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尻子玉
作:絵爾久万


−その1−
 歩を進めるごとに、湿気を多く含んだ空気が頬をなでていった。
 微細な水滴が肌に貼り付き汗と結合して、皮膚の上をだらだらと流れていく。
 不快この上ない。
・・・まるで熱帯のジャングルだ。
 小田中毅二郎は、額の汗を腕で拭ぐい呟いた。
 空を仰ぎ見ると、周囲に林立する樹木のあまりの高さに眩暈がした。
 鬱蒼と茂る樹木の隙間から差し込むわずかな光は、宙に漂う無数の水の粒子に反射し、数本の筋となって地上に舞い降りた。

 都心から車で約2時間。
 広い胡瓜畑を両手に見て、国道から垂直に伸びる小川の側道を下って行くと、川はくねくねと蛇行し、両脇から樹木が生い茂ってくる。
 更に川沿いに歩を進めて行くと、枝葉はますます鬱蒼と迫ってくる。

 車を降りてから、すでに3時間ほど歩いていた。
 からだ全身に重くのしかかる不快な湿気と、ぬかるんだ足元の泥が侵入者を必要以上に疲労させた。
 四方八方樹木に覆われ、外界の光さえも遮ってしまう、ほの暗い森の中。
 ほんの数メートル距離を開けて前方を歩く、黒い帽子の男とは、一時間以上も言葉を交わしていない。
 男が時々後者を確認するかのように後ろを振り返るが、毅二郎は声を出すのも億劫だった。

 前方を歩く男が突然停止した。
 何も考えず、重たい両足を滑らせないようただ交互に移動させる事だけに集中していた毅二郎は、男の背中に頭をぶつけてはじめて気がついた。

「沼だよ・・・」
 男の指差す方向を覗くと、乱立する大木の幹の間にぼんやりと深緑色に淀む平面が見渡せた。
 逃げ場のない蒸発した水蒸気が水面上で漂い、輪郭は定かではなかったが、坂口教授の言うように確かに沼だった。
 沼の周りの、ほの暗い葉叢の陰で得体の知れない生き物どもが蠢き、奇妙な声で鳴いていた。
 毅二郎は熱帯の深い森の中に、迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。 
 
「足元に気を付けろよ。底なしだから滑って落ちたら最後だぞ」
 教授は言った。
「底なし?・・・」
 毅二郎は、教授のいつもの大げさな脅しに違いないと思ったが、沼面を覗き込むとその色は、一歩でも足を踏み入れたものを飲み込んでしまうような、深い貪欲な暗緑色をしていた。両足がすくんだ。

「まだですか?」
 そうたずねると、坂口教授は毅二郎の問いかけには答えず、更に歩調を速め森の奥深くへと入り込んで行った。
 いまさら引き返した所で、今来た道を正確に戻る自信はない。
 仕方なく毅二郎は教授の後を追った。

 二人は無言のまま更に歩き続けた。
「うわぁーっ!」
 突然、毅二郎の右足が泥の中にはまった。
 引き抜こうとしたが、粘着性の強い泥は生き物のようで、容易に毅二郎の足を放してはくれない。
 右足を無理やり引き抜こうと身体をよじっていると、今度は左腕を泥の中に取られてしまった。右足と左腕は泥の中にずぶずぶと埋まっていく。
 更に左腕を引き抜こうと右腕を地面につけると、今度は右腕が吸い込まれていく。いよいよ身動きが取れなくなった。
 ぶざまな四つんばいになり、地面に顔を近づけて毅二郎は驚いた。
 泥の中から何者かがこちらを見ているのだ。
 明らかに人間の顔であった。年月が経っているのか、かなり変形している。皮膚はふやけ、ホルマリン漬けの胎児のように赤みのない黄土色をしていた。しかも毅二郎の左腕は、その泥の中に埋まり目玉が抜け落ちた死体の眼孔にはまっていたのだ。
 
