究極の解答
肝心なのは
何よりも重要なのは、タイミングだった
アトン・エウロは、もしも許されるなら
いますぐにでも小さなあるじの元に飛んで行きたかった
まるで綿菓子をなめるかのように家々を噛み砕き
わけもなく咀嚼する凶悪なあぎとが
彼女に迫っていると考えるだけで気が狂いそうだ
手綱を握る手がふるえているのは
大魔法の連続行使による離脱症状なのだと
自分に言い聞かせなければならなかった
けれど彼はアリア家の人間ではないから
まばたきを忘れたかのように見開いた両の眼は血走り
呼吸は散々に千切れていく
ねばつくような地下の空気は
多くの人間にとって不快感をもたらすものだ
だが、いまは魔王の手先にこうべを垂れる屈辱が勝った
馬上ではあるものの
決して目を合わせてはならないと
うつむく騎士たちが
まるで、王に忠誠を誓う臣民のようだった
尋常ではない鬼気を発する王国最強の騎士に
王の名を冠する大蛇が
酩酊でもしているかのように胴体をくねらせる
「いい気分だ……」
致死性の猛毒を視線に持つ魔獣は
そうすることが効果的だとわかったから
本来ならば騎士たちが守るべき
か弱い少女へと執拗に言葉を投げる
光輝剣に秘められた真の力とは
光を支配することにある
つまり、可視光線を自在に操ることができた
歴代の勇者が、この恐るべき魔力を持つ毒蛇に対抗できたのは
ひとえに宝剣の力によるところが大きい
魔力など、魔王軍の幹部にとっては余芸に等しい
それを克服して、はじめて人間たちは
魔獣と相対する資格を得るに過ぎない……
その資格すら持たない人間たちが滑稽に見えて仕方がなかった
蛇の王は、その高い知性ゆえに人の心を理解できる
悲しみも、憤りも、何かを守りたいという気持ちも
手に取るようにわかった
だから、その気持ちを踏みにじることもできる
蛇の王は言った
「どうした? 顔を上げろ。なに、簡単なことだ」
「なるほど、あるいはお前は勇者の器ではないのかもしれん……」
「だが、そんなことは些細な問題だ。そうだろう?」
「……そうとも。いつの時代も、勇者は奇跡を起こしてきた」
「絶望的な状況でも、愛情だの友情だのと……素晴らしいではないか」
夢見るように
うっとりとした瞳を、人間たちは直視できない
「おれは、そうしたお前たちの前向きな部分が嫌いではない……好ましいとすら思っている」
最悪の魔獣は、朗々と人間の素晴らしさを吟じた
「さあ、立ち上がるのだ、勇者よ……」
「剣をとれ」
「前を向け」
「恐れることはない」
「お前の心に、熱く燃え盛る正義があるのであれば――!」
蛇の王は、正義の讃歌を口ずさむ
それが、どれだけ虚しいことか理解しているからだ
いつの時代も、勝者にあったのは正義ではない。力だ
だから暴力を否定しようとする人間たちに
魔物たちは
強く……
強く……期待している……
それは、つまり答えのない問いに挑むということだからだ
いよいよ激しく胴体をくねらせた大蛇が
人間たちの遥か頭上で壁に牙を突き立てた
深く食い込んだ牙を支点に巨体を振り上げると
したたかに打ちつけられた尾が
堅牢な石壁を触れた端から吹き飛ばした
身の危険を感じた騎士たちが、思わず視線を跳ね上げる
壁にとりついた大蛇と目が合って
喉の奥から引き攣れた声が漏れた
だが、彼らの人生がここで閉ざされることはなかった
魔獣は「しまった」というように
くねらせた尾で顔面を覆った
「いまのは惜しかった! 仕損じたわ……。おれは、つの付きほど器用ではないからな。たまに機を逸することがある……今後も同じことがないとは限らないな……」
そう言って、殊勝なふりをして力場を伝って地上に降りる
それから、床に寝転んでいるロコたちを見つけて「ん?」と他人事のように首を傾げた
「おいおい……お前たち。こんなところで寝ていると風邪をひいてしまうではないか……」
リジルは愛される魔獣を目指している
しゅるしゅるとロコたちに巻きつくと
その巨体を壁の向こうにひょいひょいと放り投げた
自在に詠唱を破棄できる魔獣たちは
無尽の力場で身体を支えることができる
それゆえ彼らに不利な体勢というものはない
まるで砲丸のように
水平に飛んでいったロコたちは
幾つもの壁を突き破ることになった
※ 蛇さん、痛い! 痛いよ!
