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竜に願いを

深い森の中を、ひとりの女の子が歩いていた。

藪に引っ掻かれ、服はぼろぼろになり、ところどころ血が滲んでいる。

しかし、女の子はくじけた表情を見せず、ただまっすぐに前を見て、歩みを進めていた。


エウケーの森の一番奥には、なんでも願いを叶えてくれる竜がいるという。

その女の子、ミラの母親は、重い病にかかっていた。

小さな農村に治せる医者などおらず、すがるような思いで、昔から母に聞いていた話を確かめに来たのだ。


木の幹を触る手のひらに小さなささくれが刺さり、ミラは顔をしかめた。

すぐに尖った木の破片を抜き、服の端で手を拭く。

このくらいでへこたれてなるものか、と地面をしっかりと踏みしめ、森の中を進む。


日が傾き始めたころ、ミラは不思議な場所へ辿り着いた。

そこは森の中でありながら、木が生えることを避けているかのように、ぽっかりと大きな広場になっていた。


その広場に一歩足を踏み入れると、ミラは地面が歪むような感覚を覚えた。


「あっ……」


森の中だったはずが、途端に暗闇に囲われた。

まだ日は落ちきっていなかったはず、と周囲を見回す。

心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。


(こんなおかしなことが起こるくらいなのだから、きっと、竜がいるんだ)


