鼠の目縦書き表示RDF


ルール違反かもしれませんが、連載形式にはしたくないので、書きたまり次第、追加していきます。
なお、本編途中で規定の6万字を超えたため、続きは「鼠の目2」としてアップしました。

<主な登場人物>

オレ=初老のフリーランス便利屋
オカマのマリー=オカマバーの主人
ケンスケ=オレの助っ人
山下=所轄の刑事
和田さん=事務所の雑用を請け負ってくれているオバサン
和田洋子=和田さんの一人娘
川崎真知子=オレの依頼人
川崎真理子=真知子の妹
徳永高男=波動研究会の会長
後藤=徳永の部下、対外折衝部門の長
宮崎一平=和田洋子のサークル仲間。波動研究会の末端メンバー


鼠の目
作:土成 謹造


オカマのマリーにグラスを滑らせた。
「深酒派の今晩最期の一杯ね」 
マリーはグラスを受け取ると、アイラウィスキィをなみなみと注いでくれた。
マリーは量をスケールで測らない。
「まあな。睡眠薬がわりだよ」
オレは半分ほどを喉に放り込んだ。
オレはこの消毒液臭いフレーバーが好きだ。
いかにも異物を胃袋に流し込んでいるという背徳感。
ガキの飲み物じゃない、と主張している。
もっともマリーにいわせると、そんな臭いのどこがいいのよ、となるが。
マリーの背面にある掛時計は三時を回っていた。
オレは残りのウィスキィを一気に流し込み、何枚かの千円札をカウンターに置いた。
「帰るわ」
「そう、気をつけてね」
「気をつけるほどの距離じゃない。タバコ一本ふかす前に着くぜ」
「また同じこといってるわね。気をつけて、は営業用よ」
「ああ、そうだった。同じことの繰り返しは老いた証拠さ」
「それも何度も聞いたわね」
「ふん、オレは客だぞ。バカにするな」
「そ。いつもここで無駄金を落としてくれる大馬鹿のカモ、ね。毎度ありがとうございます」
「ちぇっ、かなわねぇな、オカマにゃ」
オレはスツールから立ち上がった。
少しフラついた。
最近、めっきり足にきやがる。
こんなことで老いを感じたくないのだがな。
オレはオカマのマリーに投げキスを送って、マリーの店を出た。

狭い路地のところどころに、街灯のほの明るさが広がっている。
小僧が一人、うつぶせにゲロの中につっぷしている。
おおかたギャングバーあたりでぼったくられ、ほうり捨てられたんだろう。
これも人生勉強だ。
勉強には授業料がかかると思い知らされるだろう。
それがイヤなら、早く賢くなるんだな。
歩きながらハイライトに火をつけ、オレは煙を吸い込んだ。
マリーの店からオレの事務所兼ネグラまで百メートルもない。
喫い終わらないうちに着いてしまう。
エレベーターもない小汚い雑居ビルの四階。
それがオレの事務所兼ネグラだ。
酔いに重たくなった身体を引きずり上げるように、階段を上った。
踊り場の蛍光灯もずいぶん前に切れたままだ。
四階の安っぽいスチールドアの鍵を開け、中に入った。
ドアの下から突っ込まれた夕刊やダイレクトメールを机の上に放り投げた。
どうせクソのような商品勧誘と請求書くらいなもんだろう。
パーティションの裏側に設置した簡易ベッドにオレは倒れこんだ。
手を伸ばして、枕元の灰皿に吸殻を突っ込んだ。
手元が狂ったのか、盛大な音をたて灰皿がひっくり返った。
酔いが一気に瞼を重くした。
その夜も黒い鼠に追いかけられる悪夢を見た。


激しい喉の渇きに目が覚めた。
ノロノロと流し台に近づき、アスピリンと大田胃酸を大量の生ぬるい水道水で送り込んだ。
そのままユニットバスに向かう。
排便のあと、ざっと歯を磨き、熱いシャワーを浴びる。
下着から靴下、ワイシャツすべてを取り替えると、やっと人心地がついた。
乗っ取られたラブホテルから頂戴してきたソファに腰を落とす。
ハイライトに火をつけると、おはよう、と和田のオバサンがやってきた。
「なんだい、この散らかりようは。たった二日でゴミ溜と同じじゃないか。アンタは片付けるということを知らないのかい」
入ってくるなりオレは和田のオバサンに叱られた。
和田さんとは二日に一回、この部屋の掃除と洗濯、それに雑用をパートタイムで契約している。
口は悪いが、よく気の利く働き者だ。
オレは和田さんに弱い。
なにしろ正論でビシビシくる。
その一言一言に筋が通っているもんだから、こっちはグウの音もでやしない。
「すまない。片付けようと思ったんだが、いつもの飲み過ぎってやつでね…」
「また二日酔いかね。いいかげんにおしよ。アンタも若くないんだからさ。それに片付けるのはこちらの仕事だからさ。はい、これは下着やなんかの洗濯物」
エプロン姿の和田さんが洗濯物の入った紙袋をグイと突き出した。
はっきりいうと、オレと和田さんは同じ年だ。
シングルマザーのまま娘を育てたということらしいが、詳しくは知らない。
ただしっかりした素敵な女性ということはわかる。
そんなテレもあってか、オレは和田のオバサン、と呼んでいる。
「ほら、掃除の邪魔だから、外でお茶でも飲んできな。急ぎの件があれば携帯に連絡をいれるよ」
オレは小学生のように「ハイ」と返事をし、弾かれるように部屋をでた。


事務所前の路地を地下鉄の駅方向に向かうと幹線道路にあたる。
その角がコーヒーショップになっている。
隣のコンビニでスポーツ新聞を買い、生ビールを頼んだ。
顔馴染みの店員が、今日も迎え酒ですか、と苦笑していた。
ほっとけ、ばかやろう、と悪態をついた。
オレはそもそもコーヒーが嫌いなんだ。
それに軽い二日酔いに飲む冷たいビールは実にうまい。
オレはビールをテーブルに置き、スポーツ新聞を開いた。
野球やサッカーなんざどうでもいい。
とりあえずは昨日の競艇結果だ。
ハイライトに火をつけ、結果と配当を追う。
三レースほど打ち込んで、トータルすると少々マイナス、ってところか。
やっぱし最期に儲かるのはノミ屋だけだな。
よくできてら、世の中はな。
はしこいヤツがうまく立ち回れるって寸法だ。
ビール一杯でハイライトを三本ほど潰し、オレは事務所へと戻った。


さすがに和田のオバサンは手が早い。
見違えるほど隅々まできれいになっている。
まったく、よくやってくれるオバサンだ。
もう少しオレに金があれば、アシスタントで雇うんだがな。
残念ながらフリーランスの便利屋商売じゃ、懐もままならない。
机の上に整理されたペーパー類を見る。
ダイレクトメールはそのままゴミ箱行きだ。
請求書が何枚かある。
明後日にでも和田のオバサンに頼もう。
オレはラブホあがりのソファに座り直し、朝刊を広げた。
たいしたことが書いてあるわけじゃない。
どうでもいいといえば、どうでもいいのだ。
しかし、そのどうでもいいことの積み重ねの上にしか、人間の生活はない。
大所高所の社説ではなく、社会面のベタ記事でオレの周りは成りたっている。
それにオレはアナログな人間だ。
たしかにパソコンもあるし、それなりに利用はしている。
パソコン操作に泡を食っている初心者のお助けも商売の一環だ。
その程度のスキルなら、誰だってできるようになる。
しかしデジタルはどうも騙されている気がしてならない。
胡散臭いのだ。
胡散臭いオレがいったところで、説得力がないかも知れぬが、不信感が払拭できない。
新聞を信用しているわけではない。
ただ、紙に書かれている、その事実に安心感はある。
古書店の黴臭さに対する信仰みたいなもんだ。
活字フェチ?
かもな。


ざっと読み終わり、テーブルに足を放り投げてハイライトに火をつけた。
安っぽいスチールドアをノックする音がなった。
「鍵はかかっていない。勝手に入ってきてくれ。ただしセールスはお断りだ」
たてつけの悪いドアを押し開いて女が入ってきた。
こんにちは、とその女はいった。
女を見た瞬間、オレは思わず足を引っ込め、少しのけぞったと思う。
美しい…。
腰が抜けるほどの美人だった。
スタンダードをどこに定めるかで、美人は変わるのかも知れぬが、オレはこれほどの美人に出会ったことがない。
オレのスタンダードでは、一点の瑕疵もない。
完璧なる美人というのが存在するのか?
背は高からず低からず。
痩せても太ってもいない。
女性美というたおやかな脂肪の角という角を滑らかに削り落とし、造形の極北が創られているという印象だ。
すっきりと纏められたひっつめ髪が、小ぶりな顔を引き立てている。
輪郭のはっきりした目鼻立ちが意志の強靭さを窺わせる。
年は…そうだな、目の子、二十七、八といっておこう。
オレの手は意味なく空中をヒラヒラとしたのではなかろうか。
すれっからしの初老男がみっともないが、仕方あるまい。
諸君らとて、このシチュエーションではそうなる、と断言しておこう。
はじめまして、と女は軽く会釈をした。
鈴の転がるような声に思わず尾てい骨の一部に電流が走る。
あ、ども、はじめまして、と答え、とりあえずラブホあがりの椅子を勧めた。
女は流れるように腰から先にスッと椅子に身体を沈めた。
がさつな女は腰が後になる。
顔立ちだけでなく、挙措動作もできるぜ、この女…。
「ふむ。話を聞こうか。単刀直入にいってくれ」
オレはハイライトをもてあそびながら尋ねた。
「妹を探して欲しいんです」
女はまっすぐオレを見据えていった。
凛とした響きに、断固、の思いがある。
「人探しってことかね。無論、それもここの守備範囲だな。先に料金の説明からしようか」
「この事務所に料金表とかがおありになるの?」
「成文化されたものはない。すべて口頭だ。料金も気分次第だ。それこそペットの躾指南から非合法スレスレまでなんでもやる。料金システムはただひとつ。わたしの言い値でお支払いいただく。それも全額前金、現金で。ことの成就如何にかかわらず、ね。成功報酬という形はない。ただ…」
「ただ、なんですの?」
「不首尾の場合、こちらの判断でいくばくか返金することもある。いくばくか、ね」
オレはハイライトを咥えながらいった。
「どうぞ。吸われてかまいませんわ。わたし、偏狭な禁煙主義者ではありません」
「ありがたい。じゃ、言葉に甘えさせてもらう」
テーブル横の排煙器を最強にして、オレはハイライトに火をつけた。
「ハームフルであることはわかっちゃいるがね、どうにもやめられん。で、続きだが…依頼の内容で断ることもある。それでよろしいかな?」
「ええ。わかります」
女はただの美人じゃない。
玲瓏に輝く額から知性が感じられる。
「妹を探し出すとは、どういう依頼なのかね」
女はゆっくりと、しかしよどみなく話を始めた。
おれは時折、煙を吐きながらじっと聞き続けた。


一時間ほど話した後、いくつかの質問をし、オレは女に告げた。
「わかった。この金額で受けよう。ただし料金の銀行振り込みはなしだ」
オレは金額を記入した紙片を女にわたした。
女はサッと目を紙片に落とすと、あら、という顔をした。
「そこいらの探偵事務所よりは高いと思う。しかしオレは追加請求しない。いずれにせよ高過ぎると思えばやめればいい。まだまとまったわけじゃないしな。直感に従えばいい」
女は莞爾とした。
「いいえ、違うわ。こんなものなの、と感じたの。初めてだから相場というものもわからなかったからかしら」
ちぇっ、美人で知性がありそうで、しかも金に不自由しないとくるのかい。
もう少し吹っかければよかったか。
「明日、現金をお持ちすればよろしいかしら?」
「ああ。それまでに調べられることは調べておこう。それから動いてみる。ペーパーでいちいちは報告しない。見つけ出して、帰宅させればいいんだな」
「そう。妹が帰ってくれば、報告書なんていらない。ただのゴミよ」
女は高そうなワンピースの裾をフワリとさせながら立ち上がった。
「きっと、お願いします、妹のこと。探偵さん」
「いや、オレは探偵じゃない。便利屋だ。人探しもするが、犬の散歩も請ける」
女は振り向きもせずに、へっぽこスチールドアを押して出て行った。


その足でオレは図書館に向かった。
思いつく限りの関連図書を制限一杯借り出した。
とても自力では運びきれず、タクシーをとめ、運転手に手伝ってもらってトランクに放り込んだ。
事務所に図書を運び上げると、息が切れた。
煙草と深酒はやはりこたえる。
冷蔵庫から冷えたほうじ茶を取り出した。
こいつは二日おきに和田のオバサンが入れていってくれる。
喉が渇いたとき、これほどうまいもんはない。
スーッと喉を滑り落ちると、細胞の一つ一つが瑞々しくなる気がする。
ベフッ、と億尾をかまし、オレはパソコンに向かった。
いくつかの言葉をキーワードに検索をかけるのだ。
こういうときにパソコンは実に便利だ。
オレはアナログだ、と嘯いてはいるが、調べ物にはデジタルは重宝する。
キーワードを打ち込み、検索をクリックする。
そこからあちらへジャンプし、こちらのリンクを覗く。
めぼしい情報があれば記憶素子にダウンロードし、これは、という記述、画像はプリントアウトした。
紙の束が厚くなったころ、遅めの昼食を取りに外へでた。
手に借り出した一冊の文庫本を持って。
タイトルには「人はなぜエセ科学に騙されるのか」とある。
本を片手にビールと坦々面を食う。
オレは本に引き込まれていた。
ビールをもう一本注文した。
中華そば屋のオヤジが眠たげにビールを運んできた。
そば屋のオヤジが居眠りを始めた頃、オレは店を出た。


事務所にもどり、何本か電話をかけた。
今、やっている便利屋商売の報告だ。
お客様は大切にする、これが当事務所のモットーなのだ。
これで便利屋商売の潜在需要の掘り起こし、ということもできるだろう。
おかしいか?
おかしきゃ嗤え。
しかしな、フリーランスは常に瀬戸際なんだよ。
最後にケンスケの携帯に電話を入れてみた。
ケンスケは電話に出ず、メッセージを残しておいた。
今晩、時間があったらマリーの店に来てくれないか、と。
それからは陽がすっかり翳るまで資料の活字を追いかけた。
ハイライトがくすぶり、灰皿がうず高くなった。
小腹も空いてきた。
黒パンをスライスし、生玉葱、アンチョビ、オリーブを挟んで簡単な夕食にした。
濃い目に淹れた紅茶にたっぷり牛乳を加え、モサモサと食う。
係累もなにもない、フリーランス便利屋の食事なんてこんなもんさ。
腹がくちくなればいいのだ。
わびしくないか、だって?
おいおい、甘ったれたこというなよ。
ガキじゃないんだ。
いいかね、わびしいとは快適なことなんだぜ。
浴室に行き、歯間ブラシとデンタルリンスで口をゆすぐ。
さらに裸になり、シャボンで身体中を洗いたて、熱いシャワーで流した。
重たかった舌が軽快になり、薄皮のようへばりついた初老脂とヤニがさっぱり流されていく。下着、靴下、ワイシャツ、すべてを取り替える。
便利屋という鼠商売であっても、オレは不潔だけは我慢ならない。
身体から不潔が臭うだけで、客商売はなりたたない。
とりわけフリーランスならなおさらだ。
身体そのものが商売の形なんだからな。
背広の場合、アンダーシャツとステテコは欠かせない。
夏の炎天下、ポリ混の安物ワイシャツが素肌にベッタリ貼り付いてる姿は、無様そのものだ。
本人は下着なしを気取っているのかもしれんが、その汗みずくの姿は不潔以外のなにものでもない、と一刻も早く気付くことだ。
臭うんだよ。
黄ばんでんだよ。
ワイシャツは下着なんだから着なくていいなんて、聞いたふうなことをぬかすな。
それは冷涼な欧州の話だろうが。
残念ながら、日本は亜熱帯モンスーン気候なんだよ。
おっと、いかんな。
説教くさくなるのが初老の悪癖だ。


事務所に鍵をかけ、ブラブラ歩いて地下鉄のあるメインストリートを横断する。
それからしばらく歩いたバーが今夜の口開けだ。
まだオカマのマリーの店は開いちゃいない。
朝まで飲める分、始まりが遅いのだ。
ひっそりと壁面に溶け込んだバーの重たいドアを押して店に入る。
ふむ、見事だ。
いつもながら掃除の行き届いている店だ。
毎日、オガ屑で掃いているだけあって、空気までが清潔に冷たく保たれている。
説教ついでにもう一言いおう。
不潔な店は敬遠しろ、これが鉄則だ。
ラーメン屋は少しぐらい不潔なほうが美味い、というバカがいる。
こんなバカのいうことを信じるな。
およそ食い物屋が不潔なのは、その店の主人の常識が破綻しているのだ。
客を舐めている。
そんな亭主の作るものが上等なわけがない。
それを有難がるバカはほっとけ。
バカは隣の火事より怖いのだ…。
と、説教はオレの悪癖だ。
許せ。
説教便利屋ってとこだな。
まあ、いい。
なんとでもいってくれ。

