第十八話:聖夜
「ありがとう、杏奈。」
そう言って、よろよろと涼はベットに雪崩れ込む。
「涼様…。」
杏奈の顔からは、涙が零れ落ちそうだ。
「済まないと思っている。迷惑かけて。」
涼はふぅ、とため息をついて。
「…僕は、もう、長くないから…。」
「そんなこと仰らないでください、涼様。」
「…昔みたいに、『涼くん』でいいよ。」
「でも…。」
「…忍と、幸せにね。」
朝の光より紅く染まった顔から。
雨が零れて、病院の床に落ちた。
朝が来る前。
「…樹。」
寝ぼけた真奈美は、樹の胸で目覚めた。
越えてはいけない一線を越えてしまって。
何度も樹の若く荒々しい波に打たれて。
至福のときを真奈美は感じていた。
二人とも何も纏っていない。
やがて、樹が目を覚ます。
真奈美の顔に気づいて。
樹は無言で真奈美を引き寄せる。
真奈美の身体に、また熱い熱が燈る。
朝陽が強くなるまで。
何度も、何度も、樹と真奈美は求め合った。
互いの寂しさを罪悪感で埋めるように。
「…珍しいじゃん。」
龍一は珍しい訪問客に、眉を潜めた。
真琴は怒った顔で。
「…樹と別れた。」
ぶすっと呟いた。
「…ありえねぇんだが。」
そう言って。
未成年にはダメなアレを懐から取り出し。
一息に。
一息ついて。
「…何が原因?」
と、囁く。
真琴は俯いた顔で。
「如月先輩。」
小さな声で、はっきりと言い切る。
「あー…」
わかる気がするわ、という台詞を辛うじて飲み込んだ後遺症で。
気まずい沈黙が流れる。
「何で俺なんだ?」
真琴との破局の余韻は、卒業を間近に控えた今も、二人の間に漂っている。
それなのに、何故、俺かと。
「…。」
真琴の顔が崩れる。
端正な顔立ちが崩壊する。
「如月先輩には…言えない。あとどれくらいかもわからない人には、言えないよ!でも!」
真琴が叫ぶ。
「どうしたらいいのかわからない。如月先輩だったらきっと私が納得できる答えをくれる。」
「…ううん、私は如月先輩の言うことなら納得できる。」
「でも言えないから。教師が生徒を寝取ったとか言えないから!」
「だから…!」
「貴方みたいなどうしようもない人にしか言えない…。」
龍一の胸の中で、真琴が呟く。
「今日だけ…今日だけだから、私を壊して! アナタたち『三人』で!」
龍一はもう、どうしたらよいかわからなくなった。
ましてや掛ける言葉などどこにも見当たらなかった。
「…。」
「どうしたの? しのぶきゅん。」
「…別に…。」
一昨日の悪夢から、忍もまた立ち直れずにいた。
『旦那さまに何かあったら、私は屋敷に戻らなければなりません…。』
悲しそうな瞳を見て。
一切の感情を封じ込めて。
「…ごめん、悠太。」
忍は悠太を抱きしめる。
「どうしたの…?」
悠太の瞳の色が変わる。
「…僕は、ダメな友達だよね…。悠太のこともあの子のことも、結局誰ひとり守れずに。」
「涼の心も救えていないのに…。」
「ごめん…」
それだけ呟いて、忍は悠太の肩に顔を埋めて。
泣き出す。
止め処もない想いだけが堰を切ったように溢れて。
悠太を侵食していく。
忍の求めに。
悠太は何も言わずに、ただ。
忍の細い背中を抱きしめた。
「涼様。」
「ありがとう、杏奈。」
電動の車椅子に、涼は弱々しく腰を落とした。
「今日は発表会だから、行っておかないと…。」
電動車椅子が、無音で駆け出そうと。
した、その時。
「うーっす。」
空元気だとわかっているから。
大切な友達に、心配をさせたくないから。
努めて平静を装う。
「今から、展覧会へ行こうと思っていたんだ。」
「龍一が車椅子を押してくれるとありがたいんだけど。」
言われて。
元々華奢なほうだった涼だが、痩せ細って。
体が栄養を受け付けないのだから当たり前なのだけど。
蜻蛉のように、やつれて。
逃げ出したい、正直。
でも、逃げちゃいけない。
「へぇ…。」
「お姉ちゃん、龍ちゃん、涼きゅんv」
「涼、辛くない?」
「…正直しんどいけど、でもみんなが来てくれたから、ちょっと平気。」
「涼くん、お菓子作ってきたよ。」
「ありがと。味覚はまだ生きてるから大丈夫。」
忍が悠太のお手製のお菓子を、涼の口に入れる。
こきゅ、こきゅ…。
飲み干す力も奪われていく。
「美味しいよ、悠太。」
力の限り。
太陽のような笑顔を心がけて。
悠太の心が曇らぬように。
がちゃ。
「…。」
病室に入った樹だったが。
特段、語ることもない。
いや、語ってはいけない。
こんなことは、いけないのだが。
「…どうしたの、樹。」
問いかけてくる声が、痛い。
不誠実な自分は…居るべきではない。
「…問題ないようだから、帰る。」
踵を返して、帰ろうとする。