緊張して口が乾く。

少しでも落ち着くため、深呼吸をして、ミラは暗闇に向かって言った。


「あの! 竜さんいますか!?」


声は暗闇に吸い込まれ、何も帰ってこない。

構わず、ミラは続けた。


「願いを叶えてくれるって聞いて来ました! お母さんを助けてほしいんです!」


そう言うと、自分の目の前の暗闇が震え、一筋の光が走る。

一歩後ずさり、ミラは様子を伺った。


ミラの前にとてつもなく大きな金色の目が開いた。

その目は暗闇の中でも明るく輝いている。


『我を起こすのは誰だ……』

「すみません、あの、わたし、ミラって言います。願いごとを叶えてくれる竜さんですか?」


竜は金色の瞳でミラを見つめる。

瞳孔の大きさが変わり、しばらくして、鼻を鳴らす音が聞こえた。


『我はアウグリオ。人の願いを叶える竜だ』

「よかった! ほんとうにいたんだ……」


あまりの嬉しさにミラは泣き出してしまい、しゃくりあげるばかりで、言葉が出てこない。


『用件を言うがいい』

「んっ、あっ、ごめんなさい。お母さんを助けてほしいの。重い病気にかかってて、あと何日も生きられない。ねえ、助けられる?」


ミラが不安な顔をして竜の瞳を見つめる。


『容易い願いだ。ただ、願いには対価がいる。それは願いよりも価値のあるものでなければならない』

「価値のあるものなんて、わたし、持ってない……。家、貧乏だし、お金だってないし……」


不安からかミラの声は小さくなっていく。

しかし、アウグリオの声は落ち着いていた。


『価値のあるものというのは、必ずしも黄金や土地というわけではなく、本人が大事にしているものでなくてはならない』

「わたしの大事なもの……」

『そうだな……。お前を食わせてもらおう。我はもう何十年も何も口にしておらん。お前の願いと引き換えだ』


アウグリオは意地悪な声で言ったが、ミラは胸をなでおろした。


「良かった。わたしが持っているものって命くらいしかないから、それでなんとかなるなら、お願いします」

『死ぬのが怖くないのか』

「怖いよ。死にたくない。でも、お母さんが死ぬ方が嫌だ」


そう言うと、竜の目が閉じ、辺りの景色は暗闇から森の中へと戻った。

しばらくすると地響きが鳴り、黒い竜が地面から這い出て来た。


『人の子。もう一度、名を教えろ』

「ミラです。アウグリオさん、願いを聞いてくれるんですか?」

『ミラよ。願いが叶えば貴様を食う。それでよいのだな?』

「はい、それでいいです。本当に、それくらいでいいのなら……」


ミラはそう言って笑った。

これでお母さんが助かるのならどうなっても構わない。


「あっ、でもどうやって帰ろう……」


闇雲に真っ直ぐ進んで来た彼女に帰り道など分かるはずもない。

困っているとアウグリオは四肢を折って体勢を低くした。


『我が背に乗れ。その母の場所へ案内するがいい』

「えっ、もう何もあげられないよ……」

『いらぬ。これは我の善意だ』

「ごめんなさい。ありがとう」


ミラを背中に乗せ、アウグリオは羽ばたいた。

強い風が森の木々を揺らし、アウグリオの黒い体は空へと舞い上がる。


竜の背中は冷たく滑らかで、掴むところなどないように思えたが、アウグリオが静かに丁寧に飛ぶもので、ミラは全く落ちる心配などする必要がなかった。







ノウマ村は、人口の少ない農村である。

遙か昔から存在し、人の出入りはそれほどなく、戦争の影響もあまり受けることはない。


長い時間、いくつもの国の歴史を越えて、この農村が存在出来ていたのは、この地に伝わるおとぎ話のおかげでもあった。

ミラはその話を、昔から母親に何度も聞いていた。


その昔、この農村のあったところは、ひとつの国であった。

国王のテイラーは、人の願いを叶える竜と取引をし、人を殺す道具を得て戦争を行った。

テイラー国王は賢かったが、たった一度の取引で勝てるほど、戦争は甘くない。


少しずつ、少しずつ、国土を竜へ明け渡していくうちに、やがてとうとう国はほとんどなくなってしまった。

戦争には負けなかったが、己の欲に負けてしまったのだ。

最後に、テイラー国王は、戦争を行った愚かさに気がつき、臣下を守るよう、竜に願った。

その対価として、国は完全に消滅し、このノウマ村は生まれた。

ゆえに、ノウマ村は人間の領土ではなく、竜の領土である。


世代を超えてその話は伝わり、王の間違いを繰り返してはならないと、誰であっても、竜に願いごとをしてはならないという決まりが出来ていた。


ミラの母親は、村に伝わる竜の話を次へ伝える語り手であった。

正しい話を伝える義務を持つ者として、竜に関する知識も人一倍持っている。

ミラはそれが誇らしかった。


「お母さん、竜に願い事をするとどうなるの?」


ある日の晩、ミラは純粋な気持ちで聞いた。


「とても恐ろしい目に会うわ」

「恐ろしい目って?」


「竜はとても強欲なのよ。願いを叶えてくれるって言えば、都合がよく聞こえるけど、実際は少し違っていて、竜の望む通りに動かされる。大昔のテイラー国王は、なぜ戦争に勝たせてくれという願いではなく、戦争の道具を望んだのか、大きな謎なのよ。まあ、でも、本当にテイラー国王が戦いたかっただけなのかもしれないから、一概には悪い竜とも言えないのが難しいんだけどね」

