……ゼリービーンズというお菓子を知っていますか?
その日は曇りだった。重い雲が空を多い、日光を遮っている。気分も明るくなりそうにない、そんな日。
沙代と遼一は目の前のテーブルに置かれた小さなガラスケースを、胡散臭そうな視線で見下ろした。
ケースの中には、お菓子が一つ。
黄色い色のお菓子。小さな子供ならカラフルなお菓子を見て心を躍らせただろうが、二人とも成人している。こんなお菓子一粒でわくわくするような人格でもない。まして、お菓子一粒を大切そうにガラスケースにしまっているのが、自分たちの師事している博士ときたら、あきれてもおかしくないだろう。
「さて、遼一くん、沙代くん、これが何に見えるかね!?」
彼らが師事している岬博士は嬉々として意見を求めてきた。
何に見えるかもなにも、助手二人にはただのお菓子がケースに入っているようにしか見えない。ほかの誰に聞いても、同じ答が返ってくるはずだ。
「……ええと、ゼリービーンズ、ですよね? 子供の頃に駄菓子屋で見ましたけど」
「そう見えるかね!?」
岬は勢い込んで聞いてきた。あまりの勢いに身を引きながら、遼一は答える。
「見えます。というより、それ以外には見えませんよ」
どう見てもただのお菓子だ。明確に色づけされた、舌の色が変色しそうなお菓子。あまり体に良さそうにも見えない。最近岬が研究室にこもっていたのは知っていたが、まさかお菓子作りに熱中していたとは予想もしていなかった。
「そうか! ゼリービーンズに見えるか! 成功だ!」
二人の怪訝な表情にもかまわず、岬はケースを嬉しそうに眺めている。そのうち大切そうにケースを抱えて自分の研究室に戻っていった。
「……ねぇ、聞いていい?」
「ああ。俺も多分同じことを考えていると思う」
「あたし、先生についてきて間違ったかなと思い始めたんだけど、あなたはどう?」
「同感。お菓子作りにこの数ヶ月を費やしていたのかと思うと、泣けてくる……」
こんなことだから学会から追放されるんだ、と、遼一は呟き、沙代も同意した。
晩。
誰もいない研究室で、カタカタと音がする。床にあった排水溝が動き、そこから大きなネズミが姿を見せた。ネズミは人間のことなど何も考えず、ただ本能の赴くままにあたりを探索し始めた。ネズミは食欲を満たすものがあればいい。その辺をカジり、今度は違う場所をカジる。そうやってからしばらく、ネズミは以前自分があけた穴をくぐった。棚の裏側の見つけにくいところにある穴。人間も気が着かない場所にあったそこをくぐり、そうして、ガラスのケースを見つけた。
興味を引かれたのか、本能で食べ物と思ったのか。ネズミはケースに近寄り、ケースをカジった。固いガラスは牙でもびくともしなかった。
けれど。
夜が明けて、岬は青ざめた表情で棚の中を見つめた。
視線の先に、空っぽのケースがある。昨日まで入っていた黄色いゼリービーンズは跡形もない。それを確認してから、岬は部屋の外に助手を呼びに行った。
とてもまずいことになったのだと、彼だけが理解している。
ピンセットを片手に、いい大人三人が床に這いつくばっている。とても珍妙な光景だと、自分たちでも思う。一体何をしているのかと問われれば、探し物と答えるしかない。
血相を変えた岬に呼ばれ、遼一と沙代は疑問を抱く暇もなかった。研究室に引っ張ってこられ、ピンセットを渡され、決して素手で触らないようにと固く注意されて探すものは、ゼリービーンズだ。
岬の気が狂ったかと思う遼一である。沙代などあからさまにため息をついたりしている。彼女も疲れているのだろう――岬の言動と行動に。無理もないだろう。恩師だと思っていたけれど、こんな奇行を起こすようになってきたら、本気で自分たちの将来を考えて岬から離れるべきかもしれない。
沙代のため息を聞きながら、遼一は机の間を覗き込んだ。岬の手作りお菓子が落ちているのを探すのに、どうして自分たちが借り出されなければならないのか、はなはだ疑問だ。
しかも、ピンセット片手に。触って欲しくないのなら自分で探せばいいだろう。
不満を口に出さない程度には大人だが、表情に出すくらいには子供な遼一である。
