朝鮮通信使の真実
さて、今回は最近では学校でも教える事が有る『朝鮮通信使』の話だ!
まぁ学校ではたぶん、【朝鮮通信使が来た時は日本人が大歓迎して、朝鮮人が日本よりも進んだ朝鮮の文化を伝えた】的な事を教わったのでは無いだろうか?
そうで無くても、日朝友好の架け橋的な事を教わったのでは無いかな?
で、毎度の事だけど、本当にそうだったと思うかな?
おじちゃんが書いている以上、嘘なんだろうなと薄々感じているだろう(笑)
では本当の【朝鮮通信使】を見てみよう!
>朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。
しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。
その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。
「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。
※また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。
(wikiより抜粋)
と言う風に、最初の朝鮮通信使は確かに日朝友好の為の使節だった様だ
しかし、豊富秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で国交が断絶した後は交流が途絶えている
まぁ、これは当然だな
どんな理由が有ったにせよ、李氏朝鮮からみれば、秀吉の朝鮮出兵は侵略行為にしか見えなかっただろうから、関係が悪化するのは当然だ
秀吉が朝鮮出兵を決断した理由は諸説有って、【朝鮮が秀吉の軍を中国へ派兵する際に朝鮮国内の通過を申し出たら断られたから説】、【元寇の際に中国をたきつけた恨みを晴らした説】など色々言われているけど、どんな理由であれ、朝鮮国内を戦乱に巻き込んだのは事実だからこれは明らかに日本側の責任だよな
まぁ秀吉のやった事に対する批判はともかくとして、その後徳川幕府の時代に成って、朝鮮通信使が復活しているのは確かだ
んで、良く話題に登る朝鮮通信使とは、この江戸時代の物を指している事が多い
それで※印の所を見ると、どうも江戸時代の朝鮮通信使は、いわゆる対等な関係性では無く、朝貢国と属国の様な関係に成ってしまっていた様だ
やはり秀吉の朝鮮出兵で、散々痛い目に有会ったのが効いていたのかも知れない
まぁ少なくても、【朝鮮通信使が朝鮮の進んだ文化を日本に伝えていた訳では無い】のは、いつの時代も変わらない事は分かってもらえたかと思う
では、続きを見ていこう
まずは室町幕府時代
>1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。
日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。
水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる。
(wikiより抜粋)
てな具合で実態は、教科書や在日韓国・朝鮮人や韓国人や韓国政府が主張する様な、【朝鮮の進んだ技術や文化を日本に伝えた】のでは無く、丸っきり逆で朝鮮通信使が日本に来て、日本の進んだ技術や文化を朝鮮に持ち帰ろうとしたが正解何だよ?
んで結局朝鮮は、何と水車を自力で作ることが日韓併合まで出来なかった事実が有るのも覚えておいて欲しい
ちなみに貨幣経済も、日韓併合に成ってからキチント運用される様に成ったので有り、それまでは基本朝鮮では物々交換が普通だった
で、在日韓国・朝鮮人や韓国人に言わせると、これは『ヘイトスピーチ』になるそうだ?
おじちゃんは事実を言っているだけ何だけどな?
んで、水車も作れず貨幣経済も事実上無かった李氏朝鮮が、自力で開発発展出来たと思うかな?
しかも未だに日本の技術に頼り切っているのが韓国何だけどな?
続きを見てみよう、次は秀吉の時代
>1590年(天正18年)に豊臣秀吉に派遣された通信使(12月3日(11月7日)に秀吉に謁見)は名目としては秀吉の日本統一を祝賀することが目的であったが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使である。
このときも対馬宗氏が仲介を行っている。
この際の正使黄允吉と副使金誠一が対立関係にあったために正使は侵攻の意思ありと報告し副使は侵攻の意思なしとの報告が行なわれ、王に近い副使側の意見が採られた。
文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのはこの副使の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる。
1596年(慶長元年)の通信使は日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明使(冊封使)の日本への派遣に同行したものであったが、明の使者に随行した正使・黄慎(行護軍兼敦寧都正[3])と副使・朴弘長(大邱府使)は共に秀吉より接見を許されなかった。
明使の交渉も失敗し慶長の役の再出兵が行われた
(wikiより抜粋)
とまぁこの時代は戦争前の外交戦見たいな物だから、あまり語るべき点は無いな?