「……ふうん?」


まだ小さいミラには、その話は難しく、よく分からなかった。

母は、そんな様子を見て少し笑った。


「難しかったかしら。とにかく、竜の願い事は、簡単には使えないってこと。だいたい、普段は姿を隠しているから、会うこともままならないわ」


ノウマ村の人間と言えど、竜と接触を試みた者は何人もいる。

だが、この数十年、誰ひとりとして、竜に願いを叶えてもらうどころか、竜の姿を見ることが出来た人間すらいない。


ミラも、竜に会ってみたいと思いを抱いたが、母に失望されたくないという気持ちが先に立ち、行動に移すことはなかった。


ミラは母が大好きであった。

何でも知っていて、村の人からも尊敬されていて、優しい母はいつだってミラの傍にいた。

これからもずっと、一緒にいるものだと思っていた。




ある日の朝、ミラが起きてきても、母は寝室から出ては来なかった。


「もう、寝坊助さんなんだから」


ミラももう十二歳になり、朝の支度くらいはひとりででも出来るようになっていた。

食事を終え、午前中の畑仕事を終えて、ミラはようやく不思議に思った。

今までも寝坊をしてくることはあったが、昼過ぎまで起きてこないということは、ただの一度もなかった。


「昨日遅くまで起きてたのかな」


昼食をふたり分用意して、ミラは母の寝室へ向かった。

扉にはミラが小さいころ作った、お母さんの部屋と書かれた木の札がかけられている。

いつの間にか、それをかけている紐が切れ、床に転がっていた。


「朝はかかっていたはずなのに……」


木の札を机の上に置き、扉を開いた。


「お母、さん……?」


ベッドの上で母は寝ていた。

しかし、その枕元は、血で真っ赤になっている。


「お母さん!? ねえ!」


体を揺さぶると、母は薄く目を開いた。


「ミラ……? ごめんね、もう、朝?」


ミラの頭を撫でようとしたのだろうが、全く見当違いのところへ手を伸ばしている。

目が見えていないのだろう。


「お母さん! 今お医者さん呼んでくるから!」


ミラは駆け出した。

母の口元に血がついていた。

あれが、全て母が吐いた血なのだと思うと、目の前が白くなりそうになる。


しっかり気を張って、ミラは村医者を呼んで、母の元へ戻った。

老齢の村医者は、やきもきするほど足が遅く、ミラは何度も彼を急かした。


寝室へ帰ると、母は先程よりもはっきりと目を開き、天井を見つめていた。

医者は、周囲の吐血から判断したのか、すぐにミラを寝室の外へ出した。


中でどんな話があったのか、ミラは知らない。

しばらくして、医者だけが寝室から出てきた。

その表情は暗く、ミラは彼に詰め寄った。


「お母さんは!?」

「よく聞きなさい。お母さんはね、ずっと病気だったんだ。お前に心配かけまいと黙っていたみたいだね。でも、もうそれも限界に来ている」

「治せるよね? ねえ、治せるんでしょ!? お医者さんだもん! ねえ! 言ってよ! 大丈夫だって!!」


ミラは泣きながら叫んだ。

医者の言っていることを理解したくなくて、言葉をまくしたてる。

医者は、静かに首を振った。


「もう、治らない。治す方法がないんだ。少しずつ命の期限を伸ばしていたが、もう……」

「そんなはずない! だって、お母さんは、死ぬわけないもん!」

「ミラ、はっきり言うよ。お母さんは、もう三日と生きていられないかもしれない。だから、落ち着いてから、お母さんとお話をしてきなさい。そんな風にまくしたてたら、お母さんの方が参ってしまう」


ミラもすぐにはその現実が受け入れられず、医者が帰ったあとも、しばらく床に座り込んで泣いていた。

病気の名前も聞いたが、そんなことはどうだってよく、ミラはどうしたら母が一日でも長く生きられるか考え、涙を拭いて立ち上がった。


寝室へ入ると、母は上半身を起こしてミラの方を向いた。

しかし、目の焦点があっておらず、それを見て、ミラはまた言い表せない悲しい気持ちになった。

そして、かける言葉を考えていると、母の方から先に話しかけてきた。


「ミラ、ごめんね。お母さん、もう駄目みたい」


微笑を浮かべる母は、困ったように指先で頬を掻いた。


「お母さん、えっと、その……」


どう声をかけたらいいか、分からない。

深呼吸をして、出来るだけ明るい口調で言った。


「お母さん、もう、お昼だよ」

「……そう。ふふふ、ごめんね。寝すぎちゃった」


悪戯っぽく笑う母は、ミラの心中を察したようであった。

今まで通りに暮らしたい。

それが、ミラに出来る精一杯であった。


「お昼ごはん、食べる?」

「うーん、食べられるかな」

「食べて。ご飯食べないと、治らないよ……」


声が震えて、小さくなる。

やがて、声は嗚咽に変わる。


「ミラ、おいで」


母が両手を広げてミラへ言う。

余計な心配をかけさせない、と決めたのに。

ミラは涙をこらえきれなかった。

母の体に顔をうずめ、大声で泣いた。


「黙ってて、ごめんね。お母さんね、もう治らないって言われてたの。それでもお医者さんから薬をもらって今まで生きてこられた。ミラが大きくなるまで居ていられないのが残念だけど、こうしてちゃんとお別れできるだけでも、良かった」

