ユーリとリリアーヌがマズール国王都キールに着いたのは廃墟で一夜を過ごした次の日。足腰の軋みは溜まった疲労の所為で断続的な鈍痛を抱かせる程になっていた。ようやく、徒歩での旅路に休息点を見出し、心の底から嬉しさと安心感が押し寄せてくる。
「やっとだな――」
「――もう私歩けない。あと一年は歩きたくないよ…」
リリアーヌは終着点であるマズール領キールの外観を眺めながら、怨念の混じった声色で呟いた。数日間に渡る旧エスクード領踏破行程で、満足に水を浴びる事も出来ず、リリアーヌの金糸の髪は砂に塗れ、所々毛先が飛び跳ねていた。それを手で何度も抑え、元の方向に戻るよう慣らしてはいたようだが、最後の数日には結局戻らないという事実を悪態と共に受け入れ、慣らす事もしないようになっていた。その変化をユーリは面白がっていたが、当のリリアーヌは冗談じゃないと毎回ため息を吐いていた。
兎にも角にも、無事に王都キールへ辿りつく事が出来たのは、二人にとって良い出来事だった。
急に気が抜けたのか、リリアーヌが足を少し震わせてその場にへたり込んだ。ユーリはリリアーヌに満面の笑みを向け、言葉を紡いだ。
「よく頑張ったな、後で飴玉を買ってやろう」
「飴玉だけ? 私の苦労は飴玉と同価値だってユーリは言うんだね―――」
「待て待て、違うって。冗談冗談。好きな物を一つ買ってやる。理想的な交渉条件だと俺は思うが…?」
ユーリの言葉を受けたリリアーヌが、咄嗟に嘘か真か判断出来ない程の繊細な演技を見せつけた。手で目元を覆い、すすり泣く様な声を上げて、肩を震わすリリアーヌ。突然の出来事に狼狽したユーリは恐る恐る別の交渉条件を持ち出してリリアーヌの様子を窺う。
「…一つ?」
すすり泣きがピタリと止まり、今度はユーリの眼を上目遣いで覗きこむ。もちろん目元に涙など浮かんでいなかった。してやられた、とユーリは頭を一度抱え、さらなる交渉を持ち出して来ているリリアーヌに根負けし、遂に負けを認める。
「解った…二つ買う…でもこれ以上は駄目だぞ、二つまでだからな――」
「ふふっ、ユーリって泣き攻めに弱いのかな?」
リリアーヌの方はしてやったりと口元に怪しげな笑みを浮かべていた。小さく笑い、ユーリの弱点を露骨に示唆してくる。リリアーヌの得意げな声色に、ユーリは「リリィにやられると判断がつかないんだよ、全く」とほんの少しだけ毒付いて、それでも渋々彼女の言葉は肯定した。
その後、再び足腰を叱咤し、王都キールの関所まで歩を進める。
入門の手続きはすんなりと終わった。自分の外見は人目を引きつけやすい物である――特に西国に於いては――とそれとなく理解していたユーリは、マズール王国の最重要地であるキールの関所を潜るに際し、多少苦労するかもしれないと思っていた。しかし、予想は裏切られる。エスクード直系王族の特徴を見事に受け継いでいるユーリの外見に、些細な疑問すら抱かなかった関所の役人はともかくとして、レザール戦争時に父であるシャル・デルニエ・エスクードを見た事がある軍関係者ならば、自分の外見的特徴から自身の情報を抜き取る事は容易であるはずだった。つまるところ、そこから推測できるのは、村での一件から特に自分に関する情報は出回っていないという事。名は名乗った。レザール戦争に参加していた騎士団の連中ならば、余程の馬鹿でない限り自分が本物のエスクード王族の末裔であるという事に勘付くはずだった。だが、関所の対応を見る限り、その事実すら未だに確定させる事が出来ないでいるのだろう。
「そりゃぁ――まさかエスクードの王子が態々仇国のど真ん中に訪れるとは予想しづらいだろうけど」
「少しは仇国らしい対応を見せて欲しかった?」
