3-冷蔵庫
一月三十一日、木曜日。
佐藤弘恵は、二十歳にして経験する初めての一人暮らしに、心を躍らせていた。
やっと就職先が決まり、長いアルバイト生活に終止符を打つことができたのだ。
この日は母親と一緒に、一人暮らしに必要な家財道具を購入するため、新居のアパートの近所にあるリサイクルショップに買い出しに来ていた。
テレビ・洗濯機・コタツにガスコンロ。あらかたのものは揃った。>あと、必要なのは――。
「ねえ。この冷蔵庫、いいんじゃない?」
母親が指をさしたのは、白い冷蔵庫。
ツードアで、サイズも一人暮らしには丁度良いコンパクトなものだった。
「うーん。どうしようかな……」
「だって、安いわよ。これで二千円はお買い得じゃない?」
確かに、他に比べると格段に安い。
傷や目立った汚れはなく、見た目も綺麗だし、母親の言う通り買い得な感じがした。
「中はどうかな?」
弘恵は中を見てみようと、冷蔵庫のドアに手を掛けてぐっと引っ張った。が、ドアはびくとも動かない。
「あ、あれ? 開かないよ?」
今度は力を込めて引っ張ってみたが、やはりドアが開かない。
「あ、それ、脇にドア開き防止用のフックが付いているんですよ」
不意に後ろから掛けられた声に思わずドキリとして、母親と二人同時に後ろを振り返った。
「ほら、ここにフックがあるんですよ。きっと、小さいお子さんがいた家庭で使われていたんでしょうね」
黄色い太陽のマークが入った、店のロゴ入りの妙に派手なエプロンを付けた中年の店員が、二人の間から手を伸ばして、冷蔵庫の扉の上部に付けられていた黒いフックをカチャリと外す。
「どうぞ。中もご覧になって下さい。とてもお買い得な商品だと思いますよ」
勧められるまま、弘恵は冷蔵庫のドアに手を掛けた。
――パタン。
軽い音を響かせて、ドアが開く。そして一瞬漂う、鼻を突く異臭。
何の匂い?
「あら。何か臭うわね?」
年の功か、オバタリアンの性か、店員をはばかって、その匂いのことを口に出さなかった弘恵とは対象に、母親が大きすぎる呟きを漏らした。
「ああ。これはアルコールの匂いですね。一応クリーニングしますので、その時に消毒に使ったアルコールが残っていたんでしょう。何、すぐにこの匂いは消えてしまいますよ」
「あら、そうなの」
母親が冷蔵庫に顔を近づけて、くんくんと鼻を鳴らす。
「ほんとね。もう気にならないわね。どう、弘恵。これにしちゃったら?」
「う……ん。そうだね」
特に理由はなかったが、弘恵は何となく気が進まなかった。
「あの。何でこの冷蔵庫だけ、こんなに安いんですか?」
弘恵は、心に引っかかっていたことを、素直に質問してみた。
もしかしたら、何か欠陥があるのかも? そう思ったのだ。
「ああ。単に、仕入れ値が安かったんでしょう。うちは、仕入れ値に一律の金額を加算して販売していますので」
ニコニコと愛想のいい笑顔を見ていたら、何となく買わなくてはいけない気がしてきた。どうも、この手のセールスに弱い。
これじゃ、押し売りなんて断れないなぁ。
弘恵は心の中で苦笑いをした。
「じゃぁ、これにします。車なので、配送はいいです」
「はい。かしこまりました。では、お車までお運びしますね」
こうして、最後の家電製品の冷蔵庫も購入し、弘恵の花の一人暮らしが始まった。
「じゃあ、お母さん帰るわね。何かあったら、すぐに電話しなさいね」
「うん。分かった。今日は、ありがとうね。気を付けて帰ってよ」
午後七時。
もうすっかり日も暮れて、住宅街からは少し離れた造成地に建っているアパートの周りは、人通りもなくシンと静まり返っている。
アパートの裏手にある駐車場まで母親を見送り、笑顔で別れを告げると、弘恵はやっと一段落付いてほっとした。
母親の手伝いのお陰で、予算内で全て収まった。
リサイクルで家電や家具類を揃えたのが大きかった。
新品の方が良いに決まっているが、しがないアルバイト生活では大した貯金があるわけでもなく、『人の使った物が嫌』と言うほどの潔癖性でもないので、『これで良しとしよう!』と弘恵は自分を納得させた。
二回の東の角部屋。
日当たりも風通しも抜群で、内装も綺麗にリフォームされていた。
「うーん。これが我が城かぁ」
弘恵は改めて、玄関から室内を見渡した。
六畳の洋室+四畳半の和室。決して広くはないが、初めての一人暮らしには十分だと思った。
「さて。夕飯にするか」
今日の夕飯は、コンビニのソバ。ちょっと味気ないが、これも一人暮らしの醍醐味と、弘恵は六畳の洋室の小さなキッチンの脇に並べて置いた冷蔵庫に手を掛けた。
「あれ? 開かない。お母さん、フックしていったのかな?」
冷蔵庫のドアの右上に付いている黒いフックが掛かっていた。
「子供がいるわけじゃないから、フックは掛けなくてもいいわね?」
買い出ししてきた食材を入れるとき、確かに母親はそう言っていたはずだ。