スツールに尻を預け、まず口開けはキンキンに冷えたジンを頼む。
冷凍庫から出されたジンがショットグラスに満たされる。
丁寧に拭き上げられていたグラスが、一瞬で霜をまとう。
これを二口でやる。
清冽が喉を滑り落ちる。
それは胃袋で加温され、腹の底から温もりが立ち上がってくる。
指先に血液が回ってくる。
オレはいけないクスリをやったことはないが、血液の代謝循環を感じる点でクスリは酒と似ているのかもしれない。
ただ不思議なもんで、ジャンキーで、しかもアル中というヤツを知らない。
いずれか一方に依存している。
身体の要求する好き嫌いの問題なんだろう。
チェイサーを含んで残りのジンを放り込んだあと、バーボンのストレイトを頼んだ。
これならチビチビいける。
オレはハイライトに火をつけた。
適度な酒精と紫煙は思考を平滑にする。
オレは女の依頼と資料のあれこれを、頭の中でシェイクし、統合しようとした。


胚胎したのは簡単な結論だった。
女の妹は、なんでも、波動研究とかにはまっているらしい。
物理学でいう波動ではなく、宇宙万物は波動よりなる、という荒唐無稽なインチキ科学に、だ。
妹はすっかりいれあげてしまい、その研究所本部に住み込んだらしい。
女はその妹を取り返したい、ということだ。
妹の年齢は二十四歳。
成人過ぎているのだから、新興宗教がごときインチキ科学にはまるのも、そいつの自由だと思う。
世間に迷惑を及ぼさない限り、判断停止の催眠状態でもよろしかろう。
ただ取り返すことはオレが請け負った仕事だ。
ならばこれは児戯に等しい。
手順はこうだ。
その研究所本部へ行く。
妹に会う。
強引に連れ戻す。
ザッツ・オール。
少々、面倒なことが起こるかもしれん。
が、それは料金算入済みだ。
それにこの商売を長年やってりゃ、サツカンの扱いにも馴れている。
ブタ箱二泊三日なんざ、何度も経験している。
短期間の断酒断煙も健康維持のためと思えばいい。
なるほど。
これは帆待ち仕事としては、ワリは悪くない。
オレは二杯めのバーボンを啜りながら、ほくそ笑んだ。
あとでイヤというほど、自らの甘さを思い知らされるのだが、このときは想像もつかなかった。


一時間ほどそのバーで過ごし、オレはタクシーをつかまえた。
外は細かい雨が降り出していた。
行き先を告げる。
そこは依頼主の妹が住み着いたという波動研究所の本拠地だ。
ラッシュも一段落し、思いのほか早く、少し郊外にでたところにある本部が見えてきた。
ここはいわゆる高級住宅街だ。少し小高くなっており、緑の木々がたくさん残っている。
その一角にある小洒落たマンションに本部はある。
事前にネットで調べてみたが、このマンションのワンフロアをぶち抜きで使っているらしい。ただし景観に配慮してなのか、それらしい屋外看板はない。
オレはタクシーをマンションの入り口につけてもらい、ちょっと待っててくれ、といい残して車外に出た。
郵便受けのボックスを確認した。
確かにこのマンションの二階すべてが××波動研究所本部、という表示になっている。
残りの階の表示には空きが多い。
これも「個人情報保護」たらいう匿名慫慂の風潮なのかもしれん。
ちょうどオートロックを出てくる婦人がいた。
品も育ちも良さそうな老婦人だった。
オレは思い切って声をかけることにした。
「あ、すいません、よろしいですか」
 老婦人はちょっとすくんだようだった。そんなに怪しい風体はしていないんだがな、まあ、仕方あるまい。
「なにか、ご用ですか」
「あの、このマンションの二階に××波動研究会というのが、ありますよね。あれ、いつぐらいからここに入っているんです?」
「あなた、あの研究会の方でいらっしゃるの?」
「いえ、まったく。ちょいと人探しってやつでしてね」
「研究所の方を探していらっしゃるの?」
「ええ、まあ、そういうとこですかね」
「そう。研究所に無関係ならお話しましょう。ほんと、迷惑しているんです、あそこには」
「といいますと?」
「まず得体のしれない若い男女が頻繁に出入りしているわね。それにその親御さんなのかしら、帰って来いだの、帰らないだの、ずいぶん遅くまで毎日のように揉めているわ。どうも胡散臭くって仕方がないの。おかげでせっかく静かで住みよいマンションだったのに、今じゃ、大半の方が引っ越していかれたわ。私も近々、越す予定よ。まったくあの研究会に乗っ取られたのと同じよ。業腹ったらありゃしない」
老婦人は腹立たしげにいった。
「そうですか。で、いつごろ入居してきたんです、その研究会?」
「あら、そうだったわね。えーと、そうね、三年ほど前かしら。それからは、すっかりこのマンションの雰囲気が変わってしまったわね。最近じゃ、面白半分かもしれないけれど、マスコミも時々、来るみたい。なんでも研究所のトップがどうとかこうとか、で。関わりたくないから、よく存じませんが」
「若い連中が多いんですか、出入りしているのは?」
「そうね。比率としては、若い方が多いみたい。でも、年配の方もたまに見かけるわね。でも、それは心配された親御さんかもしれないわね」
「ああ、さっき仰ってた帰る、帰らないってやつですか」
「そう。新興宗教みたいなものじゃないの。で、もう、よろしいかしら?出かけるとこなのよ」
「あ、それはどうも。お手間をかけました。ありがとうございます」
老婦人は会釈をすると、いかにも高そうな傘を広げて歩き出していった。
オレは待たせてあったタクシーに乗り込み、元に戻るようにいった。
小糠雨が降り続いている。
路面にオイルの染みが都会の夜の虹を放っている。
対向車のヘッドライトがさっとそこをなでると、瞬間、鮮やかに浮かび、刹那、無残な虹のハラワタをさらけだした。
フーッ、簡単じゃねぇか、実に簡単だ。
ケンスケに今晩会えれば、すべて解決だ。
ちょいと強引にいけばいいだけだ。
こんな依頼は何度もやった。
四の五のいわせずに、チャッチャッと研究所から女の妹を引き剥がしゃいいんだな。
できればハト派的に丸く収まりゃいいんだろうが、まあ、世の中ってな、そうそう理屈だけじゃ収まらない。
時に腕力がいることもある。
最低のやりかただろうが、最低の連中には最低の手段でいくしかあるまい。
理性と言語ばかりで世間は成り立っちゃいないんだ…。


オレはハイライトのパッケージから一本抜き出し咥えた。
それをバックミラーでチラと眺めたドライバーが、お客さん、禁煙なんっすよ、と困ったようにいった。
わかってる、咥えているだけだ、とオレは答えた。
チェッ、これも時世時節の流れかよ。
煙草は吸うな、酒も飲むな、太るな、節制しろ、ああ、そうかい、みんなまとめて健康になってくれ。
それで余った健康保険はオレが使ってやるよ。
どんどん健康になってくれ。
いいんだよ、オレは、根っからの天邪鬼でな、人と反対に行きたいんだよ。
健康ファッショじゃあるまいし、誰でもいつかはくたばるんだ。
それが遅いか早いかだけだろうが。
もっともミック・ジャガーがジョギングをし、キース・リチャーズがクスリをやめるご時世だからな…。
健康オタクなロッカーなんざ、聞いたことねぇ。
ロッカーってな、普通、デタラメな生活破綻者という思い込みがあるんだがな。
オレ?
オレは煙草も吸うし、いつも二日酔い状態だ。
太っちゃいないが、それなりに腹の肉はたるんでる。
クスリはまったくやったことがない。
たまに知り合いのドクターからハルシオンをもらうくらいだ。
運動は…しねぇな。
節制も…しねぇな。
やりたいようにやってるだけだ。
それでなんとかかんとかなった。
これからもそうなるかはわからん。
わからんが、考えても詮ない。
危険な大病です、と宣告されたらオタつくさ。
きっとジタバタする。従容と運命を受容するほど、オレはできた人間じゃねぇよ。
ドクターに泣いてすがりつき、神仏の加護を願いまくるね。
ただ、今はそうじゃない。
大酒飲める程度には生きている。
それでいいんだよ。
国保も年金もちゃんと払っているしな…。
ああ、そうだ。
NHKも口座振替だぜ。
いろいろと意見もあるだろうが、見ているのに一銭も払いたかねぇ、ってのは、オレのスケールでいえば、セコいな。
文句は払ってから言う、これが筋じゃねぇかな。
タダで見ようなんざ、大野暮だ。
食い逃げと一緒じゃねぇか。
文句があるなら、見るんじゃねぇ。
そういうことだ。


オカマのマリーの店の前は一方通行なので、地下鉄側の大通りでタクシーを降りた。
時計を見ると十時近い。
多分、マリーの店の看板も上がっているだろう。
霧のような雨の中をオレは店へと歩き始めた。
営業中のプレートがかけられた扉を押して中に入ると、オカマのマリーが、あら、早いのね、と声をかけてきた。
「ああ、人待ちでね」
オレは座るなりハイライトに火をつけ、大きく吸い込んだ。
「だれを?」
「ケンスケ。それより、まずビールをくれ。喉が渇いた」
キーンと冷えた瓶ビールとグラスがカウンターに置かれた。
この店のよろしき点は、そう、清潔である。
この手の店にありがちな乱雑さと埃っぽさがない。
実に掃除と整頓が行き届いている。
いくら怪しげなオカマーバーでも、不潔なのは願い下げだ。
オカマのマリーは、性格なのよ、キチンとしてないとイヤなの、という。
よろしい。
そうでなくてはいけない。
金を払って飲むにあたり、美味い不味いより優先されるべきことである。
注いだ途端に汗をかいたグラスを手に、一気に放り込む。
それは冷たく喉を滑り、干からびた身体に潤いを与えた。
うまい。
鼓腹撃壌。
天の美禄。
まれに妙なこだわりで、ぬるいビールを出す店もある。
あれはいただけない。
冷湿なブリテンじゃいいかもしれんが、ここは日本だ。
夏ともなれば、脳天から炎熱放射状態になる。
そこでぬるいビールなんて、おぞけがする。
ビールは新鮮、かつキンと冷えてなきゃいかん。
オレはビールで一息入れ、バーボンのロックを頼んだ。
チビチビと啜りながら、依頼主の女のことを思った。


女が名乗った名前は、ある資産家のそれだった。
無論、偽名ということもあろうが、本名だとしよう。
事実、話のディテールの固有名詞や説明にリアリティがある。
第一、仮に嘘っぱちでも金が入ればいいのだ。
女の一家は戦後のドサクサで一気に土地を買占め、高度成長を追い風とし、またたくまに巨大なビジネスを形成した。
時に僻論好きなイエロージャーナルのネタになることもあるようだが、本業はビクともしない。
女の名前が本名なら、フーズ・フーで調べる限り、その一族の嫡流末子の長女ということになる。
そんな女が、なんでオレのような鼠に依頼をもってきたのだろう。
金にあかせて、もっとでかい業者に頼むこともできる。
あるいは警察にガツンとやらせる手もある。
まあ、事情が事情だから、頭にヤのつく自由業組織でもいいかもしれん。
この点、疑問は残る。
まだ、ある。
なぜ姉(と申告している人間?)が頼みに来る。
普通は親だろ?
父親でも母親でもいい、娘がこうなって、ああなって、と泣きながらすがりつく、って図のほうがウンと据わりがいい。
係累間のイザコザか?
まぁ、金さえ頂戴できりゃ、イザコザでもナンでもやってくれ。
係累間のモメ事は、請負金額に含まれていないのだ。
しかし、それにしても…。
あんな美人には滅多にお目にかかれまい。
いや、そうじゃないな。
オレのこれまで出遭った女の中で、少なくとも五本の指に入る…これも違うな。
彼女こそベストだ。
ワンアンドオンリーだ。
素直に脱帽しよう。
あと十歳若けりゃな、そりゃもうコトの成否はともかく、泣いて笑ってすがりつき、土下座してでもヤラして下さい、と拝み倒していたと思う。
今はそうだな、すでに美の解釈と鑑賞に心遊ばせる侘び寂びの世代、そういうことにしておこう。
死ぬまで生臭くありたい、と願っちゃいるのだがな。


次のバーボンを啜り終える頃、ウィースッ、と無愛想な挨拶を投げながらケンスケが入ってきた。
相変わらず、筋のブキブキした痩身だ。
体脂肪率数%だろう。
しかし、この体つきに騙されちゃいけない。
鋭利な金属を持たせると、オレはこれほど剣呑な男を知らない。
トマトジュース、とケンスケがマリーにいった。
さよう、ケンスケはアルコールを受け付けない体質なのだ。
そのくせこういう怪しげな飲み屋に時々現れる。
酒も飲めんのに面白いか、とケンスケに尋ねたことがある。
その問いにケンスケは、どっちでもいい、と答えた。
それじゃ答えにならんだろ、と説教を垂れると、オッサン、オレに意見するのは百年早い、とぬかしやがった。
「おい、ケンスケ。えらく威勢がいいな」
「そうだな、アンタよか二十は若いからね」
「虚勢は若者の特権、ってことか」
「いいや、オレはアンタ以上にいろんなことを見てきたからね」
「ほう、どういうことだい?」
「生まれたときからさ。それからたくさんのことが…ありすぎたな。いずれおいおいわかるさ」
ああ、この会話はずいぶん昔のことだ。
もうかれこれ、十年にはなるだろう。
その十年のあいだに、オレはケンスケの暗い襞をいくつか見せられた。
例えばナイフ扱いの練達ぶりもそうだ。


ズルッと音をたててトマトジュースを啜りこむと、ギターを貸してくれ、とケンスケがいった。
オカマのマリーが、心得ている、という顔つきで、壁面にラック掛けしてあるギブソンのアコースティックギターを引き剥がし、ケンスケに渡した。
ケンスケは慈しむようにボディを撫ぜ、静かに調弦を始めた。
掛け値なしにケンスケはギターと歌がうまい。
ただし、ブルースしか弾かないし、唄わない。
エラソウなことはいえんが、ライトニング・ホプキンスを想像してもらうといい。
そもそもケンスケの相貌そのものがライトニング・ホプキンスに似ている。
一瞬で暴発する危うさを秘めた鋭い顔だ。
それは三人を殺したという伝説をもつライトニング・ホプキンスに通低するイメージなのだろう。
二小節のターンオーバーを爪弾くと、ケンスケは低くブルースを唄いだした。
暗い怨念をスリーコードに押し込めた魂の叫び。
野暮きわまりない褒め言葉だが、ケンスケのブルースは多分、プロで通用する。
オカマのマリーが背面のボトルラックから、メタルカバーの小さなハモニカを取り出した。
吹き吸いする穴が十個しかないため、正しくはテン・ホールズ・ダイアトニック・ハモニカ、通称をブルース・ハープという。
驚くんじゃないぞ。
オカマのマリーは、これまたブルース・ハープがべらぼうに巧い。
この二人はオレがオーディエンスのときにだけやってくれる。
二人きりでもやらないし、無論、他に客がいれば話題にすることすらない。
なぜだい、とケンスケに尋ねたこともあるが、アンタのような仏頂面にこそブルースに似つかわしいからさ、と煙に巻かれた。
一節、ケンスケが唄うと、畳み掛けるようにマリーのハープが応酬する。
コール・アンド・レスポンスってやつだ。
この掛け合いがブルースの醍醐味だ。
アバウトなようで、その底は暗くて深い。
ああ、ついでにいっておこう。
この二人は英語が堪能だ。
ただしひどい南部訛りだが。
震えるようなエロキュエーションと微妙に跳ね上がる語尾が、それだ。
ケンスケは若い頃、ディープサウスを放浪していたからだというし、マリーはマリーで、昔の恋人がジョージア出身だったからよ、という。
フン、本当なんだか与太なんだか…。
ケンスケが終章を弾き終わり、マリーのベンド音がブルージーに覆いかぶさった。
オレはハイライトの煙とともに、大したもんだ、と頌辞を呟いた。


「で、ハナシって、なんだい」
ケンスケがマリーにギターを手渡しながら、聞いてきた。
「ああ、またケンスケの腕を借りることがあるかもしれん、ってことでな、ちょいとアナウンスしておこうってことさ」
「ふーん、そうかい。いいよ、いつでも。オレも金にもなるしね。とりあえず聞いておこうか」
ケンスケはメンソール煙草を一本抜き出し、こちらを向き直って火をつけた。
オレはこれまでの流れをかいつまんで説明した。
ただ依頼者がとびっきりの美人だということは伏せた。
すまん、ケンスケ、オレは度し難い俗物だ。
「なんだ、込み入った話か思ったら、そんなことなんだ。簡単なことじゃん。その本部に行って、妹を強引に引っぱがしゃいいだけだろ?アンタだって、それくらいの知恵はあるだろ」
「知恵はないな。玄関でゴテて引っ張り出すだけだと思っている。オレは経理計略ということを知らん。こうしたい、と思うことをそのままやるだけだ。そういう点、オマエの方が一枚も二枚も上手だ」
「連れて帰れなかったら、オレの出番ってことだね」
「ビンゴ。頼まないで済めば、これほど楽はないがな」
「わかった。出番がきたら、伝言サービスに連絡を入れてくれればいい」
「よし、交渉成立だ。マリー、ケンスケに特別なのを一杯奢ってやってくれ。オレも飲む。マリーも飲んでくれ」
オカマのマリーがにこりと笑った。
素敵な笑顔なんだが、ファンデーションでも隠しきれない濃い髭を見ると、どうにも…オレはその方面は極めてスクウェアなんだよ。
マリーはカウンターの下に屈みこみ、抹茶を点てる用意をした。
そう、お薄をいただくんだ。
マリーは茶道の心得がある。
オレもケンスケもまったく暗いが、なに、うまいお薄をうまそうに飲めば、それでいいはずだ。
第一、ここは気取って飲む場所でもないし、チマチマじゃなく、たっぷり飲みたい。
マリーの見事な腕を経て、大振りの茶碗が三客並んだ。
それぞれ手に取り、静かにいただく。
うまい。
オレはコーヒーが嫌いだが、日本茶は大好きだ。
特に酒を飲んだ後の仕上げのお薄は、しみじみうまい。
ネトつく舌が流され、生き返る。
弛緩しきった頬の裏側がキリリと引き締まる。
最後に鼻へ清冽が抜けていく。
オレに言わせりゃ、酒の肴としちゃ、上等なお薄は実によろしい。
日本酒でもウィスキィでもいい、一杯やるたびにお薄で舌を洗うんだ。
舌がいつも新鮮になり、酒の良し悪しがてきめんにわかる。
ただし酒が進みすぎるのが難点だ。



