三十二夜
灰色の壁、沢山の人。アジア人や欧米人が忙しなく歩いている。
僕が僕でなくなって、あれから一年ほど過ぎた。
あの事件……世間で言われているところの某過激派グループのテロ事件に巻き込まれたことで僕は記憶を喪失し、心の病院に一年間入院させられていた。
定期的に訪ねにやって来るナイスミドルな刑事さんや主治医が三枚の女性の写真を見せながら聞く「何か思い出したか」という言葉が僕の安否を気遣うものではなく、思い出したらぶっ殺す的な意味合いが含まれていたことに気がついた賢い僕は精神病院を脱走した。
ついでとばかりに医者のカルテと僕の個人情報が詰まった封筒を盗み出していた僕は初めて自分の本当の名を、住所を知った。
個人情報といっても大した物はなくて、家の住所や家族構成、通院暦(意外と長かった)、普段の素行や心の病気のことくらいしか記載されていなかった。
「名前……ナナシじゃなかったんだ」
一度家に逃げ帰った僕は自分の痕跡を探す為に文字通り家をひっくり返した。
姉らしき人の部屋を荒らしまわっていると日記を見つけた。僕の姉は日記をつけることが趣味だったらしい。
姉の日記を読み進めると、キャッシュカードの隠し場所だけならずその暗証番号、そしてパスポートの場所なんかも記載されちゃっていた。(ちなみに何故か姉さんのとセットであった。旅行の予定でもあったのか?)
僕は早速コンビニに駆け込み、口座からお金を引き落とすとその足で新幹線に乗り、空港のある場所。
つまり今現在いるここまでやってきていた。
脱走当初、明るかった空も今ではマジックで塗りつぶしたように黒く染まっている。
全面ガラスばりの向こう側、つまり滑走路では大小様々な飛行機が飛んだり着陸したりを繰り返している。
途中で服を買ったのだけど、似合っているか不安だ。
そもそもTシャツとジーパンって空港じゃ浮いている感じがしないでもない。
というか激しく浮いている気がする。
日本のどこかのお土産らしい饅頭を口に放り込むと僕は時間を確認する為に顔を上げた。
「むう……」
しかし人ごみが邪魔な上に座っているせいかいまいち確認できない。
僕はコンビニで買った髪留めで伸びた髪の毛を結びながら時計へと近づく。雑貨店で買った洒落た旅行鞄も忘れない。
手元のチケットと時間を確認しようと思った矢先、子供を抱えた金髪の女性が僕の肩を叩いた。
何か英語(だと思う)で何かを聞いているのだけど僕にはまったく理解ができない。マイダーリンがどうとか言われても知るか、といったかどうかは定かじゃない。
彼女の赤ちゃんが必要以上に僕の服を掴むのを離しながら、僕は脳内で通じそうな英語を検索し話した。
「……ええっと。あの、あいどんとすぴーくいんぐりっしゅ!」
目の前の彼女は笑い、流暢にソーリーというと茶色い普通のサイズの封筒を僕に渡した。
何だろうと封筒を眺めた頃には姿は見えず、彼女はどこにもいなかった。
うーん。これ、謝礼かなんかだろうか。
とりあえず時間を確認し終わった僕はまだ飛行機の時間でないことに溜息をつきながらベンチに戻った。
先ほどよりもベンチを占領する人の数が多い。僕は一番隅になんとか滑り込み、腰掛ける。
横のベビーカーのおねいさんにヘコヘコしながら僕は封筒を空けた。
先端の潰れた鉛弾が二つ。そして一枚の白い紙。
“Congratulation”とゴシック体で刻まれた白い白い長方形の紙。
なんだこれ。
みたことない。
みたことない……はずだけど。
どこか何かに引っかかる。
どこかで聞いたことのある言葉。
僕は何故か苦しくなって、地面に手をついた。
息切れしたような胸の重みに目の前が霞みそうになる。
何かが頭の奥でちりつき、消えてゆく。
何かが出掛かっているような違和感。
呆然とする僕の手からころころと鉛弾が転がり落ちる。隣の女性はそれに目ざとく気がつき、拾ってくれた。
「落としましたよ」
「あ、ありがとう」
「ちょっと……あの、顔色悪いみたいですけど誰か呼びましょうか?」
「いや、ちょっと気分が悪くなっただけですから」
僕は愛想笑いを浮かべ、深く呼吸を吸う。動悸を抑えると、もう一度笑った。
ベビーカーに乗った赤ん坊は僕の顔を見て嬉しそうに笑う。
話を誤魔化す為にも僕は赤ん坊に微笑みかけ、その顔を覗く。
「可愛いらしい、お子さんですね」
「ええ、お父さんに会えたのがやっぱり嬉しいんでしょうね」
「……え?」
彼女はそういい子供をあやす。目じりのほくろが印象的な彼女は本当に嬉しそうに子供をあやし戯れた。
片手で無意識にお腹を擦りながら。
僕は彼女を知らないしあの女性もしらない。
だけど僕は知っていて、彼女達は知っている?
僕は僕で僕じゃない。では僕は何なのか。
僕は何をしているのか、してきたのか。
僕の体は知っていて、僕の脳は知っている。
だけど僕の記憶はがらんどう。
僕という人間は既に記憶がなくなった時に死んでいるんだ。
だから僕には関係ない。
この胸の痛みも、苦しみも。
関係ないはずだ。
ああ、頭が…………痛い。
僕は堪えようのない吐き気を覚え、席を立つ。
後ろには一瞥もくれない。後ろは振り向かない。
だって誰かが……僕の知らない誰かが僕を見ているような気がしたから。
冷たく熱い瞳が僕を見つめているような気がしたから。
ただ何かに逃げるように僕はトイレへと走る。
一番隅のトイレに入り、その便座に手をつく。
そして吐いた。
忘れている何かを引きずり出すかのように吐く。
体の何処かに仕舞い忘れた記憶を思い出すかのように吐く。
まるで忘れたそれを思い出すかのように。
まるで思い出したそれを忘れたいかのように。
胃液が出なくなるまで吐いて、泣いた。
全身を汗で濡らし、歯をカチカチと鳴らしながら僕は震える。
僕自身も何故震えているのか分からない。
何に恐怖して怯えているのか検討もつかない。
何故手がここまで汗ばみ、指の先が冷たくなるのか分からない。
だけど確実に僕は知っていて僕は知らなかった。
誰かが歩く音が聞こえる。
一人のような一人じゃないようなそんな足音。
その足音は僕の個室の前で止まると扉の間に何かを差し込んだ。
それは最大の位置まで高められる。
僕の求めている人じゃない。
それだけは確かだ。
知らないし覚えてないけど……その人じゃない。
だって彼女はもう――――
その差し込まれた……ナイフはキンと音を立てて鍵を二つにし。
ゆっくりと扉を開かせた。
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