唇にその耳を近づけた。
 耳に掛かるのは微かな呼吸音。いや、これは呼吸音なのか、しぼんだ風船が最後に空気を抜けきるような音が。
 答えは返ってこない。セバスは微かに頭を左右に振り、もう一度尋ねる。

「助けて欲しいですか?」

 幸運は2度も起こるものではない。
 当たり前だ。幸運とは運の良いこと。たまたまの出来事だ。それが何度も起こるほうが変だろう。意志の殆ど無いほど衰弱した彼女がセバスのズボンを掴む。それ以上、幸運が起こるはずがない。

 セバスの問いかけは無駄になる。
 男はそう思い、微かに下卑た笑いを浮かべた。
 その女性のおかれた環境、そしてその地獄のような状況。それらを知るものからすれば当たり前のことだ。そうでなければ廃棄しようと、外に出したりはしなかっただろうから。


 そう、先にセバスのズボンを掴んだのがそれが幸運だったらだ――。


 ――彼女にとっての幸運はセバスがこの通りに足を踏み入れた。そこで終わっていたのだ。それからの先は全て彼女の生きたいという意志が起こした行為。
 それは――決して幸運ではない。

 ――微かに。
 ――そう。
 本当に微かに女性の唇は動く。それは呼吸のような自動的に行うものではない。はっきりとした意識を感じさせるものだ。

「――――」

 その言葉を聞き、セバスは一度だけ大きく頷く。

「……天から降り注ぐ雨を浴びる植物のように、己の元に助けが来ることを祈るだけの者を助ける気はしません。ですが……己で生きようとあがく者であれば……」セバスの手がゆっくりと女性の目を覆うように動く。「恐怖を忘れ、おやすみなさい。あなたはこの私の庇護下に入ります」

 その優しく暖かい感触にすがる様に、女性はその濁った目を閉じた。
 信じられないのは男の方だ。だから当然の台詞を口に出そうとする。

「嘘――」

 声なんか聞こえなかった。そう吐き捨てようとした男は凍りつく。

「嘘……ですか?」

 いつの間にか立ち上がったセバスの眼光が男を射抜く。
 それは凶眼。
 心臓を握りつぶすような、物理的圧力さえ兼ねたような眼光が男の呼吸を止める。

「あなたが言いたいのは……この私が嘘をあなたごときについたと言いたいのですか?」
「あ、い、あ……」

 ごくりと男の喉が大きく動き、溜まっていた唾を飲み込む。目が動き、セバスの腕に釘付けになる。調子にのって忘れていたあのときの恐怖を再び思い出したのだ。

「では彼女は連れて行きます」
「ま、待て!」

 声を張り上げた男にセバスは一瞥を向ける。

「今だ何かあるのですか? 時間を稼ぐつもりとでも?」
「ち、ちげぇ。信用できるものをもらいたいって……ことだ」
「信用できるもの? それは?」
「か、金だ。あんたが……本当に神殿に連れて行くとも信じられねぇ。どこかにドロンという可能性だってあるはずだ」
「彼女を連れて消えることに何か目的があるとは到底思えませんが? 何か彼女に価値でもあるので?」
「そ、そんなわけは無ぇ。でもならあんたが何でその女に執着するんだよ。あんたなら女はいくらでも選べるだろうよ」

 セバスは僅かに目を細める。この女性を助けようとした、心に生じた波紋がどこから生まれたものか。本当に理解できなかったためだ。他のナザリックの存在であれば、大抵が面倒ごとを避けるために無視しただろう。手を弾き、そのまま歩を進めたはずだ。
 セバスは自分でも説明できない心の働きを、今は考えるべきではないと棚上げ、男に答える。

「……まぁそれはどうで良いでしょう。もしあなたが私が神殿に連れて行くかどうか、不安だというのならばあなたも一緒についてくればよろしいのでは?」
「お、おれは今はちょっと忙しい……」

 一瞬だけ沈黙が降りる。セバスとしてはこれ以上腹を探って時間を無駄にする気はない。

「……保証金的な意味合いで金を預かりたいということですね? 了解しました。いくらほどですか?」
「……金貨100枚」

 なるほどとセバスは納得する。これが男の最後の手か、と。
 金貨100枚という大金を提示することで、何かを引き出そうとしているのだろう。狙いが時間か、はたまたは別のものかはセバスには読めない。ただ、単純な金銭的な狙いとは別に、何らかの理由があるはずだ。金貨100枚にもなれば重量1キロ。かなりの膨らみになる。それに金貨100枚を持ち歩いている人間はそうはいない。
 そのため、セバスが持って無いと思って、無理難題として男は提示しているのだろう。
 セバスはだからこそ即答する。

「承りました」

 セバスは皮袋を取り出す。男の目に訝しげな色が浮かんだ。当たり前だ。金貨100枚というのはそんな小さな皮袋に入る金額ではない。

「宝石なら信じ……」

 そこまで言った男は路地に転がった硬貨に目を釘付けにした。その銀色にも似た硬貨の輝き。それは白金貨。金貨の10倍の価値のあるそれが、計10枚転がっていた。

「そうそう、白金貨10枚はこの状態の彼女にはつりあわないほどの高額だと思いますが。これで双方あったことを忘れてはどうでしょうか?」
「あ、ああ……」
「それに、次回あったときは彼女の治療に掛かった金額は請求させていただきます。無論、これはあなたが彼女を引き取りに来た場合ですが……金銭には糸目をかけずに治療行為を行うつもりですので、高額になることを約束しますよ。それと保証金ですので彼女を引き取りに来る場合は、全額の返済もお願いします」

 セバスはそれだけ言うと、もはやこの場に用は無いと女性を胸の前に担ぎ上げ、歩き出した。
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