久しぶりに二日酔いでない朝を迎えた。
ケンスケとはあのお薄で別れ、そのまま事務所に帰ってきた。
普段に較べると摂取アルコールは格段に少ない。
爽やかだ。
分かっちゃいるのについついやりすぎてしまう。
何十年と飲み続けても、まったく学習できていないってことだ。
まあ、いい。
オレは梅干と煎茶を口に入れた後、シャワーを浴びた。
身体を流れる水滴のはじきがめっきり悪くなってきている。
はちきれるような皮膚の若さは望むべくもない。
そのくせ妙に老人臭い脂が染み出てくる。
チェッ、歳は取りたくないもんだ。
歯を磨き、下着を含めすべて取り替えた。
これでスッキリする。
さ、お仕事モードだ。
新聞をバサバサと広げ、活字を追う。ニュース専門チャンネルの有線テレビも点けた。
相変わらず、どうにも理解に苦しむ事件が多すぎる。
男と女の情痴の果ての惨劇、なんてな据わりがいいし、さもありなん、と納得できる。
しかし子殺しだ、イジメ殺人だ、虐待死だと並べられると、もうダメだ。
なにか根本のネジがはずれていて、大切なことがないがしろにされているウソ寒さを覚える。
評論家のようにしたり顔でモノ申す気はない。
こんなことが当たり前になる世界へと、歴史が曲がってしまったんだろう。
神の意志なのさ、きっとな。
ブツクサと説教臭いことを考えていると、へっぽこスチールドアがコンコンとノックされた。


開いてるよ、とドアに向かっていうと、おはようございます、と昨日の別嬪サンが颯爽と現れた。
うーむ、二度目のオメモジだが、見事な女だ。
隙がない。
なり、かたち、所作振舞い、口吻、物腰、どれをとっても過不足がない。
嫌味かい、といいたくなる。
オレがもう少し若けりゃ…口惜しいが仕方ないか。
「おはよう。クライアントさんが、こう早くお目見えになると、まごつくな」
「あら、どうしてかしら?」
「なにごとにも似つかわしい時間ってのがあるんだ。こういうドブネズミ商売は、日が暮れてからが相応しい。そう思わないか?」
「馬鹿なことおっしゃらないで。なにより朝から依頼主が現れるということは、それだけ盛業ということじゃないかしら」
「そう。確かに、ね。しかしこれまではヒマが固まったような事務所だったからな、盛業ということにピンとこない。戯言さ」
オレは女を応接セットに掛けるよう、目でうながした。
「お約束のお金を持参したわ」
女は優雅な身のこなしで腰掛けると、スイッチを捻るように、サッと話題を変えた。
ハンドバッグを開けると、女は中から分厚い封筒を取り出した。
バッグだって安かねぇぞ。
オレはブランド物にはまったく疎いが、モノの良し悪しはその佇まいでわかる。
パチモンとホンモノは並べれば一目瞭然だ。
この判断力はな、パチモンだらけで生きていけば自然に身につく。
それさえ身につかないヤツは、真性の非学習者なのさ。
常時、安酒を飲んでいれば、上等な酒がすぐにわかるのと一緒だ。
量が質を嗅ぎ分けるっていう寸法だな。
どうぞ、お確かめ下さい、と女は封筒をテーブルに押し出した。
オレはその封筒を受け取ると、ソファの背面にあるデスクに載せた。
「あら、確認なさらないでよろしいの?」
「あなたのことは少し調べさせてもらった。あなたの立場、出自なら、たかだか数万円を誤魔化してほくそ笑むようなことはないだろう。この商売、企業信用調査も主たる守備範囲だ。付帯して人間の信用調査もやる」
「あら、わたし信用されているの?」
「こと金に関しちゃね」
「それ以外はどうかしら?」
「判らないし、興味ないね。鼠商売に金以外のパラメーターはない。ああ、それと。昨日伝えたように、領収書はなしだ」
「結構です、それで」
女は悠揚迫らざる態度でいった。
若いがブレのない風格をしている。
これは半端なことで身につく品性じゃない。
血と教養、それに気の遠くなりそうな金で磨かれたものだろう。
この商売を長いことやってりゃ、人間の値踏みにそうそう外れはない。
きちんと金を払うかそうでないか、フリーランスにゃ生命線だ。
ただしバクチは外れっぱなしだがね。
「これが必要だろうと思って用意しました」
女はA4サイズの封筒をとりだした。
「妹の写真です。まごつかれても困られるだろう、って。大判でプリントしてあります」
オレは封筒を受け取り、遠慮なく拝見すると伝え、写真を取り出した。
ほう、とオレは思わず声をあげた。
「あなたも美しい方だが、妹さんも超一流だな」
この美しさは、そうだな、その存在に自然と畏まらざるをえない聖なるもの、そういえばいいか。
依頼者の姉に比較すると、わずかに儚げな印象がある。
それとて、むしろたおやかである、と評価もできる。
単に綺麗なだけなら、芸人にいくらもいる。
しかし彼女らにはどうしても抜きがたい下品さが漂う。
それは多分、芸人が被差別者として辿ってきた歴史がそうさせるのだと思う。
どこかに無法者たる胡散臭さがつきまとうのだ。
ああ、また鼠がエラソウな説教を垂れちまったな。
一番胡散臭い鼠がいったところで、説得力に欠けるな。
「いつから着手していただけるのかしら?」
「可及的かつ速やかに」
「それは今日からということ?」
「多分」
「アバウトなのね」
「フリーランスはどうしてもそうなる。ご理解いただきたい」
「信頼できるのかしら?」
「難しい問いだな」
「なぜ?」
「最初に申し上げた通りだ。全力で依頼された仕事には取り組む。商売柄、時として脱法スレスレの事態に立ち入ることもある。それは仕方ない。やる。しかしオレは基本的にはハト派だ。できないことはできない」
「あら、ずいぶん弱気が先行していらっしゃるのね」
「そう。勢いで突っ走り、再起不能になったヤツをずいぶん見てきたからな。弱気の小心翼翼、これが当事務所の方針だ」
「事務所でなく、あなたの方針ね」
「個人事務所だからな。会社組織なのも税金対策でしかない」
「お食事は?」
女が唐突に聞いてきた。一瞬、虚をつかれ、なにを尋ねられたのか理解できなかった。
「え、あ、いや、まだ…かな」
「あら、若い女に尋ねられると、ハードボイルドぶりもかたなしね」
女は下を向いて苦笑した。
クッソー、すれっからしの初老をからかうなんざ、いい度胸じゃねぇか。
しかし、ヘドモドしたことは認める。
しゃあねぇだろ?
ハンパな女じゃないんだぜ。
腰が抜けそうな美人なんだ、舌噛まないだけでもエライと思えよな。
「食事でも一緒に、という謎掛けかい?」
「ご面倒でなければ」
「喜んで。美人と食べりゃ、さぞうまかろう」
「あら、それは営業用語なの?」
「いや。オレは大嘘つきだが、女にはいつだって誠心誠意がモットーだ」
「悪くない心がけね」
「そうありたいと拳拳服膺している」
「難しい言葉ね。死語じゃないかしら」
「いいんだ。無内容をごまかして、相手を煙に巻ける。便利この上ない」
壁の時計を見ると昼食には少し早い。
が、いい。
胃袋は惚れた欲目だけで自在に膨らむ。
腹は減らすことができるのだ。
こんな女に見栄を張ってもお里が知れるだけだ。
昼飯可能な超高級店を、いきなりガイドブックで調べだしても、付け焼刃で太刀打ちできるわけがない。
男はここで自滅する。
気後れが頓珍漢を招来してしまうのだ。
ヒッティングゾーンを頑なに守る、これがセオリーだ。
「中華でどうだ」
「うれしいわ。ご馳走になってよろしいのかしら」
「クライアントとの打ち合わせ会食は必要経費だ。堂々と営業経費で申告する」
タクシーを拾い、女とオレはダウンタウンにある都市ホテルへ向かった。



都市ホテルのよろしき点は、清潔は当然として、金さえあればサーブが万全であることだ。
料金とサーブには見事な相関関係がある。
まず間違いない、という都市ホテルなら、大人のスペースとして実に居心地がいい。
料金がホテルのグレードを端的に示していると考えればいい。
オレ風情がこのクラスのホテルを常時使用なんて、無論できっこない。
素寒貧フリーランスにゃ、敷居が高いのは事実だ。
しかし、だ。
敷居はクレジットカードが解決してくれる。
堂々と振舞えばいいのである。
どうだ、資本主義はありがたいもんだろうが。
エレベーターで二階に上がり、突き当たると中華料理の店がある。
オレはここの中華が好きだ。
うまいと思う。
何度か中国本土に旅したこともあるが、本場のそれはオレにはあわない。
味覚に対する民族の血が異なると思う。
日本流に味付けを変えた中華料理のほうが、断然いい。
いや、それは違う、断固、本場に限ると主張されるなら、どうぞ本場で鱈腹食ってくれ。
オレはごめんだ。
味覚音痴で結構だ。
給仕に、煙草を吸えるところにしてくれ、と頼むと、奥まった薄暗い隅に案内された。
これだ。
最近、喫煙席はロクなところに配置されていない。
同一料金でこの冷遇ぶりだ。少し値引いたっていいんじゃないか。
煙草呑みは辛いわね、と女が分かってくれた。
有り難いね、気の利いてる女はさ。
こんなところで給仕とやりあっても野暮なだけだ。
とりあえず案内された席に座り、適当に前菜やら麺類をオーダーした。
それにビールだ。
最初に運ばれてきたビールで喉を潤す。
女も一杯だけ、と付き合ってくれた。
「少し聞いてもいいか」
オレは前菜をつついていた前菜の箸を止め、女にいった。
「なにを?」
「オレが連れ帰ることを請け負った妹の歳は二十四歳といったよな。じゃあ、すでに成人だ。写真で見ても、分別のありそうな顔をしている。波動ナンタラが宗教でも科学でもいいが、触法行為がない以上、どう生きようと妹さんの勝手じゃないのか?」
「そうね、妹の生き方ですものね、ほっといていいかもしれないわ」
「じゃあ、なぜ無理にでも引き離そうとする?」
「そうしたいから」
「そうしたい…って、今とハナシが違うじゃないか」
「あなたの仕事は詮索なの?」
オレは答えに窮した。
その通りだ。
請け負った仕事は仕事であって、必要以上の詮索はしないのが業界のルールだ。
「すまない。つまらんことを聞いてしまった。忘れてくれ、基本スタンスを逸していた」
「いいの。おかしいと思われてもしかたないわ」
女が宙を指していた箸を、まっすぐに箸置きへ並べた。
そうしてオレを正面に見据えると、きっぱりと話し始めた。
「どこまでお調べになったの?無論、わたしたちの家族のことはお調べになったんでしょ?」
「ああ。資料としてわかるところまではね」
「戦後のドサクサの成り上がり、安出来の家というのはご存知ね?」
オレは無言のまま、首を縦にふった。
「わたしや妹の姿を見て、なにかお感じにならない?」
「並外れた美しさだと思う。尋常でない気さえする」
「そう。わたしや妹はそれがイヤ」
は?
なにをいいだすんだ?
美しいことがイヤ?
「あなたのいうことの意味が理解できないのだが…」
「とにかく妹を連れ出して頂戴。そうすればあなたにもわかってもらえるかもしれない。もう少し、時間と知恵があなたには必要なの」
オレに知恵?
普通ならムッとするところだが、この女にいわれると、さもありなんと妙に得心してしまう。
「智慧のないことがオレに仕事が回ってきた背景なのか?」
オレはもう一つの疑問、なぜオレのような弱小零細なフリーランスに依頼してきたのかを、遠回しに聞いた。
「ええ。その通りよ」
なぜか女は童女のような笑顔を見せて答えた。
その通り、とはどういうことだ。
これじゃ、なんでオレに依頼がきたのか、皆目見当がつかない。
なんのヒネリもない馬鹿だからか?
使い捨てのきくフリーランスだからか? 
それともオレがときに非合法スレスレを厭わないからか?
女がオレの思考回路を破るようにいった。
「さ、食べましょうよ。しっかり食べていただいて、一刻も早く妹を連れ帰っていただきたいわ」
女は箸をまた握ると、盛大な食欲で皿を片付け始めた。
女の食べっぷりは惚れ惚れするような見事さだった。
加えて、マナーが実に優雅だ。
いいかね、諸君。
人間の品性があからさまになるのは、パブリックな場での振舞いなのだよ。
これを拳拳服膺して損はない。
そもそも人が本能をむき出しにする姿は、実に浅ましいことだと認識したまえ。
人が脱糞をする姿を見せようとするかね?
セックスを公開しようとするかね?
ゆえにこれらはすべて閉ざされた空間で行われるではないか。
まぁ、公開を好む癖のある人間もいると聞くが、そいつは合意の上でお好きなようにというしかない。
が、それがノーマルじゃないのは自明の理だ。
しかし、しかしだ。
食はパブリックで公開されるのだ。
この浅ましい醜い姿をわずかでも洗練しようとしたのが、テーブルマナーだ。
古今東西、すべての民族、時代にあってタブーやマナーは必ず存在する。
それは破廉恥を覆い隠す、人間の智慧なのだ。
ところが、さて。
パブリックたる場所で、箸も満足に持てぬ人間のなんと多いことか。
オレにいわせれば品性、教養の欠落だな。
またそのことになんら恥ずかしみを感じないのは、無知蒙昧の証左だな。
いくら着飾り、気取ったところで、食事のマナーがなってなけりゃ、そいつのお里はバレバレだね。
ははぁ、こいつ品性のカケラもない単なるバカだ、ってね。
箸すらキチンと持てぬTVレポーターが、番組でいくら言葉巧みに惹句を叫ぼうが、ゴミにしか見えぬのと一緒だ。
食事マナーすら分からぬ人間に物の旨い不味い、ひいては食文化が理解できるわけなかろう。第一、そんな無能の言葉なんざ、リアリティに欠けるわな…。
おっと、そうだ。
依頼主の女のことだった。
女はマナーも秀逸、もっと素敵なのはおいしそうに食べる、これが素晴らしい。
食に感謝し、おいしくいただく、これはマナー以前、人としての根本だ。
そもそもマズそうにしてたんじゃ、作ってくれた人に対して失礼だろうが。
とまぁ、それから以降、オレと女は依頼の話には一切触れず、食事を済ませた。
じゃ、戻るか、と立ち上がりオレはカードで支払いを済まそうとした。
伝票にサインするあいだ、女はキャッシャーから少し離れて立っていた。
女のそばにホテルマンが近づいてきた。
彼のネームプレートには「総支配人」の肩書きがあった。
彼は女に何度も、丁寧に頭を下げ二言三言いうと後ずさりしながら辞した。
女は軽く会釈をし、何事もなかったように立っている。
ふーん、女にとっちゃ庭みたいなもんなんだな、ここは。
女はわざわざ総支配人がすっ飛んでくるくらいの上客なんだろう。
なんてこったい、なにからなにまでこの女にゃかなわねぇや。


