モップンモール・ハニー
ありきたりといえばありきたりな話だった。
優しかったメズルの両親は、彼女が中学二年の春に交通事故で亡くなった。
その後、分かりやすく遺産目当てな伯父夫婦に引き取られ、彼女はそこで不当に扱き使われる日々を送るようになる。
伯父夫婦の一人娘でありメズルのひとつ年下にあたる従姉妹は特に酷かった。
メズルは生来天真爛漫な人間であまり細かく気の付くタイプではなかったが、それを理由に陰湿な暴力もよく振るわれていた。
かねてより高校卒業と同時にかの家を追い出されることを宣言されていたのは、むしろ彼女にとって僥倖であったといえるだろう。
しかし、ついに待ち望んだ卒業を迎えてみれば、そこには更なる地獄が待ちうけていた。
これで辛い日々も終わりなのだと少し晴れがましい気持ちで従姉妹からの最後の呼び出しに応えてみれば、これまで面倒を見てやった恩を返せと、そう告げられて、メズルは制服をズタズタに切り裂かれ、あられもない下着姿でいかにも脂ぎった中年男性と共に場末のホテルの一室に閉じ込められてしまう。
そう、従姉妹は見ず知らずの男にメズルの処女を売ったのだ。
絶望感が彼女の身を包む。
そこからは無我夢中だった。
腕を取られベッドへ引きずりこまれそうになった彼女は、暴れる片手に偶然触れた備え付けの電話器を掴み、中年の側頭を勢いよく殴りつける。
そうして男が怯んだ隙に、メズルは窓へと駆け出していた。
扉の前には従姉妹の仲間である柄の悪い男たちが見張りとして立っていて、中年との事後、おこぼれに与ろうと下世話な会話をしているのを、彼女は閉じ込められる直前に聞いていた。
ゆえに、真っ当にドアから逃げることは不可能だろうと、混乱のさなかにありながらもメズルはそう判断したのだ。
部屋は六階にあり常識で考えれば到底脱出できるルートなどではなかったが、いかなる神の采配か、窓のすぐ傍には排水用のパイプが壁沿いに真っ直ぐと地面に向かい延びていた。
迷う暇などあるはずもなく、メズルは即座に窓から身を乗り出しパイプを掴んだ。
ミシミシと悲鳴を上げる錆ついた留め金に嫌な予感をさせながらも、彼女は下降を開始する。
だが、悪い想像ほどよく当たるもので、直後、彼女の頼りない蜘蛛の糸は音を立てて壁から飛び立った。
メズルは地上約18メートルという高度から、落下を余儀なくされたのである。
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ふと意識を取り戻すと、そこはサバンナだった。
いや、正確には、丈の長い草が茂り、そのところどころに疎林と低木が窺える、サバンナに酷似した場所……だ。
そんな日本の「に」の字も見えない景色の中、メズルは下着姿のまま倒れ伏していた。
夢でも見ているのか、はたまた死後の世界なのか、ありえない現状を前に彼女はしばし呆然と立ち竦む。
身体に纏わりつく土埃の感触とサウナのような太陽の刺激、風に乗り運ばれてくる僅かな獣臭が妙にリアルだった。
やがて、これがまぎれもない現実であると認識したメズルは、わざとらしい大声で狂ったように笑い出した。
女としての尊厳を踏みにじられそうになっていたと思ったら、今度は命の危機に瀕している。
まったくもって意味が分からない、とメズルはひたすらそう思った。
もはや笑うしかなかった。
当然、彼女がごく一般的な日本女子であるからには、サバイバル能力など持ち合わせているはずもない。
このまま飢えて死ぬか、獣に襲われて死ぬか、はたまた何らかの事故で死ぬか、いずれにせよ近い将来に惨めな最期が待ち受けているであろうことは明白だった。
下手に生き延びてジワジワと精神を削られながら絶望の果てに朽ちるより、いっそ、声に誘われた肉食獣にでも襲われて終わってしまいたい……そんなヤケッパチな思考に彼女の脳は支配されていた。
少々の時が経ち、段々と笑うことすら空しくなってきたメズル。
次は号泣でもしようかと考えていると、そこへ風ではありえない局所的な草の音が彼女の耳に入ってくる。
瞬間、メズルは恐怖に喉を引き攣らせた。
警戒心の強い草食獣ならばそもそも騒ぐ彼女の元になど寄ってこないだろうし、人間ならばどこか目に入る場所に車でも馬でも移動手段が置かれていなければおかしい。
とどのつまり、狩りをする肉食獣しか思い浮かばなかった。
彼女の中で死という単語が一気に現実味を帯びて、唐突に夢から醒めてしまったかのような錯覚に囚われる。
脅え震える足で逃げ出すこともできず不自然に躍る草原を視界に収め続ければ、ついにそこから人ではない何かが姿を現した。
「……もっぷ?」
ソレは、ぞろりと長い砂色の毛を纏うメズルよりもなお巨大な柄のないモップにしか見えない不思議生物だった。
「えっ、な、なに、コレ」
と言っている間に、巨大モップもどきは犬が立ち上がるような動作で縦に伸びる。
すると、それまでモップ状だった塊が驚くほど細く長い形状に変わった。
よくよく見れば、毛の盛り上がり具合で頭部や手足らしきものが存在しているようだと分かる。
「あっ、や、やめてっ! 立たないで!