 坂口教授が背中を掴み、引き上げてくれなかったら、そのまま泥まみれのゾンビのような死体を抱きしめていたに違いない。
 毅二郎は坂口教授に感謝した。

「土佐衛門だよ。小田中君」
 泥の中から引っ張り出され、呆然と立ちすくむ毅二郎に坂口教授は言った。
「はぁ・・はぁ・・・」
「この沼は深くなればなるほど狭くなり、底部は胃袋の様に窄まりその先は鹿島灘の海底に繋がっているんだよ。
 この近隣の海域では、自殺や海難事故等で亡くなり行方不明になった溺死体はなかなか上がってこないと言われている。
 元々周囲の土壌に多くの塩分が含まれていたからか、それとも人為的に何者かが、何かの目的で大量の塩分を混入しているのか、まだ理由は解明できていないのだが、驚く事にこの沼水の塩分の濃度は、殆ど知られてはいないが、死海よりも濃く40%もあるんだ。海水の約10倍だよ。
 塩分が多ければ多いほど比重が重くなり、浮力が大きくなる。
 行方不明になった水死体は、海の奥深く迄いったん沈み込み、体内部の腐敗でガスが発生し、ぶくぶくに膨れあがる。土佐衛門というやつだ。
 ぶくぶくに膨れあがった溺死体が海流に乗って、この沼底の入り口近くを通り過ぎると、当然浮力の強い沼へと引き寄せられる。
 そうして一旦この沼の入り口へ吸い込まれた土佐衛門は、沼の強い浮力で今度は一気に上昇をはじめる」
「・・・この沼には行方不明になった水死体が、集まってくる仕組みになっているんですね」
「ああ、仕組みになっているのか、意図的に仕組まれているのか・・・。見たまえ、小田中君」
 教授は言った。ぐるりと周囲を見まわす教授のその視線の先を追って、毅二郎は言葉を失った。
 眼を凝らしてよく見ると、沼の周りには無数の土左衛門が泥の中に隈なく埋まっていた。
「まるで誰かが規則的に一面に敷き詰めたようだ・・・」
 片方の眼球がずり落ち、鼻骨の削げ落ちたもの。顔面の皮が剥がれ、頭蓋骨が半分はみだしたもの・・・その殆どが変形し、すでに原型を留めてはいない。
「しかし、壮絶な眺めだ。これだけの数の死体を目の前にすると、むしろ恐怖感などぶっ飛びますね」
「死体と言っても、ここの殆どの死体は長い間この湿気の多い場所に放置され、体内の脂肪がミネラル分と結合し、脂肪酸に変化し、且つ又いくつかの条件がかさなり、脂蝋化しているので腐敗臭などはないからね」
 そう言いながら、教授はいくつかの土佐衛門を注意深く観察し、比較的四肢の整ったものを選び出すと、その臀部の割れ目に腕を突っ込んだ。
「うわっ!なにするんですか?教授」
 毅二郎の驚きなどまったく意に介さず、教授は土佐衛門の肛門の中をまさぐり、平然と言った。
「・・・やはり、抜かれている」
「勘弁してくださいよ・・・」
「だから言ったろ、ここの土佐衛門どもは皆全て脂蝋化しているんだ。言わば石鹸みたいなものだ。そしてすべて御用済み。尻子玉を抜かれているんだ。間違いない。私の予想した通りだ」
 半信半疑でこんな辺鄙な森の中へ来たものの、教授の自信に満ちた表情と、実際無数の脂蝋化した土左衛門を目の当たりにして、毅二郎もまた新たな確信を持った。
「さあ、最後のひとふんばりだ」
 教授が言った。
「よし来た!」
 毅二郎も力強く返事を返した。

−その2−
   
 沼に沿ってまたしばらく歩いて行くと、程なく大きな岩壁にゆく手を阻まれた。
 岩壁の表面は苔に覆われ、隙間なく覆われた苔は多量に水分を含み、水滴をだらだらと滴らせていた。