ホテルの玄関で、今から波動の本部に行く、と女に告げ、オレは一人で私鉄の駅に向かい歩き始めた。
女は、よろしく、というと手近なタクシーに乗り込み、反対方向へ去っていった。
ダウンタウンにある私鉄ターミナルに向かう。
そこから四駅目、殺風景な風景に緑が増えてくると波動本部最寄り駅につく。
そこから坂を少し上ったところに本部の入ったマンションがある。
昨夜、小雨模様で眺めた様子とは随分、印象が違って見える。
風景に地味に溶け込んだ、なかなか品のいいマンションだ。
ただ、このマンションの二階にある本部からは、瘴気のようなおぞましさが流れ出している気もするが。
二階ワンフロアすべてが本部だったはずだ。
オレは玄関のオートロックから呼び出しをいれた。
デジタルの無機質な跳躍音がインターホン越しに聞こえてきた。
「はい、××波動本部です」
ハキハキした声が返ってきた。
「あ、お忙しいところ恐縮です。そちらに川崎真理子さんがいらっしゃると思うんですが」
さよう。
妹の名前は川崎真理子という。
依頼者の姉の名は川崎真知子だ。
「どういったご用件でしょう」
「それは本人に直接しか申し上げられません」
「あなたはどちら様で?」
「川崎家の代理のものです」
「当本部に川崎というものは在籍いたしておりません」
「いや、しかし…」
「いないものはいない、としか申せません。ご足労いただいて恐縮ですが」
「いや、ですが…」
そのままインターホンが切れた。
しかしここまで予想通りだと、逆に拍子抜けがする。
けんもほろろに叩き切られるであろうと予想していたが、いくばくか口吻が丁寧なだけで、結果は描いていた絵と寸分たがわない。
今風にいえば、想定内ってこったな。
まぁいいってことよ。
スンナリ会えるなんざ思っちゃいないさ。
これからだよ、これから。
これからない智慧をしぼろうって寸法だ。
オレはとりあえずエントランスをはなれ、このマンションの一郭を歩いてみることにした。
マンションの前の通りを登りつめると、そこは公営の霊園になっている。
霊園から坂を下った突き当たりのメインストリートまでの斜面がいわゆるお屋敷町になる。
緑も多いし、文字通り閑静な住宅街だ。
家の敷地それぞれが贅沢な区画になっている。
オレのような鼠から見れば、固定資産税を考えるだけで目眩がしそうだ。
整然と壮大なお屋敷が並んでいる。
コンビニやチンケな飲み屋なんぞがまったく見当たらない。
生活臭がしない。
多分、なんだ、これじゃ悪質な訪問販売の業者も気圧されてうろつきにくかろう。
寸毫の破綻も許されない雰囲気。
間抜けな人間は来るんじゃないよ、と無言で圧倒されるようだ。
ぐるりと一周すると、ふたたびマンションの前に戻った。
一周すると、むしろこのマンションの陰湿感の方が、いっそ居心地がよさそうな気がしてくる。
不思議なもんだ。
フム、ここらはしょせん鼠には縁なき場所だな。
マンションの正面右手が地下駐車場へのアプローチになっている。
中まで入ることはやめたが、強引に押し入る経路としちゃ、あそこしかなかろう。
オレはもう一度マンション全体を眺め、想像されるレイアウトを頭に入れた。

ハイライトに火を点け、駅に戻ろうとしたときだった。
メインストリート側から一台のクルマが近づいてきた。
そのクルマは駅方向に歩き出したオレの隣で静かにとまった。
少しくたびれたセダンのドアが開くと、男が一人、のっそりと現れた。
「なんだ、おめぇかい」
その男は同じようにくたびれたグレーのスーツをまとい、さも面倒臭そうにいった。
見覚えのある顔がそこにあった。
「おや、山下刑事。お久しぶりですな」
「近くの住民から不審者がウロウロしていると連絡があってな、近くを警邏していたオレが呼び出された。来てみりゃ、なんだ、鼠かい」
「ほほう、刑事みずから警邏とは…。警察がヒマなのは実によろしい。警察権力により、秩序安寧は保たれているということだ」
「オイ、なめたこというんじゃないぞ。なにをしてるんだ」
「特には。散歩…といっても信用はされんでしょうな」
「当たり前だ。鼠が昼間のこんな場所に現れるわけなかろうが」
オレはハイライトを携帯灰皿に入れ、握りつぶした。
「ビジネスですな。鼠商売の」
「なんだ、それは」
「職務上の秘密でね、それは」
山下はフンと鼻先でせせら笑った。
鼻の脇に小皺がよる皮肉な笑みが、余計に憎々しさをます。
「面倒をおこすな」
「は?」
「面倒をおこすな、といっているんだ」
「オレは基本的にハト派だ」
「それは知っている。付き合いは短くないからな。ただオマエはハト派でも、なぜかオマエはトラブルを呼び込む。それが鬱陶しい」
「オレもそうだ。仕事は静かに粛々と進めたいと願っている」
山下は中年太りで窮屈そうなスーツからロングピースを取り出すと、使い捨てライターで火をつけ、煙を空に吹き上げた。
「波動か?」
オレは返事の代わりに、新しくハイライトに火を点けた。
「手を焼いてる、オレたちも」
「ほう」
「得体がしれん。よほど新左翼の連中の方がわかりやすい」
オレは山下の次の言葉をまった。
どういうわけだか山下とは根本の平仄があう。
「所轄に相談に現れる親が後をたたない。しかしこれといった法令違反はない。民事には介入できんが、どうにもおかしい」
「探っちゃいるんだ」
「波動本部の対応は丁寧だ。しかし慇懃無礼というか…肝心なことはまったく喋らん。ボス、つまり代表者だな、こいつの素性も詳しくつかんじゃいない。十年ほど前に挙げられたマルチ商法の末端だったらしいが、よくわからん」
「カルトか」
「かもしれん」
「何人ぐらいいるんだ、コアメンバーは?」
「百前後だろう」
「ヤとのつながりは?」
「その線は浮かんでいる。半島や大陸との噂もある」
「なにが狙いなんだろう」
「フン、鼠さんもヤキがまわったな。金以外になにがある」
オレは苦笑せざるをえなかった。
その通りだ。
ヤがからめば、金以外に動機付けはなにもない。
任侠や義侠心なんぞ隠れ蓑のお題目に過ぎん。
ヤはヤでしかない。
「内偵を続けるのか?」
「それもこれからだ。あー、もうこれ以上いわせるな。調べるのが鼠商売のイロハのイだろうが」
「そう、確かに。しかし警察にはかなわない」
「当たり前だ。鼠商売と一緒にするな」
山下は携帯灰皿を目で要求した。
オレが携帯灰皿を渡すと、捻じ込むように煙草を放り込んだ。
「もう一度いう。面倒をおこすな」
山下が携帯灰皿を返しながらいった。
「わかっている。話し合いによる平和的解決が最善だ。第一、腕力勝負の年でもない」
「そうだ。お互いに年を取った。オレも定年が指で数えられる。固い結び目をほどくような仕事はかなわん。気力がない。いいか、オレがのこのこ出て行くような状態を出来させるな」
「そうありたいと願っている」
山下刑事は面白くなさそうに頷くと、クルマに戻り、そのままUターンしていった。
そのクルマを見送りながらオレは思った。
そう遠くない時期に腕力勝負が必要になるだろう、と。

ブラブラと最寄り駅まで戻り、電車に乗り込む。
空は高く、爽やかな大気が満ちている。
なべて世はこともなし、ってか。
昼過ぎの電車はすいている。
ぼんやり外を眺める高校生。
メールに忙しいサラリーマン。
文庫本に没頭している中年男。
鏡とにらめっこの若い女。
いぎたなく眠り続ける中年女。
いろいろある。
しかし、また説教なのだが…。
オレは眠り顔をパブリックでさらす神経がわからない。
あれは本能剥き出しの下品極まりない姿だ。
オレにいわせりゃ、脱糞をさらしている姿に等しい。
慎みや品性とはもっとも遠い地点にある姿だと思う。
だからオレは自らの不愉快な気分を避けるために、眠り姿を視界に入れないようにしている。ハラの中で、自堕落はいい加減にしたらどうだ、しっかろしろ、と悪態をつきながらな。
終点ターミナルでおり、一度事務所に戻った。
和田のオバサンが来ていたらしく、内部は綺麗に掃除が行き届いている。
パーティション裏に洗濯物の大きな紙バッグが置いてあった。
洗濯物は収納しやすいように、きっちり畳んである。
毎度ながら、気と腕の利く素敵な女性だ。
こんど一杯さそってみよう。
バカなこというんじゃないよ、と張り倒されるかもしれんが。

事務所から何本か電話を入れた。
定時連絡ということだ。
最後にケンスケの携帯に伝言を入れた。
今夜、事務所に来て欲しい、と。
窓の外を見ると、そろそろ夕暮れが近づき始めている。
さて、一段落だ。
今からは帆待ち仕事、地道なシノギだ。
事務所から歩いていける商店街の靴屋の隠居にパソコンを教えるのだ。
ボケ防止でね、と隠居は言うが、なに、こっちにとっちゃこれほど実入りのいいシノギはない。
なにしろ隠居にとっちゃパソコンは道楽。
切迫感をもって覚えようという気がない。
ということは何度も同じ基本中の基本を繰り返せばいいだけなのだ。
ダブルクリックなぞ、いったい何度教えたことか。
それで安くない教授料を頂戴できるのだから笑いがとまらない。
そのかわり、丁寧に、優しくな。
お客様のニーズに合わせた的確な対応、顧客満足度最優先、これがビジネスの王道だぜ。
それにむしろ隠居は無駄話がしたくてたまらんらしい。
隠居に祭り上げられて、索漠たる思いがあるのだろう。
つまりパソコンは会話のための媒体みたいなもんだな。
二言三言交わせば、それくらいわかる。
ま、それがわからんようじゃフリーランスなぞやっちゃおれん。
な、これじゃ隠居のパソコンが進むわけなかろうて。
それに進まないほうがオレにとってもありがたい。
細かい理屈やオペレーションになると、オレもお手上げだ。
基本の基本で堂々巡り、これがあらまほしき姿だ。

またダブルクリックの説明を終えると、隠居から晩飯を食べていきなさいよ、と誘われた。
ビールから始まり、世間話に相槌を打ちながら、日本酒のヌル燗を取ったり取られたり。
これも料金のうちだ。
実はオレ自身も悪い気分じゃない。
なにしろ隠居の連れ合いが作る食い物が実にうまい。
ほうれん草のゴマ汚し、きんぴらごぼう、ガンモドキの含め煮、シメ鯖、薬味たっぷりの冷奴、けんちん汁、最後は炊き込みご飯と来る。
あー、日本人でよかったとシミジミ思うぜ。
お茶を飲み干し、じゃ、また来週やりましょう、と言い残して隠居の家を出た。
さ、本来の鼠商売に戻らねばならない。
隠居の家でも酒はごく控えた。
酔ってちゃマトモな仕事にならない。
オレは酒精の海に沈没することもしばしばだが、ケジメはつける。
酒は判断を狂わせるからだ。
事務所のヘッポコドアを開け、お湯を沸かす。
お茶でも啜っていりゃケンスケも現れるだろう。

郵便物をチェックし、夕刊を広げる。
有線テレビはニュースチャンネルに固定したままだ。
フリーランスは常に情報をチェックしておかないといけない。
企業じゃないんだ。
自分以外にやってくれる部署や人間がいるわけじゃない。
情報のほとんどは役に立たないが、役に立たないことの積み重ねに、洞察の深みが出る。
いや、そうありたいと願っている。
体力は落ちる一方だ。
ならば残る武器は智慧しかない。
ああ、そういえば依頼者の川崎真知子からも、智慧が足りないといわれたばかりだったな。
なるほど、まだまだ、ってことかい…。
十時の定時ニュースが始まる頃、ヘッポコドアを軋ませながらケンスケがヌッと現れた。
「お呼びかい」
ケンスケはラブホ上がりの派手なソファに腰掛けながら尋ねてきた。
「ああ、またな。体力勝負にはもう向いていないんだ。ケンスケに先導を頼むしかない」
「歳は取りたくないな」
「確かに、その通りだ」
ケンスケがメンソール煙草を取り出した。
オレもハイライトに火を点け、ケンスケにブックマッチを渡した。
「オカマのマリーだけど…」
ケンスケが煙を吐き出しながらいった。
「マリーがどうかしたか」
「オレの都合が悪いときは、マリーに頼むといい」
「なぜだ」
「マリーは陸上自衛隊あがりだ。演習場で六四式ライフルをブッ放してたそうだ。荒事に馴れている」
「初耳だな」
「だろうね。オレも最近聞いた。しかしマリーの動きの端々に尋常でない強靭さを感じていたからね、そういわれれば納得できる」
「オマエと同じ匂いがするってことか」
「そう。武器の扱いに慣れると、四肢の動きに無駄がなくなる」
「オマエは武器の扱いをどこで覚えたんだ」
「コルシカ島のフランス外人部隊」
「それも初耳だな」
「初めて喋ったからね」
ケンスケが薄い唇を広げるように笑った。
「外人部隊の契約期間は五年と聞いたが」
「そう。でも三年で脱走した。だからフランスに入国すると逮捕される身だよ」
「大層な経歴だな。実戦経験はあるのか?」
「そりゃ、ね。フランス正規軍がおおっぴらにできない仕事をやるのが外人部隊だからね。それにコルシカの外人部隊は破壊活動専門の部隊なんでね、汚れ仕事ばかりだった」
「恐れ入るな。脱走してどうしたんだ」
「放浪していた」
「どこを」
「あちこち。今も放浪中ってとこだな。食えて眠れれば、そこがなんという国でも関係ないね。人間のやることは、どこも一緒さ」
オレはハイライトの煙を吐き出しながら、ケンスケと初めて会ったときのことを思い出していた。

十年ちょい前だったと思う。
オレはその頃も同じようなフリーランスの鼠商売をしていた。
細かい経緯は端折るが、オレは相手側のヤクザと揉めてボコられたわけだ。
ヤクザの習い性に疎かったわけじゃない。
要は慣れが生んだ油断だ。
油断大敵、これはいかなる仕事にもあてはまる。
まぁ、情けない話だが、ぼろ雑巾なみにやられて、オレは汚い路地裏に捨てられていた。
そこに偶然現れたのがケンスケだった。
「オッサン、わかるかい。相当いかれたな」
膝に手をあてて覗き込むケンスケの姿がボンヤリと見えた。
「ああ、痛みが分かるくらいだから、死にはしないと思うが、動けない」
オレは切れ切れに呻いた。
「ほう、結構強がってんな」
「いや、もうその強がりも消えそうだ。体の痛みより、ヤクザに対する警戒を怠ったオレ自身のバカさ加減にあきれる」
「ヤクザ、か」
ケンスケの顔つきが引き締まるのがわかった。
「義理も何もないが、助けてやる」
「有難い。事務所まで運んでくれ。すぐ近くだ」
わかった、とケンスケはいい、オレの体を脇から支えるようにして事務所まで引っ張りあげてくれた。
しかし、事務所までの移動は辛かった。
後に病院で診察してもらったが、肋骨二箇所と靭帯が切れていた。
内出血の類は、体中だった。
オレの鼠商売を分かってくれているドクターだったから、無茶するなよ、で済んだが、なまじ救急車なぞで運ばれてた日にゃ、面倒だったろうな。
こういうときに役立つのが鼠人脈ってやつだ。
その後、ケンスケとはマリーの店で時々、会うようになった。
どうしてオレを助けようという気になったんだ、と聞いたこともある。
ケンスケは、オレはヤクザが心底嫌いなんだ、と答えたきり、あとは黙ってブルースギターを弾いていた。
出会っていくらもしないうちに、ケンスケがアウトソーシングを受けるぜ、と申しでてきた。
なぜだ、と問うと、荒事の勘を鈍らせたくない、それに金にもなる、という。
ただしオレは気分屋だから、嫌なことは断る、と条件をつけてきた。
オレにとってみれば、渡りに舟だった。
だってそうだろう、オレは基本的にハト派だ。
それに荒事には歳を取りすぎた。
しかし依頼をこなすには、荒事の必要なケースはいくらもある。
なに、ケンスケ分は請求金額にそのまま乗せりゃいいだけだ。
オレは、歓迎する、と答えた。
結果からいうと、ケンスケが仕事を断ったことはない。
なぜなら、荒事の必要なケースは、まず間違いなくヤクザがらみだからだ。
ケンスケの腕は見事なもんだ。
徹底したヤクザ嫌いが荒事に逡巡させないのだろう。
ヤクザを殺しはしないが、グウの音もださせない。
ヤクザにとっちゃ、メンツが唯一無二のスタンダードなんだ、シロートにコテンパンにやられましたなんて、口が裂けてもいえまい。
特殊部隊あがりのケンスケとやらなきゃいかんヤクザも辛かろう。

おっと、昔話にメランコリィになっている暇はなかった。
今夜の仕事の打ち合わせだ。



オレはケンスケに渋茶を注いだ湯飲みを渡し、これまでの経緯を話した。
山下刑事から聞いたこと、波動本部のあるマンションのこと、そしてそのセキュリティなど、分かる限りを簡潔に伝えた。
ケンスケはメンソール煙草をふかしながら、黙って聞いていた。
「で、どうするのさ」
話が一段落すると、ケンスケが尋ねた。
「強引に押し入ろうと思う」
「直裁だね。あんまり智慧があるとは思えないな」
「同じことを依頼主にいわれた」
「川崎真知子だね」
「そう。しかし一番手っ取り早い」
「それはいえるな」
「それに波動は決してコトを荒立てない。警察にマークされていることを知っている。下手に騒ぎ立てて警察を中に入れることは得策じゃない、ということぐらい三歳児でもわかる」
「フリーパス?」
「まさか。そこまでなめちゃいけない」
「で、その荒事の前衛がオレということね」
「そう」
「聞く限りは簡単そうだね。ピアノ線とラチェット回しがあればいい」
「話が早いのは助かる」
オレはクルマの鍵をケンスケに渡した。
「じゃ、行くかね」
ケンスケが弾かれるように立ち上がった。

