暴走る
異世界の魔導師がリングに這い上がろうとしている――
手を貸そうとする動力兵を柔らかく制し
おぶおぶとロープの隙間に自分の身体をねじ込もうとしていた
あの白い生きものの経歴をおれは知らない
だが小さな子供に世界を一つ任せるとは考えにくい
いい歳をしたおっさんのはずだ
そうでなくては、つじつまが合わない……
それなのに、やっとのことでマットの上に身体を滑り込ませたワドマトは
運動不足なのだろう……肩で息をしている異世界の人間には
本能に訴えかけてくるような愛嬌があった
呼吸を整えたワドマトが、歌うように喚声を呟いた
海獣「ラ・ラ・ラ・ル・ラ」
北海世界の魔法使いは、連結魔法が支配する世界においても誘導魔法を使う
この事実から幾つかの推測が可能だ
一つは、法典が複数の魔法を許容し得るということ
少なくとも両界の魔法の在り方を規定する法典は共通した構造をしている
一つは、魔法そのものが他世界での運用を視野に入れたものであること
魔法形式は世界ごとに区切るほうが無理がない
しかし、そうではない……つまり他世界の魔法使いが“戦力”として期待されている可能性がある
それらの事柄から見えてくるものもあるのだが、ここでは置いておくとしよう
ワドマトが行使したのは崩落魔法と似たものだ
誘導魔法は人間が使うことを前提としたものではない
コンピューターが使う魔法なのだ
求められるのは、学習した内容を寸分の狂いもなく正確に再現する能力であって
そのような能力を先天的に備え持つ人間が生まれることは先ず無い
だが、あの白い導師はそうではないようだ
重力を操作し、ふわりと浮遊したワドマトが忙しなく首をひねる
きらきらと輝く瞳は抑えきれない高揚と好奇心に満ちていた
子供か。何をそわそわとしているのか
海獣「私はアザラシと似ているのか。悪い気はしないね。ああ、まったくの偶然というわけではないよ。大気成分や気候が大きく異なるようでは困るからね。似たような環境なのだから生態系にも重なる面はあるだろう。しかし世界は」
早口でつらつらと語り出した
緊張? している、らしい
海獣「――“世界”は広い。“そうではない”ケースもある。動力兵……正しくはハロゥと言うんだが。君たちは誤解している、あれの本当の名前は“アン”と言うんだ……話が逸れたな。とにかく、ハロゥはそうしたケースで一定の信頼を得ている。わかるかな? つまり、需要の話をしている」
需要と供給は商業の基礎だ
こと商いに関して、おれたちの子狸さんは一家言を持つ
子狸「吐いた唾は呑めない……」
素早く走った勇者さんの手が子狸の頬を引っ張った
子狸「あふぁっふぁ」
つまり子狸さんはこう言いたかったのだ
それがどうした、と
するとワドマトは小刻みに首を振った
肯定とも否定ともとれる仕草だった
海獣「誤解を解いておきたいんだ。私はね、この世界が好きなんだよ」
そう言って、子狸の頬をぐいぐいと引っ張っている勇者さんをちらりと見る
それと意識しなければわからない程度に小さく頭を下げた
どうやら勇者さんの設定を無視して話すことを詫びたらしい
本人なりに努力をしたつもりなのだろうが
悲しいかな、異世界人=新大陸の人間という設定には根本的な無理があった
異世界人に気を遣われる勇者さん。無念だ
海獣「……ビジネスで来たわけじゃない。その点をまず理解してもらいたかった。なぜなら、これから私は仕事の話をするからだ。しかし本意ではない」
……
なるほど
だが、子狸の怒りはおさまらんぞ
見るがいい……
観光気分の異世界人に、おれたちの子狸さんが怒りを露わにしていた
ぎりっと奥歯を噛みしめる
きつく握りしめた前足が打ち震える
危うく忘れかけていたが、目の前にいる異世界人はつの付きの仇だ
小さな妖精が流した涙を、失われた数々の命を、子狸さんは決して忘れない
子狸バスターの亡骸をあとにした庭園アナザーの姿が、悲しみに濡れた記憶を確かなものとした
尋常ならざる鬼気を発する子狸に、羽のひとが心配して声を掛ける
復讐に燃える子狸を見ていられなかったのだろう
妖精「おい。だいじょうぶか? ついてきてるか?」
子狸の挙動を見守る巫女さんが沈痛な面持ちでかぶりを振った
巫女「こうなると、もう何を言っても無駄だと思う」
復讐は虚しい。何も生み出しはしない
口で言うのは簡単だ
では、つの付きの魂をいったい誰が救済してくれると言うのだ?
