盧溝橋事件(日中戦争勃発の真因)
さて、今回は『中国の内戦』でも触れた【盧溝橋事件】の詳細を見て行こう
この盧溝橋事件が『支那事変(日中戦争)』の原因だとするのが中国の言い分な訳だけど、中国側の主張する盧溝橋事件の内容は、日本軍が一方的に共産党軍(八路軍)を攻撃して、中国人に多数の被害が出たと言う話だ
それは果たして本当なのかな?
それを今回は解説して行こうと思う
まずは盧溝橋事件の概要から
>盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。
中国では一般的に七七事変と呼ばれる。
この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。
以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた。
事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は『北京議定書』に基づく。
(wikiより抜粋)
と言う事だ
まず良く問題にされる何故日本軍が中国の内陸部にこの様に駐留していたのか?
それを根拠に中国や日本の左翼勢力は『日本の中国侵略の証拠』としているが果たしてそうなのか?
まず概要にも有った『北京議定書』について見てみよう
全て引用すると煩雑かつ要点がわかり難くなる為、何故日本軍が駐留していたかの理由に成る部分を引用する
>北京議定書は、1901年9月7日に北京で調印された、義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。
『北京議定書』の内容
各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、この区域内における清国人の居住を認めず、公使館を防御できる状況におく。
清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする。
(wikiより抜粋)
ちなみに『北京議定書』調印に参加した列強諸国とは、大日本帝国・ドイツ・オーストリア・アメリカ・フランス・イギリス・ロシア帝国(まだこの当時はロシア帝国)・イタリア・スペイン・オランダ・ベルギーになる
この北京議定書のきっかけとなる『義和団の乱』とはこの様な事件だ
>義和団の乱は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。
当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年(光緒26年)に西太后がこの反乱を支持して清国が6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。
だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。
(wikiより抜粋)
上記の引用の通りに、各国公使館の防衛や警察権を認めると有る
つまり、義和団の乱で内乱状態におちいり、列強諸国の租界が支那人暴徒により襲撃される事件が相次ぎ、あまつさえ清国の実権を握って居た『西太后』が叛乱を支持して、事も有ろうに各国に【宣戦布告】した挙句、あっと言う間に敗戦した結果、『北京議定書』によって列強諸国が自国の居留民を保護する目的で、中国に軍隊を駐留していた事が分かる
要するに、今風に言えば国連PKO活動見たいな物で、侵略した結果による物では無いんだよ?
その証拠に日本だけでは無く、列強諸国全てが中国に軍隊を派遣・駐留して居た
ドイツやロシアの共産主義者が、仕切りに日本を敵にせよと国民党や八路軍(中国共産党)に働き掛けて居たのもこの時期からだ
さて、日本軍が中国に駐留していた理由はこれで分かってもらえたと思う
では、改めて『盧溝橋事件』を解説して行こう
>1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。
※1【この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。】第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。
そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。
7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。
牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。
事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。
これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、※2【その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。】
この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。
森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。
※3【9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。】
日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。
この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。
※4【永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。】この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。
一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。
同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。
(wikiより抜粋)
と引用が長くなってしまったが、大事な要点が沢山有るので許して欲しい(泣)
まず要点一つ目※1の部分
この日の夜間演習実施を中国側にキチンと伝えていた事
にも関わらず、中国側が日本軍に対して攻撃を加えて来たこと
さらに要点二つ目※2の部分
日本軍が中国側と停戦交渉中に、何と中国側が再び日本軍に攻撃を加えている事
そして要点三つ目※3の部分
撤兵要求を呑んだ中国側が撤兵を履行しないばかりか増員し、又もや日本軍に攻撃を加えている
さらに要点四つ目※4の部分
停戦協定を中国側が全く履行せず、相変わらず日本軍を攻撃している事
でだ?これの何処が日本軍の侵略行為何だ?
日本はひたすら戦火を拡大しない為に停戦協定を結んで履行していたにも関わらず、常に挑発したり先に攻撃して来たのは中国側の方だ!!
中国の言う通りこれが『支那事変(日中戦争)』のキッカケだったとしても、中国側の攻撃や挑発行為が原因なのは明白な事だ!!
いかに中国がデタラメを言っているのか判ってもらえただろうか?
日清戦争にしろ支那事変にしろ、常に原因は中国側の挑発や攻撃が原因何だよ?
決して日本軍の侵略行為による物では無いんだ
日清戦争にしたって、原因は『長崎事件』による物だ
>長崎事件とは、1886年(明治19年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。長崎清国水兵事件とも呼ぶ。
日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷)という大事件となった。
(wikiより抜粋)
とまぁこんな事件を日清戦争前に清国(中国)は長崎で起こして居た
さらに清国はこの事件後にこんな態度を取っている
>事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。当時、清は定遠を始めとする最新式の戦艦を保有しており、日本海軍はこれに敵わないと考えられており、またこの事件の2年前に発生した甲申政変でも日本は清に敗退しており、当時の日清の力関係は清が優位に立っていた。
(wikiより抜粋)
な?どう考えても中国側の問題だろ?
要するに歴史上日本と中国大陸の勢力とが戦争した原因は、『元寇』の頃から全て中国側の原因で起きている事が分かる
しかも全て中国が負けている
日中戦争は、アメリカの参戦が無ければ、とっくに中国は日本に負けて居た
日本が歴史上戦争に負けたのは、アメリカにのみ何だよ
つまり日本は中国(国民党)には全然負けてはいない
アメリカに敗れたから中国から撤退しただけに過ぎない
これが歴史上の真実何だよ?
しかも『元寇』の頃から、常に朝鮮人が裏で何かしらの工作をしている
日本と中国と朝鮮は仲が良かった時代など一度も無いんだよ
遣唐使や遣隋使にしても、中国が日本を見下して相手にしていなかったから、一見仲が良かった様に見えるだけなんだよ
歴史を調べると、実は何故日本・中国・朝鮮(韓国と北朝鮮)が仲が悪いのか?
一目瞭然で理解出来るんだよ?
皆も歴史の勉強をおろそかにしていると、真実が見えて来ないぞ?
では今回の学校が教えない『盧溝橋事件』はこれまで!
また読んでくれよな?
どうだったかな?
今回は割りと長かったので後書きは簡潔にしよう
とにかく、中国が主張する『盧溝橋事件』日中戦争起点説は眉唾ものと言わざるを得ない
仮にそれを認めたとしても、明らかにそれはそれで中国側の日本軍に対する挑発や戦闘行為による物で有る事を今回は書いて行った
この様に中国は政治宣伝の為に平気で嘘を付く
これは韓国や北朝鮮も何ら変わりが無い
これもいわゆる『孫氏の兵法』戦わずして勝つの応用何だよ?
歴史的真実よりも、己の正当性や主張の方が優先される
こんなデタラメな歴史認識の国に日本の歴史認識を、とやかく言われるゆえんはない
くれぐれも、騙されない様にしないとダメだぞ?