正直な所、少し拍子抜けである。残念がるユーリ。もちろん障害は少ないに越した事はないのだが――此処まで容易いと逆に不気味さを感じてしまう。深読みのし過ぎだろうか、と胸中で呟いた。
「俺の希望なんかどうでもいい。村の人達を救う事が先決だしな」
戦いに依存しているかのような狂気染みた考え方を一蹴し、ユーリは本来の目的を確認する。
そして遂に、歴史を動かす一歩を踏み込んだ。
◆◆◆
次の瞬間、目の前には煌びやかに栄えた街が映し出された。人々で賑わう広場、通り、そのあちこちには衣服や宝石、香辛料を初めとした食物類、さらには動物に至るまで、様々な品物を販売する出店が並び、ユーリ達と同じような旅人風の人々が背荷物を背負いながら、馬車から降りながら、露店の店主相手に交渉を繰り広げている。暖色系の色で整えられた家々の壁がより一層街の活気を促す。視覚的な豊穣。耳に入る多数の人の声。栄えている故の騒音。
そして――街の中心で天高く聳えているマズール王城。
自分でも不思議なほどに、それらを体験してもユーリに大した感情は生まれなかった。仇敵国の本土というのは頭で理解しているが、それでもユーリの心に動揺を生まなかった。
心象風景に残っている戦の傷が疼かないのならそれはそれでいい。
思いのほか冷静さを保ちながらユーリはキールへさらに足を踏み入れた。
◆◆◆
街に入って真っ先に気付いた事、というより、ふと思い出した事はリリアーヌについてだった。
リリアーヌはエルフだ。
幼い故に未だ顕著ではないが、彼女の耳は少しとんがっている。街中を通り過ぎる分では気付かれることも少ないが、もし間近でエルフを見たことがある者が見ればひとたびに気付かれる。
国家の基盤にエルフ差別が根深く張っているマズールの王都でリリアーヌの存在を悟られるのは都合が悪かった。
「リリィ、宿を見つけたら帽子を買いにいかないか? さっきの報酬の一つとして。疲れてるかもしれないが―――」
「行く!」
ユーリが言い訳を言おうとした時、リリアーヌはいつにもまして溌剌とした声で即座に返事をした。余りの元気さに面食らったユーリは苦笑する。同時に、彼女が何故それ程に喰いついたのかが解ったような気がして、自分の今までの行動を少し呪った。共に露店を回り、何かを選んで買う事など、余りしてやったことがなかったと気付いたから。
キール程栄えた街なら、安宿などいくらでもあるもので、思いのほか宿の手配は早く済んだ。
荷物を宿に置いてリリアーヌと共に通りを見て回り始める。リリアーヌの好奇心は尽きる事がなく、彼女は様々な物を見て回った。第一に、彼女にとってはキールのような栄えた街へ来ること自体、初めての体験だったのだ。
その細い体のどこにそんな体力があるのか、と少し皮肉でも言ってやろうかと思ったが、楽しそうに動き回る彼女を引き留めるのも気が引けて、結局言わずじまいだった。
リリアーヌにもこだわりがあるようで、納得の行く帽子がなかなか見つからない。店を転々とする彼女にうんざりしたユーリがもうこの際全身を覆うフード付きのローブでいいのではないかと言おうとしたとき、リリアーヌが歓喜の声を上げた。
「ユーリ!これがいい!」
リリアーヌが勢いよくユーリに手渡したのは彼女には多少大きめなキャスケットだった。暗い茶色をしていて、実際リリアーヌに被せてみると彼女の金髪に思いのほか合っていて、大きめという事もあり、耳が多少隠れた。
店主の中年男性は高名な貴族さながらの優美な笑顔をユーリに向け、「如何致しましょう?」と声を掛けた。
「これ以上連れまわされるのも勘弁だな…わかった、これを買おう」
自分の起こした行動の愚かさを認識できたのは店を出てからだった。
「馬一頭分の資金が消し飛ぶとは予想だにしなかったよ…」
