坂東蛍子、尾を飲み込む
予め結論を記述しておこう。これは坂東蛍子が学校を遅刻する物語である。
大城川原クマは坂東蛍子の時折見せる突飛な挙動を警戒しながら、街路樹から顔を覗かせて蛍子の動向を確かめた。蛍子とクマの公園の外周をグルグルと回る不可思議な追いかけっこは、とうとう三周目に突入していた。前方で姿勢を低くしている蛍子は、明らかに何かに警戒するような素振りを見せながら公園を回っている。尾行がバレているのだろうか、とクマは考えた。いや、それは無いだろう。もしそうならばいつまでも同じ所をグルグル回ったりはすまい。彼女が未だにこの公園の外縁を離れようとしないのは、怪しんでいるにしても確信が持てないからか、あるいは尾行に気づいていてもどうしてもここを離れられない特別な理由があるかのどちらかに違いない。クマは例え危険だと分かっていても、後者の可能性を捨てきれない以上彼女の尾行を止めるわけにはいかないのだった。
大城川原クマは宇宙人である。彼女は大マゼラン雲に属する第四惑星(地球上の言語体系では発音出来ないため、ここでは第四惑星と呼称する。勿論大城川原クマという名も地球圏で活動するための仮名である)から自星の存亡の危機を救うために地球に派遣され、現在は日本国の首都、東京のとある貸アパートに潜伏し、学生として生活を送りつつ任務遂行に邁進している。クマの任務は主に未成熟な地球人が集まる学校において執り行われていたが、様々な理由により成果は芳しいとは言い難かった。その理由の一つが一部生徒による任務妨害である。松任谷理一や、桐ケ谷茉莉花といったその一部生徒らは凡庸で無知な地球人類でありながら、大城川原クマの抱え持つ特異性に勘づき、常に先手を打って彼女の行動を制しており、彼女や連絡員達は任務の都度彼らの影を恐れなければならなかった。現在クマの視界の端で怪しげに身を縮めているクラスメイト、坂東蛍子もその強者の一人なのである。
クマは蛍子に時限爆弾を溶かされた時の事や、催眠銃を避けられた時のことを思い出し、朝の日光の下背筋をゾクリとさせた。しかし、それだけのポテンシャルを仄めかしながらも坂東蛍子は他の要警戒人物と違いクマと一切のコンタクトをとっていない。クマは蛍子を並々ならぬ能力を持った逸材として注目しており、事実何度も蛍子に任務を妨害されていたが、しかし彼女はクマが振り返ると何事も無かったかのようにその狐の尾を飲み込んで隠してしまうため、未だにクマは彼女の本質をつかめずにいた。慧眼と身体能力以上に、クマは彼女のそういったしたたかさを畏れてやまないのだった。
そんな優れた人物であるからこそ、クマはどうしても彼女の毛髪を確保しなければならないのである。今日こそはこの警戒を掻い潜り、あるいは意図を見破り、何としてでも彼女の研究を前進させねば。クマはずり落ちた伊達眼鏡を指先で持ち上げると、乾いた朝の陽ざしを背に受けながら静かに蛍子の靴音を追った。
もしかしたら図書委員の子だろうか、と結城満は思った。最近蛍子には藤谷ましろという名の新しい友達が出来たと聞いた。もしかしたらこの黒縁眼鏡の少女はその子かもしれない。
しかし友人だとしても、この行動は不自然だ。満は数十メートル先にいる女子高生の挙動を街路樹に隠れながら確認した。少女は満と同じように街路樹に隠れるように身を寄せ、時折覗きこむように腰を曲げては前方を行く蛍子を目視している。そう、その少女は明らかに蛍子のことを見ていた。しかし声をかけようとはせず、この数分間距離を一定に保ちながら執拗に追いかけ続けているだけなのである。まるでストーカーのように。
(ストーカー!)