「右へ行くべきか、左へ行くべきか・・・」
 毅二郎は坂口教授の顔を覗き込み、次なる指示を仰いだ。

「迷う事はない。沼から離れてはならないのだからな」
 壁伝いに右方向へ向かう教授に毅二郎は黙って従った。

 50メートルと離れていない処に洞窟があった。人がやっとひとり通れる程度の幅で、中を覗くとその奥は真っ暗闇だった。
 二人は洞窟の入り口の所で、事前に準備してきたヘルメットを被り、その上にケーブ用ヘッドライトを装着した。
 洞窟の中部はくねくねと曲がりくねっており、先の見えない恐怖感が毅二郎の四肢を強張らせた。上から頻繁にぽたぽた垂れる水滴が背中を濡らす。毅二郎は前を歩く教授のベルトの部分を掴んで歩いた。
「やめたまえ、小田中君。化け物屋敷じゃないんだからね」
「苦手なんですよ、僕。こういう狭い所と暗い所がね・・・」

 暫くして、教授の足が止まった。
 目の前に、洞窟とは不釣合いな二つの黒い鉄製の扉が立ちはだかった。
 一方の扉には来客用、もう一方の扉には従業員専用と記された札が掛かっていた。
 教授と毅二郎はドアの前で顔を見合わせた。
「た、隊長!いよいよですね」
「?ああ・・・いよいよだ」
「やはり、来客用ですか?」
「いや、面倒な手間は省こう」
 坂口教授は迷わず、従業員専用の扉を開いた。

 扉を開けた途端、奇妙な低周波音が地鳴りのように洞窟の中に響き渡った。
 部屋の中は明かりは点いておらず、ヘッドライトのわずかな光で、両側の壁にはスチール棚が設置されているのがわかった。また棚には同サイズのダンボール箱がいくつも山積みされていた。

「何をやっているんだっ!」
 突き当たりの扉が突然開き、作業着を着た男が入ってきた。
 声の主は懐中電灯の光を二人にあてて近づいてきた。
 男の顔色の悪さに身震いがした。
 教授はひるむ事もなく落ち着いた口調で言った。 
「見学をさせてもらいにきたんですよ」
「困りますよ。ちゃんと受け付け通してもらわないと」
 男は意外と紳士的な口調で言った。

「受付の許可はもらってありますよ。ほら・・・」
 教授は此処へ来る途中、昼食を食べたファミレスの領収書を差し出した。
 作業着を着た男は領収書を読みもせず、丸めてポケットにねじ込み、手招きで二人を隣室へ案内する仕草をした。

