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2-ブランコ
 十二月二十四日 水曜日

 ―PM11:00―
 今日は彼女にとって、最悪な一日だった。
 仕事上でのケアレスミスが重なり、細々とした事務処理に思いの外時間がかかってしまった。それで結局、帰宅がこんな時間になってしまったのだ。
 人気の無いローカル線の無人駅で電車を降りたのは、彼女一人。
 薄暗い蛍光灯の明かりが人の気配の全くない闇の中に、ぼんやりと古びた駅舎の姿を浮かび上がらせていた。

「もう、最低っ……」

 心細さをうち消そうと、わざと声に出して呟いたその息が白い。
 ジンと染み込むような冷気に、彼女はぶるっと身震いをして、コートの襟をかき寄せた。 
 彼女の名前は、鈴木絵美すずきえみ
 二十三歳のOLで、地元の短大を卒業した後、やはり地元の中堅の建築会社に就職し、事務の仕事をしていた。
 いつもなら遅くても夜八時には帰宅していた。
 別に彼女が真面目一辺倒な訳ではなく、土地柄、夜の女性の一人歩きがタブー視されていたのだ。
 駅の周りは畑と雑木林で囲まれていて、視界が通りにくい。
 俗に言う『痴漢多発地帯』で、駅のそこここには『痴漢注意!』の立て看板が五月蠅うるさいくらいに立っていた。

「どうしようかな……」

 家に電話して、兄さんに車で迎えに来てもらおうか?
 でも、明日の仕事が早番だったら、もう寝てるしなぁ……。

 彼女は、家に続く真っ暗な細い砂利敷きの道路を眺めながら、家に電話をするかどうか迷った。

 父親は三年前に病気で他界していて、母親はほとんどペーパードライバーで夜の運転はしない。迎えに来て貰える選択肢としては、二つ年上の兄・敏広としひろしかないのだが、兄は仕事柄早番と遅番があって、早番の時はもう寝入っている時間だった。

『美人OL・残業帰りに暴行・絞殺!』
 縁起でもない週刊誌の見出しが、脳裏に浮かんでは消える。

「よし。兄さんには悪いけど、電話しちゃおう!」

 彼女は、お気に入りの明るい茶色のハンド・バックから携帯電話を取り出し、短縮に入れてある自宅の番号を押した。

 プルルルッ。
 プルルルルッ。

 呼び出し音ばかりが、妙に暗い駅舎に鳴り響く。いつもなら遅くても五コールもすれば、母親が電話に出るのに、今日は一向に出ない。

「……もう、寝ちゃったのかなぁ」

 いつもなら、彼女が遅くなるときは母親が起きて待っていてくれた。
 この物騒な世の中、大事な娘に何かあっては大変だと、彼女の『駅まで迎えに来てコール』を受けるため、待っているのだ。

 それが、今日は一向に電話に出る気配が無い――。

 家までは自転車で十五分。
 駅舎の周りには閑散として人気は全くないが、五百メートルも行けばぽつりぽつりと少ないながら民家がある。
 よし! と自力で帰ることを決意し、携帯を切ろうとしたそのとき、『ぶちっ』と電話が繋がる音がした。

 あ。繋がった!
 彼女は慌てて、下げかけていた携帯電話を耳にあてた。

「もしもし、お母さん? 絵美だけど……あれ?」

 確かに繋がったと思った携帯からは、何の音も聞こえてこない。普通は聞こえてくる、相手の周りの雑音すら聞こえない。

 全くの無音――。

「もしもし? もしもし?」

 彼女は携帯の終了ボタンを押して、もう一度自宅へダイヤルしてみた。

「あれ? 電池切れじゃ……ないよね?」

 耳に当てた携帯からはやはり、何の音も聞こえてこない。

「もうっ。携帯まで壊れたの!?」

 電池マークも十分残っているし、アンテナも綺麗に三本たっている。考えられる原因は、携帯電話自体の故障しかない。駅の公衆電話は、もう一ヶ月も前から『故障中』の張り紙がしてある。

『はぁーっ』と大きな溜息をついて、彼女は駅舎の外にある薄暗い自転車置き場に向かった。


「お化けなんてないさっ。お化けなんてうそさっ」

 彼女は、幼い頃から怖いときに歌う童謡を、ペダルを踏むリズムに合わせて口ずさみながら、頼りないヘッドライトだけを頼りに、自転車をこいでいた。
 見える範囲にまだ民家は無い。雑木林の黒い木立ちが飛ぶように彼女の視界の端を過ぎていく。 
 と、その右側の視界に何か白いものが入った。
 暗闇にチラチラ浮かぶ、白い影。

 うわっ……。見ない見ない。何も見ない。

 彼女は気付かないふりを決め込んで、そのままペタルを踏み込んだ。正にその時、ライトの明かりの中を右から左へ何か小さい黒い影が『ビュン』と横切った。

 いちゃう!