ガチャ○ンの赤色の相棒が八頭身になったみたいでメチャクチャ気持ち悪いっ!
精神に異常をきたしそう!」
数メートル先に佇む奇怪な生物へ、メズルは思わず叫んだ。
ある意味で余裕とも取れそうな発言だが、真実は見慣れぬ生物を目の当たりにしてパニックになっているだけである。
結局、彼女の主張は意味を成さず、謎生物は立ち上がったまま、呼吸らしき僅かな膨張収縮を繰り返しているのみだ。
そんな中で、メズルは珍生物のモップの如き体毛の奥から己が観察されているような雰囲気を感じ取っていた。
「あ、アナタって、何なの。
毛羽毛現? 雪男? イエティ? それともビッグフット?」
半ば予測はしていたが、やはり毛糸玉もどきが彼女の問いかけに反応を見せることはなかった。
それでも、自らの気力を奮い立たせるため、メズルは震える声を発し続ける。
「何にせよ、私みたいな雑食の人間なんか食べたって、お、美味しくないんだからね。
食べるなら草食獣がいいのよ、肉食獣は、だ、ダメなんだから。
だ、だから、早く、どこかに……」
「ボー」
「ひゃっ!?」
必死に語りかけている途中で、唐突に頭部と思わしき毛塊の隙間から低い汽笛のような音が鳴り響いた。
てっきりまたダンマリを決め込まれると思っていたメズルは驚愕し、反射的に身を竦ませてしまう。
それから再び鳴き声と思わしき汽笛音もどきを発した未確認毛玉生物は、ひどくゆったりとしたスローモーションのような動作で、明らかに彼女を目標地点とした歩みを開始した。
後ずさろうとして失敗し、尻餅をつく形で転がるメズル。
慌てて立ち上がろうとするも、彼女はそのまま前足か腕か不明な一対の毛の集合体にあっさり捕われてしまうのだった。
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「ち……チュパカブラと悪意全開の緑色の方のグレムリンの合いの子かな……?」
正体不明生物の顔周りの毛を両手で掻き分けてみれば、いかにも化け物然とした面構えがそこに晒された。
怪物は彼女の行動になんら反応を示さず、やきもきするほど遅い二足歩行を続けている。
おそらく最初に目にした通り、基本は四足で移動する生物なのだろうとメズルは思った。
しかし、その前足は今、彼女を運ぶために塞がってしまっている。
八頭身ムッ○は左腕で腰を、右腕で膝辺りをグルリと囲むように持ち上げていて、その姿はさながら幼子を抱く母のようでもあった。
抱えられた当初こそ大仰に叫び暴れていたメズルであったが、どうあっても動じないモップもどきに、やがて諦めの境地に至る。
そして、段々と暇を覚えた彼女は、毛の下の真実を見定めてやろうと思いつき、顔面と思われる場所に空いている両手をさし入れたのだ。
メズルの中にわずかにあった、オールドイングリッシュシープドッグのようなつぶらな瞳のキュートな動物説は、残酷な現実を前に脆くも崩れ去った。
これは外敵のいないプライベートエリアでのゆっくりお食事コースで確定かな、と彼女は力無く笑う。
せめて生きたまま腕や足をもがれるような食べ方ではなく、最初にスッパリ息の根を止めてから貪る方向でお願いしたいと思うメズルであった。
それから彼女の体感にして二時間ほど経った頃、ようやく謎生物は毛を引きずることをやめる。
住処であろう深い洞穴に戻ったモップもどきは、驚いたことに口から火玉を吹いて、自らの体から抜けたものらしき毛を丸めた物体を主燃料に焚き火を燃やし、暗闇を照らした。
薄々気付きながら目を逸らしていたが、やはりここは地球ではないらしいと認めるメズル。
洞穴内部は少々ひんやりとしていて、火を焚いたからと暑くなりすぎることはなかった。
毛玉生物は彼女を枯れ草を敷き詰めた寝床へ降ろして、再び外へと出掛けていく。
毛がなければ多分四つん這いに見えるのであろうモップ形態でカサカサと俊敏に動く様は、嫌悪までは抱かないが気味が悪いことこの上なかった。