「良くない!!」

「ミラ……」


ミラは、泣き顔をぬぐって立ち上がった。


「私、竜にお願いしてくる」

「ダメよ」


「お母さんが死ぬのは、嫌だ」

「……ミラ、よく聞いてちょうだい。竜は、強い願いを持っている人の前に現れる。だから、今のあなたなら、たぶん、会えると思う。でも、だから、ダメなの。竜と会える人だって、すぐに噂が広まるわ。強引な手を使ってでも、願いを叶えたい人はたくさんいる。そんな人たちから、あなたを守る手段がこの村にはない。いい? 絶対にダメ。お母さんを助けようなんて、考えないで」


「でも……」

「それにね、今ミラが出ていっても、もう間に合わない。お母さんね、分かるの。自分の体が、明日を迎えられないって。だから、最後まで、ここに居て。お願い」


母にそう言われて、ミラは椅子を出してきて、ベッドの隣に座った。

納得したわけではないが、母の気持ちをくみ取ったのだ。


「……分かった」

「ありがと」






ミラは、そのまま母と朝まで会話を続けた。

母の反応はとうに消え、静かにベッドで横たわっている。

朝がきて、少し経ってから、家の扉がノックされた。


「あ、たぶんお医者さんだ。私出てくるね」


ミラは母にそう言って、玄関の扉を開けた。


「おはよう、ミラ」

「おはようございます。お母さん、まだ少し調子が悪いから、薬をもらいたいって」

「……そうかい。まだ、薬が飲めるのなら、それにこしたことはないが……」


医者は少し躊躇して言った。


「会えないかね? 様子を見ておきたいのだが」

「ごめんなさい。お母さん、すごく疲れてるから、あまりお話させたくないの」

「……分かった。ミラを信じるよ。これが薬だ。また明日来るから、その時は会わせてくれ」

「うん、分かった。ありがとう」


医者を見送り、ミラは家の中へ戻った。


「お母さん、絶対、私が助けるから。待ってて」


そうして、ミラはノウマ村を出て、竜の眠る森の奥へ向かった。






アウグリオを連れて、ミラは村へと戻ってきた。

大きな竜が後ろをついてきているのに、誰も大して反応しようとしない。

むしろ、泥だらけのミラの方が注目を集めていた。


「なんでみんな何も言わないんだろう」

『我の姿はお前にしか見えていないからだ』


「そうなんだ。お母さんには見えるのかな。見せてあげたいな」

『お前の母にも見えないだろうな』

「えー、残念……」


ミラはがっくりと肩を落とした。

しかし、今はそんなことは些細な事であった。

母を治せれば、それでいい。

自宅までアウグリオを案内し、ミラは寝室の外から窓を開けた。


「お母さん、竜さんを連れて来たよ」


そう言っても、母は動かず、目を閉じて、じっとしている。


「竜さん、お母さんを治して」

『ミラよ。我にこの女を治すことは出来ない』


「……どうして?」

『すでに死んでいるからだ』


ミラの心に衝撃が走る。

ヒビの入っていた感情の器が、一気に割れて、中に入っていた液体が、心の中に溢れ出す。


「嘘だ」

『本当だ。触ってみるがいい。すでに冷たくなっているだろう』

「嘘、嘘だ嘘だ嘘嘘嘘!! 絶対死んでない!」

『事実を認めろ』

「だって、私が家を出る前まで死んでなかった!」


それを聞いて、アウグリオは目を細めた。


『だとしたら、真実はひとつしかあるまい』

「……真実?」

『殺されたのだ。お前の母は』


ミラは、背筋の凍るような思いを感じた。


「それはおかしいよ! だって、お母さんはみんなと仲良かったんだもん。殺す人なんてこの村にいないよ」

『病気だったのだろう? 病気がうつることを怖がった人間が殺してもおかしくない』

「そんな……」


医者にも治せない重病がうつることを怖がる人くらいならいるかもしれない、とミラは少しだけ村の誰かを疑い始めていた。


『母が病気であることは、皆知っていたのか?』

「……分からない」

『誰が殺したか分からないということか』

