一話 『侵略』 (挿絵有り)
この地の空は、いつも寒々しい灰色に染まっている。
太陽は常に雲の上にあり、直接地上に光を注ぐことはない。青空などという概念はなく、ただ灰色の濃淡のみで空を表現するしかなかった。
丈の短い、やせ細った雑草に覆われた地表。どこまでも続く大草原の向こうには青白い山々がそびえ立ち、その頂では細かい雪が舞っている。
時折突風が山の雪を吹き飛ばし、草原へと運んで来る。
粉雪が空を飛び、草をなで……草原の真ん中に屈み込む、青年の頭に降りかかった。
あっ、と声を上げた青年が、首をひねって空を見上げる。
青年の屈んでいる場所には草にほとんど埋まる形で、白い立方体の石材で組まれた、祭壇のようなものがあった。
大人がゆうに十人は寝転べるほどの、真四角の石床。
その中央には石材一つ分の穴があり、青年はそれを覗き込んでいたのだ。
穴は人の頭が入るほどの大きさで、奥には塊のような闇がこもっている。青年が肩甲骨の下端まで伸びた白い髪を払い、雪を落とすと、その雪がはらはらと穴の中に落ちた。
それから数十秒も経ってから、ささやくような小さな声が、穴の底から上って来る。
冷たい。
青年は、はっと穴に視線を戻し、長い前髪を頭の後ろにかき上げながら言った。
「申し訳ありません、『遺物』よ。今日も冷えます、どうぞあったかくしてお休みください」
その声に穴の奥から、何か大きなものがうごめく音が響き、祭壇が細かく震動する。
やがて震動が収まると、青年はゆっくりと立ち上がり、まとっていた黒い外套のポケットに両手を突っ込んだ。
まるで名画に描かれる女性のような、端麗で華奢な風貌の青年だった。
大きな目の瞳は空と同じ灰色で、鼻筋が通っており、唇は形も色も薄い。
群青色のブーツが、やがて祭壇の石材を踏みしめ、歩き出す。
突風が再度山から草をかきわけて襲来し、細かい雪を青年に叩きつけた。
白髪が翼のように広がり、羽ばたくように踊る。
そうしてあらわになった青年のうなじには、長く醜い、ギロチンの刃の当たった痕が残っていた。
「この国は貧しい。太陽の恵みの少ない大地には、麦も、芋すらも満足に育たない。
人は草原の中から食える草木を探し出し、雑草をそのまま育てて食べてきた。けわしい山にいる獣を命がけで狩り、草の根をぬうように流れる川で小魚をすくってきた。
だがそのいずれも、限りある資源だ。草木も獣も小魚も、常に捕りすぎず、絶滅させないように配慮していた。飢饉の時ですら、決して自分達の決めた以上の数は手を出さなかった」
真っ赤な絨毯にひざまずいた騎士が、床に広がった自分のマントを見つめながらうめいた。
騎士の前方、石の玉座の足元から伸びた絨毯は広大な空間を果てしなく切り裂き、はるか後方の巨大な扉へと続いている。
石造りの巨大な城には、二千人の兵士がつめており、その四分の一が、この玉座の間に整列していた。
絨毯の両脇から向けられる、怒涛のような殺気を一身に受け、ひざまずいた騎士は玉座の主へと声を上げる。
「だが、そんな我々の生き方、文化をあなた方は否定した。山脈の向こう側から突然大軍で押し寄せたあなた方は我々を屈服させ、この地を占領した。
最も豊かな草原は掘り返され、あなたがたの都に成り代わった。小川は潰され、山の獣は狩りつくされ……我々先住民は、もはやあなたがたの本国からの食糧輸入に頼るしかない状況に追いやられた」
「前置きが長い」
玉座から、冷ややかな声が返される。
騎士は身にまとった鉄の鎧を震わせ、頭部全体を覆う兜の顔面を上げた。
目の部分に水平に空いた覗き穴へ、玉座の主は罵倒に近い口調で言葉を投げつける。
「被占領国の代表の分際で、戦勝国の将軍に対等の口を利く。謁見に際して兜も脱がず、全身を鎧で防御して自分を大きく見せようとする。その上での虚勢など、見苦しいことこの上ない」
「……占領を受け入れる際、我が国の元老院は貴国と条約を交わした。その中で、我が国のどんな資源を奪おうとも、人と、その尊厳だけは侵さぬと、あなたは約束したはずだ。国民が自力で生きていけぬ環境を作ったことは、この条約に反する……」
「人の尊厳。実にあいまいな言い方だ。その文面を考えたのは、誰だったかな」
玉座の主は、青白く輝く衣の下で足を組んだ。
ひざまずいた騎士はその不遜な顔つきを睨む。
この地を占領した、大国の将軍。圧倒的兵力と、異様な見知らぬ兵器で国中を蹂躙した男。
その整った顔を、切れ長の目を、高い鼻を、赤銅色に輝く髪を視界に入れるたび、騎士は現実の理不尽さに腹を立て、胸をかきむしりたくなった。
貧しいながらも勇猛な戦士を多く抱えていた祖国『コフィン』を撃破した、帝国『スノーバ』……その軍隊の頂点に立つ将軍は、未だ成人してもいない、少年だったのだ。
せいぜい十五、六歳ほどの若き将軍は目の前の騎士と、兵士の群を眺めた後、最後に自分の両隣にはべる三人の男女に目を向けた。
スノーバ軍の幹部である三人は、いずれも他の兵士達と同じように騎士を睥睨している。
二十代前半と思われる長剣を携えた女、細身な体に似合わぬ、巨大な戦斧を軽々と片手で床に立てている男。
三人目の、まるで娼婦のような肌の露出の多い衣をまとった少女に目を留めると、玉座の将軍は「ああ」と軽くうなずいた。
「マリエラ、君だ。君が条約の文面を作ったのだった。我が軍の『神喚び師』……我々がコフィンに約束した『人の尊厳』とは、つまりどういうことを指すのだ?」
「我が将軍。コフィン人の尊厳とは、生きているということです」
ばっくりと開いた胸元に白い指を這わせながら、マリエラという名の少女は騎士に笑いかける。
「慈悲深き我が軍は、コフィン人の生存を許しています。輸入食料を分け与え、生かしています。これこそがかの条約の意図すること……」
「生きているだと!? ただ生きていれば尊厳が保たれるとでも!」
立ち上がりかけた騎士の足元に、戦斧が轟音と共に突き刺さった。石床が砕け、騎士の鎧を激しく叩く。
息を呑む騎士に、戦斧を振り下ろした男が赤い蛇の刺青の走る両目を吊り上げ、怒鳴った。
「騒ぐな! 負け犬!」
「負け……!」
言葉を詰まらせる騎士に、将軍がこめかみに指を当ててくっくっと喉を鳴らして笑った。
おもむろに玉座から立ち上がり、尻を浮かせた騎士の兜に手をかける。
とっさに身を引こうとする騎士の首に、戦斧の刃があてがわれた。動けない騎士の頭から、兜が取り払われる。
汗に濡れた黄金色の髪が、衆目の前にさらされた。
将軍は騎士の肩にわずかに触れる髪をぞんぶんに眺め、戦斧を持つ男に横目を向ける。
「勇者マキトよ、騎士殿に対する言葉を訂正しろ。負け犬とは、この場にふさわしい発言ではない」
「……では、何と?」
将軍は奪った兜を床に捨て、騎士の屈辱に歪んだ顔に靴底を近づけながら、答えた。
「『雌犬』だ。ふさわしかろう? コフィンの、姫騎士殿」
「敗戦とは、こういうことか……資源も、尊厳も、何もかもを徹底的に奪われる……」
城を出た騎士は、兜を右手に下げ、マントを引きずりながらつぶやいた。
敵国スノーバが築いた城下町は、道も建物も完全な石造りで統一されており、この地にはない、異国の品物や食料であふれている。
道行く者はスノーバからの入植者ばかりだ。
誰もが先住民の騎士と、その隣を歩く護衛の戦士に冷ややかな目をくれる。
歯を食いしばってうつむく騎士に、護衛の戦士がまるで熊のような巨大な体をゆすりながら言った。
「ルキナ様、兜をおかぶりください。スノーバの入植者は、本国で行き場をなくした犯罪者まがいの連中……いわば『冒険者』ばかりと聞いております。やつらに他国の貴人を敬う気持ちなどありません」
ルキナと呼ばれた騎士はわずかに目じりの垂れた双眸を戦士に向けると、作り物のように真っ青な瞳に怒りを浮かべ、口を開いた。
「自分の国で顔を隠せと言うのか。連中が私を路地裏に引きずり込み、乱暴すると言うのか、ガロルよ」
「そのようなことはさせませぬ。十人でも二十人でも、倒してごらんにいれます。……しかしそうなれば、我々がスノーバの民を害したことになり、コフィンはますます苦境に立たされるでしょう」
護衛の戦士、ガロルの低く通る声に、ルキナは長くため息をついて兜をかぶった。
ガロルはルキナより六歳年上で、今年二十五歳になる。
まばらに茶色が混じった金髪を伸ばしっぱなしにしているが、髭はきちんと剃り上げ、ルキナと同じ鎧を着ていた。
ただし彼はあくまで騎士の称号を持たない戦士なので、マントと兜は身につけていない。それがコフィンにおける、騎士と戦士の違いの一つだった。
ガロルは周囲にぎろぎろと視線を巡らせながら、腰の短剣に手を乗せ、言う。
「条約の武装制限項目のせいで、我々はこんな物しか持ち歩くことができません。ルキナ様、これはコフィンという国そのものの姿を表しています。敵は多く、完全武装しているのに、自身は小さな力しか持てない。隙を見せれば大剣が次々と振り下ろされ、滅ぼされるでしょう」
「父上が……国王が健在だったなら、まだ状況も違ったものを……」
「勇敢なお方でした。自ら剣を取り戦場におもむき、スノーバの軍勢と戦い……それ故に、やつらの『神』の手にかかってしまわれた……」
ルキナは石畳を歩きながら、背後の城を振り返った。