「お母さん、ボケが入ったかな?」
クスクスと笑いながら、カチャリとフックに右手を掛ける。瞬間チクリと、指先に鋭い痛みが走った。
「痛っ!?」
パタパタと、フローリングの床に赤い点が散る。
弘恵は慌てて、ティッシュで指を押さえた。
恐る恐る傷口を確認する。
小さな引っ掻き傷が、右手の薬指と中指の内側に斜めに走っていた。
じわりと血がにじみ出してきて、もう一度ギュっとティッシュで傷口を押さえる。
「何? 何に引っ掛かったの?」
フックの周辺を念入りにチェックしたが、特に引っ掛かりそうな場所はない。左手の指先でフックの周りをそっとなぞってみたが、やはりそれらしいものはなかった。
「おかしいなぁ……」
右手の指先の傷の血はすぐに止まったが、念のため傷絆創膏を貼っておくことにした。中指と薬指に一本づつぐるっと絆創膏を巻く。
それを眺めて、一つ溜息をついた。
何だかなぁ……。
不可解ではあったものの、それ以上悩んでいても答えが出るわけでもないので、気持ちを切り替えて冷蔵庫からソバと缶ビールを一缶取り出し、部屋の真ん中に鎮座するコタツに陣取る。
食事をすませ、そのままごろりと横になってテレビを見ながら、いつの間にかうつらうつらと寝入ってしまった。
どれくらいたっただろうか。弘恵は、ふと、目を覚ました。
一瞬、どこにいるのか分からずに混乱したが、すぐに自分のアパートだと気が付いた。
背筋がゾクゾクした。
やばっ……。風邪引きそう。ちゃんと布団に寝なきゃ……。
そう思いながらも、コタツにずぶずぶと首まで潜り込み『もうちょっと、暖まってからにしよう』とうずうず考えていた。その時だった。
カチャリ――。と、音がした。
えっ?
不意に響いた金属音に、視線だけを部屋中に巡らす。
カチャリ――。
又、音がした。
何の音? 弘恵はその音に聞き覚えがあるような気がした。
カチャ、カチャ――。
何か、小さな金具。そう、例えばあの冷蔵庫のフックを外す音……。
そう思った週間、弘恵の視線は冷蔵庫に釘付けになった。
冷蔵庫の扉が半開きになっている。
テレビの明かりだけが、微妙な影を刻む薄暗い部屋の中。暗いフローリングの床に、冷蔵庫の明かりが妙にくっきりと光と影のコントラストを描き出していた。
そしてその上部。
そう、あのフックが、カチャリ、カチャリと一人で動いていた。
いや、違う――。
黒いフックが動くたび、何か白いものがチラチラと蠢いた。
弘恵は、瞬きも出来ずにその光景に釘付けになった。
そして、だんだんと、その蠢くものの正体が分かってくる。
「ひっ……」
指だ。
小さな、子供の指。
それが、カチャリ、カチャリと、冷蔵庫の中からまるで遊んでいるかのように、黒いフックを弄んでいた。
動けない。
視線を逸らしたいのに、金縛りにあったように、身体がぴくりとも動かない。
すうっと、音もなく冷蔵庫のドアが開いていく。
ダメ。
ひたり――。何者かの足音が耳に届く。
来ないで。
ひたり。ひたり。
姿は見えない。
でも、弘恵は『何か』が確実に自分の方に歩み寄って来るのを感じた。
フーフーと言う、荒い自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。
ヒヤッっと背筋に悪寒が走ったその瞬間、耳に届いた声。
「だしてよ、おかあさん」
薄れゆく意識の下で弘恵は、確かにその声を聞いたように思った。
「何それ? 本当なの?」
翌朝、弘恵は目覚めるとすぐに実家に電話をして、母親をアパートに呼んだ。そして、昨夜あったことを一部始終話して聞かせた。
「本当よ! こんな事で嘘なんかつかないよっ!」
顔面蒼白で、冷蔵庫を薄気味悪そうに見詰めながら話す娘の様子に、さすがのリアリストの母親もただならぬものを感じたのか、「分かったわ。じゃ、あの冷蔵庫、今から返品しに行こう」と腰を上げた。
「ええ? だってもう使っちゃったよ?」
「中は汚れていないでしょ? 大丈夫、お母さんにまかせなさい」
結局、昨日買ったばかりのその冷蔵庫は、元のリサイクルショップで引き取って貰う事になった。帰り際、母親がそれとなく店員に『冷蔵庫の元の持ち主』のことを尋ねて見たが、詳しいことは分からなかった。
ただ、今にして思えば冷蔵庫を買うときに確かに店員はこう言ったのだ。
『小さいお子さんがいた家庭で使われていたんでしょう』と。
小さい子供が『いる家庭』ではなく、『いた家庭』――。
それは、今は子供がいないと言うことではないのか? それとも、ただの言葉のあやか?
あのフックは、本当に『子供の悪戯防止用』だったのか?
弘恵に、確かめる術はない。
ただ、あの『だしてよ、おかあさん』と言う子供の声。
どこか哀しい響きを持ったあの声を、しばらくは忘れられそうになかった。
―おわり―
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