三夜
ナナシさんの、冷たい視線が緊張を形作る。ルナは冷静かつ迅速に注射器を隠した。
「まさか僕のためにここへ……」
僕の目には先ほどの絶望とは違う色の涙が溜まっていた。うれし泣きである。
ナナシさんは僕の危機を察してここに来てくれた!
やばい、一生ついていきたい感じだ!
ぶっ殺す、といって叱られる関係になりたい、かは定かではないと嘯く僕。
「いや、別に。トイレ行って自販機寄ろうと思ったら下がガス爆発がどうとかうるせえから帰ってきただけだ」
見事に僕の期待は裏切られました。ビリビリっとね。
それよりも、と言葉を続けてナナシさんは喋る。
「お前ら何やってんだ? もしかしてあたし邪魔だったか?」
「いや、別に邪魔じゃないよ」
寧ろいてほしいとは僕の意見。ルナは無言で指をカタカタと動かし、僕を一瞥した。
顔はいつもと変わらないがどこか迫力があった。
誰にもわからないかもしれないけど、僕には理解できた。彼女は邪魔されて凄く怒っている。デパートで駄々をこねる子供のようなフラストレーションが今彼女の中で渦巻いている。
彼女を拒否し、避けた日がなかったわけじゃない。
それを選択した僕はどうなったのか。
文字通り僕は三日間彼女に監禁され、犯され、ありとあらゆる陵辱を味わうはめになった。
「柳川月、お前に聞いてるんだよ。無視か、オイ」
「何もしてないよ。おまじないを優一にしてただけだよ」
「へえ、お前のいうおまじないって注射器でメタンフェタミンを相手にぶち込むことをいうのか。…………大概にしとけよてめえ!」
ルナの手はその言葉にぴたりと止まる。
「別にあンたには関係ないよ」
「てめえ、本気でそんなこといってんのか? お前が今やろうとしたことは一人の人間をシャブ漬けに変えて、お前無しじゃ生きていけない犬に変えようとしてたんだぞ」
ルナはアンティーク人形のような冷たい瞳でナナシさんを見据え、赤い唇を持ち上げた。
機械の音声よりも人間味の感じられない声色。
「うン、そうだよ」
「そうだよって、てめぇ! 自我が崩壊して姫野は姫野でなくなる危険性もあるんだぞ! それをわかんねえお前じゃねえだろ!」
「うン、知ってるよ」
「……姫野、お前もよおく聞いてろよ。こいつはな、お前の自我をすり潰して、コイツ以外に反応しない人形を作ろうとしてたんだぞ。ただ殺したりするよりもタチがわりぃ。反吐が出る!」
「…………」
僕は言葉が出なかった。
注射器の内容が俗にいわれる覚醒剤だというのも気がついていなかったし、彼女が危険性を理解しながら僕にそういったことをするとは思っていなかった。
変な話だが彼女はどんな時でも僕の身を案じてくれていた。……はずだった。
ではルナは僕が薬物依存症に陥る寸前で止めて僕を飼い殺すつもりだったのか。覚醒剤で僕を釣り、逃げられないようにするつもりだったのか。
僕は彼女を知っている。知ってしまっている。
ルナは本気で僕を“壊す”つもりだったんだ。
これにぞっとしなくて何にぞっとするというのだろうか。
彼女は丸い瞳を僕に固定して少し笑った。
「――それに何の問題があるンだよ」
ナナシさんは睨みつけるようにルナを見据える。ルナはそれを無視して僕を見続ける。
どこまで澄んだ瞳がとてもとても恐ろしい。
「ル、ルナ!」
一触即発の場で僕は口を開く。どうにかして開く。枯れる声を出す。粘つく舌を動かす。
僕の言葉はどうにか聞こえているらしく彼女は首を傾げた。
「と、とりあえず、また連絡するから…………その時に話の続きを、しよう」
それしかいえなかった。どうにか僕が譲歩しなければきっとこの場は収まらない。僕にだって、頭の悪いこの僕にだってそれくらいは分かる。
僕の狙い通りルナは少し考えるそぶりをすると、傾げたままの首を縦に戻し、前後に首肯させた。
「またね、優一」