神か? ならば、なぜ救ってくれなかった……?
子狸さんの逆鱗に触れることを恐れてか、ワドマトは慎重に言葉を選んだ
海獣「休日出勤みたいなものだね。しかし、そうか、これがバウマフの血……」
戦慄に語尾がふるえた
現在の子狸は制限解除されている
その気になれば、目の前の異世界人をぶち模様にすることも可能だ
しかしぐっと堪えた
ずっと言葉にはできなかった理不尽への問いがある
子狸「あふぁっふぁ」
勇者さん、お願いですから放してあげて下さい
いま、だいぶシリアスなのです
勇者「もう言わない?」
子狸「ふぉふ」
勇者「……変なところで律儀な子ね」
バウマフ家の自動防御は究極の一端にある
頬をつねっても作動しなかったのは、未来の情報を取り入れているからだ
もしも勇者さんが子狸の頬肉のソテーに興味を示すようなら間違いなく作動しただろう
べつに勇者さんを信頼して防御を解いたわけではない
そのあたりを誤解した勇者さんは、子狸を律儀と評した
自分に気があるのではないかという思い込みが、好意的な解釈に結びついたのだ
なに、気にすることはない。人間、誰しもミスはある
勇者「…………」
――こきゅーとすとは何か
こきゅーとすとは、お前らの輝かしい思い出を明日へとつなげるチラシの裏である
語り部に求められるのは正確な情報伝達であり
客観的な第三者の視点を保つよう心掛ける
むろん私情を挟むなど以てのほかだ
しかしながら、おれたちとて心ある素敵な生きものである
どんなに用心しても子狸さんには甘くなるし、不意に急用を思い出すこともあるだろう
つまり、どういうことかと言えば
おれの機嫌を損ねるのは賢い判断ではないということだ
※ リシアさん、これが終わったら一緒に模様替えしましょうね
誤解はしないでほしい
おれだって好きで厳しく当たっているわけではないのだ
むしろこの王都さんは良心的な部類で
悪らつということであれば、大きいひとの右に出るものはいないだろう
※ おい
あえて突き放すことで憎まれ役を買って出たのだ
ふっ、自分で言うのも何だが……
必要悪、といったところかな
※ まさしく自分で言うと何だな
※ まず言うべきではなかった
※ どうして言ってしまったのか……
言葉にしなければ伝わらないものもあるということさ
※ なんという薄っぺらい用法だ……
※ 感動的な台詞が一気に薄っぺらくなった
※ 子狸かよ……
子狸じゃありません
ふと……
ワドマトが瞑目した
話は変わるが、かつて整然と舗装されていた王都の路面は見る影もなく荒れ果てている
ポーラ属さんたちは悪路に強い肉体構造をしているが
平らな道のほうが進みやすい、という……こともないが……
ともあれ、うっかり窪みにつまずいたかまくらのんが
とっさに身体を支えようとして、極限まで鋭利にねじった触手を繰り出した
子狸さんに結論を委ねたことで気がゆるんでいた面もあるのだろう
全身から打ち出された触手が、空中で幾重にも屈折する
不幸な事故であった……
意図してのことではなかったから、それらは容易に光の速度を突破した
不幸には不幸が重なる
触手が走る先には偶然にも異世界人が佇んでいた
不幸には不幸が重なる
このままではいけないという焦りが
いったい如何なる作用によるものか
かまくらのんの触手に洗脳の魔法を宿し――
あえなく弾かれた
期待すらしなかった僥倖にかまくらのんが喜びの声を上げる
かまくら「存在しない魔法かッ! だがッ……おおおおおっ!」
押し切ろうとしているようにも見えるが、そうではない
すってんころりんしている最中なので、のしかかるように自重が掛かるのは仕方のないことだった
転倒したかまくらのんを支えようとしたのは火口のんだ
となりを歩いていたものが転び掛けたとする