※ もっと丁寧に扱って! おれを丁寧に扱って!
※ お前らには、おれの優しさがわからないの……?
そのまま寝てたら、勇者さんに串刺しにされるでしょ!
第一、なんで寝てるの!? わけがわからないよ
※ なに言ってんの、この蛇!?
※ いい加減、目を覚ましなさいよっ、この酔っぱらい!
※ 酔ってねーよ!
お前らが愛してやまないスポーツドリンクは
その名も“青い汁”と言う
物理法則とはあまり縁のないお前らでも
ひと口で健康になれるという魔法の清涼飲料水だ
勘違いしているひとも多いが、べつにお酒ではない
それなのに、ときどき人型のひとたちが監査に入って没収される
※ ……どうして平気な顔をして嘘をつくの?
※ あれはお酒でしょ。しかも最大開放のレベル9相当……
※ あと、青い汁というのはコードネームだよね? お前ら、裏で“青魂”とか“聖水”とか呼んでるでしょ
おれたちが聖水を口にして
その秘められし聖性で以て前後不覚に陥るのは
仕方のないことなのではないか
※ 仕方のないことなのではないか
※ 仕方のないことなのではないか
※ 青いのんのしぼり汁を飲もうとする気持ちが理解できない……
※ ぽよよん
魔力の不調を訴える毒蛇に対しても
騎士たちは、じっと耐える
リジルの凶暴な魔力に抵抗するすべはない
目を合わせた瞬間に意識を失うことも珍しくないから
詠唱変換で対抗しようとしても限度があるのだ
――だが、それも過去の話だった
蛇「……?」
不意に大蛇が頭上を見上げた
魔物の五感は、人間よりもずっと優れている
もちろん、そこには聴力も含まれる
リジルが耳にしたのは
ひとの声ではない
高低が絡み合った音の連なりだ
太古の昔、人は小鳥のさえずりに芸術を見出した
せせらぎに心の安らぎを求めた
風に踊る草花に、自分たちと同じ心を見たから
いつしか彼らは
寄り添って生きることを
諦めたくないと願ってしまった
まるで、音階が降ってくるかのようだ
奏でられる曲が
雨のしずくみたいに
きらきらと輝いて見えた
――その声が響くと同時に、騎士たちは顔を上げた
「行け! ばか弟子ぃーっ!」
地下に木霊した大音声は
驚くほどの活力に満ちていた
たとえ、しわがれていようとも
絶望に足を止めた人々を鼓舞するような
希望と呼ぶには、あまりにも苛烈な声だった
どるふぃん「サー! イエッサァァー!」
ぴんと背筋を伸ばした王国最強の騎士が
声が小さいと怒られるのはもう嫌だったから
全力で吠えた
これまでのうっぷんを晴らすように
突進してくる突入部隊を
蛇の王は魔力で迎撃することも出来た筈だ
――嘘だろ!? とトンちゃんは内心で縮み上がった
タイミングも何もない
約束が違う
めちゃくちゃだった
それなのに猛毒の魔獣は
真横を通りすぎる王国最強の騎士を
勇者ごと完全に無視した
突入部隊が降下してきた縦穴を
続々と白銀の騎士たちが舞い降りてくる
十人や二十人ではない
百人でも、まだ不足だ
千人規模の
紛うことなき大隊だった
そして大隊を率いることができるのは
世界で三十人しかいない大隊長のみ――
何故こんなところに、と魔獣は問わなかった
わかりきったことだからだ
トンちゃん率いる王国騎士団の中隊は
帝国騎士団と連合騎士団の助力を得て
ここまで来た
同じことが王国で起きているのだと
蛇の王は理解した