ユーリの小さな叫びが聞こえているのかいないのか、満足げな表情でキャスケットを被るリリアーヌ。その様子を見て、ユーリは皮肉るのをやめた。
「ねぇ、ユーリ、似合ってる?」
「あぁ、似合っているよ」
既に時分は夜。空は明るさを失っていた。
昼とはまた違った景色を見せ始めるキールの街中。ふと思ってマズール王城を見ると、王城も煌びやかな街に同化するようにその体中至る所に黄金色の光を灯していた。
過去の思いを全て断ち切ってそれを眺める事ができるなら、きっとそれはとても美しい光景だったのだろう。
それはリリアーヌとて同じだった。幼いと言えども、城の美しさを讃える事は気が引けていた。
言ってはいけないのだ。今はまだ―――
◆◆◆
宿に戻ってきた後、二人は少しばかり談笑していたが、それもリリアーヌが寝ることで打ち切りになった。
一方のユーリもそれを待ち望んでいたようで、リリアーヌに布団を被せてやった後、静かに宿を抜け出していった。
用があるのはマズール騎士団。
懸念は村への侵攻についてだった。既に遅いのかもしれない。それでも、わずかな希望があるなら行かずにはいられない。
深夜の街は昼に比べたら随分と静かな物だったが、未だに人はいた。この中には昼間に姿を現すことができない人間もいるだろう。
闇は嫌いではなかった。自分が同じような性分の人間だと理解していたから。
暗闇は良い。奇襲をかける絶好の機会。奇襲をかけられる絶悪の機会。
(駄目だ、思い出すな)
体中の傷が疼いた。ぞわぞわと肌の泡立つ感触を感じつつ、ユーリは通りを歩く。
マズール騎士団の本拠地がどこだか正確にはわからない。しかし、マズール騎士団が王城直属の護衛騎士団だという事は知っていたので、とりあえず王城へ向かうことにした。
幾ばくか経って、遂に王城が目の前に姿を現す。
威厳。大陸で一二を争う大国と称されるマズールにふさわしい城であった。
巨大な門。刻まれたマズール紋章がユーリの眼に訴えかけてくる。
「門兵は二人か…」
深夜であっても両翼には二人の鎧姿の騎士がいた。どうあっても、素通りは出来ない。外部の人間を軽々と王城に入れる訳もないだろう。
ならば―――
ユーリが足に力を込めた瞬間、王城の門が開いて中から人影が出てきた。門兵は驚いたように出てくる者を引きとめているようだった。
だが、その者は一向に歩を緩める事はなく、遂にはユーリの眼に容姿がはっきりと映るほどの位置まで出てきてしまった。
ユーリの警戒心が強まる。
しかし、その者の姿かたちを注視した瞬間、体中の力が抜けてしまった。
「まさか―――」
建物の裏から様子をうかがっていたユーリが、不意に姿を晒す。出てきた者の視界に映る位置に。沈黙の時間が煩わしく思えた。門より出でし者はユーリの姿を見つけると、何の迷いもなく近づいてきた。一歩、また一歩。歩き一つとってもその動作は優美で、無駄がなかった。遂にユーリの眼前にその者が辿りつく。そしてゆっくりと口を開いた。
「此処は門兵から見えます。他人のふりをして私についてきてください」
言葉が出なかった。ただ、彼が言う様に時間と距離を置いてついて行くことしか。
◆◆◆
人影のない街の片隅まで歩いたところで、前を歩いていたその人が振り向く。
肩をゆうに覆う金糸の髪。整った顔立ち。見慣れた―――顔。その紫色の瞳には強烈な意志が潜んでおり、言葉を交わさずとも、何が言いたいのか解るような気がした。
「よく、此処までたどり着きましたね…ユーリ」
「ベルマールさん!」
ユーリの心からの叫びに、《ベルマール》は美麗な微笑で答えた。その微笑をたたえたまま、ユーリを抱きしめる。
「生きていたんですね…良かった…本当に…」