多くの人間は反射的に両手を差し伸べるだろう
それと同じ理屈で、火口のんも全身から触手を打ち出した
火口「貫けッッッ!」
日常で使われる言語は地域によって異なる
TSU☆RA☆NU☆KE☆という音が、こんにちはを意味する言語もたぶんどこかにあるだろう
※ 苦しいよ。苦しい
※ だんだん苦しくなってきた
※ こきゅーとすの風物詩だな
ぽつりと
子狸とワドマトの呟きが重なった
目線を落とした子狸さんが
子狸「わかった」
と言い
天を仰いだワドマトが
海獣「負けたか」
と言った
空を埋め尽くさんばかりに咲いていた火花星が
まるで駆逐でもされるかのように
急速に収束していく
子狸さんが前足を突き上げた
子狸「ドミニオン!」
豊穣属性は、土を操る魔法だ
侵食魔法と貫通魔法が分離したことで
人間たちは大地に干渉するすべを失った
豊穣属性は、魔王の果実に干渉する魔法だ
これら二つの要素に因果関係はあるようで
じつは、まったくない
魔法には三つの回路がある
豊穣属性は、二番回路から生まれた魔法だ
しかし真相は異なる
順序が逆なのだ
果実に干渉できても、そう違和感のない豊穣属性を生み出すために
おれたちが、二番回路を作ったのだ
子狸の前足を、色とりどりの果実が取り巻いた
果実は未来から落ちてくる
過去、未来に干渉できるバウマフ家の人間ならば
果実に前足が届く
勇者「っ……」
勇者さんが息をのんだ
子狸さんの突然の行動に呆然としたのも束の間
衝き動かされるように聖剣を起動した
高速で振動する刃が走る
子狸へと
多くのヒントを与えてきたつもりだ
かつて歩くひとは言った
王種は五人いると
この場にいる王種は四人だ
四人しかいない……
かつて鬼のひとたちは言った
52年モデルを超えるこん棒は作れないと
その理由は、素材が手に入らないから
遠くに行ってしまったから
例を挙げればきりがない
多くのヒントを与えてきたつもりだ……
だって、こうなることはわかっていたんだ
そうなるだろうなと思っていた
お前らは――
誰一人として子狸を止めようとはしない
勇者さんにも無理だった
危機感を覚えたことは事実だろう
しかし彼女は、その正体には至らなかった
なぜ自分が子狸に刃を向けたのか理解していなかった
彼女は、扉の奥には入らなかったからだ
どこかで何かが違えば
この結末は避けることができただろう
お前らが少しでも全力を出せば
未然に防ぐことはそう難しくなかった
逆算魔法が、どうしても必要だった
治癒魔法を作るためというのは言い訳だ
逆算魔法を施した最大の目的は、減衰のペナルティを得ることだった
人間は、過去と未来からの攻撃に対して無力だ
時間軸の変遷に対応できる構造になっていない
多くの有機生物に共通した弱点なのだろう
だから時間に干渉する魔法は厳しく制限されている
制限がゆるいと自滅してしまうからだ
魔法使いは魔法の感染源だから
いなくなってもらっては困る
人間たちが魔法を使えば使うほど
その宇宙から退魔性が失われていく
終着駅は、魔物駅
魔物エクスプレスだ……
だが、まあ……
遅かれ早かれ宇宙は消滅する定めにあるらしい
物質的な観点から見ればそうなる
物理法則から辿れる事実は、それらの範疇を出ないだろう
どのみち滅ぶなら
魔物専用列車になっても問題はあるまい
そのときはバウマフさんちのひとも一緒に連れて行くとしよう……
世に言うリサイクルである
というわけで……
※ 魔
※ 王
※ 討伐ぅ
※ の!
※ 旅
※ シリ~ズ
※ 子狸ぃ……
※ 編
最 終 章
木 の ひ と の 帰 還
子狸「うん?」
うん?
子狸「うん」
うん
……え!?
子狸「え? ああ……」
えっ
あ、うん……
子狸「うん……」