憮然とした表情のまま、床の排水溝が外れていることに気がついた。排水溝からネズミが侵入してきて研究室を荒らすことは、以前にも何度かあったことなので、あわてない。
「あ、またネズミか」
この分では、岬の渾身のお菓子はネズミに食われたのだろう。これで探さなくて済む。遼一はホッとした。沙代もまたこれで面倒は終わったと息をついている。
遼一の呟きに過剰に反応したのは岬だった。
「ネズミ!? ネズミだと!? く、下水道に行くぞ!!」
「はぁ!?」
「ちょ、なんでですか!?」
「説明は後だ!!」
たかがお菓子。そのために下水道に潜る必要がどこにあるのか。ネズミに食われたとあきらめるのが一番だろう。しかし、助手二人の言葉にも岬は耳を貸さず、二人を引きずるように足音荒く歩いていく。
こうなっては何を言っても無駄だ。経験から理解している遼一は沙代を見た。彼女は顔をしかめている。ふるふると首を振り、遼一は動作で示した。
……あきらめよう、と。
下水道に降りるなり、岬に渡されたのは抱えられる大きさの機械だった。
「いいか、ネズミを見たら片っ端から焼き殺すんだ! ためらうな!」
岬は血走った目で断言する。遼一は渡された機械を眺めた。形状はなんというか、ごつい。肩から下げられるように紐がついていて、持ち歩けるようになっている。どこかで見たような、と、しばらく考え、映画で見たことを思い出した。派手なアクション映画が好きな遼一だからこそ気がついたと言える。
「ちょ、あの、先生!? これ、火炎放射器じゃないですか!?」
「ええ!?」
遼一の背後でそういう知識のないらしい沙代が声を上げた。一般人はこんなもの持つ機会もないし、持とうとも思わない。岬がこんなものを所持していたことが最初の疑問だ。
「そうだ。ネズミを見たら焼き払え!」
「なんでですか!? 菓子食われたくらいでそこまでしなくてもいいでしょう!?」
いくらなんでもあんまりだろうと抗議の声を上げるが、岬は聞く耳も持っていないようだ。銃刀法とかそういうものはどうなっているのだと、心底から思う。
「人類の未来がかかっている! いいか、決してためらうな!!」
岬は真剣そのものだ。とうとう遼一たちの手がつけられないところまで行ってしまったようである。作った菓子を食われたくらいで火炎放射器を持ち出すサイエンティスト。枕詞にマッドがつくこと間違い無しだ。帰ろう。遼一は心底から思った。
――そのとき、小さな鳴き声が耳についた。ネズミだ。
即座に岬が火炎放射器を向け、迷わずにスイッチを入れた。
狂っている。そう感じた遼一だ。
帰ったほうがいい。付き合うのは正気の沙汰ではない。しかしここで彼らが帰ろうとすれば、岬は手にある火炎放射器を自分たちに向けるのではないかと心配になった。
岬は念入りにネズミを焼いている。下水道で殺菌消毒でもあるまいし、異臭漂う場所で、さらに悪臭を振りまいてどうするのだ。
清潔好きな沙代なら遼一より嫌悪感を感じているだろう。振り返ってみると、彼女はあらぬほうを向いて硬直していた。
「どうした?」
驚愕している表情。彼女は視線を動かさない。何を見て驚いているのか。ただごとではないと感じて遼一は彼女の視線を追った。
視線の先にはひび割れた箇所がある。小さな生き物なら通り抜けることができるだろう隙間。中を視認した瞬間、遼一も息を飲んだ。
自分は今、何を見ているのか。
岬が火炎放射器を隙間に向けて放射する。助手たちが硬直した意味を、岬だけが正確に理解しているのだと、そのとき遼一は理解した。
「先生……いま、今のは……なんなんですか!?」
自分の顔からは血の気が引いているだろう。そう感じながら遼一は岬に絶叫する。
今見たもの。
動かない一匹のネズミ。
それに群がるカラフルな――ゼリービーンズ。
「あれは、暗殺用の生物兵器だ」
岬は断言する。
「ゼリービーンズの形をしているのは試作品。これからもっと……そうさな、食べやすそうなクッキーなどに形を変化させるつもりだった」
ピトン。どこかで雫の落ちる音がする。