オンボロ事務所から路地を横切り、野ざらしの月極駐車場に向かう。
昨夜と同じように今にも雨の降り出しそうな雲気が満ちていた。
気持ちを陰惨にさせる夜だ。
ケンスケがクルマのドアを開け乗り込んだ。
助手席にオレも続く。
クルマは八年落ちのカローラ。
基本的にオレはクルマには乗らないし、そもそも鼠商売に目立つクルマは不用だ。
セル一発でエンジンが目覚めた。
さすがにメイド・イン・ジャパン、トヨタさんだぜ。
ほったらかしでもどってことない。
ケンスケは静かにカローラを発進させた。
この時間帯だと混みもしない。
さほど信号にひっかかることもなく、二十分あまりで波動本部の入るマンション裏手の道路にカローラを駐車させた。
時計は十二時を回っている。
高級住宅街は静まり返っていた。
事務所でオレはラバーソールの靴に履き替え、服装も目立たない黒っぽい形にしていた。
「じゃ、さっそく行こうかね」
ケンスケが静かにドアを閉め、闇に向かって歩き出した。
街灯に照らし出されるシルエットが、キビキビと動いている。
ケンスケの無駄のない剽悍さがまったくオレに欠けている。
弛緩した締りのないヨロヨロ歩きが関の山だろう。
迂回してマンション裏手の地下駐車場入口に近づいた。
ケンスケはポケットからビニールにくるんだスライム状の粘着ゲルを取り出した。
正確な名称は知らない。
これを適当な大きさに丸めて、監視カメラに貼り付ける。
当面のあいだ、撮影不能の状態にするのだ。
昨夜と昼間の下見で、管理人が昼間しか常駐していないこと、センサーライトが設置されていないこと、それに監視カメラの大体の位置は把握してある。

オレは、あそこにカメラがある、と指差すと、ケンスケは小さく頷き、態勢を低くして近づいた。
死角を保ったまま、カメラの後方からケンスケは粘着ゲルをレンズに向けて放り投げた。
ブルンと震えながら、ゲルはレンズを見事に塞いだ。
「うまいもんだな、ケンスケ」
「手榴弾の投擲より楽勝だよ。爆発しないからね」
オレたちは素早く駐車場からマンションへの入口に近づいた。
ドアノブを見て、ケンスケがニヤリと笑った。
マンションがそう新しくないこともあり、ピアノ線とラチェット回しを使って、簡単に開錠出来そうだ。
ケンスケは手品師のような滑らかな動きでドアノブを細工し始めた。
いくらも呼吸せぬうちに、開いたよ、とケンスケがいった。
ゆっくりとドアノブを廻し、体をマンション内部に滑り込ませる。
エレベーターホール前の監視カメラにもゲルを放り投げて目潰ししておく。
エレベーターホールの前が階段になっている。
階段をあがり、二階フロアの一番突き当たりが、波動本部のメインエントランスになる。
事務所はフロア全体の隔壁を取っ払い、自由に行き来できるようになっているらしい。
同じ構造で三階も改造し、こっちは本部のプライベートとなっているらしい。
らしい、らしいじゃ芸のないハナシだが、なにしろ獲得できた情報が少ない。
よろしきことではないが、現状、推測で動いているところが多い。
突き当たりのドアの前に立つ。
虚仮脅しに近いような監視カメラと、ICカードタイプのセキュリティロックが取り付けてある。
ここでいまさら監視カメラにゲルを投げつけるようなことはしない。
彼らが絶対に警察や警備会社を呼ばないであろうことは織り込んである。
ひょっとしたらの期待を込めてドアノブに手をかけてみたが、ビクともしない。
これで無施錠だったら笑っちまうよな。
まぁ、いいさ。
オレはセキュリティロックに同載されたインターフォンを鳴らした。
無機質な呼び出し音が数回なった。
「はい、なにかご用ですか」
昼間の声と同じ声がかえってきた。
「昼間、川崎女史を訪ねてきたものだ。開けてもらいたい」
「ああ、昼間の…。申し上げたように、川崎なる人間はおりません。しかし、あなた、どうして二階まで来られたんです?」
「足で上がって来たに決まっているさ。あ、オレは駆け引きなんて面倒なことはしない。開けないのなら、止むを得ん、強引に押し入る。どうするね」
「そんなことされたら警察を呼びますよ」
「どうぞ、ご随意に。勝手に呼べばいい。いや、むしろ警察も喜ぶかもしれんがね」
インターフォンが沈黙した。当然、こちらの姿はカメラ越しに見えているだろう。
「沈黙は拒否、ということかね。仕方がないな」
オレはケンスケに目で合図を送った。
ケンスケがうれしそうにドアノブに近づいた。
こういう荒事になると、ケンスケは嬉々とする。
「すまないが、ドアの近くから離れてくれ。ドアを吹っ飛ばす。怪我をさせるのは本意じゃない」
オレはインターフォンに向かって、決然といい放った。
ケンスケが粘土状の物質をドアノブ周辺にたっぷり貼り付けた。
さらに単四電池をツヤ消ししたような機器を、その粘土の中に押し込む。
「カメラで見えていると思うが、これはドア破壊用のプラスチック爆弾ってやつだ。消音タイプだからほとんど音はしない。ただ高熱になるんでな、近寄らないほうがいい」
オレとケンスケはその場からゆっくりと下がった。
と、そのとき粘土を引き切ってドアノブが廻り、重そうなドアが開かれた。
「なんて無茶するんですか!」
青黒く怒気を含ませた若い男が現れた。
マヨネーズの容器のようなのっぺりとした平たい顔。
どことなく死体の気味の悪さを感じさせる。
こんなことでもなけりゃ、まず近づきたくもない野郎だぜ。
オレとケンスケは軽く手を挙げてズイと奥に入っていった。
中は普通のオフィスといってもよさそうだが、なにか場違いな胡散臭さが漂っている。
どこかで見たことあるな、という気がした。
「一体、あなたがたはだれなんですか」
マヨネーズ野郎がわななきながらいった。
「フリーランスの便利屋だ。彼は相棒。早速、用件だが川崎真理子さんに会わせていただきたい」
「いないといったら、いないんです」
悲鳴のような声で答えた。
「オレは警察でも弁護士でもない。だからこういう乱暴な手段で現れたんだ。いまさらいませんといわれて、ノコノコ帰ると思うかね?」
「どうしろっていうんですかっ!」

そのとき、後方の役員室のような部屋のドアが開き、小柄な男がのそりと現れた。
最初、少し驚いた様子に見えたが、男はマヨネーズ野郎のところへまっすぐ進んできた。
「なにかあったのかね」
落ち着き払った態度で、男はマヨネーズ野郎に問うた。
小柄だが、押し出しの強さを感じる。目の子勘定で四十歳くらいか。

地味だがいかにも高価そうなスーツをまとっている。
「お騒がせして申し訳ありません、会長。実は…」
会長と呼ばれた男に、マヨネーズ野郎がクドクドと説明を始めた。
「なるほど、川崎にご用件がおありになる、と」
一通り説明を聞いた会長とやらが、鷹揚に頷きながらいった。
「そう。会わせていただきたい」
「理由は?」
「それは守秘義務にあたる」
「なぜここにいると思われた」
「ここにいないのなら、オレの想像力がゴミということだな」
「なるほど。しかし本人が会いたくないといったら、どうするのかね?」
「わからんね。一義的には彼女の居場所と無事を確認できたということだ。つまりクライアントに最低の報告はできるな」
「ふむ。確かにな。よかろう、ボクの部屋にきたまえ」
会長が外人風に首をかしげて、部屋にいざなった。
「会長、いいんですか、本当に」
マヨネーズ野郎が、声を荒げた。
「いい。なにか対応しないかぎり、この連中はエスカレートするばかりだろう」
「ほう、ここは性格判断もするのか」
「常識的判断力といってもらいたい」
「違いない。恐れ入る」
オレとケンスケは会長のあとに続いて、彼が現れた部屋に入っていった。
部屋は若干毛足の長いグレーのカーペットが敷いてあるだけで、机も応接セットも、ごく普通だった。
ただし、それなりに大きくはある。
あとめぼしいものは電話とPCくらいか。
「案外、殺風景な部屋だな」
オレは思ったとおりのことを口にした。
「ビジネスの部屋だ。飾る必要は認めん」
「いい心がけだ。トップの姿勢はそうでなくちゃいけない」
「座ってくれ」
オレとケンスケはうながされるまま、応接セットに腰をおろした。会長、と呼ばれた男も対面に深々と座る。
「会長、というと徳永さんかね」
「よく知ってるな」
「調べるのが鼠商売でね、情報は多ければ多いほどいい」
「正論だな」
「案外にネットの威力ってな凄くてな、この研究所にしても、アンタのことにしても、結構、ウェブ上に転がっている」
「どうせロクなこと書かれちゃいないだろう」
「それはいろいろだ。しかし、その中から本筋を追うのが鼠の嗅覚だ」
「鼠か。名前を聞いてもいいか」
オレはポケットから名刺入れを取り出し、テーブルの上に置いた。
「名前なんざ符牒みたいもんだ。便利屋とも、鼠野郎とも、好きなように呼んでくれりゃいい」
「で、どうすりゃいいんだ」
オレの名刺を眺めていた川崎が、オレを見据えて尋ねてきた。
「川崎女史に会わせていただきたい。それで彼女を連れて帰る。御研究所からサヨナラだ。わかりやすかろう」
「ああ、すっきりしている。しかし、いないといったらどうするね」
「探させていただく。連れ帰るまでが契約だ」
「そうか。ならば探せばよかろう。止めたところで、すごすご引き下がる人間には見えん」
オレは直感的に理解した。川崎真理子はいないのだ、いま、ここには。なんらかの理由で。
「彼女をどこにやった」
「おやおや、調べるのが鼠の仕事じゃなかったのかね」
会話のチキンゲームで、徳永が優位に立った。
いけない、荒事に焦りすぎたか。
このあたりが、依頼者の川崎真知子から智慧が足りない、といわれた部分かもしれん。
隣を盗み見ると、ケンスケは背もたれに両手をかけて、悠然としていた。
沈黙が少し続いたあと、オレはハイライトを引き抜き、口に銜えた。
「煙草は遠慮してくれ」
「ああ、わかっている。銜えているだけだ。で、ときに徳永さん、あんた川崎真理子の血を利用しようしているね」
鷹揚に構えていた小柄の大物にサッと緊張が走った。
「妙なことをいうな。川崎は単にウチのメンバー、それだけだ」
「ふーん、そうかい。少なくともメンバーとして在籍はしているというわけだ」
「調べた結果がそうだったんだろ?」
徳永は韜晦するようにいった。
「いや、これまでは散々、川崎なるメンバーはいない、といわれ続けたからな。会長自身が在籍確認したんだ、これほど確かなことはない」
「在籍メンバーの個人情報は漏らすなと徹底してあるからな。組織防衛の初歩の初歩だ」
「しっかりしているな」
「そうだ。波動の原理を伝えるために、メンバーには常に切磋琢磨してもらわねばならん。学習と実践、この繰り返しで生活がなりたっている。全身全霊で波動原理に取り組むことが肝要なのだ。でなければ宇宙の精妙なる原則が理解できない」
「前衛党と同じか?」
オレは徳永に皮肉をぶつけた。
「なんとでもいえ。しょせん鼠に波動の精妙は無理だ」
徳永は酷薄に歪んだ顔を見せながらいった。
それは爬虫類の不気味さを思わせた。
「縁がなくてありがたい。しかしオレは川崎真理子奪還まで、ここにまとわりつく」
「勝手にしろ」
川崎はふてくされたように吐き捨てた。
「最初に出てきた男、マヨネーズ容器みたいな若い男だ、ヤツの名前は?」
「後藤だが、それがどうした?」
「会長として、後藤にオレたちへの誼を伝えてくれるとありがたい。毎回、荒事で訪れるのは骨が折れる。そちらもできれば目立たぬよう静かにしておきたかろう」
「ああ、わかった」
「じゃ、ひきあげる。また来なくちゃならんだろうと思う」
「来るな、といっても強引に来るんだろうが」
「そう。必要なことは必ずやらなくちゃならん。でなきゃフリーランスを張れん」
オレとケンスケは立ち上がりながら、ソファにふんぞり返る徳永に声をかけた。
徳永は憮然としたまま、返事もしなかった。
静かにドアをあけ、オレとケンスケは部屋を辞した。
ドアのすぐ前の机に寄りかかり、後藤がヌッと立っていた。
「後藤君、お騒がせした。次回は平和的に会いたいと思う」
オレは後藤に軽く手を振りながら、オフィスを横切り、玄関口へ向かった。
「ちょっと、あなた!ドアの爆弾はどうするんですかっ!」
後藤が悲鳴のような声をあげた。
その問いにはケンスケが振り向きながら答えた。
「ああ、あれ。あれは住宅建材のパテ。信管もどきは単四電池。どっちも不燃物でだせる」
鳩に豆鉄砲状態の後藤を視界の端に納め、オレとケンスケは堂々、正面エントランスから外へ出た。



昨夜と同じように、細かい雨が降り出していた。
ここ何日か、夜になると天気がグズつく。
汚れ放題のカローラに水滴がへばりついていた。
ケンスケが乗り込んだ後、オレはハイライトに火をつけながら、助手席に滑り込んだ。
いかにも有害な煙が肺に心地よかった。
「なんだか釈然としなかったね」
カローラを発進させ、間欠ワイパーの向こうの闇を見つめながらケンスケがいった。
「それほどでもない。少なくとも川崎真理子が波動のメンバーであることは認めた。それに…」
「それに?」
「川崎真理子の利用価値に徳永は気付いている」
「ああ、さっき徳永が不意をつかれた状態になったことね」
「そう。白状すると、オレは川崎真理子がマンションにいる可能性は低いと睨んでいた」
「じゃ、なんで強引に押し入ったのさ」
「徳永と会いたかった。徳永が波動そのものといっていい。彼と話をしない限り、一ミリも前に進まないだろう。ところが正面玄関から入っても門前払いに決まっている。ああでもしなきゃ、会えるわけない。雑魚に用はない。キーマンを探し出す、それが便利屋の鉄則さ」
「ふーん、なるほど。アンタは智慧があるんだか、ないんだか、わからんね」
「ただ狡猾なだけさ、オレはね。それより一杯飲もう。ささくれた神経を鎮めてやらにゃいかん」
「単に飲みたいだけだろ」
「そうだと思う」


波動本部に荒事的に押し入った後、オカマのマリーの店で夜を締めくくった。
たいして飲んじゃいない。
ささくれた神経を鎮めるのに、ウィスキィの二、三杯が必要だっただけだ。
帰り際、オカマのマリーに、陸自あがりだってな、ケンスケから聞いたよ、というと、手がいるときは手伝うわよ、と悪戯っぽく笑った。
ちょっとセクシーな笑顔だった。オカマでなけりゃ、今晩のピロートークに誘うことも…ないか、それは。
事務所兼ネグラに戻り、ビタミン剤とハルシオンを服用する。
そのままベッドに倒れこみ、大きく伸びをした。今夜はグッスリ眠れそうだ。
さて、どこから取り崩そうか…。
川崎真理子の居所も探さなきゃいかん。
波動本部もいずれ再訪せねばなるまい。
全部、一人でやらなくちゃいけない。
フリーランスもラクじゃないぜ…。
とつおいつ考えていると、そのうち記憶が暗転していった。

熟睡感のある爽やかな朝を迎えた。
こういう朝はいつ以来だろう。
排尿、脱糞を済ませ、シャワーを浴びる。丁寧に歯を磨き、デンタルリンスでゆすぐ。
タオルで体を拭いているとき、鏡の中の自分を見た。
いつもの破綻した二日酔い顔じゃなかった。
ほんとは、いつもこうでなくちゃいけないのだろうが、ま、仕方なかろう。
下着からすべて取り替えると、体がシャンとする。
万能感とまではいわぬが、よーし、かかってこい、という豪勢な気持ちにはなる。
バサバサと朝刊を広げ、牛乳、ほうじ茶、梅干を胃袋に入れる。
朝食はこんなもんだ。
さて、参るか。
時計を見ると九時チョイすぎ。
説明会は十時開始予定だ。
なんの説明会かというと、波動のそれだ。
「未来と健康のための波動原理プライマリーセミナー」とうたってあるが、なに、要するに説明会なんだろうぜ。
相手がどういうものか、この目で見るにしくはない。
百聞は一見にしかず、という。
さよう、目で確かめることが一番だ。
目、が基本なんだ。
日程、場所は波動本部のホームページで確かめてある。
会場はここから歩いて十五分ほどか。
よこっらせ、と掛け声をかけて立ち上がった。
立ち上がるのに、いちいち声をかけなきゃいかんようになっちまってる。
切なく、情けないね。
年はとりたくないが、だれでも年をとる。
できていたことができなくなる喪失感といったら…
すまねぇ、初老の繰言だ。
通りに出て、セミナー会場の方向へ歩き出した。
小雨模様もすっかりあがり、暑くなく寒くなく、爽やかな陽気だ。
こういう気候が年中続けば、人は仕事なんかしなくなるだろうな。
そうなると、鼠商売もあがったりか、と馬鹿なことを考えていると、和田のオバサンがこちらに歩いてくるのが見えた。
和田さんはオレに気付かなかった。
彼女はなにかに憑かれたように思いつめた厳しい表情をしていた。
どうにも声のかけづらい雰囲気だ。
オレは黙ってやり過ごそうとした。
ちょうどすれ違おうとした瞬間、ハッとしたようにオレに気付いた。
「あ、あら、どうしたのかしら。気付かないでごめんなさい。おはようございます」
「おはよう。急いでるんだね」
「え、ええ。それじゃ、ちょっと、お先に…」
彼女は軽く会釈して、歩き始めた。
オレは彼女を目で追った。
すると、彼女はくるりとこちらに向き直り、オレのほうへ小走りに戻ってきた。
「お願いがあるんですが」
和田さんの声はいつもの伝法な調子ではなかった。
「なんだい」
「相談の時間を作っていただけませんか」
「和田さんのためなら、いつでも。今晩でもいい」
「ありがとうございます。夕方、事務所に連絡入れます」
「ああ、それでいい」
「じゃ、本当にお先に」
「お気をつけて」
和田さんはまた小走りに走り出していった。
どうしたのだろう。
あんな様子の和田さんは始めてみた。
口の悪さが元気の素といった、口も手も気働きも常にフル回転の素敵な女性なんだが…。
なにかに怯えているようにオレには見えた。
とにかく今夜、だ。
今夜、聞いてみよう。
和田さんのことはそこでシャットダウンし、オレはセミナー会場へ歩き出した。

