にゃんこ令嬢のこんにゃくはき
『あなたとはもうお終いですわ!』
青空の下。
広大に広がる草原。
もっふもふの豊かな毛を、爽やかな風が揺らしていく。
そこにあるのは小さなピンクの鼻。
イエネコ一族の家にしては毛量の多いふわふわな白い毛。
小さな手足は少し短足で、いっそう丸々とした可愛らしい猫に見せている。
だが……。
可憐な四肢で草を踏みしめる、彼女の青色の瞳の中には、決意の光があった。
今この瞬間。
クラウディア・デ・ニャンコ令嬢は、長年の許嫁であるリオネル・ポン・デ・ライオン次期公爵を見上げ、別れを宣言しているのだ。
幼いことからの許嫁で、成猫になってから婚約者となって―————ずっと一緒にいた二匹。
好きだった。
大好きだった。
ずっと一緒にいたかった。
だがにゃんこ令嬢はこの日とうとう爆発をした。
もう一緒にいられないと。
いくら家のためとはいえ……。
こんな男といたら病む! 禿げる! 家中を引っ搔いてしまう!
目の前にある大きな黄金色の前足を、白い小さな前足でポスポス叩いて意思を示す。
『リオネル様、聞いておられますの!?』
『クラウディア……』
当初、あまりのにゃんこ令嬢の剣幕に押されていた大鬣猫のリオネル。
やがて冷静になった彼はため息をついて、ご機嫌伺いに彼女の頬に顔を寄せようとする。
はし!
しかし鼻先を可愛い肉球でガードされてしまった。
否定的な肉球の感触。
戸惑う彼は、自分よりもずっと小さな体の婚約者に訊ねる。
『どうしてだ? 僕が何をしたというんだ』
『全てですわ! あなたが私のおやつを全部食べてしまったり、私が遊んで欲しい時に寝ていたり、他の女に言い寄られる度にお尻の匂いを嗅ぐのを止めなかったり!』
ぐいぐいと鼻先に押しつけられる、ピンクの肉球。
彼女の必死の想いが困っているはずだが————あまりの柔らかさに、リオネルは真剣に聞いていられない。
『おやつはそもそも僕のものだし、僕だってお昼寝したいし……。それに、発情していないかを確認するのは本能のようなものだろう。どうにもならないよ』
『でも浮気ですわ! 私は、あなたがずっと私を見ていて欲しいのに! だから……「こんにゃくはき」をさせていただきます!』
リオネル様のバカー!
にゃんこ令嬢は踵を返して走り出した!
……が。
彼女は一瞬立ち止まる。
そしてちらっと座ったままの黄金巨大猫の様子を見て、その場から動いていない様子に「バカー!」と叫んで再度走り始める。
そしてちら、ちら。
何度も振り返っては立ち止まる。
時々草むらに入っては、ちら、ちらとみえるふわふわのしっぽ。
『————仕方ないか。とりあえずお姫様のご機嫌を伺うとしよう』
リオネルは微笑むと、大きな黄金色の体を上げ、立派な鬣を振った。
怒る姿も可愛いが、毎回怒らせていては後で大変だ。
機嫌を取らねばなるまい。
『しかし……「こんにゃくはき」ってなんだ?』
にゃー!
