第四章/一頁目
書くことの楽しさ。
大河と絵理香の二人はそれを知った。そして、感じた。
だけど、何を書いてて楽しさを感じたのだろうか。
漫画を書いていた時?
二人は作業を分担して行っていた。
大河はストーリーを。絵理香は作画を。
漫画は小説とは違って絵も書かなければならない。
大河は絵を書けない。だが、ストーリーは書ける。
絵理香はストーリーを書けない。だが、絵は書ける。
相対する力を持った二人だからこそ互いの欠けた部分を補えるのだろう。
しかし、だからといって、二人が感じた楽しさは同じなのだろうか?
大河はストーリーを書くことの楽しさを知ったのであって、絵を書く楽しさは知っていない。
逆に絵理香も絵を書くことの楽しさは知ったが、ストーリーを書く楽しさは知っていない。
何も感じていないのだ。
ストーリーだけなら小説家の方が向いている。
むろん、文章が書けなければならないが、大河の場合は過去に小説を執筆した経験がある。
その経験を漫画家で生かせるのか?
答えはノーだろう。
漫画は文章で形成されているのではないのだから。
それならば、大河が漫画家になる必要はないのではないだろうか?
絵理香も、今なら自分でストーリーを書けるのではないだろうか?
何故なら、この数ヶ月で二人は『強い意思』や『強い意志』を持ったからだ。
それは、成長の証。
天才は最初から天才だったわけではない。
天才が天才になるには、己の体内に宿る才能に気づき、最後まで咲かせなければならないのだ。
それはまるで、花のように。
土に埋まった種が芽を出すには、誰かが水をあげなければならない。
花を咲かすには、誰かが水をあげなければならないのだから。
でも、他人任せでは絶対に花が咲くとは限らない。
誰も気づかないかもしれないのだから。
だから、絶対に花を咲かせるには、自ら水をあげなければならないのだ。
その存在に気づき、水をあげ続けなければ。
その地道な努力は、最後に花となって報われる。
二人は気づいたのだ。
書くことの楽しさを。
だから、今度はそれを自らの力で育てなければならない。
他人の力ではない。自らの力でだ。
何を書くことに気づいたのか?
二人は、もう気づいているのかもしれない。
そして、理香は数ヶ月も前からそれに気づいていたのだろう。
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