ちょっとした散歩くらいの距離でセミナー会場のビルにたどり着いた。
オレはそのビルを見上げ、携帯灰皿にハイライトをねじ込んだ。
このビルの七階、貸し会議室となっている一室でとりおこなわれる。
正面玄関前の催事予定板に、会議室名が記してあった。
その会議室を頭に入れ、オレはエレベーターで七階に上がっていった。
エレベーターから左手の奥がその会議室になっている。
間違えようがないくらい、その会議室の前に何人かの若い男女がたむろしていた。
言い方は悪いが、さもありなん系の異常な体温を感じる。
まぁ、なんだ、カルトでもマルチでもいいが、この世界には独特の雰囲気がある。
この熱気に免疫の弱いやつがやられてしまうんだ。
オレはツカツカと受付の机に近づいた。
「セミナー受講のかたですか」
華奢な若い女が眼鏡をズリあげながら聞いてきた。
「ああ、そう。興味があってな」
「招待状はお持ちですか」
「いいや。急に来てみたくなった。飛込みだ」
「歓迎します。ようこそ、波動セミナーへ」
女は立ち上がり、これがレジュメです、と分厚い封筒を手渡してきた。
体が接近すると、若い女には似つかわしくない汗じみたホコリの匂いがした。
多分、最近着替えをしていないのだろう。
それにシャワーも浴びてないはずだ。
「ああ、ありがとう。中に入っていいのかな」
「ええ、どうぞ。なるべく前にお掛け下さい。人生観が変わりますよ」
若い女の満面の笑みオレは精一杯答えようとした。
しかし、それは頬の筋肉が歪んだだけだろう。
初老のスレッカラシにゃ、無理だぜ。
会議室の中は、いわゆるスクール形式で机と椅子が配置されていた。
目算だと四十人で一杯というところか。
正面に「未来と健康のための波動原理プライマリーセミナー」の吊り看板、その下に演台とホワイトボード、右手にプロジェクタースクリーンが配置してある。
大学の大講義室を小さくしたものと想像してくれればいい。
椅子は七割がうまっていた。
二十歳前後の男女が多いが、ちらほらと中年も姿も見える。
げに悩み尽きぬ世ではある。
ただ将来のことがわからずに呆然としている若者が見せる熱い焦りのようなパトスが、この会場にはない。
饐えたようなどんよりとした不気味が漂っている。
オレは真ん中あたりの列に席を占めた。
受付の女が渡してくれた封筒からレジュメを取り出し、セミナーが始まるまでの間、ザッと目を通した。
『この宇宙の神秘は…』から縷々説明が始まっている。
ごたごたと晦渋な文章が並んでいるが、要するに、この世界の本質は波動であること、そしてその波動の質を高めることが、すなわち現世利益の根源であって、そのためにはこの研究会に入りなさいよ、ということだ。
利殖セミナーとなんら変わらん。
煙草を喫おうと立ち上がりかけると、受付の若い女がバタバタと現れ、じゃ、プライマリーセミナーを始めます、と開会を告げた。
オレはだらしなく横座りしていた姿勢を改め、正面を向いた。
最低の礼くらい尽くさないとな、後生が悪い。
いくら相手が波動でも然りだ。
「講師を紹介いたします。当研究会、会長補佐の後藤でございます」
女が名を呼ぶと、本部で泡を食っていたマヨネーズ野郎、後藤が現れた。
相変わらずのノッペリ顔で。
「皆さん、初めまして。後藤でございます…ウッ」
後藤が参加者を嘗め回すように眺め、その視界にオレが入ったとき、一瞬だが絶句したように見えた。
オレはできるだけ優しい笑顔で頷いたつもりなんだが、さてどうだっただろう。
「えー、じゃぁ、まず私たちのいっている波動とはなにか、その説明からいきたいと思います」
マヨネーズ後藤はオレを黙殺したまま講演を始めた。
ほほぅ、なかなかのもんじゃないか。
オタつかないのは褒めてやる。
昨夜の金切り声とはうってかわり、淀みのない説明をスイスイ続けていく。
最初は緩く、気候の話から。
ツカミもうまいもんだ。
そう。
人を半トランス状態にするにはこうでなくっちゃな。
徐々に話は波動が幸福と健康をもたらすか、その牽強付会な、それでいて妙に説得力がありそうな核心に入っていく。
さすがだ。
序破急を心得ている。
スタンダップコメディくらいはできるぜ、後藤君。
「これまで説明したとおり、全てが発する源は波動です。しかし、その波動ですら優劣があるといわざるをえない。これが証明となるべき写真です…」
マヨネーズ後藤が数枚のA全に引き伸ばした写真ボードを上に掲げた。
「これは、氷の結晶写真です…」
お。
おいでなすったね。
水を冷やし氷の結晶を作るにあたって、その水に向かって罵倒すれば歪な結晶が歪に、逆に優しい言葉をかけてやると、見事な美しい結晶ができるという、あれ。
「詳しく見てみましょう。すいませんが、照明をおとしてプロジェクター入れてください」
会場が暗転し、鮮やかな三色のビームがスクリーンに投射された。
その平面に深い森に囲まれた見事な風景写真が映し出された。
「いいですか皆さん、すべてのものには、固有の波動というごく微弱なエネルギーが存在しています…」
気付くと天井の吊り下げスピーカーから環境音楽のような、ゆったりとしたシンセサイザー音が低く落ちてきた。
薄暗い中で光を見続け、和讃のような繰り返しの言葉、さらに脈拍に近い定時パルスのような環境音楽。
見事に三題噺の完成だ。
つまり催眠術をかけるシチュエーションがこれだ。
オレでさえトランスしそうになる。
免疫の薄い連中はイチコロだろう。
心に屈託を抱えていればなおさらだ。
自分を救えるのはこれしかない、と深く強く刷り込まれるに違いない。
オレは背広の内ポケットからiPODを取り出した。
イヤフォンを耳に当て、静かに目を閉じた。
視覚と聴覚を遮断するのだ。
オレがブレイン・ウォッシュされたんじゃシャレにならねぇや。
ほどなくイヤフォンから賑やかなウィルソン・ピケットのダミ声が流れてきた。
何曲か過ぎ、イン・ザ・ミッドナイト・アワーのリフレインのところで、場内が明るくなった。
ひとつのヤマを越したのだろう。
オレはこっそりイヤフォンをはずし、再びポケットに仕舞い込んだ。
「かなり、皆さんおわかりいただけたかと存じます。それでは波動が皆さんの体の中で、どういう働きをしているのか調べてみましょう。そちらの机に皆さん集まっていただけますか…」
マヨネーズ後藤が指差す机に、バッテリーチャージャーのような機械が置いてあった。
その声に反応し、参加者が椅子をガタガタいわせながら集まってきた。
マヨネーズ後藤が、それこそイヤフォンのようなセンサーらしきものをその機械に取り付け、ゴソゴソとタッチセンシングパネルを操作した。
液晶がアルファベットを表示している。
「それじゃ、そちらの方、ちょっとこちらへおいでいただけますか」
後藤にうながされて、中年の女が近寄った。
後藤は、最近、気になる場所がありますか、と慇懃に問うた。
中年女は、ええ、最近ここが悪いんです、と膝をさすった。
「そうですか。私は波動研究のおかげか、ひとつも悪いところがありません」
そういって後藤は椅子に腰掛けると、やおらズボンの裾をまくりあげ、あらわになった膝にセンサーもどきを押し当てた。
「そのディスプレイをご覧ください。波動値が76、グリーンゾーンにありますね。これは正常値内にあります。で、この方の膝を測定してみましょう」
後藤の手招きで中年女は椅子に腰掛けた。
その膝頭に後藤はセンサーもどきを同様に押し付けた。
「ご覧ください、波動値を。レベルが著しく低下していますね。45しかない。もう少しでレッドゾーンですね。こうなると、膝が動かなくなる」
中年女が不安げに後藤を仰ぎ見た。
「応急で波動値を上げる作業をしてみましょう。いってみれば、ボクの波動のおすそ分けということですかね」
そういうと後藤はやおら掌を中年女の膝頭にかざした。
「どうです?なにか暖かいものを感じませんか?」
後藤が神妙な顔つきでいうと、中年女の顔はさっと赤みがさし、ええ、なんだか暖かいです、と答えた。
当たり前だろ、そんなこと。
皮膚感覚として手が近づけば暖かいに決まってる。
子供騙し以前じゃねぇか…オレは腹の中で毒づいた。
しばらく掌をかざしたあと、後藤はもう一度、中年女の膝頭にセンサーもどきを当てた。
「ほう。波動値が上がってますね。50を超えている。グリーンゾーンまではいかないけれど、ずいぶん改善されました。いかがですか、膝の具合は?」
後藤の問いに、女は、急いで肯いた。
「いい感じです。楽なった気がします」
ちぇ、猿芝居も極まれり、か。
この空気、流れで、いや、まったく変わりませんなどと、この中年女がいえるか?
砂を噛むような苦々しい思いが広がった。
「そうでしょう。これこそ波動の効果にほかなりません。波動には神秘の力が秘められています。学者たちはインチキだ、空想だ、とあらぬ非難を加えますが、この女性の例が一つの証明です。解明されなければ科学ではないのか?いえ、そうではありません。そこの波動は存在するんです。地動説とてそうでした。まったく相手にされなかった。それと同じなんです。波動とともに生きる、波動を極める、これこそがわれわれを未来に導く唯一の道と信じています。今後このセミナーの…」
マヨネーズ後藤が、このセミナーに連続参加し、波動の同志となろうではないか、と獅子吼していた。

アホくせぇ。
おい、後藤、波動値ってなんだよ。
なにを測ったら波動値になるんだ?
皮膚の電気抵抗かい。
それとも血流値か?
だったらその単位はなんなんだよ?
50って示した値はなんなんだよ?
底なしのペテンだな。
初老のクソ頭でもインチキとわかるぜ。
オレが腹の中で毒づくのとはまったく正反対に、聴衆のほとんどは熱にトロンとなった判断停止顔で後藤を見上げていた。

この顔は、なんども見たことがある。
芸能界アイドルのコンサートでなんども見た。
オレがアイドルのコンサートに望んでいったわけじゃない。
仕事だよ、無論な。
興行のウラには必ず胡散臭いなにかが絡む。
それは芸能そのものが宿命として背負う胡散臭さと同根だ。
それに金が絡む。
放っておいてもトラブルが起こる。
となれば、鼠の出番だ。
お、そうだ。
この顔つきのハナシだったな。
この熱と判断停止は、社会学者のいうマスヒステリーそのものだ。
集団催眠状態だな。
当たり前の冷静な判断ができない。
イケイケになってしまっている。
新聞社会面をときどき賑わす布団催眠商法もこれと一緒だ。
オマケで人間の欲望を最大限に刺激し、わけがわからないうちに不当に高額な布団を契約させる手口だ。
なんでそんなことを知っているんだだって?
簡単なハナシさ。
そんなインチキ商売がゆえ、トラブルのタネはいくらでも転がっている。
そのトラブルが鼠商売の格好のエサってわけさ。
だからといってオレはどちらの側にも与しない。
ペテン師もペテン師だが、欲に目の眩んで騙されるやつらもバカだ。
少しは考えてみろといいたいね。
ペテン師のいうウマイ話が実在するなんて、信じるほうもおかしい。
騙されたと気付いたら、今度は詐欺だ、と泣きをいれる。
子供か、オマエらは?
うまくいきゃ、オマエらほくそ笑んでただけだろ?
ネズミ講の最上位者が、しこたま下位から搾り上げて頬被りしている姿を見てみろ。
あれが人間の強欲さだ。
儲けは自分のものだが、損は人のせいってやつだ。
ネズミに笑われるぜ。
だからだ。
騙されるやつらも、同罪だ。
まともな大人ならどう考えてもおかしいことに乗っているんだ。
だったら、自分で責任を取れ。
認知症の老人ならいざ知らず、泣く前に常識を身につけるんだな。
それが最優先だ。
波動を信ずるもよかろう。
それで人生を棒に振ったところで、大人なんだ、自分で始末しろ。
泣き言はいうな。
あるいは徹底して信ずることによって人生が開かれるかもしれん。
安仕掛けに騙される妙な気持ちよさは、オレにもわかる。
好きにしろ。
そういうことだな。

冷ややかな視線で聴衆をオレは眺めていた。
そして聴衆のほとんどが、次回からの集中セミナーに申し込みの列を作っていた。
マヨネーズ後藤が、あからさまな敵意を含んだ表情で近づいてきた。
「ご盛会、ご同慶の至り、というところか」
オレは先んじて口を開いた。
「皮肉ですか」
「いや、本心だ」
「なにをコソコソ探っているんです」
「波動の本質を知りたくなってな、向学心の一環だ。後藤君の謦咳に接して心洗われた」
後藤の怒りは、彼の耳まで赤くさせた。
「なにかわかったんですか」
「ああ。ずいぶんと勉強になった」
「地獄に落ちろ」
後藤が吐き捨てるようにいった。
「そうだな。ロクな死に方はしないだろう。予感はあるぜ。でもな後藤君、アンタはアジテーターとしちゃ才能あるぜ。その調子でせいぜい精進してくれ」
オレはそこで話を打ち切り、会場を後にした。
波動の胡散臭さに胸苦しくなっていた。



胸に異物を飲み込んだような思いのまま、オレは事務所へ引き返した。
帰り道、テイクアウトの中華粥と野菜の旨煮を買った。
初老男がレジ袋をジャリジャリいわせながら歩く様は、決して美しくない。
むしろ無様といったほうがいいか。
しかし、無様だからといって、ヒトがモノを食べないわけにはいかない。
諸君にもいっておこう。
この光景は加速度的に一般化するぜ。
少子高齢化が深刻になれば、当たり前の風景になる、とな。
若造が(だっせー)と思いたいなら思っておけばいい。
否が応でもおまえら若造でも歳を取る。
そして、次の世代の若造に(だっせー)とバカにされんだよ。
因果は巡るのさ。
そして今のオレのように説教臭くなっていくんだ。
ああ、この姿が(だっせー)のは、無論、オレもわかっちゃいるさ。
情けねぇと一番うなだれているのは、ほかならぬこのオレなんだ。

ヤレヤレとため息をつき、オレは事務所のヘッポコドアをあけた。
ドア下に差し込まれたダイレクトメールを蹴飛ばし、食材を応接テーブルに置く。
冷蔵庫からほうじ茶をとりだし、初老男の夕餉を摂る。
中華粥に添付された、ペナペナのプラスチック製レンゲと、まっすぐに割れないワリバシで食う。
どうだ、優雅なもんだろうが。
モサモサベチャベチャと夕餉を流し込んだ後、プラスチックトレイも含め、すべてをレジ袋に入れゴミ箱に放り込んだ。
ティッシュペーパーで口を拭い、冷たいほうじ茶で喉を洗い流すと、電話が鳴り出した。

電話を取り上げると、こちらが名乗るより早く、押し殺した陰惨な声が聞こえた。
「わたし…和田です…助けて…」
声の主は和田さんだった。
しかし和田さんのいつもの様子じゃない。
口と手と脳が常にフル回転している聡明な彼女の日常とはまったく違う。
オレは尋常でない雰囲気を悟った。
「和田さん、どうした、一体」
「娘が…」
「娘さんが…なにかあったのか」
「娘が…死んでるんです…」
「死んでる?なぜ?」
「なぜって、わたしわからない。一体、どうしたらいいか、なにも…思い浮かばない…助けて下さい」
オレは今から考えると、なんとも頓珍漢な質問を発した。
想像してみろ、その状況で和田さんがなにをいえる。
ヤキが回り始めたんだ、オレも。
「落ち着け、和田さん。今、そこへ行く。いまどこだ」
和田さんはある警察署の名を告げた。
そこは山下刑事の所属する署だ。
「和田さん、落ち着けといっても無理かもしれん。しかしとにかく、今は近くにある椅子に座っていてくれ。すぐに行く。15分、いや、10分で着く」
オレは受話器を叩きつけると、弾かれたように事務所を出た。
転げるように階段を駆け下り、目前に停車していたタクシーに乗り込んだ。
歩いても15分くらいだが、一刻を争う。
オレは運転手に、近くてすまんが、急いでいるんだと怒鳴った。

タクシーから出ると、受付で和田さんの居場所を尋ねた。
2階の突き当たりだという。
受付の奥から山下刑事がオレを凝視しているのがわかった。
オレは軽く会釈すると、小走りに階段を駆け上がった。
突き当たりの部屋のドアを突き破るように開けると、和田さんが呆然と椅子に腰掛けていた。
隣には婦人警官が一人、気まずそうに立っている。
「和田さん、遅くなってすまん。大丈夫か?」
人間、切羽詰るとロクな言葉が出ないな。
大丈夫か、だと?
大丈夫なわけなかろうが。
和田さんはゆっくりとオレのほうを見た。
お手数をおかけして…と和田さんは絶句すると、そのまま手で顔を覆い、嗚咽し始めた。