ベルマールの眼から雫が溢れ、頬を伝って地に落ちた。
「ベルマールさんこそ」
少しの間、再会を喜ぶ二人。しかし、そのままの時間が続くわけでもなく、ユーリが直ぐに話を切り替えた。
「本当は再会をもっと喜んでいたいんだけど…」
「そうですね…貴方の表情を見る限り、時間も余りないようですし」
「…マズール騎士団の『管理』と称したエスクード領への侵攻を止めたい。あの村には…俺が潜伏していた辺境の村にはたぶんまだエスクードの生き残りがいる。逃げろとは言ったけど老人や子供が多くては移動速度も大したものにならないから今マズール騎士団に追撃されれば一たまりもない」
それを聞いたベルマールがまた微笑を浮かべてユーリに言った。
「その件なら大丈夫です。私が騎士団長にでまかせを言って侵攻を遅らせました」
その言葉を放った後のベルマールの表情はどこか悲痛で、ユーリも彼の胸中を悟った。ベルマールは優しすぎる。かねてからそう思っていたからこそ、彼の悲しさの原因は痛いほどユーリに伝わった。
だからこそ、そうまでして得た好機を、逃すわけには行かない。
「例の契約書は…まだマズール王に勘付かれていないだろうね?」
「もちろん。昨日改めて見ましたが、誰かが触った形跡もありません」
「解った。なら明日の朝、リリアーヌを連れて王城前に来る。ベルマールさんは手回しをしておいてくれ。マズール騎士団が動くよりも早く、王から『権利』を剥奪しておきたい」
「御意のままに。『陛下』」
「やめてくれ、今はまだその時じゃない」
「ではまたその時に言いましょう。あぁ、貴方にお願いしなければならない事がまだありました」
演技ぶって言葉を紡いだ後、今度は真剣な表情でベルマールは言った。
「実は私、マズール王に『制約の呪印』を刻まれてしまいまして。彼は私の才覚を買っていましたから重い制約ではないものの…やはりそれでも厄介なものでして」
「どんな呪印?」
「反逆不可の呪印です」
「なるほど、まぁ『命令の遵守』とかじゃなくて良かったね」
「そんな重い制約を設けられていたら今更こんなところに外出できませんよ」
「マズール王は人を見る目に関しては中々才覚を発揮するらしい。重い制約を課さなかったのは正解だ。それじゃぁベルマールさんの才覚は存分に発揮できないだろうから」
「ユーリ、敵の総大将を褒めるのもいいですが、私としてはそろそろ呪印を祓ってほしいよ」
「解ってる解ってる。じゃ、呪印が刻まれた所を見せてくれ」
そう言われてベルマールは上半身の服を脱ぎ始めた。艶めかしく。
「ベルマールさん、別に艶めかしく脱がなくてもいい」
「おっとこれは失礼」
露わになったベルマールの肌。丁度心臓が位置する辺りの肌に、黒い魔法陣が刻まれていた。魔法陣の中心には『反逆』という文字が描かれていて、それをユーリはまじまじと見た。
「……いまいち解らないな。反逆という言霊こそ読めるけど―――」
「ユーリ、少しは魔術の学習でもしたらどうです? 『不可能』の魔法陣を基盤に、言霊を反逆。原理自体は非常に簡素なものですけどね。肝心の呪印を施したあと、その呪印を解除できないように周りに三重に鍵となる魔法陣を刻んだようです。その鍵の解除呪文は当然の事ながらこの呪印を刻んだ者と、マズール王しか知りませんから」
「自分が使えない魔術に関しては全く知識がないからね、自慢じゃないけど」
「そんな事を自慢されても困ります。ともかく、正攻法ではどうにも解除出来ないので、貴方に『強制解除』してもらいたいのですよ」
「解ってる。俺の魔力で呪印に込められた魔力を強引に吹き飛ばすから、少し痛むかもしれないけど我慢してくれ」
ユーリの言葉を受けたベルマールは了承の意を示した。ユーリはベルマールが頷いたのを確認して、右掌を彼の左胸に当てる。