では、いよいよ江戸時代に突入しよう
>対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され、6月29日(5月6日)、江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。
ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。
日本側からの国書による回答(謝罪)を求め、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を、朝鮮へ連れ帰るのを目的とした使いであった。
この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はないが、上記のように対馬藩は国書の偽造を行って関係を修復しようとした。
日本国内の朝鮮人捕虜のうち、儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったとされる。
※これは当時の日本社会が技術を持った職人を高く評価していたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想による身分制において陶工は最下層の賤民に位置づけられ、奴隷的な労働を強いられるとともに、失策を犯した場合には体罰を課せられるという過酷な状況にあり、職人に対する根源的な差別があったことが原因である。
その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。
なお、幕府は通信使を江戸城裏門からの入城しか許さなかったと言う説と、大手門から入場できたという説がある。
「徳川実記」には「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」などの記録があるが、裏門へ回る際にもここで下馬せねばならず、この事をもって大手門から入場できたとは言えない。
(wikiより抜粋)
と言う具合だ
特に※部分の、朝鮮出兵の際に『陶工』を朝鮮から半ば強引に連れて来た訳だが、彼らは本文にある様に、李氏朝鮮では職人や技術者を軽んじる文化だった為、日本に来て日本の陶工に師匠として大事にされた事から帰国を拒否した経緯が有る
後に韓国のテレビ局が彼らの子孫を探し出し、今は日本人の職人として働く陶工に『日本人に差別されて大変でしょう?』と質問した所、『ふざけるな!!俺は日本人だ!!』とブチ切れられたそうだ(笑)
もはや四百年以上前の渡来人が、韓国にシンパシーなど有りはしないだろう
そして朝鮮通信使が、江戸城の大手門から入ったのか裏門から入ったのかに関しては、未だ議論が続いているが、本文の様に大手門から入った派の主張する証拠は弱い様だ?
ではこの朝鮮通信使の韓国側の主張を見てみよう
でなければ、公平とは言えないからね?
>韓国の歴史教育においては、朝鮮通信使と、そのきっかけとなった文禄・慶長の役で日本に連行された捕虜について以下のように教えている。
『朝鮮通信使について』
壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。
ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年(光海君2年)、己酉約条)。
そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。
これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を倭奴(日本)に伝播する役割も果たした。
『文禄慶長の役と捕虜について』
倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。
つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。
こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。(中略)
そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。
※しかし実際の歴史では、当時の朝鮮通信使が書いた『日東壮遊歌』等の道中記に、進んだ文化と社会体制を営んでいる日本への嫉妬と羨望が描写されていたり、当時の日本の社会や文化の発展の様子を鑑みれば、韓国の歴史教科書の記述は史実と相当の相違があるといえる。
また、日本の学者等によって、上述のような韓国の歴史教科書の歴史的事実を誇張・歪曲した「文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という自民族優越主義的な記述が、韓国社会に蔓延する「韓国起源説」の温床になっていると批判されている。
また、韓国人や在日韓国人が四天王寺ワッソ等の朝鮮通信使を再現するパレードを日本各地で主催する行為には、「歴史的な文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という歴史認識を日本に広める意図が込められていると指摘する識者もいる。
(wikiより抜粋)
まぁ毎度の事ながらの『ラノベファタジー歴史小説』を【学校】で歴史の授業で教えて居る様だ(笑)
自分達朝鮮通信使が書いた『日東壮遊歌』と言う日本道中記に、日本が羨ましいだの妬ましいだの書いておいてこのザマだ
何で韓国の教師や歴史学者が誤った認識をしているのか?と言うと、実は若い世代の韓国人は『漢字』が全く読めない
韓国政府が国民の意見に押されて『漢字』の使用を韓国内で取り止めてしまったからだ!
その癖『漢字』は韓国発祥とか言っているからどうしようもない
つまり漢字が読めないから、昔漢文で書かれた朝鮮の古文書が読めないから、本当の歴史が分からないんだな
実はこれは中国でも起きていて、簡体字(漢字の新しい書き方)が一般化して来た物だから、旧漢字が読めない学者が増えて来ているらしいんだよ?
中国も最近歴史でおかしな事を言う様に成って来たのは、そう言う背景も有る
では最後に、この朝鮮通信使が日本で何をやらかしたか見てみよう
>文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる、 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くものもあった。
警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大坂の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。
これは朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い。」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したのが発端であった。
江戸時代後期の儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。
(wikiより抜粋)
てな具合でまぁ酷いものだったらしい?
今も昔も韓国人の民族性は変わらないと言う事を、見事に歴史が証明してくれた!
さて、君達はどう感じたかな?
では、今回の学校が教えない『朝鮮通信使』はこれまで!
また読んでくれよな?
どうだったかな?
学校で『朝鮮通信使』を教わった人達なら、おそらく随分と話が違うと感じたんじゃないかな?
真実は、日本の方が余程文化も技術も朝鮮より発展していて、朝鮮通信使が日本の文化や技術を持ち帰ったのが正解何だよ?
ちなみに明治時代の李氏朝鮮が知りたかったら、講談社学術文庫から発売されているイギリス人旅行作家イザベラ・バードが書いた『朝鮮紀行』が参考になるぞ!
図書館にも有ったりするから、自分の家の近くの図書館を調べて見るのも良い
おじちゃんは図書館から借りて読んだからね(笑)
さらにおじちゃんの場合、図書館で明治時代(日韓併合前)の朝鮮半島の写真集も見て来た
これも図書館に有れば是非見て欲しい
ちなみにインターネット上でも探せば併合前の朝鮮の写真が見れる所も有るぞ?
おじちゃんが言ってる事が本当かどうかを調べて見るのも、またおもしろい物だぞ!