結城満は街路樹の陰で電流に打たれていた。藤谷ましろと交流が始まった同時期に、蛍子がストーカー被害にあったという話を聞いていたことを思い出したからだ。目の前で足音を潜める人物が藤谷ましろかどうかは分からなかったが、例のストーカーである可能性は極めて高い。満は木漏れ日に身をさらしながら、前方の不審人物の出自をそう結論付けた。
結城満は坂東蛍子の幼馴染である。現在はとある理由によって絶交関係にあったが、小さい頃から付き合いがあり、今でも彼女を妹のように溺愛している満は、登校前に蛍子がしっかり起きられているか覗きに忍び込んだり、帰り道に蛍子が変質者に襲われてないか影から見守るために待ち伏せたりと過保護の過ぎる振る舞いをしてしまう節があった(現在も真っ最中である)。そして今まさにその危うい来歴に新たな事項が追加されようとしていた。
(私が蛍子をストーカーの魔の手から守らなければ。何としてもこの女の素生を暴いてやる)
誤解を恐れずに表現するならば、川内和馬は坂東蛍子のストーカーである。蛍子本人から公認を受けていたし、実際の所それに近い行為も時折見受けられたが、しかし彼自身の意識としてはあくまで“遠目に見守っている”だけであり、事実特に害をなすようなことはしていない。それどころかむしろ蛍子を守護する側の立場にいると正義心を宿した目で自負する隣のクラスの同級生、それが川内和馬というストーカーなのである。
そんな彼であるから、朝から塀を飛び越えて蛍子の家から飛び出してきた他校の制服を着た不審な女子生徒を目撃したら、それを見過ごすことなど到底無理な話なのであった。その女子生徒は黒というには少し明るい長髪を陽光で鈍色に光らせながら、塀を越えて獲物を追う肉食動物のように一目散に駆けだした。一瞬躍動する彼女の熱気に気圧された和馬だったが、すぐに気を取り直して標的の後を追いかけると、何度目かの角を曲がった辺りで公園の外縁の柵を背にして角向こうの様子を窺っている少女の姿を確認し、自身も彼女の背後の死角になる位置に身を潜めた。
呼吸を整えながら和馬は思った。なんて不審なんだ。こんな不審な人物は見たことが無いぞ。
不審人物にも様々な種類がある。単に身元を確認出来ない者、外見的特徴が突出している者、変質者のように社会通念に反する行動をとる者。しかし女子高校生でありながら、短期間にここまで不審な存在としてその立ち位置を他者の心中に確立出来る人間はそうそういまい。絶対野放しにしてはいけない、と川内和馬は蛍子への警護意識以前の、この土地に住む一小市民の義務としての正義の炎を心の奥に静かに燃やしながら、この数カ月で鍛えられた持ち前の抜き足を活かして謎の他校生の尾行を開始した。
蛍子は状況を整理するために公園の茂みに隠れるようにしゃがみ込み、胸の上をトントンと叩きながら数字を十数えた。何故満が彼女の学校とは反対方向に位置するこの道にいるのか、それも不思議だったが、それより何より何故川内和馬が結城満を追いかけているのか、その理由が蛍子には皆目見当がつかなかった。
坂東蛍子は登校途中に自身が忘れ物をしていることに気付き、慌てて進路を学校から自宅へと変更し、急ぐ心を風に見立て温かなアスファルトの上を駆けていた。しかしその足は公園の角を曲がった所でやむなく停止させられることとなる。前方で街路樹に隠れるように張り付き、まるで地雷原の上を歩くようにゆっくりと歩を進めている怪しい男子高校生と、その先を行く他校の女生徒を発見したためである。
はじめ蛍子はストーカーの現場を目撃してしまったと思いドキリとしたが、二人の人物の、特に女子生徒の方の顔を見て更に心臓の鼓動を早くした。満だ、と蛍子は目を見開いた。久しぶりに見た、本物の満だ。
結城満は坂東蛍子の幼馴染である。現在はとある理由により絶交関係にあったが、長い間かけがえの無い友達として日々を共にした、今の蛍子を形作る重要人物の一人だ。蛍子は満のことが大好きだったが、絶交してからは通う学校も違う彼女のことは影をみかけることすら無くなっていた。そのため、例え言葉は交わせなくとも今目に見えるところに満が居るという事実が蛍子は純粋に嬉しかった。
それにしても、腑に落ちないのは和馬の行動である。蛍子は彼の怪しく屈められた背を見ながらその動向を訝しんだ。蛍子の目には、和馬が満の後を隠れながら追いかけているようにしか見えなかった。これは自分の目だけでなく、恐らく他の誰の目を借りても同じように見えるだろう、と蛍子は自身の想像に確信を持って頷いた。坂東蛍子は特異な出会い方をしてしまったために川内和馬という男を当初は危険人物と認識していたが、最近ではその考えを改めようとしていた。和馬は蛍子と話す際はとても素直であったし、何より想い人である松任谷理一と友人関係にあることが分かったからだ。彼の友人に変な人がいるわけがない。
でも、その考えもまた見直さなくちゃいけないのかも。坂東蛍子は親友をつけ狙う同級生の隠された真意を見極めるべく、息を潜めて曲がり角に消えた和馬の華奢な背中を追った。
【大城川原クマ前回登場回】
眼鏡越しに愛を見る―http://ncode.syosetu.com/n2550bz/
【結城満前回登場回】
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【川内和馬前回登場回】
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