第十七話:停滞
『…涼。』
行かないで。
『涼。』
嫌だ。
『ごめんね、涼…』
嫌だ…
麗奈!
嫌だ、僕は、僕は…
『涼には、まだやることがあるから。』
『私は、先に逝って待ってる。』
『最後の命の灯火で。』
『涼の光が、少しでも長く世界を照らして欲しいから…』
『…ごめんね、涼。』
『愛してる。』
「席に着けー。始めるぞー!」
低い勇の声が、忍の眠気を吹き飛ばそうと、襲い掛かってくる。
「皐月、眠たいのなら、プールに突っ込んでくるか?」
勇の脅迫に、忍は嫌々瞳を開ける。
忍の後ろの席の杏奈が。
「忍様。昨晩は何時頃御休みになられたのですか?」
と、囁き声で聞いてくる。
忍はこれもた嫌々。
「…夜中3時。」
ぼそっと呟く。
顔を紅く染めながら。
「いけません!」
杏奈の声が、勇の声に被さる。
一瞬、視線が杏奈に集まる。
「あ…い、いえ、何でも…」
「何でもないなら聞かないでよ。」
忍がムスッとしながら聞いてくる。
「何でもなくはありません。他ならぬ忍さ…ま…」
言い切って、杏奈の顔も紅くなる。
「あー…」
勇が手にした竹刀を手持ち無沙汰に回転させて。
「夫婦漫才は、放課後やるように。」
ビシッと。
でも、どこかやる気なく告げる。
真っ赤になって俯いてしまった忍と杏奈を見ながら。
「二人とも赤いよぉ〜」
多分、何も分かっていない悠太がきょとんとした顔で告げる。
「霜月…頼むから引っ掻き回すな…。」
勇の声は、年齢以上に疲れて響いた。
樹は、気が重くなる思いで、病室に足を踏み入れた。
龍一とあんなに激しくやりあった後では、涼に何を言われるか。
嘆息して、覚悟を決めて。
特別室のドアを開ける。
そこには、黒髪。
人工的な匂いがしない、天然の、黒、
蒼い髪を失った、如月涼が、横たわっていた。
樹は無言で、カーテンと窓を開ける。
郊外の病院からは、鮮やかな緑が良く見える。
半分は涼のため。
半分は自分のため。
樹は、涼が目覚めるときを、待っていた。
「龍一先輩。」
後ろから低い声で呼ばれたのに気づくまで、相当かかったことに気づいた。
龍一の右頬は赤く腫れ上がっている。
「あぁ…、んだ、梢か…。」
この小生意気な後輩の顔を見ると、友達の小生意気な顔が脳裏にちらちら揺らめく。
樹との派手な喧嘩の余韻を、龍一も引きずっていた。
「どしたんスか・・・その顔。」
「うっせぇ、今そのことに触れるんじゃねぇ。」
「早くしないと生徒会始まるッスよ。」
「わーってる、わーってる。」
「…水無月さんと、何があったんスか?」
怒気と殺気。
抑えきれない感情を隠そうともせず、龍一は梢の首根っこを捕まえた。
「…やめて、くだ、さいよ。」
その声に、龍一に残っていた僅かな理性が顔をもたげる。
「龍一先輩にガチ喧嘩売ろうなんて人は、今は水無月さんしかいないじゃないッスか。」
言われて。
龍一は気づく。
涼と樹だけが、自分を見ていたことを。
梢が言葉を続ける。
「マジの龍一先輩の怖さ、自分始め多くの人間知ってますから。」
言われて、龍一の顔に苦笑が浮かぶ。
同時に。
そんな自分を、二人が見守ってきたことも。
「冬椰。」
不意に自分の名前を呼ぶ龍一の声が、何時も以上に生き生きとしているのを、冬椰は認めた。
「…何スか。」
嫌々答える。
「雲雀ちゃんと、どこまで進んだ?」
「…関係ないじゃないスか…。」
「いいや、関係あるね。…雲雀ちゃん元気なかったぜ?」
ムッとして、冬椰が踵を返そうとする。
「…今度喧嘩の仲裁してやるから、今日はオマエ生徒会よろしくな。」
「…ちょ!」
冬椰が追いかけようとする気が失せるほど、龍一はその場から華麗に消え去った。
「…。」
無言で瞳を開けると、開け放たれた窓から心地よい風が入ってくる。
誰が開けたのか、考えるまでもない。
本人が、涼の視界に入ってきた。
「起きたか。」
樹は、見開かれた瞳を見て。
黒い髪と黒い瞳を見て。
鮮やかな色を失って光る瞳を見て。
何から言葉を告げればよいのか、分からずにいた。
「大丈夫だよ」
第一声は、その声から始まった。
「昨日龍一が来て、大騒ぎになったけど。」
「…また、命がけで守られて、今度こそ僕は一人になって。」
「あとどれくらいなのか分からないけど、何か遺さないといけないから。」
そこまで言った涼は、また無言になる。
「もう中間テスト終わったんだよね。」
はぁ、とため息をつく。
「テストを受けないことなんて初めてだから、どうしたらよいか分からなくて。」
「…入試は無事に終わった?」
「ああ。」
「龍一と俺が、推薦で国立大学に合格した。龍一は法学部、俺は医学部だ。」
「忍は結局、北山の科学部、悠太は日本家政科大学。」
「みんな、進路は決まった。…お前以外は。」
「そう。」
いつもの微笑で、涼が答える。
「俺は結局、卒業まで石川先生の家に下宿することにした。」
樹が答える。
「…間違い、あっちゃダメだよ?」
涼にしては悪戯っぽく。
唇に手を当てて『内緒』のポーズを作る。
「…治れば、お前は海外か。」
「…うん。イングランドオックスフォードの世界経済部。」
「国内がいいって駄々こねたけど。」
「…瑞樹さんに押し込まれたか。」
「…うん。」
「大丈夫だ。俺たちは仲間だ。…どこにいても。」
「そうだね。」
そこまで話して、涼はやっとベッドから立ち上がる。
「主治医の先生は何て言ってた?」
「…栄養を取り込む遺伝子情報がが欠落しているそうだ。だが。」
樹は強く。
「俺も研究チームに参加している。必ず、お前を治してみせる。絶対に、治してみせる。」
「これは…。」
『俺と僕の約束だ。』
ドンドンドン。
「龍一?」
涼の顔が明るくなる。
「そーだぜー。」
病室の中に入ってきた龍一は、たくさんの荷物と。
最近持ち歩いているギターを抱えて入ってきた。
「頼んでいたもの買ってきてくれたんだ。」
「おうよ。」
龍一はどさどさ、と机の上に数え切れないくらいの美術用品を並べていく。
「請求は、あの胡散臭いオッサンでいいんだよな?」
「構わないよ。」
にこにこしながら、涼は承諾する。
「…何を、するんだ?」
樹が訝しげに聞く。
涼は寂しさを満面に湛えた顔で。
「屋敷の肖像画。…覚えてるよね。」
樹と龍一は無言で頷く。
「あれを描き直して、今度の展覧会に出そうと思って。…他にも作品を出そうと思うし。」
「そっか!」
龍一が努めて明るく振舞う。
「がんばれよ、涼。」
「無理をするなといっても聞かないだろうから、納得いくものを描け。」
「ありがとう、二人とも。」
「そうそう。」
龍一が思い出したように、ギターを取り出す。
「新曲できたから、聞いてくれよ。」
樹は渋い顔をしたが。
「いいよ。」
涼の承諾に、樹も従うしかなかった。 |