「出たとこ勝負だ・・・」
 教授は小さな声で毅二郎に耳打ちした。

 二人は男に案内されるまま、隣室に入った。
 低周波音は更に増幅した。
「こちらが作業場です」
 男は入り口の所で立ち止まり、私たちに言った。

 ほの暗い灯りの中、間近で男の顔を見て毅二郎は驚愕した。

 皮膚は深緑色をしており、頭頂部には周知のとおり皿を載せている。口先は鳥の嘴のように尖っており、背中の甲羅は確認できなかったが、目玉は紅かった。

 河童だ。
 紛れもない。河童である。

 毅二郎は薄暗い体育館のような広い作業場の中を見渡し、更に驚いた。
 何百もの作業台が整列しており、作業台で作業をしているのは全て河童だった。

「小田中君!遂に・・・遂に辿り着いたよ」
 教授が興奮気味に言った。
「あ、あの白い玉が私達の捜してきたものなのですね・・・」
 二人は硬く両腕を握り合った。
「ああ、尻子玉だよ。小田中君。河童が尻子玉を磨いているんだよ。鯰のなめし皮で丁寧に長い時間をかけ、表面限りなくフラットになるまで磨き上げるんだ」
 河童は、電動ろくろが設置されたそれぞれの作業台の上に、それぞれ一つの白い玉をのせ、鯰のなめし皮に研磨剤を少々付けて、歪んだ尻子玉の表面をみがいている。
「信じられません・・・」
「大手パソコンメーカーの下請けの工場が、河童の生産工場だった。などと言うことは、実際使用している殆どの人々は知りもしないだろう」
「河童とパソコン。どう考えたって結びつきませんよ。しかも尻子玉とマウス。こんなところで生産されていたとはまさに驚きですね」
「最近の傾向としてはマウスはレーザーや光学式に代わり、実際需要は以前よりは落ちたが、やはり人工のものとは出来が違う。滑りが違う。半永久的に使用できる。一玉あたりの一日の平均走行距離はどの位だと思うかい?小田中君」
「うーん、想像もつかないなあ・・・」
「約2.8キロだよ。こんな小さな玉がね。それだけ酷使して、尚且つ半永久的に使用できる。そんな素材は尻子玉以外にはありえないだろう」
「しかし、何故また河童が…」
「単純な理由さ。コストだよ。小田中くん」
「コスト・・・」
「尻子玉のコストはシリコンボールの10分1だからね」
「材質は優れているのにですか?」
「ああ、実際これをもし人間が造ったとしたら、これだけの手間をかけているんだ。シリコンの10倍どころじゃないだろう。ここへ来る途中、広大な胡瓜畑があっただろう?」
「ええ、確か・・・車をお降りてすぐのところに」
「業者はあそこで胡瓜を生産し、河童は対価としてそれを受け取っている。胡瓜は河童の大事な主食だからね。近年のダム開発などで日本中に河童の住める条件の良い沼がなくなってしまったのだよ。住むところを追われた日本中の河童が、条件の良いこの沼に集まって来たんだよ。小田中くん」
「はぁ…まじっすか?それにしても、胡瓜くらい自分達で作れないのですか?」
「そりゃあ、作れればそれにこした事はないさ。河童の行動範囲は意外と短いんだ。水の無い処では5分と持たない。昔は夜中に、そこいらの畑の胡瓜を頂戴してくればそれで済んだ。しかし、昨今の山村開発化で胡瓜畑は激減し、胡瓜の生産高に対する河童の人口比率はまったくもっておっつかないのだよ。河童は昼間外に出れば皿が乾いてしまい、ものの5分も持たないうちにヘタってしまうのだよ。農作業など不可能だ。そこへ目を付けたのが、最近国内のパソコンメーカーで急成長をしているハイルなのだよ。小田中君」
「なるほど、納得ですね。台湾や中国に代わり国内生産で此処までコストを下げられたのは、そう言った末端の努力の賜物だったんですね。」

 そこへまた恰幅のいい別の河童がやって来た。


−その3−
 
「わたしは工場長の河原です」
 恰幅の良い河童は、坂口教授と毅二郎に名刺を渡して言った。
 教授も河童の河原工場長に名刺を差し出した。

 工場長は、教授の差し出した名刺を見て眉間にしわを寄せた。
「あなた方パソコンメーカーの人違うね」
「メーカーではありませんが、大学の研究室でIT機器等に使用されるデュラブルな素材の研究をしています。こちらで使用している素材が、他の分野で活用可能かどうか等も、今後の為に参考にさせてもらえばと思ってます」
「・・・なるほと、それじゃ、作業の邪魔にならないように研究よろしくお願いしますよ」

 工場長は思いのほか好意的だったので、教授も毅二郎もホッと胸をなでおろした。
「ちょっとした物音でも集中力欠きますあるからね。なにぶん手作業てすから、細かい心の乱れが品質に大きく影響するます。それでなくてもこのところ、みんなして休み返上で働くはもらってるです」
「わかりました・・・」
 工場長は訛っていた。
 河童訛りか、茨城訛りか、しかし東南アジア系人の日本語訛りにもよく似ている。やはり河童の起源は熱帯地方か・・・更なる今後の研究課題だ。
 教授の心は躍った。

「ハイルから1万個のちゅもん入りましたよ。それは大変お久しぶりね。納期は明朝5時ジャスト。それはあなたずいぶん早い時間と思いますか?思いませんか?」
「えっ?はぁ・・・そうですね。またずいぶん早いですね」
「我々は夜起きてあります。あなたたち夜寝ます。朝5時はハイルと我々の丁度中間地点です。そいう事。あなた、もうわかりましたね」
「あっ、はい。なるほど・・・」