困った。
どうすりゃいい、こういうときは。
はっきりいうが、女性に泣かれると手の打ちようがない。
バカ面を下げ、木偶の坊状態で突っ立ているしかない。
オレは隣の婦人警官に尋ねた。
「いったい、なにがあったんだ」
「わたしも詳しくは存じ上げないんです。今、女性の神経が参っているからついててやれ、と山下刑事にいわれて…」
「彼は、えー、山下刑事は状況をつかんでいるのか?」
「山下刑事とお知り合いなんですか?」
「そうだ。付き合いは、君のそれよりウンと長いだろう、多分。で、どうなんだ?」
「山下刑事は、この事件の担当です」
「そうか。すまないが、しばらく和田さんを見守っていてくれ。和田さん、もう少し待っててくれ。話を聞いてくる」
オレは和田さんにそういい残すと、小部屋のドアを静かに閉め、階段を下りた。
一階の踊り場の壁に山下刑事が寄りかかっていた。
あいかわらず太り肉に窮屈そうなスーツを着ていた。
「彼女、オマエの知り合いらしいな」
山下刑事がボソリといった。
「ああ。頭のいい素晴らしい女性だ。事務所のルーチンをお願いしている」
「今はその聡明な頭が回っちゃいないはずさ」
「話を聞かせてくれるか」
山下は外人風に首を傾け、会議室を示した。
オレは山下の背後に同道し会議室に入った。
安っぽい長机とスチール製椅子が口の字型に並んだ、殺風景な部屋だった。
山下刑事は備え付けのコーヒーサーバーから紙コップにコーヒーを注いだ。
「オマエは確かコーヒーが嫌いだったな。茶は淹れるのが面倒でな、用意していないのだ」
「かまわんよ。好きに飲んでくれ」
「オレでも嫌になるような泥水コーヒーだがな、ないよりましだ。で、さて、と…」
山下はズズッとコーヒーを啜った。
オレと山下はちょうど角の部分に腰掛けた。
「藪から棒で、オマエも驚いたろう。手短に説明してやる。まずオマエはなにを知っているんだ?」
「まったくといっていいだろう。彼女、和田さんの娘が死んだ、ということしか知らない。原因は事故なのか?」
「いや。現場の状況からいえば殺されたと見ている。まだ司法解剖も行われちゃいないが、定年近くまでこんな仏さんばっかりとの付き合いだ。あれが事故なわけがない」
「殺された?」
「そうだ。暴行によるものだと睨んでいる」
「いつ?どこで?犯人は?」
「急くなよ、オマエらしくねぇ。ざっと説明してやる」
山下はもう一口コーヒーを啜ると、刑事らしい一切の感情を排除した口調で語り始めた。

今朝、早朝散歩が日課の老人が公園の植え込みで彼女の死体を発見した。
遺体の所持品の免許証から、簡単に身元が確認できた。
和田洋子。
そうだ、オマエんとこで手伝いをやってくれている和田女史の娘さんだ。
いきなり母親に死亡を告げるわけにはいかんから、娘さんのことで署までおいで願いたい、と署員が伝えたんだ。
母親の勘だったのかな、普通なら電話口でグダグダ質問されるんだが、それもなかったらしい。
わかりました、といわれて厳しい表情で現れた、という寸法さ。
で、和田洋子の遺体確認を彼女にお願いしたんだが…。
いつもながら遺体安置所はいたたまれんな。
定年間近のオレでさえ、普通でなくなる。
やりきれんぞ。
まぁ、しかしいつまでも感傷に浸るわけにもいかん。
で、いろいろと母親に事情やこれまでの交友関係、現在の様子を尋ねた。
それぞれウラを取らなきゃいかんがな。
え?
和田洋子のことか。
今は大学三年だ。
そう、その大学だ。
高校から進学するとき、親一人なんで、私立は無理だと母親がいったらしい。
それで頑張って国立大学に入ったということだ。
もともと利発な女の子だったんだろうな。
死因か。
詳しくは司法解剖を待たなきゃいかんが、暴行の後の絞殺と睨んでいる。
まず、はずれちゃいない。
ああいうホトケさんは何度も見た。
オレは死体検分のエキスパートだ。
楽しいもんじゃないがな。

そういう話を淡々と語ると、山下刑事はズズッと音をたててコーヒーを啜った。
「オレもホントはコーヒーが好きじゃない。好きじゃないが、今日び、お茶を淹れてくれ、などと気軽に婦人警官に頼める雰囲気じゃない。警官そのものが減ってんだ。婦人警官とて、お茶汲みをするヒマなぞない。構造改革ってやつだな。仕方なく、作り置きのコーヒーベンダーさ。フンッ、有難くて涙がでるぜ」
「そうか。ご愁傷さま、といいたいが、本論だ。目星はあるのか、犯人の?」
「本筋はこれだろう、というのはある。ただ、まだ関係者からのハナシが集まっていない」
「なんだ、その本筋とは?」
「捜査上の秘密だ」
「いえないのか」
オレは少し気色ばんだかもしれない。
「捜査上の秘密は秘密だ。ただな…」
山下は紙製のコーヒーカップを握りつぶしながらいった。
「オレも最近めっきり酒に弱くなった。ツレアイにいわせると、焼酎を飲みながらブツブツ独り言をいっているそうだ」
「捜査上の秘密とやらを、か?」
「どうも、そうらしい」
山下はよく使い込まれたごつい手で顔をつるりとなでた。
額には積年の疲労の脂が滲んでいた。
「明日あたり、酒が飲みたい予感がする」
「おごるよ」
「お断りだ。金輪際、鼠のおごり酒なんざ飲みたかねぇ」
「そうか。オレは夜は大抵、オカマのマリーの店にいる」
「オマエの趣味かい、そりゃ」
「どうかな。ただ居心地はいい店だ」
「時間があれば覗いてやるよ」
「了解した。それじゃオレは和田さんのところへ戻る。帰っていいのか」
「ああ。話は改めて自宅で伺う、と伝えてくれ。婦人警官を同道させようか?」
「いや、それには及ばん。オレは便利屋商売だ。和田さんの力になりたい。いや、そうしなきゃイカンと思う」
オレはそういいながら、立ち上がった。
殺風景なドアを押し開こうとしたとき、山下が背後から声をかけてきた。
「オマエ、ケンスケと波動本部でなにやってんだ?」
オレの動きが止まった。
「先日の続きだよ」
オレはドアノブに手をかけたまま答えた。
「精々、用心しろ。老婆心だ」
その声の響きには、なにか決然としたものがこもっていた。
オレは無言で頷き、そのままドアの外へ出た。



和田さんのいる部屋に戻ると、和田さんはすでに泣き止んでいた。
泣く、ということを忘れたのかもしれない。
和田さんからは表情が消えていた。
人間は、あまりのストレスに晒されると、一切の感情表現から離脱するらしい。
傍目にはボンヤリしているとしか思われない和田さんの前に、オレは椅子を引き寄せ、静かに座った。
和田さんがオレに視線を流してきた。
瞳に力がない。
あのいつも光っている和田さんの目じゃない。
「和田さん、とりあえず自宅に帰ろう。オレが同道する。こんなとこにいたんじゃ、余計に滅入っちまう」
オレは和田さんをしっかり見据えていった。
和田さんは、キョトンとし、オレのいう意味がわからないという様子だった。
哀れだぜ。
いくらなんでもこれはないぜ。
聡明で律儀で、凛とした働き者の和田さんがこうなっちまうなんて…オレは勃然と怒りが湧いてきた。
許さねぇ、和田さんをこんなにしちまった犯人は、オレが始末する。

帰ろう、とオレが差し伸べた手に、最初、和田さんは首をかしげた。
どうすればいいのだろう、と傍に立つ婦人警官に答えを求めるように首を振り向けた。
「今はお帰りになって、少し横になられたほうがいいと思います。よろしければ署のクルマで送りましょうか?」
婦人警官が幼稚園教諭のような声で答えた。
和田さんの手が、オレの手にそろそろと伸びてきた。
和田さんの手は、ビックリするほど冷たかった。
オレは和田さんの手を握り、彼女の身体を支えた。
そうでないと間違いなく倒れていたと思う。
送りましょうか、という婦人警官の問いに、オレは、大丈夫だ、と答え警察署の玄関を出た。
玄関脇の喫煙所に山下刑事が立っていた。
署内も禁煙なのだ。
「司法解剖が終わったら連絡する。今は精々、心が休めるように取り計らっちゃくれねぇか。刑事としてでなく、子を持つ父親として頼む」
山下はロングピースの煙を吐き出しながらいった。
「わかっている。雑用を引き受けるのが鼠商売だが、今は保護者のつもりでいる」
「オレも気弱になった」と山下がいった。
「気弱でなきゃ、父親は務まらんよ」
「ふん。女房、子もいないくせに聞いた風なことぬかすな。あ、それとな…」
「なんだ」
「一筋縄じゃいかんぞ、波動は」
山下が言葉とともに、ロングピースの甘いアロマを吐き出した。



帰りのタクシーの中、和田さんは無言のまま外を見るばかりだった。
オレとしてもハナシの接ぎ穂がない。
煙草も吸わず、オレも外を見続けるしかなかった。
和田さんの自宅は、オレの事務所から歩いて十五分もかからないところにある。
公園の傍の中層マンションがそれだ。
バブル以前に建てられたものだろう、少々古いが、品のいい佇まいをしている。
和田さん、自宅の鍵はあるか、と聞くと、無言でバックから鍵を差し出した。
部屋番号はわかっている。
オートロックもないので、そのままエレベーターに乗せた。
410号室。
そこが彼女の自宅だ。
借りた鍵で部屋に入り、とりあえずダイニングのカウチに腰掛けさせた。
オレは彼女の正面に腰をかがめて立ち、一語一語ゆっくりと諭すようにいった。
「和田さん。考えがまとまらないのはわかる。ただ、これだけは聞いてくれ。オレは今、和田さんの悲しみに同情することしかできん。ただ、雑用ならできる。娘さんが亡くなられたこと、このことを最初に告げなくてはいけない人は誰だ?それだけ教えてくれ。これから先の面倒はオレが引き受ける」
「え?ああ、はい。えと、それは…」
和田さんは、それでも必死になって考えをまとめようとしていた。
しばらくたって和田正義、という名前と電話番号をオレに告げた。
自分の父親だ、という。
「そうか。それだけわかればいい。悪いことはいわない、いや、お願いだから、少しでいい、横になってくれ」
オレは和田さんの寝室と思しき部屋に入り、そこにベッドがあることを確認した。
ダイニングに戻り、固まって動かない和田さんの手をとり、そのままベッドに強引に横にならせた。
いかにも和田さんらしい掃除の行き届いた部屋だった。
生活感があふれているが、それは切なくつましい母子生活をこざっぱりと彩っていた。
オレは天井を見上げたきりの彼女に、大丈夫だから、と言い残し、静かに部屋を出た。
ほんと、バカじゃねぇか、オレは。
どこが大丈夫なんだよ…。

携帯を取り出し、和田正義氏に連絡を入れた。
それから24時間、オレはほとんど独楽鼠のように動き回った。
人の葬送を仕切るということが、いかに目まぐるしく大変なことか、骨の髄まで思い知らされた。


葬祭場で最後の弔問客を送り出すと、さすがにオレもくたびれはてた。
欲も得もなく座り込みたかった。
しかし、なぜか眠気は感じない。
緊張がまだ解けてないのだと思う。
とりあえずホールに踵を返し、和田さんとその父親、正義氏を控室にいざない、巨大なソファに深々と座った。

「煙草を喫ってもかまいませんか?」
オレは二人に断りをいった。
「あ、ええ、どうぞ。すまないが、わたしにも一本いただけないか」
正義氏もぐったりとくたびれ果てていった。
オレはハイライトのパッケージごと正義氏に渡した。
煙草を一本引き抜き、口に咥えた正義氏にライターの火をかざし、オレも煙草に火を点けた。正義氏は大きく煙を吸い込むと、ゲホゲホと噎せた。
「みっともないですな。煙草は…そう、十年ぶりだろうか。無性に喫いたくなってね。失敬した」
正義氏はそのまま灰皿で煙草を押し潰した。
そのままオレの方を向くと、さらに続けた。

「本当になにからなにまでお世話になりっぱなしで、申し訳ないです」
正義氏は擦りつけるようなお辞儀をした。
わずかに頭頂部に残った白髪の塊が、脂汗でバラバラになっているのが分かった。
疲労の色が隠せない。
「いや、とんでもない。わたしが和田さんにかけている面倒から考えたら、こんなもんじゃすみませんよ」
「わたしは娘と一度自宅へ引き上げます。これからどうするか、娘と相談もしなくちゃならないし。それにわたしも娘も疲れきっている。あなたも、どうか一旦お引き上げください」
「ええ。これから先は親子でのお話でしょう。それにお二人にまず必要なのは睡眠です。とにかく寝てください。で、余計なお世話かもしれませんが、これを…」

オレはポケットからアルミフォイルパックの錠剤を二人に二錠づつ渡した。
「なんです、これ?」
「ハルシオン。入眠剤です。今横になっても多分眠れやせんでしょう。こういう時なんです、悪いことはいわない、薬の力を借りてでも眠ることです」
正義氏はハルシオンのパッケージをじっと見ていた。

「お言葉に甘えてわたしも失礼します。葬送にかかわる細々したところは、あらかた済んでいると思います。わたしは和田さんのためなら、いつでも力になります。ただ、さっきも申し上げたとおり、これからのことはお二人でよくご相談なさって下さい。手が要る時は、いつでも電話をいただければいい。くどいようですが、とにかくおやすみになることだ。明日、またそちらへお邪魔します」

オレは立ち上がりながら、和田さんの肩を軽く叩き、斎場のホールを出た。
斎場から事務所へ戻るタクシーの中、オレは全身の疲労感を感じていた。
ハルシオンがなくても、墜落睡眠できそうだった。



目覚ましのスヌーズ音で目が覚めた。
熟睡とはこういうことか、そんな感じがした。
目覚ましを見ると十時前を指している。
三時間近く寝ていたことになる。
オレはモゾモゾと簡易ベッドから起き出し、シャワーを浴びた。
全身をシャボンで洗いたて、念入りに歯も磨いた。
例によって、下着からすべて取り替える。
スーツ着用にはもう夜も深い。
ジーンズとポロシャツを身に着けた。
これらは洗濯も、しばらくオレがやらなきゃいかんのだな。
和田さんが復帰してくれればいいが、そのまま親父さんと故郷に帰るかもしれん。
和田さんに、よい方向で事態がむかえばいい、オレは柄にもなく願った。

ハイライトに火を点け、オレは事務所を出た。
行き先はオカマのマリーの店だ。
煙草をいくらも喫わないうちにマリーの店に入った。
カウンターの一番奥で山下刑事が仏頂面でロングピースをふかしていた。

オレは山下の隣のスツールに腰を落とした。
オカマのマリーに紅茶とサンドウィッチを頼む。
「ネズミさんよ、どうしたい。紅茶とは不思議なものを頼むんだな」
山下がビールを飲み干していった。
「寝起きでね。今夜は飲まないことにした。明日も和田さんのところへ行ってみようと思っている」
「殊勝だな。しかし参ってるだろ、彼女は」
「ああ。急に萎んだような感じがする。哀れだ」
「そうか」
山下がビールを追加オーダーした。
オレの前にはパストラミをぎっしり挟んだ全粒パンと紅茶用のカップとソーサーが置かれた。

「和田さん、どうなさるの?」
ポットから紅茶を注ぎ淹れながら、オカマのマリーが尋ねてきた。
紅茶はフォション独特の上品な香りを漂わせている。
「さて、どうなるんだろう。今晩、父君と相談しているだろう。しばらくオレのところでフルタイムでやらないか、と誘おうと思っているんだがね」
「あら、給料払えるの?」
「二、三年なら払えるかな。それ以上は無理だな」
オレはサンドウィッチをモサモサ口に運び、マリーに答えた。
パンも旨いし、パストラミも旨い。
マリーは並の女以上に手が利く。
「あたしを代わりに雇わない?結構、有能よ」
マリーが身体を乗り出してきた。
「馬鹿なこというなよ。依頼主の前にオカマを出せるかよ。ま、おまえさんが有能なのは認めるがね」
オカマのマリーの外見が普通なら、和事荒事まぜて有能であろうことは想像に難くない。
「そりゃそうだ。いきなりオカマがヌッじゃ、不気味だ」
山下が思いがけず軽口を入れてきた。
もう一杯グッとビールを呷ると、山下がボソリといった。

「で、和田女史の娘の事件だがな、妙な接点が生まれてきた」
「それは刑事・山下の独り言だな」
「ああ。だがもういい。ここは署じゃねぇ。当たり前に話をしてやる」
「ありがたい。感謝する」
オレはハイライトに、山下はロングピースに火を点けた。
「オマエが探っている波動だが、どうもそこから派生した事件と見立てるのが本筋のようだ」
「え!ほんとか?」
オレは素っ頓狂な声を上げた。

「ああ、波動から考えると筋がいい。しかし、その前になんでオマエは波動を探っているんだ?それをまず話せ」
依頼主の秘密を守ることはルールだ。
しかし生死にかかわる喫緊があれば、それは別だ。
確かにオレも非合法スレスレ、あるいは若干の触法もやる。
波動本部に押し入ったのも立派な住居不法侵入、器物損壊にあたる。
しかし、それは圧倒的な非合法を突破する非合法手段だ。
非合法が目的じゃない。そこらあたりは理解してくれ。