青い空に響く可愛らしい自分を呼ぶ声に誘われながら、黄金色の鬣猫は何度も首をひねった。
その日からにゃんこ令嬢は「こんにゃくはき」をするために行動を開始した。
それはもう、全力で。
『頼もう!』
にゃんこ令嬢は《こんにゃくはき状》をリオネルに叩きつけた。
『これは……』
『こんにゃくはきですわ! 本当は白い手袋が良いらしいのですが』
『中身はラブレターだね』
『他に書くものが思い付かないんですもの!』
『じゃあ決闘だね』
「に!?」
するとなぜか押し倒されて、お腹の柔らかい毛を大きな肉球で優しくふみふみされてしまった。
「にゃーん!」
『気持ちいいだろう? クラウディア』
『こ、こんなはずではっ』
すっかりヘタった小さな猫を、大鬣猫をそっと銜えて巣に持ち帰った。
次の日にゃんこ令嬢は、
『御免!』
と毛玉となって体当たりをする《辻こんにゃくはき》を試みた。
だが一瞬で捕らえられる。
視界がぐるりと変わり、いつの間にかリオネルの大きなお腹に抱え込まれてしまった。
困った。黄金色の腹毛は極上だ。
「うーなー……」
『今日は一緒に昼寝しようよ』
『く、悔しいですわ……でも、リオネル様のお腹の毛は温いですわ……』
『毎日日向ぼっこしているからね』
二匹は寄り添って寝てしまった。
次々とこんにゃくはきを試みるにゃんこ令嬢。
だが全くうまく行かない。
よれよれにゃんこが出来あがる一方で、リオネルの先がふわふをしたしっぽは元気よく振れている。
『こ、こんにゃく、』
『さあクラウディア! 次はどんな「こんにゃくはき」をしてくれるんだい?』
「に、」
『に?』
「に、に、に、にゃー!!!」
『あ、クラウディア!』
令嬢は、目を輝かせる婚約者の姿に、自分のやり方が間違っているとようやく気が付きた。
途端に押し寄せてくる恥ずかしさ。
にゃー!
彼女はくるりとしっぽを巻いて、草原の彼方に逃げ出した。
『はあ……』
虹の向こうまで逃げたにゃんこ令嬢は、大木に後ろ足を放り出して寄りかかってため息をつく。
レディとしては、少しはしたない格好だ。
「にゃあ……」
なぜなの。
なぜうまく行かないの……。
なぜ必死の「こんにゃくはき」を、あの方は軽々と交わしてしまうのだろう。
「こんにゃくはき」とは、かくも笑われてしまうものだったのか。
……それとも。
『もしかして、私は「こんにゃくはき」の意味を間違えているのかしら』
彼女は四つ足で立ち上がった。
そして虹のさらに奥に向かって歩き出す。
図書か、いや、神の叡智が詰まった四角い壁・スリノモに、正しい「こんにゃくはき」を訊ねるために。
次の日の朝から、にゃんこ令嬢は土をカリカリやっていた。
ふわふわと気合がはいって立つ白い毛。
ぴんと立った耳としっぽ。
ちっちゃい爪でカリカリ掘られた地面は、召還陣の形をしていた。
その恐ろしい幾何学模様の構造は、いわゆる異世界の何かを呼び出すアレである。
『これで、かりかり、完璧、かりかり、ですわっ!』
大きな丸で作り上げた陣の横に移動して、満足げにお座りする。準備万端だ。
リオネル様は全然「こんにゃくはき」に応じてくださらない。
それどころが喜んで私を砂糖菓子のようにグズグズに甘やかして、ただの毛玉にしてしまう始末。
このままでいていたら、永遠に「こんにゃくはき」は叶わない。
『ならば彼から「こんにゃくはき」を申し出てもらわねばいけませんわ!』
にゃんこ令嬢はスリノモからしっかりと習ったのだ。
《男から「こんにゃくはき」をさせる方法》。
それは実に珍妙なやり方だった。
『スリノモは言っていましたわ。男から「こんにゃくはき」をさせるためには、召還された《せいじょ》や《ひろいん》、はたまた《おんなゆうしゃ》か《まきこまれもぶ》が必要だと。
男が彼女たちに心を奪われると大抵は昔の女をこんにゃくはきしたくなると!
この召喚陣で彼女たちを召還してみせますわ」
気合をいれて己のピンクの肉球を握り込んだ、にゃんこ令嬢。
えいっと両前足を思い切り振り上げて、バンザイポーズで唱え始めた。
「みゃーみゃーみゃー! にゃにゃにゃにゃにゃみゃーん!」
全く呪文になっていない。
―———だがその時。
猫好きである、この世界の神は見捨てなかった。
『やだ、可愛い!! にゃんこ令嬢ちゃん可愛いからサービスしちゃう!』
―————カッ!!!!!