「あれは目標――生物に反応する。そしてタマゴを植え付け、体内で繁殖し、目標の生命活動を停止させる。もっと改良して、目標の生命活動を停止させた時点で胃の中であれらも活動を停止させる予定だった。完全な兵器として作動させるつもりだったんだ。胃の中でお菓子が見つかっても、それが兵器とは考えられないだろう?」
荒唐無稽な話だ。とても現実にあるとは思えない。岬はとある国から開発を依頼されたと言う。完全なる生物兵器を作り出してくれ、と。
「満足させるものを作り出せたと思った。しかし……」
遼一は岬の言葉に頭を覆って叫びだしたくなった。あまりにも現実離れした話ではないか。
「このままでは、人類が滅びる。あれを停止させる方法はまだ開発の途中だった。放っておけばネズミをえさにして爆発的に繁殖する。あれらは生命力が高く、繁殖力はネズミ以上だ」
聞きたくない言葉が続く。現実から乖離していく声が。
「あれは小さい。二センチの隙間があれば下水道から這い出す。そして地上にはエサがあふれている……」
あんなものが地上に出たら、生物の姿が消えるだろう。
「先生、あれも生き物なら寿命があるでしょう!?」
耐え切れなくなったのか沙代が叫ぶ。岬は首を振った。
「ない。あれは兵器だ。維持も手入れも必要なく、水分さえあれば永遠に作動する理想の兵器……そういうふうに私が造った。体表から水分を吸収して稼動し、生き物の体内の成分に反応して際限なく分裂に似た排卵をする……」
「じゃ、じゃあ体内に入られることさえ防げたら……!」
沙代はまだ現実という単語にすがりたいようだった。今はもう夢想と変わりない意味のその単語に。
「無理だ……生物は眠る。生命を維持するために必ず睡眠を必要とする。眠っている間に、鼻でも耳でも口でも……侵入されたらそこで終わりだ。眠らない生き物などいない。違うかね?」
岬は祈りのような懇願を無情に排した。悪夢と変わりないものの開発者たる彼だけが、紛れもない現実を口にすることが出来たからだ。
とんでもないものが、存在してしまった。剥奪された日常を感じながら、遼一は火炎放射器を構えた。
見えるのは、カラフルな色彩。蓑虫か青虫のように、ゆっくりと蠢きながらこちらへと向かってくる。遼一ら三人を感知しているのは間違いない。
あれに捕まったら……食べ物の姿をしたものに喰われるのだ。内側から増殖したあれらに破裂させられるのだ。先ほど見たネズミのように。
それは想像したくもない未来だった。内側から破裂するなどという恐怖を、誰が想像するだろう?まして、子供のおやつにすぎないゼリービーンズに。
……下水道は長く、ネズミは何匹いたのだろう?
一晩の間に、あれらはどれだけのネズミを喰らって、どのくらい増えたのか。
分からない。無限のような数かもしれない。
遼一はスイッチを入れた。
紅が視界を焼く。長い闘いの時間がこれから始まるのだ――。
GAME OVER
画面に現れた真っ赤な文字を見て、少年たちは悔しそうにしている。
「あー、死んだ! せっかくラストステージまで行ったのに!」
「しょうがねぇよ。小銭なくなったんだから。あきらめろって」
「でももったいねぇ! ここまで来て!」
「あきらめろ」
コンテニューを求めるカウントダウン終わり、画面がオープニングに戻る。そこまで見てようやく諦めがついたのか、少年たちは席を立った。にぎやかなゲームセンターの一画で、一機のゲームのオープニングがほかの音にまぎれて流れてゆく。
画面の両脇にはゲームの説明が貼られていた。
――ある国が博士に依頼した恐ろしい生物兵器、デビルビーンズが下水道に放たれた! 君は三人のキャラを駆使し、この恐ろしい生物兵器を消し去ることが出来るか!?
また、違う子供たちが機械を覗き込んだ。
「これ面白いかな?」
「やってみろよ。面白そうなら俺も協力プレイするからさ」
「よし!」
百円玉が投入された。
岬博士、遼一、沙代と、キャラクターが表示され、ゲームが始まる。
面白いゲームに熱中しているプレイヤーたちは誰も気付いていない。喧騒溢れるゲームセンターの片隅に、一粒のゼリービーンズが落ちていた……。 |