目を瞑って大きく深呼吸をするユーリ。手に力が入り、同時に目を開けた。右眼が金色に変わる。
ベルマールの胸に刻まれた黒い魔法陣をかき消すように、ユーリの掌から金色の魔法陣が広がり始めた。
「うっ」
ベルマールが少し呻く。それでもユーリは手を離さなかった。
すると、刻まれていた魔法陣が徐々にかすれてきて、遂にはその姿を消してしまった。
「これで大丈夫だろう」
「ふぅ、有り難う御座いました。これで明日には何の支障もなく、貴方と相対することができるでしょう。今日はこの辺で。私も早めに帰らないと不信がられますし」
そうだね、とユーリは返し、すぐに同様に踵を返した。服を着直しているベルマールを横目に一瞥し、一言投げかけてその場を去った。
「また明日」
「えぇ、また明日」
その後、ユーリは日が昇る前に宿に戻り、少しの睡眠を取った。
◆◆◆
「ユーリ!いい加減に起きなさい!」
「…えー」
「でないとこうだよ!」
「ぐぇっ」
早くに目を覚ましたリリアーヌが、渾身の拳骨をユーリの腹部にお見舞いする。それで目が覚めたユーリは、少しの間眠気眼をこすり、次に昨日までの疲れを全く見せていないリリアーヌに対して、多少の安堵を感じながら、身支度を整えた。身支度をしている間、待ちくたびれるようにベッドの上でごろごろと転げまわるリリアーヌに対し、ユーリはいつになく真剣な視線と言葉を投げかける。
「リリィ、良く聞け」
その雰囲気の変化にリリアーヌも気付いたのか、転げまわるのをやめて真っ直ぐユーリの眼を見返した。
「今日、マズール王城に行く。昨日ベルマールさんに会った。この意味が解るな?」
リリアーヌはその言葉を聞くと、一層表情を硬くした。しかし、すぐに切り替えたのか、幼いながらも悪戯気な表情で言葉を紡ぐ。
「生きてたんだ、あの変人…」
死んでれば良かったのに、と小さな声で彼女が呟いたのをユーリは確かに聞いた。
「はぁ…相変わらずリリィはベルマールさんが嫌いだな」
「だってあいつ嬉しそうな顔して私を虐めるんだもん!」
「まぁ…確かに。ベルマールさんはああ見えてちょっかいを出すのが好きだからな…リリィは虐められっぱなしだったっけ」
「ホントに!やり返しても全部避けられるし…変人だし…」
「はいはい。もう少しすればまたその感覚を味わえるよ、ほら、行くぞリリィ」
会話の間に身支度を終えたユーリは、リリアーヌの手を取ってベッドから起き上がらせた。
部屋を出た後、安宿の店主に一言礼を言い、外に出る。
朝日が燦然と降り注ぐ中、マズール王城へ進路を取った。人通りは激しく、はぐれないようにリリアーヌの手を握る。当のリリアーヌは嬉しそうに歩を進めていた。
◆◆◆
「ケーネさーん」
ベルマールは王城内を歩きまわった挙句、ようやく捜していた人物を見つけて大きめな声を上げた。通路の向こう側でケーネが驚いたように振り向く。と、同時に駆け寄ってきた。
「ベルマール様!呼んでいただければ私が向かいましたのに!」
必死の形相でそう言うケーネの額をベルマールが小突いた。整った顔が悪戯気に歪む。
「いえいえー、貴方は忙しい身ですから。私なんかに気を遣わなくてもいいんですよー。そ、れ、に!貴方最近街で女性と会っているそうではないですか!私に裂いている時間なんてないでしょう!いや!あってはならない!」
「貴方が言いたかったのは最後の台詞だけでしょうに…」
うんざりしたようにケーネは項垂れた。何処で仕入れたかは知らないが、労働時間外の情報まで知られている事に多少の恐怖を感じた。対して、嬉しそうに微笑むベルマール。
「うっふっふ、いずれは奥方になるんでしょうかねぇ、楽しみですね~。ご結婚為されたらどうぞ私を呼んで―――」