陣から大量の光が放たれ、その場を満たしていく。
あまりの衝撃に周りの人々はパニックに陥った。
草原の木からオサル候が落ち、カバ嬢が池で溺れ、兵士ペリカンが墜落する。
『何やっているんだ!』
『にゃんこ令嬢がまた馬鹿やったんだってよ!』
『神様が猫好きだからってさ、ちょっとあいつのチートがひどすぎるよ!』
一方で、抗議が全く耳に届いていないにゃんこ令嬢は、収束していく光の奥を見て、愕然としていた。
『こ、これはなんなのです……』
召還陣に現れたのは、女の子ではなかった。
つるつるボディの不思議な物体。
《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》
太陽に当たって反射をするそれは、透明な袋に包まれた、チープな香りのする四角い謎物質だった。
灰色の中に黒いブツブツの、不思議な模様をしている。
神様のチート特典のおかげで名前は読めるけど、正体までは分からない。
にゃんこ令嬢は小さな足で、恐る恐る謎の物体に近づいた。
『これが、リオネル様から「こんにゃくはき」させるために必要ですの? まるでスリノモの小型版ですわ』
前足でちょんと触ると、プニプニとした堅い感触。
しかもちょっと冷たい!
思わず前足を引っ込めた。
『なんなのです! ぷにぷにです! ぷにぷにですわー!』
にゃにゃにゃにゃにゃにゃ!
ぷにぷにぷにぷに。
『楽しくなってきましたわー! ふーふー! ……はっ』
思わず爪を立てようとして、にゃんこ令嬢は止めた。
物体は異世界からの使者。
これこそが《せいじょ》かもしれないし、《ひろいん》かもしれない。
はたまた《まきこまれたくせにちーともぶ》かもしれない。
(じっくりと観察して、使い方をマスターしなければ)
謎のぷにぷにした物体の端を軽く銜え、おしりを突きだしてしっぽをふりふり後ろ向きに引きずる。
令嬢はずりずりと、もと来た草原へ戻って行った。
―———しばらくにゃんこ令嬢の顔を見ていない。
大鬣猫のリオネルは心配をしていた。
巨体であちこちをウロウロと彷徨い、必死に匂いを嗅ぎ、夜目を使い、知り合いに訊ねては彼女を探していた。
あの子は世界に愛されているけれど、ちょっと思い込みが強くておバカだ。
自分がいなければ、世界の果てで迷子になってしまうだろう。
(ああ、ニャンコ……)
あのふっわふわな白い毛を早く愛でたい。
愛らしいひげと自分のひげをこすり合わせたい。
そして大きな体で包み込み、幸せそうに眠る姿が見たいのだ。
最近「こんにゃくこんにゃく」と遊び始めて、どこかへ行ってしまった彼女。
本当に弾丸毛玉で、行動が全く読めない。
(だが……)
寄り添う白い毛皮がない生活はもう飽きた。
もう、彼女のいない生活には耐えられない。
自分の猫生は彼女がいて初めて存在するのだ。
(彼女のためなら、発情期に言い寄る女性も昼寝でやり過ごそう。枯れ猫になったって構わない)
だから……。
『ニャンコ……君に逢いたい』
『リオネル様ー!』
そこにとても元気そうな、にゃんこ令嬢の声が!
地平線の向こうから、何かを引きずって歩いてくる。
ライオネルは思わず駆けだした。
『ニャンコ! 一体君はどこに行っていたんだ!』
『リオネル様! これを! こんにゃくはきを!』
ズルズルと引きずっていた《お徳用下仁田こんにゃく98円・消費期限切迫品》を、早くライオネルに渡したい。
そして彼から素晴らしい「こんにゃくはき」を……!
にゃんこ令嬢は顎に力を入れて、走り出した。
だが、焦り過ぎた彼女は忘れていた。
―———猫の牙は、なかなかに鋭いということに。
ぷすぷす。
バチャ。
透明な袋は見事に破ける。
そして中に入っていた独特な匂いを放つ液が飛び出して、にゃんこ令嬢に襲い掛かった!