いや、そんなことはどうでもいい……
リジルは、地を叩くように前進する
喜悦にゆがんだ口元を誤魔化すように
カッと喉を晒して咆哮した
「ジョンコネリぃーっ!」
「あ!?」
応じる老騎士も負けていない
「青大将がっ……! 気安くひとの名前を呼んでんじゃねぇーっ!」
世界広しといえど
あの蛇さんを青大将呼ばわりするのは、このおじいちゃんくらいだ
いや、もっといるかもしれない……
大隊長とか、大隊長とか、大隊長とかだ
蛇の王が高速で地を這いずる
その巨体からは信じられないほどのスピードだ
その双眸は、禍々しいまでの興奮に満ちている
武勇で知られる王国最強の騎士
人類に残された最後の希望、勇者……
そんなものは、大隊長と比べれば小物だ
大隊長に登りつめるような騎士が
ふたつ名を持たないなど
まず、ありえない
ジョン・ネウシス・ジョンコネリのふたつ名は“不敗”だ
都市級との交戦は数えきれない
そのたびに惨敗してきた
徹底的に敗北を心身に刻まれて
なおも懲りずに立ち向かってきた
だから、いつしか魔獣たちの興味は
この、ちっぽけな人間に
いかにして負けを認めさせるか……
その一点へと集約していった
その結果、どれだけの街と村が壊滅を免れたことか
大隊長とは、生きた英雄なのだ
蛇の王が、宿敵へと吠える
「小僧! いい加減、悟れよ! 人間のくせに生意気なんだよぉぉぉっ!」
負けじと老兵が吠える
「だまれ! くそ蛇が! 今度という今度は蒲焼きにしてやるぁぁぁっ!」
はじめて会ったときは十人ほどの小隊を率いていた青年の騎士が
百人の部下を持つようになったのは、いつの頃か……
たくましかった肉体は、いまや見る影もない
髪に白いものが混ざるようになった頃……
彼に救われた街村の子供たちの幾ばくかは
立派に成長して、彼の部下になった
彼は、大隊長になっていた
もう分別がついても良い年頃だろうに
大将は、我慢ならないとばかりに騎馬を飛び降りた
「やってやんぞ! おら! 掛かってこいや! タイマンだ!」
「間抜けか! きさま!?」
「ばーか、ばーか! こっちには秘密兵器があるんだよ!」
惜しみなく秘密兵器の存在を宣伝する隊長に
後ろで楽器を奏でている部下たちの表情が引きつった
脱いだ兜を床に叩きつけた大将が、雄叫びを上げて殴りかかってくる
目を逸らしたら負けとばかりに
毒蛇の視線を真っ向から受け止めている
文句があるのかと言わんばかりに
極限までまなじりを見開いていた
蛇「しね!」
だが、魔力は弾かれた
タイミングよくチェンジリングしたのだろうと蛇さんは判断
チェンジリングには連発できないという欠点がある
蛇「しね! しね!」
遠慮なく魔力を連射
だが、そのことごとくが大将には通用しない
蛇「んだぁ!? なにしてくれてんだ、このクソガキ!」
原因は、間違いなく騎士どもが垂れ流している演奏だ
原理はわからないが……
しかし、はっきりしていることがひとつある
おじいちゃんが、空中を走っていた
力場を踏んだとか、そうした次元ではない
これは都市級と同じレベルの現象だ
彼らは、ついに詠唱破棄の領域に足を踏み込んできたのだ――
蛇さんが放った圧縮弾を
片腕で無造作に叩き落とした大将が
重力場をまとったこぶしを振り上げる
そして……
「釣りはいらねえ! 手前ぇの奢りだ!」
蛇さんをぶん殴った!