「っ―――で!要件はなんですか!」
放っておくと止まりそうもない悪戯気な皮肉を大声でかき消すケーネ。その声にベルマールは多少引きさがりながら、表情を一変させた。
「ま、このくらいにしておいてあげましょうか。要件と言うのはですね……昨日例のエスクードの末裔さんとやらを見かけたのですよ。この街で。夜分遅かったのに何をしていたんでしょうねぇ」
「その台詞、そのままそっくり貴方にお返しします。ベルマール様、また夜分遅くに城を抜け出しましたね…門兵は止めなかったのですか」
「うふふ、彼らの秘密は私の手の中ですので」
ベルマールが手の中で何かを転がすような仕草を見せると、ケーネはもう一度項垂れた。しかし、すぐに姿勢を正してベルマールの言葉を反芻させる。
「…それで、その後の彼の動向は掴めましたか?」
「いいえ。しかし、彼は銀髪に紅眼、日が差している間は多分に目立つ。もし王城前を歩いていたら簡単に見つかるでしょう」
最後の台詞に並々ならぬ意志が込められていた事に、ケーネは疑念を抱いた。
「まさか…向こうから敵の本拠地に向かってくるなど…」
「ありえない話ではないですよ。第一王城に用がないならキールになんて来ません。彼がエスクード王家の末裔なら尚更です。今からでも遅くはありません。様子を見てきたらどうです?」
思案気なケーネ。少しの間考えていたが、思い立ったような表情を浮かべて、姿勢を正して言った。
「では、行って参ります」
「よろしい。もし見つけたら陛下の前に連れて行くのを忘れずに…」
「御意」
踵を返して走り去るケーネを、ベルマールは後ろから悲しそうな目でずっと眺めていた。
◆◆◆
ケーネが王城の門に辿りついた時、其処には驚くべき光景が広がっていた。
『銀髪紅眼の青年』が、門兵に拘束されていたのだ。隣には同じように拘束されている年端もいかない少女。
「ケーネ様、この者がエスクードの末裔を語ったので連れの者共々、一時拘束しました。真偽の程は確かではありませんが…如何いたしますか」
「あ、あぁ。その者の言っている事はおそらく真実だ。私が陛下の元に連れて行く。ご苦労だった」
「はっ!」
門兵はきびきびとした動きで敬礼をし、二人を拘束している綱を渡した。
「ところで…被害はなかったか?」
「いえ、抵抗をしなかったので被害はありません!」
(抵抗をしなかった…第一何故無抵抗で衛兵に捕まる?…捕まりにきた…いや…その先に何かが…)
ケーネは胸中に何かひっかかる物を感じたが、とりあえず二人をマズール王の元へ連れて行くことにした。
「…マズール騎士団長か?」
王城の通路を二人を連れて歩いていると、ユーリが突然話しかけた。本来、問いに答える義務などケーネにはなかったが、特に支障もないだろうと思い、口を開いた。
「いかにも」
「そうか、村では部下に悪い事をした」
「いや…」
ケーネは部下に、報告に関しては偽りなく、細部に至るまで説明するよう指示している。報告を基にすると、その件ではどちらかと言うと騎士団の方に非があると思っていた。
無抵抗の老婆を先に一人切り殺した。どう見ても非は騎士団にあるのだ。その事に対し、我ながら激怒したのを覚えている。
納税をしていなかったとはいえ、その程度で殺されるいわれはない。当事者であるこの青年ならば、より強くそう思うだろう。
それが何だ。
本来敵対しているはずのマズール騎士を数人切り殺した事を謝ってくるとは。
そう改めて思った瞬間―――
ケーネは己の価値観が揺らぐのを感じた。
自分の動揺を悟らせる訳にはいかない。仮にも騎士団長と言う立場にいる人間が、立場上敵対している者に弱みを見せることはあってはならない。