 夜の静寂しじまに響き渡るブレーキ音。
 彼女はバランスを崩して派手な音を立てながら、自転車ごと砂利道に倒れ込んだ――。

「っ痛ーいっ」

 砂利ですりむいた膝と肘のズキズキする痛みに呻きながら、自転車のライトに照らされた範囲を見渡す。<KBR>見える範囲に、倒れている小動物はいない。
 
 彼女はほっとして、自転車を起こしにかかった。

 ――ぎぃっ。

 不意に、耳に飛び込んできたその音に、彼女の動きがピタリと止まった。

 ――ぎぃっ……。ぎぃっっ……。

 ごくりと唾を飲み込んだその音が、やけに響く。

 彼女は、さっき視界をかすめた『白い影』を思い出していた。 
 実は彼女は視界に飛び込んできた瞬間に『それ』がなんであるか認識していた。

 ただ、あまりにもこの状況にそぐわないので、意識的に気が付かないと思うことにしたのだ。

 それは――。

 ゆっくりと振り返った彼女の視線の先。
 鬱蒼うっそうと茂る林の中、三角形の白いものがゆらゆらと揺れていた。

 闇の中なのに、光源など無いはずなのに、そのプラスチックのつるんとしたパイプの質感まで、手に取るように分かってしまう。

『子供用ブランコ』

 屋根に付いた、やはり白いピニールの幌が、ブランコが揺れるたびに、ひらひら、ひらひらと、はためいていた。下の方は、枯れた草が猥雑に絡み合い、見えない――。
 ただ、ブランコの上の部分がぎぃぎぃときしむ音を闇の中に響かせて、揺らめいているのが見えた。

 風など吹いていない。
 ブランコがあるのは、鬱蒼うっそうとした雑木林の中。
 誰かが乗っている筈などない――。

 だめだ。

 逃げなくちゃ、だめだ。

 頭はそう命令するのに、身体が金縛りにあったように動かない。視線を逸らしたいのに、ただその光景に見入っている彼女がいた。

 ぎいぃぃぃぃぃっ……。

 一際大きな音が響いたその後、ブランコがピタリと止まった――。

 がさっ。と下草が揺れる。
 がさっ。がさっ。がさっ。
 草を踏み分ける音と共に、何かが近づいてくる。

 いや。

 がさっ、がさっ、がさっがさっ。
 もう、『それは』彼女の目と鼻の先まで来ていた。

 いやっ!

 草の音が止む。
 一分。二分。
 永遠とも思える時間だけが過ぎていく。
 ゴクリ――。
 彼女が唾を飲み込んだその瞬間、ツンと、コートの裾を引かれた。

「いっしょに、のろうよ」

 妙にトーンの高い子供の声。
 白い、子供。
 青白いような肌をした小さな男の子が彼女のコートの裾を引っ張っていた。
 冬だというのに、半袖半ズボン姿で、にっこりと笑顔を浮かべている。
 でもその目は……ただ闇色に染まっていた。その中で不気味に光る赤い点。
 それが見る間に大きさを増していく。

 ニタリ。

「いっしょに、の・ろ・う?」

 ぷつっ――
 と、電源が切れたように、彼女の意識はそこで途絶えた――。


「絵美! 絵美! どうした!? しっかりしろっ!」

 彼女は、聞き覚えのあるその声で覚醒した。
 ゆっくりと、痺れたようになっていた五感が戻っていく。

「兄さ……ん」

 兄の敏広の心配げに覗き込む顔を見て、一気に感情が溢れ出す。

「兄さんっ!」

 やっとその時、凍り付いてしまっていた彼女の涙が溢れて頬を伝った。
 兄の腕にしがみつきながら、まるで子供のように泣きじゃくる。

「どうしたんだ? 変な電話は掛けてくるし、心配になって来てみれば道路の真ん中に倒れてるし」
「えっ?」

 彼女は、自転車で倒れたまま砂利道の真ん中で気を失っていたのだ。
 恐る恐る確認した雑木林の中にはどこにも『子供用ブランコ』は無かった。

 駅で自宅へ電話を掛けたとき彼女には何も聞こえなかったが、電話を受けた兄の方ではちゃんと聞こえていて、彼女の態度を不審に思った。
 それで心配になって車で様子を見に来たのだった。

『もしかしたら、駅に着いた時から、何者かの力の支配下に入っていたのかも知れないと、彼女は思った。

 母親や兄は、『気を失っている間に夢を見た』と言って、真面目に取り合ってくれなかったが、彼女にはあれが夢だとは思えなかった。

 その後彼女は、帰宅が遅くなるときには必ず、『電車に乗る前』に帰るコールをすることにしている。

 未だに、『あれ』が何だったのか正体は分かっていない。



―おわり―



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