『いやああああああくちゃいいいいいいい! 中が腐りきってますわあー!』
『ニャンコ!』
ギャニャー!!
慌てて《お徳用下仁田こんにゃく98円》を放そうとするが、うっかり小さな爪が透明な袋に引っかかってしまう。
より一層穴があき、襲い掛かる《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》の液!
もんどりうって、地面でジタバタ暴れるにゃんこ令嬢!!
―————救ったのは黄金色の毛皮だった。
『我が婚約者になんてことを! お前なぞ、こうだ!』
にゃんこ令嬢よりも何十倍も大きな爪が、《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》を奪い取る。
そして妙にぷにぷにな感触に嫌な顔をして、遠くに放り投げた!
大鬣猫の腕力により、遥か彼方に投げ捨てられた《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》は、ぼよんぼよんと跳ねて――――やがておとなしくなった。
『リオネル様……! 怖かった……!』
ほっとしたにゃんこ令嬢は、思わず大きな声で泣き出した。
リオネルに前足でぎゅっと抱きついて、なーなー、すりすりをし始める。
大鬣猫はそんな彼女にふっと笑う。
そして白いふわふわの毛皮についた、《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》の液を、あちこち舐めとって差し上げる。
うなーうなーと思わず甘い声が出てしまうにゃんこ令嬢。
顔も綺麗に大きな舌で舐めとってあげると、彼女は嬉しそうにはにかみ笑顔を向けてきた。
そのふにゃりとした幸せそうな顔に、リオネルの心は決まった。
『クラウディア。《こんにゃく》とやらは破棄された。だからもういいだろう? いつだって君を守りたいんだ』
そして、にゃんこ令嬢の濡れてしまった体を抱き寄せて、腹毛に埋めて語り掛ける。
『いつも不安にさせるのは、僕の努力が足りないからだ。でも君はすぐにふわふわと飛んで行ってしまう。だから、努力が届く範囲にいつもいてもらえないだろうか』
『リオネル様。それって……』
腹毛に埋もれて、彼の匂いを幸せそうに嗅いでいたにゃんこ令嬢は、思わず顔を上げた。
心臓がバクバクして、全ての毛が別の意味で逆立ちそうな予感がする。
『————結婚しよう』
「にゃー!」
―———草原中に鐘の音が鳴り響く。
ピンク色の幸せが繰り広げられる一方で――――。
大鬣猫に破棄された《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》は、ミーアキャット団に拾われ、の地下の巣に持ち込まれていた。
『やっべえ、これ、ぷにぷにすんぞ!』
『やっべえ! ぷにぷに!』
『やっべえ! まじぷに!』
リレーの様にぽよんぽよんと運ばれるそれ。
ミーアキャットは、つるつるぷにぷにボディのそれに、いたく好奇心が刺激されたのだ。独特な匂いも心地よい。
やがて、最後に差し出されたまイケてるリーダー、ミーアボス団長が断言をした。
『これは、《こんにゃく》と書いてあるな』
彼は少しだけ神の恩恵を受けて、異世界の文字がちょこっと読めるのだ。
『ボス。こんにゃくとは何ですか!』
『わからん。だが―――――ぷにぷにだな』
『ええ! ぷにぷにです!』
巣の中は興奮で包まれる。
『異世界から来るものは、皆チートで恩恵があるらしい。これはとにかくぷにぷにだ……せっかくだから皆でぷにぷにして遊ぼう』
『『おおー!』』
それ以降。
理不尽な猫と神の力によって召喚された《お徳用下仁田こんにゃく98円・賞味期限切迫品》は、賞味期限がとうに過ぎても、非情な小売りの手により棚から廃棄されるようなこともなく、ずっと愛用され続けたのだった。
草原は祝福のピンク色に染まり、地下はぷにぷにと幸せになる。
にゃんこ令嬢のいる世界は、今日も平和なのであった。