「お医者さんに、聞いてみようかな」


医者が誰かに喋っていれば、その人を重点的に探っていけばいい。

そこまで思って、ふと気がついた。


「そうだ。お母さんを生き返らせてくれたらいいじゃない」

『出来るならとうにやっている。人を生き返らせることの対価というものは存在しない。生と死は等価ではないからだ』


「そんなの、酷すぎる。私は何のために竜さんのところまで……」

『だからせめて、母を殺した者に復讐しようではないか。それで気が晴れるとは思えないが、何もしないよりはいい』

「そう、そうね。絶対、許さない。お母さんを殺した人を、私が殺す」


ミラの目に、黒い光が宿り始めた。

アウグリオはそれを見て、口元を歪めて微笑んだ。






ミラは、泥だらけで村を歩きまわる姿があまりにも異様であったため、自宅で服を着替えて、村の診療所へと向かった。

診療所の扉を開けると、書類を片づけていた医者が、驚いて顔をあげる。

そして、ため息をついた。


「ミラ、泥だらけで歩いていたと聞いたぞ。どこへ行っていたんだ?」

「少しね。ねえ、お母さんのことって、みんな知ってるの?」


医者はその問いを訝しむような顔をして、返した。


「お母さんのことって、病気のことかい? 知ってるよ。でないと、みんな不思議がるだろう」

「そうなんだ……」


「何かあったのか?」

「ううん、何も」


ミラが理由を言わないでいると、医者は続けて聞いた。


「お母さんは、まだ平気か?」

「……お母さんは」


ミラは少し躊躇って、言った。


「お母さんは、死んだわ」


医者は残念そうな顔をして、ミラの頭を撫でた。


「……よく教えてくれた。すぐ様子を見に行こう」

「あの、私、少し遅れて行ってもいい? まだ、気持ちの整理がつかなくて、帰りたくないの」


「分かった。気持ちを強く持って、決して絶望しないようにね」

「うん、大丈夫。お母さんといっぱいお話できたし、もう、大丈夫だから」


ミラが医者を見送るために外へ出ると、アウグリオが中を覗きこむように屈んでいた。


『みんな知っているようだな』

「うん。これじゃ、犯人は分からないね」


『これからどうするんだ?』

「もうやり方は思いついた」


ミラはそう言って、竜に話を始めた。







医者がミラの自宅を訪れ、寝室へ行くと、聞いていた通り、ミラの母親は息を引き取っていた。

脈がないことを確認し、死亡診断書を書くため、死因と死亡時刻を調べようと、診察道具を出した。


「ん……?」


医者は、すぐにそのおかしなところに気がついた。

今日の朝すぐに死んでいたとしても、死斑の出方や死後硬直の程度が想定されている死亡時刻と合わない。


「この状態は、半日かそれ以上前に死んでいないと、おかしいぞ」


医者は、すぐに思い至った。

ミラは昨日の晩に母親が死んでいるところを見ているはずだ。

ではなぜ、それを隠しているのだろう。


(母親が死んだことを認めたくなくて、遺体を隠すならまだ分かるが……)


先程会話した時には、すでに母親が死んでいることを認識していた。

しかし、それではなぜ隠す必要があったのだろうか。


「朝から今までの間に、何かあったというのか……」


独り言をつぶやき、医者は考え込んだ。

ミラは泥だらけで歩いていたと聞く。

どこへ行けばそのような状態になるのか、想像に難くない。


おそらく、森へ入ったのだ。

母の死体を放っておいて、森へ行く用事とは、何であるか。


「願いを叶える竜……」


ミラの母親は、語り手であった。

村に伝わる昔話を後世に伝えるための知識を持っていた。

しかし、それは所詮おとぎ話であり、森の奥に願いを叶える竜がいるなどということはない。


それは、何十年も前に国から調査団が派遣されて、明確に分かっていることである。

彼女が妄想に憑りつかれていると判断するまで、そう時間はかからなかった。


(すぐにでも、ミラを見つけなければ)