「今は、仕上げの段階です。我々は商品のしんしつには絶対の自信持っています。それと共に受けたちゅもん納期まで必ずお届けいたします。信用第一てすからね。」
「当然でしょう。次の仕事にも影響してきますからね」
 真剣に仕事に取り組む、思いもよらぬ河童たちの態度に、教授はちょっとした感動を覚えた。

「どんな事あてもお、我々はあ、納期までには間に合わせますよ!」
「ごもっともです」

「信用第一てす!」
「わかりました」

「絶対納期守ります!」
「ですから、わかりました」

「てすが、ひとつ・・・困ったことあるには、現在ただ今のところ完成度99.98パーセントなるます」
「と、いいますと?・・・」
「2個足りないのよ。尻子玉」
 そう言うと、工場長の顔が醜く歪んだ。

「はぁ・・・でも、あれだけの数の土佐衛門が沼の周りに転がっているんだ。探せば2・3個の抜き残しくらいあるんじゃないですか?」
 教授の言葉に、工場長は急に顔色を変え、強い口調で言った。

「あなたそんな事なぜ言える。私達の作業に、そんな手抜きするはありません。抜くは尻子玉だけてす。大事な大事な土佐衛門さまから頂く尻子玉、ひとすっつ丁寧に両手を合わせ、抜かせて頂いておりますあるますよう!」
 興奮するに連れ、工場長の訛りは更にひどくなった。

「2個位・・・少なくたってわかりゃしないでしょう」
 今度は毅二郎が言った。

 しかし毅二郎の言葉は、更に工場長の癇に障ったようであった。
「バカヤロ!!あなたなんてこと言うね。私達そんないい加減なことしないよ!さっきからゆうてるよ。またくもう。あんたひどい事いうはだめだめだよ」
「ごもっともです。大変失礼しました」
 毅二郎が謝ろうとする前に、教授が頭を下げて謝った。教授が工場長の興奮を抑えようとしているのがわかった。

「こんな所にやって来る人、ほどんといませんでよ。ここの存在知ってる人ハイルの一部の人たけ。この沼、人間ほどんとやってこない。やって来るは尻子玉付けた土佐衛門だけ。私達尻子玉磨くと、ハイルの人胡瓜持ってきてくれる。沢山沢山持ってくれるあるます。私達胡瓜ないと生きられないよ。あなた達ふたりよく来てくれました」
「はあ・・・」
 毅二郎はいやな予感がした。

「あなた達胡瓜持ってきたか」
 工場長が聞いた。
 毅二郎は咄嗟にポケットを探り、財布の中から千円札を三枚抜き出すと工場長に手渡した。
「私達、胡瓜は持ってないけど、これなら胡瓜買えます。とりあえず好きなだけ胡瓜買えます。」
 工場長は、暫く自分の手で握っていた三千円をしみじみ眺めていたが、しまいにはその三千円を毅二郎向かって投げつけた。

「なにバカな事おしゃってるか、おまえ。この紙がなぜ胡瓜になる。ふざけるな!バカヤロ!コノヤロ!おまえたちふたり胡瓜持って来なかった。仕方ない、尻子玉抜かせてくださるか?」
 赤い眼を光らせ、工場長は興奮して言った。

 教授と毅二郎は顔を見合わせた。

「あなた方の尻子玉抜かせてくださるか?」
「私達の?」
「そだ、あなたたちの尻子玉だ。抜かせろ!」

 二人は咄嗟に、そろって臀部を両手で覆った。


 作業場の中がざわついた。
 工場長の背後を見渡すと、作業台で作業をしていた河童が一匹、二匹と立ち上がり、それに連られて十匹、二十匹、三十匹・・・・百匹、二百匹と、頭に皿を載せ、作業着を着た河童どもが立ち上がった。
 さらに構内につながるドアが一斉に開き、非番で休んでいた河童たちもぞろぞろと這い出してきた。その数、総勢数千は下らない。