珍生物がいない隙に逃げるべきかとの考えが過ぎったが、逃げたところで当てがあるわけでもないと、ため息をひとつ吐いてから彼女はその場にゆっくりと横向きに伏せ、胎児のように身を丸める。
もし、今いるこの場所が三月の乾季であるサバンナと同じ気候だとしたのなら、日中と夜の気温差は約二十度だ。
あられもない下着姿で、しかも水すら持たない身で、不慣れな野生の王国をたった一人ウロつこうなど自殺行為でしかない。
せめて四月の雨季に入る頃であれば少しは過ごしやすかったかもしれないが、現実は非情だった。
ふっと目を覚ましたことで、メズルは自分が眠っていたことに気付く。
色々とあったから肉体的にも精神的にも疲れていたのだろうと、ぼんやりとした意識で考えた。
半目の状態で考えごとを続けようとしたところで、彼女の視界が陰る。
未確認毛玉生物だ。
四つん這いのモップ状態でもなく、二足歩行の八頭身○ックの姿でもなく、ス○モのごとき球体をしていた。
おそらく、座っているのだろう。
メズルから五十センチほど離れた位置に鎮座ましましているキッコ○もどきは、今はそれ以上近付く意思はないようで、ただ、何か見せたいものでもあるように、掬う形で留めた手の平に酷似した毛塊だけを彼女の傍へと伸ばしていた。
恐る恐る上半身を起こして、それを覗く。
すると、そこにはブヨブヨとした芋虫やテカリのある幼虫、触覚を揺らすカメムシ、イナゴにシロアリなど、多様な節足動物が犇めいており、毛の皿の中で狭苦しそうに蠢いていた。
精神的ブラクラ甚だしい光景に、彼女は顔色を真っ青にして呼吸することすら忘れ固まってしまう。
あまりのショックで動きを止めたメズルに対し、マリモもどきが「ボーォ?」と不思議そうな鳴き声を発していた。
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…………結論から言えば、昆虫たちは食料だった。
芋虫はクリーミィで美味しかった。
幼虫はアーモンドに似た味がした。
内臓を処理して焼いた虫はどうも淡白で、調味料でもあればスナック感覚で食べられそうなのにと思った。
ミントとはまた違った清涼感のある味の虫もいた。
シロアリは他の節足動物にない酸味があり、箸休めの一品としてちょうど良かった。
そんな感想を抱きながら、メズルは自分が何か大事なものを捨ててしまっているような気がした。
毛玉生物もといウール(勝手に命名)に彼女が拾われてから、すでに数ヶ月が経過している。
もはや、虫を口に運ぶこと自体にメズルが疑問を抱くことはない。
二人?きりの生活の中で分かったことは、彼(以前、思いがけず御本尊様を目撃)は顔面の凶悪さに反して、とても物静かで大人しい生き物だという事実だった。
ウールは食事と狩りと就寝前の毛づくろい以外ではほとんど動くことなく、一日の半分以上を洞穴の中でじっと毛玉になって過ごしている。
メズルが暇つぶしに顔周りの毛を三つ編みやその他もろもろ大胆アレンジしていた時も、ウールウぅールと歌いながら全身を荒く撫で回していた時も、外出しようとモップ状になった彼に飛び乗りハイヨーシルバーと言いつつ毛を軽く引っ張った時も、ごくまれに「ボーゥ?」と訝しげな声を発する程度で、嫌がったり怒ったり、まして暴力を振るったりなどといったことは一度たりと無かった。
むしろ、次回からは自ら彼女を背に跨らせ、サバンナを気ままに乗馬、いや、乗毛させてやる程度には、彼は心優しい怪物なのである。
火玉を吐くウールはこの辺りの生態系の中ではほとんど最上位の存在で、例えひ弱な人間を連れていようと、彼に襲い掛かってくるような動物はいないようだ。
元の日本のように人同士のしがらみもない自然世界の強者の庇護下での暮らしは、思いの外メズルの性格に合っていたようで、彼女は日々を大変朗らかに過ごしていた。
目下の楽しみは、乗毛の最中に拾った石や木や草、大型獣の骨や毛皮、諸々の素材を使って、自らの生活を豊かにする道具をチマチマ手作りすることである。