狂気の深淵へ落ちてしまう前に、ミラを保護する必要がある。

放っておけば、どういう行動に出るか分からない。

医者は、診療道具を片づけ、村の人間へ葬儀の準備をすることと、ミラを探すことを頼んだ。


診療所へ帰ると、ガラス棚の中の薬品の入った瓶が全て割られていた。

バラバラになったガラス片を拾い上げてしばらく呆けていたが、すぐにそれがミラにやられたものだと分かった。

泥のついた小さな足跡が、床に残っていたからだ。


「何を、取りにきたんだ?」


それ以外にこのような状況を作り出す必要が感じられない。

バラバラになってしまえば、盗まれた薬の特定は難しくなる。


(考えろ。こういう時、こういう心理の時、何をしようとする? 自分にまで病気が伝染していると考えて治療薬を探す? それとも、母を追って自殺するために猛毒を探す?)


考えをどれだけ巡らせても、盗まれた薬物の見当がつかない。

ひとまず、分かるだけでも調べてみようと、固形物を拾い上げて、種類ごとに仕分けていく。

そうしていると、何が盗まれたか、なんとなく見えて来た。


「毒だ……」


医者は、診療所を飛び出して、村人と一緒にミラを探し始めた。






ミラが姿を消して、二日が経った。

すでに捜索を諦め、医者もミラは生きていないだろう、と判断した。

毒薬だけを持って姿を消しているところからも、後を追ったと考えるのが妥当である。


すでに死んだものとして扱おう、と村のみんなで決め、ミラの母親の葬儀を終えてからというもの、みんなは普段の生活に戻りつつあった。

それからしばらくして、医者に体調不良を訴えるものが、激増した。

疫病の類でもなさそうであったが、念のため、病人は全員家から出ないように指示を出し、毎日食糧と水と薬を配ってまわった。


食糧は村人たちの蓄えから、水は井戸から、と看病が他の村人の負担にならないよう、医者は考えて、毎日続けた。

しかし、その甲斐も空しく、病気になった村人たちは、全員衰弱して、死んでいった。

さらには、今まで健康だった者たちも、体調が悪くなっていき、ついには、医者すらも寝込むことになった。


症状はただの腹痛と相違ない。

重い病ではないはずなのだが、なぜこれほど被害者が出たのか、不思議でならなかった。


ある夜、医者は喉が異様に渇き、水を飲もうと村の井戸へ向かった。

最近はよく喉が渇くため、常に水を家に置いてあるものだが、その日はたまたま切らしていた。


夜闇に包まれていても、井戸の場所は分かっている。

井戸が近くなると、何か音が聞こえていた。


(水の音……。誰かいるのか?)