オレは山下刑事に川崎真知子からの依頼の経緯を話した。
ここでも彼女が腰の抜けそうな美人であることは伏せてしまった。
俗人、極まれり、だな。
「なるほど。見立てとしちゃ、単純だな」
山下は大きく煙を吐き出しながらいった。
「そうなんだ。カルトだかマルチだか知らんが、波動とやらに妹がはまってしまった。姉として妹を救出したい、それをオレに依頼した。中味としては、それだけなように見える。不審な点は感じられない」
オレはぬるくなりかかったフォションを啜った。

いや、ちょっと待ってくれ、と言葉がついてでた。
うん、なんだ、と山下がこちらを向いた。
「依頼主の川崎真知子と打ち合わせをしていたときなんだが、彼女がこういうことをいっていた。あー、あのな、川崎姉妹というのはベラボウに美人なんだ。それをオレは素直に賞賛した。ところがな、彼女にいわせると、その美貌が嫌だというんだ。女が美しくあることをなぜ嫌がる?それに少し首を傾げた記憶がある。なにか思い当たる点があるか?」
「ないね。刑事であろうがなかろうが、わからんよ」
山下はかぶりをふった。

なぜだ?
自分の美貌が嫌いだということが、なにか障害になるのか?
オレはホテルの中華屋でのやり取りを思い出していた。
しかしそのことを今ここでグダグダ考えても詮ない。
わからないことを考えたところで不毛なだけだろう。
オレは強引に思考回路を閉じ、話を山下に向けた。
「ところで、被害者・和田洋子と波動がどうリンクするんだ?」
「ああ、それだったな。まだ完全にウラの取れた話じゃないんだがな…」
山下はビールで喉を湿らせ、最初に溜息をついて喋り始めた。
疲労の色が濃かった。

「和田洋子は大学でボランティア活動のサークルに入っていた。まあ、彼女らしい正義感の発露だったんだろうな。サークルの中でも面倒見もいいし、先輩後輩から頼りにされていたらしい。さすがに和田女史の娘さんだな。利発で骨惜しみしない性格が誰からも好かれていた。それは周り全ての評価だ」
なるほど、とオレは最低限の相槌を打った。
今は徹底した聞き上手でなくっちゃいけない。
山下はビールとロングピースの力で話を続けていった。



洋子の正義感が裏目になったのかもしれんのだ…。
洋子の所属するボランティアサークル内でやはり波動にイカレてしまった男子学生がいた。
仮にAとしようか。
ああ、そうだ、Aは本線とはまったくリンクしない。
完全なアリバイもある。
そのAがサークル内で猛烈な折伏をおっぱじめた。
Aそのものは東北の田舎出身でな、友達のいない寂しさから、波動にイカれたんだろうな。
洋子はそのAにサークル内での勧誘は止めて欲しいと頼んだんだ。
ところが逆にAは、それなら一度セミナーを受けてみないかと、説得した。
義理堅い洋子は、Aが今後サークル内での勧誘を止めるという条件で、セミナー受講をOKした。
このあたりはサークルメンバーの話が一致している。
Aも認めている。
ところが受講した洋子は波動の胡散臭さに気付いたようだ。
サークル内での波動一派をオミットする行動に出た。
波動をやりたければこのサークル外で。
このサークルは一切波動は関わらない、と宣言し、徹底させた。
Aは面白くないわな。
なにしろ波動にはマルチ商法に近い会員獲得ノルマがある。
会員を獲得すればするほど波動のステータスが上がるってんだから、カルトよりマルチに近いかもしれん。

とにかく、だ。身近な会員獲得の窓口、つまりボランティアサークルだな、そこでの足場を失ったAはしきりにボヤいていたらしい。
洋子さえいなけりゃ、サークルを波動に変えることもできるのに、とな。
Aはそのことを波動の上級幹部に漏らしたんじゃないかと思われる。
このままでは大学での拠点がなくなりますよ、という言い方だろうな。



そこまで話をすると、山下はオカマのマリーにバーボン・アンド・ソーダを頼んだ。
出されたそれを一口含むと、首筋を揉みながら溜息をまたついて、言葉を接いだ。
「しかしそこからが分からん。行き先見えずの八幡の藪知らずだ。Aはキョトンとしているし、波動の本部も慇懃な対応だが、なにも喋らんに等しい。空回り感がひどいな。ま、捜査にありがちといえばそれまでだがな」
「波動以外に洋子が事件に巻き込まれそうなトラブルはなかったのか?」
「まったくないね。見事なもんだ。礼儀正しく、誰からも好かれ、利発な働き者だ。彼女の爪の垢をオレのバカ娘に服ませたいぐらいだ。事実、周辺を嗅ぎ回ってもなにもない。きれいなもんだ」

オレはすっかり冷え切った紅茶を指差し、熱いそれとの取り替えを頼んだ。
オカマのマリーの無骨な指が静かにカップを下げた。
カップの上げ下げにもライフルの分解にもよく動く指だ。
「ということはAでデッドエンドということか」
「そう、行き止まりの通行止め。Aと波動との接点もはっきりしない。Aは波動に属しちゃいるが、結局はペーペーのその他大勢に過ぎん。高度な内部情報にアクセスできるほどの智慧はない。はっきりいえば、単に愚鈍な若造だな」
「Aを探るしかないってことか。で、名前はなんというんだ、そのAは?」
「捜査上の秘密だ…といいたいが、和田女史のことを思えばそうもいくまい。ただし教えてやってもいいが、条件がある。切迫した危険や重大な情報はオレに話せ。必ず、だ。鼠商売を邪魔立てはしないが、これは殺人事件だ」
「承知している。アンタとは長い付き合いだ。何回かアンタにしょっ引かれてブチ込まれたこともあった。最低のルールくらい、痛みとして分かっているつもりだ」
「フン、聞いた風なことぬかしやがって。まぁ、いい。そいつの名前はな宮崎一平という。殺された和田洋子と同じ学部、同じクラスだ。大学近くのアパートで暮らしている。学校と波動、それに居酒屋チェーンで厨房のアルバイトをしている」
山下刑事は全国展開をしている居酒屋チェーンの名前を挙げた。
それはここから歩いていける場所にある。
「宮崎を別件でしょっ引く予定はあるのか?」
「ないね。やつはこの件とは無関係だ。直接の実行者じゃない。ギュウギュウいわせたところで、なにも出てこんだろう。まぁ、宮崎の情報で邪魔な和田洋子に波動が手を下したとも考えられるが、どうかな。その程度で組織が人を殺すか?これからさらに組織拡大を図ろうとする波動が、そんなヤバイ橋を渡るとは思えん。それになにより宮崎は波動ではなんの力もない。末端の末端だ」
山下はポケットから一葉の写真を取り出した。
「これが宮崎だ。ノッペリした男だな。今流行のオタクってやつかね。こんなのが息子だったら、ブン殴る」

オレはその写真を間近でじっくりと眺めた。
確かにノッペリした不気味な男だ。後藤といい宮崎といい、波動にはこういうステレオタイプな人間が多いのか…。
しかし、今のところ和田洋子と結びつく線はこの宮崎しかない。
波動本部に乗り込んで、徳永なり後藤なりと強談判ということも考えられぬことではないが、労多くして益少なしであろうことは想像に難くない。
「で、警察としちゃこれからどうするんだ」
「周辺情報を地道にあたる。あとは現場だ。現場遺留品の鑑定は進めているが、殺害現場は別だな」
「捜査王道を進むってわけだ」
「そうだ。それが警察の仕事だからな。必ず犯人は挙げる。ただな…」
山下が最後のビールを飲み干していった。
「波動が不気味だ。できれば無関係であって欲しいが、そうでなければ骨が折れる予感がする」
山下が立ち上がり、オカマのマリーに勘定を払った。
「清潔でいい店だ。カラオケもなくて静かでいい。悪くない」
そういい残すと、山下は振り向きもせずに店を出て行った。
オレは山下の後姿を見送り、ハイライトに火を点けた。

「大変な一日だったみたいね」
オカマのマリーがフォションの茶葉を取り替えながらいった。
「ああ。疲れたよ。こたえるね。あ、でもアンタは和田さんを知っているのかい?」
「知ってるわよ、ご近所なんですから。素敵な方よね。テキパキとしていらっしゃるし、それでもお節介にならないように心配りのできる方。それに、なんといっても美人よ。知性のある聡明な顔立ちって和田さんみたいなことをいうのよ」
「そうかな?」
「鼠商売のわりに間抜けなことをいうのね。オカマのわたしが見ても溜息が出るわね」
確かにそうかもしれん。
オレはいつも和田さんに叱られているから、どうにも俯きがちになってしまう。
視線を据えて和田さんを眺めたことがないことに気付いた。
そうだ、確かに和田さんは綺麗だ。
弾けるような輝きのある女性じゃないか。
いかんな、どうにも。
迂闊にもほどがあるぜ。

しかし、なんだ。
その和田さんが今は別人になっちまっている。
それも平仄を合わせるように、川崎真理子からの依頼とリンクし始めている。
なにか奇妙なことが回転し始めている。
宇宙塵が集まって回転し、徐々に恒星の形を取るような動きに似ている。
その中心が波動に収束するのだろうか。
取っ掛かりはなんだ?
川崎嬢の奪還を目指せば和田洋子に繋がり、和田洋子を追えば、行き先は波動に向かいそうだ。
オレは二兎を追わねばならないようだ。
どうする?
宮崎一平に会ってみる、今できうることはこれしかない。
時計を見ると、すでに日付が変わっている。
今から宮崎のバイト先の居酒屋に行っても閉店しているだろう。
やむを得ない。
昼間の大学キャンパスで探してみるしかないか…。

「すまないがマリー、頼みごとがある」
「なによ、難しいこと?」
「いや、ケンスケが現れたら、今までの話を伝えておいてくれないか。山下刑事とのやりとりは頭に入っているだろ?」
「なんだ、そんなこと。お安い御用よ。それにもうすぐしたら本人が来るかも知れないわよ。一杯飲んで待ってれば?」
「いや、今晩はやめよう。体の芯がボロ綿のようだ。心底、くたびれ果てた。眠剤をオーバードーズして眠る」
「そう。鼠さんもお疲れ目ね」
「ああ。もう中年でもない。初老だ。そういえば、マリー。アンタと出会って何年になる?」
「オカマに歳を聞くのは、女性に聞くより野暮よ」
「そうか。そうだな。すまん、忘れてくれ」
そういい残して、オレは席を立った。
ハイライトに火を点け、マリーの店のドアを押した。
路地の向こうで酔客の吐瀉物が饐えた臭いを放っていた。
ドアが閉まる寸前、もう二十年よ、というマリーの声がした。
背中のその声にオレは軽く手を挙げ、ドアを閉めた。


ハルシオンを2錠、総合ビタミン剤ビタメジンを3錠服用して朝を迎えた。
眠剤のオーバードーズでよく眠れた気はするが、体の芯の疲労が抜けていない。
一回の睡眠と食事ではもう回復しなくなってきている。
ヤレヤレ、初老を迎えるとは実に難儀なものだ。
時計は8時前を指している。
オレはいつものようにシャワーを浴び、下着からなにから、すべて取り替えた。
朝刊をバサバサ広げながら、牛乳とホウジ茶、梅干で朝飯代わりとする。
新聞社会面に和田洋子の続報が入っている。
扱いもベタ見出しに変わっている。
朝刊1面の政変記事軟派記事が、続報を小さくさせているのかもしれん。
内容にも昨夜の山下刑事から聞いた域をでていない。
つまり、デッドエンド。
袋小路でなにもわからない、ということだ。
担当記者の推測だろうが、通り魔説の色が濃く出ている。

この担当記者も辛かろう。
なにしろ夜討ちをかけて取材すべき山下刑事は、このオレといたのだからな。
オレは終夜、山下刑事の自宅前で呆然としている若い記者を想像した。
お若いの、フリーランスも厳しいが、サツ回りのアンタも大変だな…。
ハイライトを吸い込みながら、オレは二杯目のホウジ茶を啜りこんだ。
さて、そろそろ出かけるか。
どこだって?
宮崎の通う大学、あ、それはつまり和田洋子の通っていた大学さ。
実はオレの通った大学でもあるのだがね。
二人とも後輩ってことだ。

オレが学生のころは路面電車が走っていたが、とうの昔に廃線になっている。
今は地下鉄だ。
オレの事務所最寄駅から6駅目にサブキャンパス、教養部がある。
別に本部キャンパスもダウンタウン近くにあったのだが、国立大学の独立行政法人化とやらで、ずいぶん郊外の海辺に移転した。
学生は学問が本分かもしれぬが、それと同時に大人のセコさや、小狡さを学んだほうがいい。
妖しげな飲み屋でもいい、とんでもない遣り手ババアと枕を共にするでもいい、あるいは雀ゴロにスッテンテンに巻き上げられるのもいい。バカ金を使え。悔恨の惨めさに苦い思いをしろ。本だけは片時も離すな。極貧旅をしろ。
学生時代の経験は決して無駄にならない。
そのためにはダウンタウンに近い方がいいんだがな…。

おっと、また説教癖が出たな。
モタモタせずに地下鉄に乗ろう。
オレはコンビニでスポーツ新聞を買うと、小脇に挟んで地下鉄に乗った。
地下鉄は新造車両の爽やかな香りがしていた。
スポーツ新聞の競艇欄を検討する間もなく、地下鉄は大学前のホームに滑り込んだ。
専用出口階段を上がると、すぐそこに大学正門がある。
ちょっと懐かしさにテレ臭い思いがした。

このキャンパスで過ごしたのはもう三十年以上前のことだ。
新左翼もまだまだそれなりに勢力があり、学生大会はいつも徹夜の紛糾、ヘルメット部隊の小競り合いがいたるところであった。
彼らはマルクスやレーニンの著作と少年マガジンを手に、政治を語り芸術を議論していた。
オレはその砂を噛むような味気なさに、彼らとは一定の距離を取り、ノンポリその他大勢で過ごしていた。
もっともある日、代々木系の学生が、今、暴力学生に殴られました、と泣き言を言っていたのには心底笑ったがね。
実際、代々木系の奴等ほどセコイ連中はいなかった。
暴力反対を声高に叫ぶくせに、夜陰に乗じて黄色ヘルメットと鉄パイプで武装し、他党派に襲撃をかけていた。
そのくせ女学生の前じゃ『平和と民主主義』だと。
殴られましたた、彼らは暴力学生です、とお涙頂戴。
バカじゃねぇか、こいつら?と軽蔑したね。
やられたらやりかえせよ。
金玉ついてんのか、おまえ、と腹の中で罵倒したね。
売られた喧嘩は買えよ、男だろうが、と毒づいた。
オレは革命がどうとか、安保がどうしたなぞどうでもよかった。
ただ一点いえることは泣くくらいなら喧嘩なんざするんじゃねぇ、ということだけだった。

しかし、それにしても…。
去るもの日々に疎しとはこういうことか…。
あれほど猖撅を極めた立て看板の類が全く見られない。
墨汁に糊を流し込み、白紙に独特の書体で書かれた政治スローガンがまったくないのだ。
左も右も関係ない。
とにかく政治臭は皆無だ。
隔世の感、だな。

正門前は流行のファッションで固めた小僧や娘っ子が、脳天気に闊歩している。
悩みがないといえばいいのかもしれんが、これはこれで不気味だ。
せめて若いうちの数年でいい、世の懊悩をすべて背負い込んだような屈託多い青年であってくれ、と初老は思う。
大丈夫かね、こいつら、とボンヤリ眺めていると、オレの横を大型オートバイが通り過ぎて行った。
男の腰に手を回したパッセンジャーシートの女が、男に大声でなにか話しかけていた。
なるほどね、これがオレの知らなかった大学生活、今風にいえばキャンパスライフってことかい。
オレはかぶりを振りながら、すっかり様子の変わった構内を歩いた。
信じられないことに、サークル棟は昔ながらそのまま、オレの記憶どおりの場所に、記憶どおりの形で残っていた。
オレの想像が間違っていなければ、このサークル棟に和田洋子の属していた部室があるはずだ。

サークル棟の入口エントランス壁には、入部をいざなう張り紙がベタベタとある。
オレの頃なら、それらは間違いなく手書きのはずだが、今はそんなちゃちなもんはない。
PCを駆使し、意匠を凝らしたデザインと多色で見事に作り上げられたものばかりだ。
順にそれらのポスターを眺めていくと、和田洋子の所属していたサークルのそれがあった。
場所はこの棟の二階奥ということになっている。
オレは無機質なリノリウム貼りの階段を上がった。
廊下の突き当たり手前左側の扉に『ボランティアサークル・泉』のプレートがある。
これだ。
オレは軽く扉をノックした。
どうぞ、開いてます、の声に促されて身体を室内に滑り込ませた。
何人かの男女学生の中に、宮崎一平のノッペリ顔を認めることができた。
学生連中が胡散臭いものを見るような目つきでオレを眺めている。
オレはそれらの視線を無視し、宮崎に話しかけた。



(これ以上の追加は規定の6万字を超えるため、「鼠の目2」としてアップします)


規定の6万字を超えるため、続きは<a href="http://ncode.syosetu.com/n9123c/">鼠の目2</a>にアップしました。













ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう