「乙暗鬼」 弐
一条から四条へ上がる牛車がごとりと進んでいく。
車を引く牛の前にはひらひらと舞う紫の蝶が飛んでいて、目的地へ導いているかのようだった。
これも恐らく新一の式神なのだろう。
中では彼が平次と話をしている。
「あの式神…蘭殿やったか。車に乗るまではいたはずやけど、どこ行ったんや?」
「それならここさ」
狩衣の折り目に手を入れ、人型の形をした一枚の紙を取り出した。
「それが!?」
「ああ、これがさっきまで蝋燭を持ってくれてた蘭さ。この中では狭いからしばしの間、これに戻ってもらった」
「ほぉー……」
新一の屋敷に来た時から、目に見るもの全てが生まれて初めて知ったものばかりで、平次は面白そうにその紙をしげしげと見つめる。
他の貴族が「人外を操る怪しげな陰陽師」と言って敬遠する新一を、彼は「不思議な術を使うすごい男」とみなしてるらしい。
一方、敬語は取れと言われ早速同等の身分のように話す新一も、そんな彼を興味深げに見ていた。
「そういえば服部、どうしてお前は牛車で俺のところまで来なかったんだ? お前ほどの身分なら、一人で徒歩で来るほうが珍しいと思うけど」
「あんま車は好かんのや。少しくらい遠くても、歩ける距離なら一人で行くで。せっかく外へ出るなら、景色を見ながら歩いたほうがおもろいやん」
「それはそうだ」
あっけらかんと自論を述べる平次に、新一もあっさり同意する。
彼自身も、車で移動するよりそちらのほうを好むのだろう。
その後平次が外の蝶のことや、誰もいなくても勝手に門が閉まる新一の屋敷の門のことなどを聞いているうちに、四条大橋に着いた。
車を少し遠くのほうに置き、二人は降りて橋の近くまで行こうとする。
すると、その二人の目の前を別の牛車が通り過ぎていった。
小道から橋へ通じる大通りに出ようとした矢先だったので、新一達の存在には気付いていないようだ。
新一が無表情でそれを見つめていると、平次が横から話しかける。
「あれは多分、藤原様の車やな。九条あたりに住んでおられる方や」
「そうか。ではどのようにして通るのか見てみよう」
九条藤原氏の車はゆっくり橋を渡っていく。
車の側に付き従っている小舎人童や家人の男数人が、びくびくしているのが後ろからでもわかった。
ごとり、ごとり、と進む牛。
橋の真ん中くらいまでにそれが来た時、向こうから人の形をした何かがやってきた。
黄土色の狩衣を着た男だ。
夕暮れに薄い霧が立ち込め、距離もあったので、顔ははっきりとは見えなかったが身なりからして恐らく男だろう。
そしてそれこそが、都で噂になっている「乙暗鬼」に違いない。
「もし――」
男は存外よく通る声で車に向かって声をかける。
童と家人がひい、と腰を抜かした。
「音を持ってはいませぬか?」
暫く、車中の主は黙っていたが
「持っておる」
「ではそれを私にください。さもなくば……」
「わかってる、家人に持たせてあるので持って行くがよい」
名前を呼ばれて我に返ったある家人が、懐に忍ばせていた笛を男に渡す。
笛を持つ手が震え、歯ががちがち鳴るのを止められない。
そんなことを露ほど気にせず男は手に取って、「おおう」と声を上げた。
「私が本来所望するものではないですが、これはまた良い木で作られた笛ですね。……お通り下さって結構です」
「……」
一応、藤原氏は見栄を張って怖がっている様子は見せなかったが、車は足早にその場を立ち去っていった。
ちなみに鬼は、通行の許可をした時点で消え失せている。
「ああ、また楽器を一つ失ってもうた」
一部始終を見届けた平次が嘆く。
ここを通らねば随分遠回りになる貴族がどんどん楽器を持っていってしまうため、倉の楽器は近い将来無くなってしまうかもしれない。
「そう気を揉むな服部。今のやり取りで大体把握した。では、準備をしておこうか」
「準備?」
「ああ、楽器を取り返す準備をな」
もうだいぶ日が暮れてきた橋の側で新一は懐から何かを取り出す。
その彼の手元を、いつの間にか出てきた蘭が持つ蝋燭の火で明るくさせた。
「何や、それ?」
「明日になればわかるさ」
橋の左側の地面に、何か小さいものを埋め込んだ。
若干盛り上がった土の上をぽんぽんと叩き、新一は立ち上がる。
「さあ戻ろうか」
「今度はいつここに来るんや?」
「明日だよ。また同じ夕暮れ時にここに来よう」
新一が停めた車の元へ戻る。
平次も後ろからそれに続き、また蘭がどこかに消えている。
橋側に埋められた小さな物体と音を取る鬼。
この二つの意外な正体を知るのは明日になるのであった。
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