それ以上会話をすることなく、黙ってケーネは二人を謁見の間まで連れて行った。
◆◆◆
(ベルマールさんが言っていたのは彼の事か…なるほど、面白い人物だ)
ユーリは気付いていた。ケーネ自身が自分の立場と考えの狭間に一筋の矛盾を抱き、動揺したことに。しかしそれ以上悪戯に物事を混乱させる事もあるまい。そう考えて、ユーリは内心でほくそ笑むだけにしておいた。
ケーネに連れられて行ったのはマズール王城の謁見の間。扉は巨大で、開けることすら躊躇われるほどに威厳が漂っていた。
当然か、とユーリは心の内で言う。
この中にはマズール王がいるのだから。
扉の前に着くと、ケーネが声を張り上げた。
「陛下!例の者を連れて参りました!」
少しの間があって、中から「入れ」という声が聞こえた。ケーネはその言葉を受けて謁見の間の扉を開ける。開かれる視界。真っ直ぐに玉座に伸びるけばけばしい赤の絨毯。そしてその絨毯の先―――悠然と玉座に座る―――マズール王。
ユーリの胸中は、此処でも思いのほか高ぶりはしなかった。
状況を合理的に判断出来るのならばそれでいいか、と軽く内心の危惧を受け流し、謁見の間に足を踏み入れた。数歩歩いて顔を上げる。その様子に気付いたマズール王が先に言葉を放った。
「貴様がエスクード王家の末裔か」
「あぁ、いかにも」
「生きていたとはな…正直驚いているぞ」
「そうか、驚かせる事ができて良かった」
なれなれしい口調。当然と言えば当然か、とケーネは胸中で語る。忌まわしき一族の仇が目の前にいるのだから。そう、目の前にいるのは憎むべき仇なのだから。いくら相手が王とはいえ、わざわざ敬語を使う必要もない。
そこでマズール王はケーネに語りかけた。
「ご苦労だった、ケーネ。此処からは私が引き受ける。下がってよいぞ」
「はっ!」
軍人にとって、少なくともこのマズール王国において、王の命令は絶対。その場に残って経緯を見たいという気持ちも少なからずあったが、王に促されれば謁見の間を立ち去るしか術はない。
踵を返した所で王の隣に立っているベルマールから声が掛かった。
「ケーネさん、お時間があったら私の自室にお行きなさい。机に例の突風帯についての資料が置いてあります。読んでみる事をお勧めしますよ」
「御意のままに」
一度頭を垂れて、ケーネは謁見の間を出て行った。
「さて、邪魔者はいなくなった。何かするなら今だぞ? 王家の末裔よ」
「よく喋るな、マズール王よ。お前の横に控えているのは宰相じゃないのか? そいつは邪魔者じゃないのか?」
「貴様、知らないわけではあるまい。この者は旧エスクード王国の宰相だ。この『舞台』に面白みを加えはすれど、邪魔になることはない」
「下卑た趣向だ。まぁいい、今日はお前に言いたい事があって来た。いや、教えてやりたい事、と言った方がいいか」
そこでマズール王は顔を少し顰めた。
「言ってみよ」
「マズール王よ、旧エスクード王―――つまり我が父に『領土引き渡しの契約書』に王印を押させただろう?」
「…戦に勝ったのだ。領土を得るのは当り前であろう。それが何だ」
「面白い事が解るから…その契約書を持ってくるといい。この舞台にはうってつけさ」
マズール王にとってはユーリの紡ぐ言葉は戯言にしか聞こえなかったが、ユーリのひと押しで動いた。
「俺は縄で縛られているし、奪ったりしない。冥土の土産にそれを俺に見せてくれよ」
「よかろう、ベルマール、契約書を持ってこい」
「御意のままに」
隣に控えていたベルマールが動いたのを見て、ユーリは残忍な笑みをひそかに浮かべていた。
「何を企んでいる?」
「何も企んじゃいないさ…俺はな」
少し経って、ベルマールが金糸の髪を揺らしながら契約書を持ってくる。マズール王はそれを受け取ってユーリに見えるように翻した。