驚かせないよう、様子を伺いながら近づいて行くと、そこには小さな人影があった。

それは、よく見知った顔で、医者は一瞬、それが誰であるか分からなかった。


「ミラ……」


ミラは、少しやつれていたが、医者を見ると微笑んだ。


「ミラ、どこへ行っていたんだ?」

「ずっと村にいたよ?」

「みんな心配していたんだぞ」

「ごめんなさい。私、お母さんの仇をうちたくて、ずっと隠れてたんだ」

「仇? 何を言っているんだ?」


医者には、彼女の言っていることがよく理解できなかった。

仇も何も、病気で死んだのだから、恨みをもつ相手などいないはずである。


「犯人を探したかったんだけど、私まで殺されたくなかったから。竜さんと相談して、手段を考えたの」

「手段って、何の」

「もう、まだ分からないかなぁ。犯人を殺す手段だよ」


月明かりに照らされて、彼女が診療所から盗まれた薬の容器を持っていることが分かった。


「お前、まさか……」

「もしかしたら、お医者さんまで死んじゃうかもしれないけど、仕方ないよね。だって、もしかしたら、お医者さんがお母さんを殺したのかもしれなかったんだし」


「誰もミラの母親を殺してなどいない。医者として、責任を持って言える。ミラのお母さんは、病気で死んだんだ」

「あはは、じゃあ、やっぱり、お医者さんだったのかな? 竜さんはどう思う?」


ミラは虚ろな目を後ろに向けてそう言う。

しかし、彼女の背後には誰もいない。


「すぐにその薬を離すんだ。今ならまだ間に合う」


それを聞いて、ミラは笑った。


「あはははは、間に合う? もう間に合わないでしょ。お母さん、死んでるんだよ?」

「継続的な毒の投与がなければ、みんなの体調はじきに戻る。まだ助けられるんだ」


「知らないよ、そんなの。お母さんを殺した人を殺さないといけないんだから」

「だから、そんな人間はいないと……」


医者は、話しながら隙を伺っていた。

彼女までの距離はまだ数メートルある。

残念ながら、医者の足はそこまで早くない。

加えて、高齢である。


少女を追いかけて捕まえられる自信がない。

一瞬の隙を見つけて取り押さえるか、村の人間が誰か通りかからないものかと待っていた。


「もう毒が入っていることが分かったからには、その井戸水を飲む人間はいないぞ」

「……うん。だから、今どうしようかなって考えてる」


しばらく沈黙が続き、ミラは困ったように頭を掻いた。


「うん、もうダメかな」

「……どうする気だ?」

「竜さんにお願いして、お母さんと同じところに連れて行ってもらう。今まで死んだ人たちの中に、お母さんを殺した人がいるといいんだけど、わからないよね」

「ミラ!」


毒を飲んで自殺するつもりだ、と医者は思い、駆け出した。

しかし、彼女がとった行動は意外なもので、毒の入った薬をその場に投げ捨てたのだ。


思わず、医者の駆け足が緩んだ。

ミラは口を開き、言った。


「竜さん、お願い。私を連れて行って」


そう呟くと、彼女の姿が、一瞬にして黒いものに包まれて、その場から消えた。


「な、なんだ?」


彼女の立っていたところには、もう何も残っていなかった。

投げ捨てた薬の容器だけがそこに転がり、あとには医者だけが残された。






それから、数十日が経った。

村の人たちの体調不良はすっかり良くなり、奇妙な病気が一時的に流行っただけだ、と皆は考えていた。


そのうち、ひとりの村人が寝起きに大量の血を吐いた、と医者の元に知らせが入った。

患者は若い女性であったが、昔から体が弱く、継続的に飲んだ方がいい、と薬を渡していた。


「お医者の先生、薬を持ってきていただいてありがとうございます」

「はい。これが今日の分だよ。また明日も来るからね」


午前中の回診を続けながら、医者は考え事をしていた。

あの晩のことを思い出しては、何度も疑問にあげていることがひとつあった。

なぜ、彼女は母親が誰かに殺されたと思っていたのだろう。


(いや、違うか。なんで分かったのだろう、だな)


病気に見せかけて死ぬように、薬を調節していたはずだったのに。


ここは、隣国から指定された、新薬の実験場であった。

竜の土地だから攻め入ってはならないとされているが、医者が住んではいけないという決まりはない。

そして、村にひとりしか医者がいなければ、誰であれ、その医者に頼るしかない。


他に薬の知識がある人間などいるはずもなく、新薬の効果も回診と称して定期的に確認して回れる。

新薬は、隣国に買い取ってもらったあと、人間同士の争いで使われている。

医者からすれば、そんな用途など関係なく、自分の作った薬が役に立つことが嬉しいだけであった。


しかし、ミラのような少女にも自然死でないことが感づかれるようであれば、もう少しやり方を変えなければならないか、と考えていた。


今日も、診療所には病人が来る。

自分が薬の実験体であるとも知らずに。


医者が死ぬまで、それは変わらないだろう。

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