同族の子どもでも拾って育てているつもりなのか、愛玩動物として飼っているつもりなのか、いずれは食べるつもりがあり家畜として飼育しているつもりなのか、それとももっと別の目的があるのか、ウールの考えはいつまで経ってもメズルには理解できなかったが、今となっては拾われたことを大いに感謝している彼女は、やがて相手がどんな目的であっても黙って意に沿おうと腹を決めた。
それから更に数ヶ月が経ち、恵みの雨季も終盤にさしかかったある日のこと。
どこからか響いた叫びによって、メズルは夢の世界から急速に引き上げられた。
目を覚まして辺りを窺ってみれば、もはや見慣れた毛玉がなんとも苦しげに地面を転がり回っている。
ブオオブオオと今まで聞いたこともない激しい鳴き声を上げるウールへ、彼女は慌てて傍へ……は、危険と判断して安全圏と思われるギリギリの位置まで駆け寄り、案ずる心のままに口を開いた。
「ぼっ! ウールぼぼー!?」
ちなみに、訳すと「やだっ! ウールどうしたの!?」となる。
彼と共に過ごす内に、メズルはいつしか言葉を捨て、声真似とボディランゲージでコミュニケーションを取るようになっていた。
発音はデタラメなので、当然ウール本人には通じていない。
彼女から声をかけられたことで、我を忘れていた自身に気付いたのか、彼は苦しげな声はそのままに、動き回ることを止めて洞穴の壁に背を預けるようにして座りこんだ。
「ウールっ!」
大人しくなったとみて、すかさず走るメズル。
毛玉のすぐ正面に片膝をつけば、彼女は普段とは明らかに異なる彼の極一部分に目を奪われた。
常なら大人しく毛の中に収まっているはずのご立派な息子さんがハチャメチャ元気にコンニチハしていたのだ。
「ぼへぇ!?」
一瞬パニックになりかけたメズルだったが、現在の季節を思い出してハッと顔を上げる。
「ブォォっブオオオオブォッブォォォっ」
「ぼーっ!」
ウールに発情期が訪れたのだ。
メズルは悩んだ。
もしかして、自分というお荷物がいるから、こうして苦しんでいる今もウールは雌を探しに行けないのではないか、と。
また、このサバンナには生息していなさそうな人間という種の臭いがついていると、雌に相手にされない可能性があるのではないか、と。
そもそも、メズルは彼と同種族と思わしき存在を目にしたことがなかった。
しかし、その事実がどういった意味を持つのかすら、彼女には分からない。
どうすれば最良の解に辿り着けるのか考えるも、基本となる情報があまりに少なく、答えの出しようがなかった。
破裂しそうな息子さんを見ながら、辛そうなウールの声を聞きながら、メズルは悩んで、悩んで……そうして悩みぬいた末に、あまりにとんでもない結論に辿り着いてしまう。
そう、「今こそ恩を穴で返す時! そうよ、同種の雌がいないなら私が代わりになればいいじゃない!」という超スーパーウルトラデリシャスワンダフルマジキチガッデム結論に……。
野生の王国に生き続けた彼女は、自身すら知らぬ内に、人間らしい思考回路の大半を失ってしまっていたのだった。
「ウールぼぼーっ!(ウール今助けるからねーっ!)」
「ぶおぉ!? ぶ、ぶおおお!?」
かくして、毛玉生物ウールの純潔は野生脳に支配された人間メズルの手により儚くも散らされてしまったのであった……。
そして、これより約三ヶ月後、聞き覚えのありすぎる体調変化から子を身ごもっていることに気付いたメズルが「ぼー!?(遺伝子どうなってんねん!?)」と驚愕と混乱の雄たけびを上げる事態に陥るのだが、それはまた別の話である。
「ぼぼぼぼらっしゃぁぼぉるぁぁぁーーっ!(うおおお医者も産婆も出産経験者もいない絶望的状況だが無事に産みきったらーッチっクショウがーーーーーーーーっ!)」
「ボー……」
今後、毎年ウールが発情期を迎えるたびに百発百中でメズルへ全弾クリティカルヒットし、やがて洞穴が毛玉選び放題状態になることを、彼らはまだ知らない……。
おわり。