「これだ」
ユーリは契約書をまじまじと見、堪え切れないと言わんばかりに、くっくっ、と声を漏らした。
「マズール王、一つ良い事を教えてあげよう。その契約書の王印…―――」
◆◆◆
「線が一本足りないんだ」
◆◆◆
マズール王の驚愕した顔は忘れないだろう。こぼれんばかりに目を見開いたマズール王は、契約書を翻してまじまじと王印を見た。しかし、一見しただけでは線の有無など解らない。
そこへ、隣から妖しげな笑みを浮かべたベルマールが何かを手渡した。
「陛下、これが本物の王印で御座います。その契約書の王印の隣に押してみては?」
マズール王は言われるがままに王印を紙面に押した。並ぶ二つの王印。ベルマールが改めて押した方の王印を指さして言った。
「陛下、どうやら本物の王印は此処に一本線が入るようです。なるほど、これは一本取られましたね」
◆◆◆
「これでは契約書は成立しませんね」
◆◆◆
「馬鹿な!」
こんなもの気付く訳がない。いや、慢心があったのか。エスクード王直々に王印を押させた当時の事を思い出した。頑なに自国を守ろうとしていたあの屈強なエスクード王が、何故契約に際してあんなにも簡単に王印を振り下ろしたのか。当時は剣を突きつけられた状況下に居たために、判断が狂ったのかと思っていた。自分の命が握られている状況下で、頑固も何もなく、為されるがままにそうしたのかと、思っていた。
だが違う。アレがそんな弱者であったか。
その意味が今更ながら解ってきて、マズール王は度肝を抜かされた。
徐々に状況の変化に気付き始める。
手に持ったエスクードの王印を地面にたたきつけようとしたが、そこをベルマールに抑えられた。
「陛下、いけません。これは大切な『証拠』なのですから」
ベルマールの妖しげな笑みの意味に気付くマズール王。
「ありえん!貴様の持ち物は私の宰相にした時に全て没収した!何故こんなものを持っている!」
「いやー、私も捕まった時にうっかりしていまして…ついエスクード王から受け取った王印を飲み込んでしまったのですよ。貴方の監視が外れた時に慌てて吐きだしましたがね。あれは辛かった…」
わざとらしく、大仰に身振り手振りで事の詳細を告げるベルマール。追撃と言わんばかりにユーリが言葉を紡いだ。
「つまり、だ。マズール王よ。領土引き渡しの契約が為されていないと言う事は…今もエスクードは領地だけで存在している。お前が今まで騎士団を使って行っていたエスクード領の『管理』というのは…言いかえれば列記とした『侵略行為』となるわけだ。この意味が解るか?」
侵略。暴力を糧としたあるまじき行為。他国の領土を侵したという事実。戦争の犠牲の上に、真っ向から戦ったその後に領土を得るのとはまた違った意味合いを持ってくる。端的に言い換えるのなら、それは少なくともこの西側諸国からすれば忌避されるべき狡い下卑た行為だった。
その事実が在るだけで、マズール王国は周辺各国から敵対の眼で見られる事になる。いつ自分達の領土が侵略されるとも解らない状況下で、そんな危険国を放置しておくことはおよそ出来ない。
攻め入られるとまでは行かなくとも、少なくとも外交上の信頼は地に落ち、和平は解消され、孤立無援の状態に陥る。そんな状況に陥り始める転機が、今此処に訪れている事に気付くマズール王。
その瞬間、目の前のエスクード王家の末裔と、隣で残忍に笑っている自らの宰相に、多大なる怒りが湧いた。
◆◆◆
「謀りおったな!!貴様等!!」
◆◆◆
小さな戦の火蓋が切って下ろされた。
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