「尻子玉を抜かせろうっ!」

 工場長が構内全体に響く大きな声で叫ぶと、作業員達は作業台を離れ、川の流れのように、みなこちらへ向かって歩き出した。

「尻子玉を抜かせろ!」
 
 工場長の叫びに呼応して、作業員達が低くうめくような声で唱和しはじめた。
 

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・


 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・


 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・


 低いうめき声が次第に大音響となり、工場内に鳴り響いた。

 
 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・


 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・
 


「これは冗談では済まされないぞ、小田中くん」

 何事にも動じない教授の瞳の奥に、動揺の色が走った。

「逃げるんだ!小田中くん!!!!」

 教授の合図で、二人は同時に走り出した。



−その4− 
 
 毅二郎と教授は、今しがた歩いて来た道を必死で走った。
 泥に埋もれた土左衛門が足にまとわりついて、中々思うようには進まなかった。
 
 ぐしゃっ・・がっしゃっ・・
 あばらの折れる音がする。

 ずぼっ・・・かぽっ・・・・
 頭蓋骨に足がはまる音がする。

 毅二郎にはそれが、何千、何万と沼の周りに浮遊する無縁仏の嘆きのようにも聞こえた。

 振り返ると、毅二郎の後方を教授が駆けて来る。
 その後ろには、工場長を先頭にした河童の集団が追いかけてくる。洞穴の入り口から無数の河童が、ぞろぞろと汚泥のように這い出してくる。

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 汗だくになり、胸が苦しくなった。
 それでも一瞬でも気を抜けば、尻子玉を抜かれてしまう。
 毅二郎は走った。

・・水の無い処では5分と持たない。先ほど教授が言っていた。
 この森を抜けて5分以上走り続ければ助かるのだ。だがこの森は長い。毅二郎は疲労しきっていた。外界から隔絶されたこの妖気漂う森の中から、外の世界へ抜け出すまでの道程は、果てしなく遠い気がした。

 ずばぼぼっ!!

 後方で粘着性の不快な音がした。
 振り返ると、毅二郎の予想通り、数メーター後方で教授が倒れていた。教授は泥まみれになり、必死で立ち上がろうともがいていた。泥は人間の形を造っていた。泥を被った土佐衛門が教授の肩にしっかりとしがみ付いているようにも見えた。意思を持って、泥の中に引きずり込もうとするかのように。
 
 まさにそのすぐ後ろに河童が迫っていた。
「教授ーっ!!」
 毅二郎が、教授の元へ戻ろうとした途端。
「来るなーっ!!」
 教授が大声で叫んだ。
 次の瞬間、教授の周りを河童どもが取り囲んだ。

「ぐえーっ!!」
 叫び声と共に、教授の姿は一瞬で見えなくなった。
 そして今度は、無数の赤い目玉が毅二郎の方向を見た。
 今、自分が戻ったところで、総勢数千の河童に対抗できるはずも無い。それどころか、自分さえも河童の渦の中に飲み込まれてしまうだろう。

 今、自分にできる事はただ一つ。逃げる事。逃げる事であります。

「教授ーっ!!」

 毅二郎は教授に別れを告げ、向きを変えると必死で逃げた。もう、疲れなど感じる余裕も無かった。何も考えずに走った。死に物狂いで走った。

 後ろからは河童どもが執拗に追いかけてくる。


 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 尻子玉を抜かせろ! 尻子玉を抜かせろ・・・

 
 脂蝋化した土佐衛門の絨毯の上を走るのは、容易ではなかった。いくつもの頭や胸、腕や足を踏み潰した。よろけそうになったが必死で堪えた。泥の中に残してきた教授を思い涙した。


 この森を抜けたら・・・
 
 この森を抜けたら・・・
 
 この森を抜けたら・・・

 目の前が白く霞み、頭がぼんやりしてきた。
 次第に意識が遠のいて行った。


−その5−
 
 熱い、全身が焼けるようだ。
 いったい此処はどこなのだろう・・・
 眼を開けると、頭上には真夏の太陽がギラギラ光り輝いていた。
 毅二郎は、草叢の上で仰向けになっていた。
 上半身を起こし、周囲を見回した。見覚えのある景色だった。
 周囲には広大な胡瓜畑が広がっていた。
 ほっとすると同時に、全身の力が抜け、毅二郎はまた仰向けになった。
「助かったんだ・・・」

真っ青な空が突然遮られ、眼の前に黒い帽子を被った男が現れた。

男はヤニで黄ばんだ歯を出して、にやっと笑った。
「教授?・・・」
「ああ、坂口だ」
「生きてたんですか?」
「あたりまえだろ」
「本当に教授ですよねっ!大丈夫だったんですか?幽霊じゃないですよね?」
 それは紛れもない毅二郎の恩師、坂口教授であった。
「教授ーーーーっ!!!」
 毅二郎は上体を起こし、思わず教授を抱き締めた。
 教授も毅二郎を、しっかりと抱き締めた。

 尊敬する恩師を残して来てしまった後悔の念と、再会できた嬉しさとで、毅二郎は言葉につまった。
 言葉の代わりに涙が眼から溢れだした。
 そんな毅二郎の心の内を読み取ってか、教授は何も言わずただ頷き、しっかりと毅二郎を抱き締めた。

「ところで教授・・・あんな沢山の河童の群れの中からどうやって生還できたんですか?」
 毅二郎が問いかけると、教授はそれには答えず、鈴なりになった胡瓜畑の中から胡瓜を2本もぎ取ってくると、1本は毅二郎に差し出し言った。
「とりあえず食べろ」
 二人は胡瓜畑の真中に、向かい合って座り、同時に胡瓜を齧った。
 瑞々しい胡瓜の汁が、口の中で一気に弾けた。
 脱水状態の細胞のひとつひとつに、胡瓜の水分が行き渡っていった。
 胡瓜をこんなに美味しいと感じたことは、毅二郎にとってははじめての事だった。

「これだよ・・・」
 教授はポケットの中から、ぐしゃぐしゃになった小さなセロファンの包みを取り出し、にやりと笑った。黄ばんだ歯の間に胡瓜のカスが詰まっていた。
「飴玉?」
「尻子玉を抜こうとする工場長に、ふたつ差し出したのさ。もうすでに抜きました。ってね」
「まさか・・・」
「その、まさかだよ。ははは・・・」

 それからまた教授は立ち上がり、胡瓜畑から今度は、両手に抱えきれないほどの胡瓜をもぎ取って来ると、それらを毅二郎の前にどさっと置いた。
「さあ、水分補給だ。しっかりと喰え!」
 そう言うと教授は、毅二郎の前であぐらを掻き、自らも胡瓜をバリバリ食べ始めた。
 毅二郎も釣られて食べた。

 教授は、実に美味しそうに、無心に胡瓜を食べた。
 自分より遥かに年齢のいった、教授のそんな、純真そのものの顔を眺めながら、毅二郎はこの先も、この教授にずっとついて行こうと、固く決意した。

 次から次へと胡瓜を齧る教授の口元が、胡瓜の汁で緑色に染まっていった。
「ははは・・・教授の口元、緑ですよ」
 毅二郎は可笑しくなって笑い出した。教授はまるで子供のようだ。
 胡瓜の汁がだらだらと、口元から顔全体に広がっていった。

 しかし、すぐに毅二郎の顔から笑いは消えた。
 よく見ると、それは胡瓜の汁ではなかった。
 顔の表面に塗った泥が乾燥して、ぼろぼろと剥がれ落ち、深緑色の皮膚が剥き出しになっているのだった。
 毅二郎があっけにとられて見ているそばから、教授の顔は変貌していった。
口元か尖り、どんどん裂けていく。
ふたつの眼は充血し、真っ赤に血走っていた。


                      …完…














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