体を重ねる度に、真奈美から聞いた。
これまでの涼の人生。
養育環境以外の全ての条件は、如月財閥…、いや、如月瑞樹によって整えられていたことを。
涼のことだ。
薄々感づいているだろう。
俺は…。
「待って。」
小さく。
弱々しくなっても。
諦めを覚えずに、もがくように。
「ごめん、龍一。」
「…わーったよ。」
龍一は涼を車椅子から引き上げる。
悠太が歩行杖を持ってくる。
忍が涼を支えながら、歩き出す。
「待ってよ!樹!」
だが、脳で歩行を望んでも、涼の足には力が入らない。
「待ってよ! …待ってよ、行かないでよ、樹!」
床に崩れ落ちた涼が。
半狂乱の体で、自分を呼ぶ。
病院の守衛に呼び止められるまで、樹は自分が走ってきたことに気づかなかった。
「…着いたよ。」
車椅子の上で、涼は龍一に停止を促す。
そこには。
『本年度最優秀賞』と書かれた帯と。
いつか屋敷で見た少女が、絵の中にいた。
「へー…。」
龍一がまじまじと見つめる。
「こりゃぁ…」
別嬪さんだ、と言いかけて、口を噤む。
「…涼の純愛と、龍一の邪な欲望を一緒にしないでよ…。」
忍が龍一を睨む。
「…黙ってればこいつらも…」
言いかけて。
悠太が怖い顔で睨んでいるのに、気づく。
「えい。」
どす。
「ゆうた…ちょ…は、ん、そ…」
音もなく崩れていく龍一を見ながら。
(悠太を怒らせるのだけは、絶対やめとこ…)
忍は呟きながら、親友の描いた絵に見入っていた。
「…如月先輩?」
不意に声がかかる。
その声が真琴のものであると認識するまで、涼は少し考えなければならなかった。
「河本…?」
弱々しく答えた涼を見て、真琴は胸が痛くなった。
涼から『学校の公務を任せる』と言われて。
生徒会長になって、時間が過ぎて…。
これほどまでに弱っていたとは…。
「河本は、どうして?」
「たまたまです。」
「…樹と…」
続けようとした台詞を、涼は飲み込んだ。
今朝の報告を聞いて、瑞樹をあらんばかりの勢いで説教したのを思い出した。
「如月先輩。」
「…今日だけ。」
「え?」
「…僕からのお願い。今日だけ、『涼』って、呼んでほしい。」
「…はい…。」
「涼…。」
「真琴…。」
寄り添うようにして、二人は絵に見入っていた。
「…ねぇ…」
「…あによ、馬鹿冬椰。」
「…走らなくてもいいじゃん。」
「うっさいわね…。」
「…ここ、美術館だよ。」
「言われなくても分かってる。」
「だったら。」
「あたしはあんたの…」
言いかけて、雲雀は顔を真っ赤にしてしまった。
「変なの…。」
冬椰と雲雀が歩いていろと。
一際大きな絵。
そして。
離れてその絵を見守る、小さな人たち。
「ねぇ。あの絵…。」
冬椰も頷いた。
『本年度最優秀作品 如月 涼』
そう書かれた帯の下へ、冬椰と雲雀は歩いていった。
「先輩、ご病気…。」
沈痛な面持ちで雲雀が、涼を見つめる。
冬椰は相変わらず、我関せず、という顔だ。
「…心配してくれて、ありがとう。」
涼が弱々しく微笑む。
「今日だけ、特別だから…。」
言葉を切って、涼は、自分の絵を見つめる人たちのほうへ、目を向ける。
やがて。
視界の外れから。
高そうなジャケットに身を包んだ樹と。
真奈美と勇が、連れ添って歩いてくる。
樹の姿を認めた真琴が、立ち去ろうとする。
涼が、真琴の腕を弱々しく掴んで、「行かないで」と呟く。
「…。」
(ほら、早く仲直りしなさい。)
(水無月、だからヘタレと呼ばれるんだぞ。)
「…涼。」
樹が、重く閉ざされた口を、ようやく開いた。
「済まなかった。」
ため息を大きく一つ吐いて。
「…樹のバカ。節操なし。へたれ。」
「でも…」
「ちゃんと謝るんだったら、お仕置きで許すよ。」
「すまない…。」
「悠太。」
悠太を呼んで、何やら涼は、耳打ちする。
悠太は渋っていたようだったが。
やがて。
「えい。」
どす。
どす。
どす。
どす。
緩やかに重い鉄拳が、4発、吸い込まれた。
「…うわ…」
霜月先輩容赦ねぇ…
冬椰は、樹に、ほんの少しだけ同情した。
「…。」
嵐が過ぎ去って。
いつ終わるかわからない、長い沈黙が訪れた。
涼がやっと、口を開く。
「今日は、みんなに逢えて、嬉しかった。」
「今度は何時になるかわからないけど。」
「でも…」
そう言った涼の顔から、生気が急速に消える。
「僕は…みんなと出会えて…よか…っ…」
がっくりと、涼は首を下に落とす。
それを合図にしたように。
時間が、また未来へと向かって動き出す。
遠くなる意識の中。
涼は、皆が口々に自分を呼んでいることだけはわかった。
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