ナナシさんを無視したまま彼女はペタペタと床の上を歩き、一度も振り返ることなく扉の向こうへと消えた。
ナナシさんはルナがいなくなると溜息をついて床に腰をおろした。そして僕にくたびれた目線を向けた。
「お前の相手は柳川ルナだったのかよ。いっとくけどよ、ありゃ地雷だぞ。アイツは自分のすることに罪悪感だとか悪意なんてこれっぽっちも思ってない。自分がしたいからする、あるのはそれだけだぜ。根本的にあたしらと精神構造が違うんだ」
「そう…………なのかもしれないですね」
「最悪なことに、アイツはオツムのできがすこぶるいい。あたしに匹敵するかもしれないな」
「……その冗談はどうでもいいです」
決まったな、と笑う不良生徒に僕は冷たく投げかけた。
だけど結果的に彼女に助けられた。故に彼女は僕の中ではヒーローだった。
ナナシさんの気まぐれがなかったら僕はここで犯されていただろう。
それに柳川月にあそこまで食って掛かれる人間を姉さん以外で初めて見た。
彼女が僕を犯していても誰もがそれを無視した。図書室で僕が犯されていても誰も助けてくれなかった。
それはさながらスケープゴート。僕という生贄のおかげで訳の分からない天才を押さえ込めるなら安いものという考え方。
全ての人間が仕方ないと見て見ぬふりをする中、ナナシさんはおかしいと言ってくれた。
それが僕には酷く嬉しい。震えるほどに、涙が出るほどに嬉しい。
「アイツほどの人間と勝負して、無事なお前の姉ちゃんも相当キテる人間だろうな」
「……その件に関して、当社はノーコメントでございます」
お茶に口をつけながら彼女はポケットからカードサイズのシンプルな電子機器を取り出した。
それを僕に投げつけた。僕はそれを両手で慌しくキャッチ。
「姫、これはなんでございましょう」
「どっちか選べなんて偉そうにいった手前、お前に負い目があるんだ。少し軽率だったと思う」
「ええっと、話が見えてこないけど」
「何かあったら、それを二つに折れ。そうすりゃ助けに駆けつけてやる」
「……ありがとう」
何かあってからじゃ遅いと思うんだけど、僕はそれを素直に受け取った。
僕は立ったままフェンスに身を預けている。だから、彼女は僕を見上げるように顎を上げた。。
「だから、もう死のうとかすんなよ。本当に……本当に生きていて辛いと感じたらあたしになんかいってみろよ。それで駄目ならあたしが殺してやる」
「喜んでいいのかなぁそれ」
「確かに喜んでいいかわかんねえな」
彼女は笑いお茶を口にする。
僕もなんだかおかしくなって、久しぶりに心の底から笑った。
それから僕らは取り留めのない話をした。彼女は泳げないだの、教え方の悪い教師の授業は眠くなるだの、購買は絶対にぼったくりして稼いでいるだの、自販機が遠いだ高いだの本当にどうでもいい話だった。
気がつけば僕らは話し込んでいたようで空模様は薄っすらと赤くその色を変え始めていた。
屋上からはちらほらと帰宅する生徒、部活動に向かう生徒が見えた。
「まあ、あたしは帰るけど何かあったら、またここに来いよ」
彼女はそういって来た時のように颯爽と去っていった。
「はあ……」
なんだか酷く清々しい。
ナナシさんと話をしていると、とてもさっぱりとした気持ちになる。
話はどうでもいいことだし凄く普通で当たり前のこと。
これが楽しいってことなのかなぁ、と十六歳の僕は久しく忘れていた感覚に若干うろたえていた。
ふと携帯電話がメールが来たと電子音を上げる。
僕はじっとりと汗ばむ手でポケットから携帯を取り出し、画面を見た。
相手は……姉さん。
『先に帰って準備していますね』
さっぱりとしたはずの僕の額から脂汗が噴き出した。
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