巨大な石の塊にはスノーバの真っ赤な国旗がはためき、その向こうに、生白い小山が覗いている。
ゆっくりと、眠っている赤ん坊のように揺れ動くそれからすぐに目をそらし、ルキナはガロルの鎧の胸元を、がつんと叩いた。
「ガロル、あれは、何だ? スノーバ人どもが神と呼ぶ得体の知れない生き物……あんなものに父上は、叩かれ、握りつぶされ、食い殺されてしまわれた。あの、ふざけたものは、いったい何なんだ」
「ルキナ様、こらえてください」
「毎日こらえている! あの人を小ばかにした将軍どものツラにどれほど刃を叩きつけてやろうかと……」
「殺意ではなく、涙のことです」
ガロルが、ルキナの兜の覗き穴を指でぬぐった。何の意味もないその行為に、ルキナは自分の声がじょじょに上ずり、涙声になっていたことに気づかされる。
立ち止まり、うつむき、そして、ガロルの胸を何度も拳で叩いた。
ガロルは無表情にルキナの背を押し、城下町の出口へと進ませる。
「生き残った騎士団、戦士団の仲間が内偵を進めています。現状で分かっているのは、あの巨大な神がスノーバ軍の切り札、侵略戦争のための最大の兵器であること。神を操っているのがスノーバ軍の幹部……将軍のそばに常に控えている、神喚び師の少女であるということです」
「ならばその神喚び師さえ倒してしまえば、スノーバは一気に弱体化するのではないか?」
「はやまってはいけません。我々が神喚び師の暗殺に動いたことが分かれば、将軍は間違いなくコフィンを今度こそ全滅させるでしょう。情報が集まるのを待ち、会議を開いてみなで計画を練るのです。何も直接反撃に出ることはない。スノーバの弱みを握れば外交で巻き返すことも可能になるかもしれません」
「すでに占領されているのに、外交か……」
ルキナはため息をつき、前方に見える小高い丘を眺めた。
スノーバが築き上げた都の目と鼻の先に、まるでさらしものにされているかのように、コフィンの本来の王都がある。
木と天然の石でできた王城はその住人のほとんどを戦で失い、城下町もまた敗戦以降人が減り続け、昼も夜も静まり返っていた。
民はすぐ近くにいる敵軍を恐れ、家や教会に引きこもり、食糧の配給の時にしか顔を見せない。
そして恐怖と緊張に耐えかねた者が夜闇にまぎれて都を抜け出し、草原に点在する小さな村々へ逃亡しているのだ。
このままでは国民がいなくなる。ルキナは自分が生まれ育った王城を見上げながら、ガロルの胸から右手へと拳をすべらせ、彼の中指をぎゅっと握った。
「父上の代わりに、私が王女として、またコフィン騎士の筆頭として、国を守る。だが、私は未熟で無知だ……ガロルよ、戦士団団長として、友として、知恵と勇気を貸してくれ。多くの知恵者と武将を失ったコフィンが存続するためには、残った力を結集させることが不可欠なのだ」
「お言葉のままに。我が主」
被占領国コフィン。その王家の唯一の生き残りである姫とその家臣は、スノーバ人の刺さるような視線を背に受けながら、丘への長い上り坂を歩み続けた。
(イラスト:襟草亭氏)
かつてその地は巨大なモノに溢れていた。
空には竜の群が舞い、地には山を覆う大樹がいくつもそびえ立っていた。
人を見下ろす獣が跋扈し、その獣を見下ろす巨人が存在した。
人は食物連鎖の低層に在ったが、他のどの種よりも知恵と、狡猾さに秀でていた。
彼らは他の種を倒すことを夢見、次に他の種の力を奪うことを考えた。
道具を発明し、罠を発明し、巨大なモノを一体ずつ大勢で襲い、殺した。
敵の死体を分解し、武器を作り、さらに強くなった。毒を持つ種からはそれを奪い、言葉を持つ種とは騙し合いを演じ、さらに魔力を持つ種からは、その使い方を学んだ。
やがて人は戦いで得た全ての資源を総動員し、世界の強奪を企てる。
憎悪と欲望を媒体に邪悪な魔術を編み出し、名前も知れぬ神に祈りを捧げ、世界に毒の雨を降らせた。
降り注ぐ毒は巨大なモノどもの体を蝕み、地に染み込んだ毒はそれを吸い上げた草木を枯らす。
一年続いた阿鼻叫喚が収まった頃、世界で最も多く生き残っていたのは人類だった。
巨大な種は九分九厘が死に絶え、絶滅した。彼らを盾に地に這いつくばっていた生き物だけが、大地に立っていた。
そして世界は、丈の低い草と痩せ細った、あるいはいびつに歪んだ木だけが生える土地になった。
空には滅ぼされた種の怨嗟が立ち込め、太陽を隠した。
奪い取った過酷な世界を、人類の半分は財産として愛し、もう半分は見捨て、山脈を越えて別の世界へと逃げて行った。
後に、誰が言ったか、残った人類の築いた国をコフィン(棺)、逃げた人類が築いた国をスノーバ(再生)と呼んだ。
――魔王ラヤケルスの碑文より、抜粋――