69話 遠い記憶
そこへ急に食堂の入り口が騒がしくなってきた。なんだろうと思ってレナリアが顔を上げると、セシルとその護衛たちがいる。
まだ昼食の時間には早いし、王族専用の個室は独立した階段から上がっていくので、わざわざここを通ることもない。
一体何の用だろうと首を傾げていると、セシルはレナリアの姿を見つけてその美麗な顔に微笑みを浮かべた。
そのあまりの麗しさに、初めてこんなに間近でセシルを見たエルマが歓声を上げ、エリックが口笛を吹く。
ランスとローズは緊張に身を固くしていて、マリーに至っては失神しそうなほどに顔色が悪かった。
「ポール先生、こんにちは」
礼儀正しく挨拶をするセシルに、ポール先生は普段通りに挨拶を返す。
「うん、こんにちは、セシル君。珍しいね、こんなところに。僕たちの授業はもう終わるから、ちょっと待っててください」
そう言って立ち上がろうとするポール先生を、セシルが手で制す。
「いえ。特に食堂に用があるわけではありません。風魔法クラスがとてもおもしろい授業をしていると聞いて、見学に来たのです」
「そうか。それは残念だなぁ。もう授業は終わってしまったんだよ」
頭の後ろに手を当てて申し訳なさそうにするポールに、セシルは「いいえ」と再び微笑んでから、興味深そうにパンの置かれたテーブルを見回す。
「どういう授業だったんですか?」
「魔力の扱いのコツをつかむのに、パン作りがいいんじゃないかってマリーさんが提案してくれたんです。それで実際に作ってみようということになりました」
ポール先生の話を聞いたセシルは、感心したようにマリーを見る。
その視線を感じただけで、マリーは緊張のあまり倒れそうになった。
「ウィルキンソン嬢か。先日はありがとう。おかげでレナリアを助けられた」
セシルにお礼を言われて、マリーは返事をしなくてはと思うものの「あ」とか「う」とか言葉にならない音しか出せない。
魔法杖の材料になる木を探して森の探索をした際に、ちょっとだけレナリアとお揃いの木の枝が欲しいなと思ったマリーは、レナリアと同じ方向に行って自分の杖の材料を探した。
レナリアの姿を途中で見失ってしまってがっかりしているところに、赤く大きな、恐らくレナリアのものと思われる魔力の爆発を見た。
そこでレナリアを探している護衛騎士とセシルにそれを教えただけで、別に自分は何もしていない。
ただ、どうしたらいいのかとオロオロしていただけだ。
あの時にレナリアの護衛騎士やセシルが通りかからなかったら、マリーはずっとどうしたらいいかと悩んでいるだけで、その間にレナリアが大変なことになってしまったかもしれない。
今だったら、すぐに助けを呼ぶべきだったのだと分かっている。
そして助けを呼ぶ勇気が、まだ自分にはないことも分かっている。
だからお礼を言われるようなことは、本当は何もしていないのだ。
「ええ。マリーさんのおかげで助かったわ。改めてお礼を申し上げますね。ありがとうございます」
護衛騎士のクラウスから、お小言と共にその時の状況を聞いたレナリアは、マリーと、そしてもちろんセシルにもお礼の言葉とともに贈り物をした。
シェリダン領の名産といえば、自然にできる天然の魔石だ。
魔物から採れる魔石ほど大きいものはないが、小粒ながら質がよく、稀に薔薇のような模様を内包している魔石は「シェリダンの薔薇」と呼ばれ稀少価値があることから、コレクションするものもいるほど人気がある。
レナリアはセシルには髪の色と同じロイヤルブルーの魔石の中に金の薔薇が浮かぶ魔石を、マリーには黒の中に白い薔薇が浮かぶ魔石をそれぞれ贈った。
「い、いえ……そんな……」
それよりも、たったあれだけの事しかしていないのにレナリアから稀少な魔石をもらってしまい、マリーはかえって恐縮していた。
だが、ここでそんなことを言うわけにもいかず、やはり言葉に詰まってしまう。
「ところでこれは、レナリアが作ったパンかな?」
「ええ」
何を言い出すんだこの王子、と身構えながらレナリアが答えると、セシルはおもむろに空いているレナリアの隣の席に座った。
そしてレナリアの焼いたパンをじっと見ている。
「せっかくの従妹殿の手作りのパンだ。ぜひ私も試食したいな」
「え……」
それはちょっと遠慮したい。
レナリアは助けを求めてポール先生を見るが、にこにこしていて反対する様子はない。
「えーっ。ボクたちの分だよ」
「そうそうー。全部フィルとチャムが食べるのー」
反対しているのは食いしん坊の精霊たちだけだが、その声はレナリア以外には届かない。
「とてもセシル様のお口に合うようなものではありませんわ」
仕方なく自分で反論するが、セシルは気にする様子もなくレナリアのパンを手に取る。
「殿下! 毒見がまだです」
最近セシルの護衛騎士になったばかりの騎士が慌てて止めようとするが、セシルは「大丈夫だ」と制して、一口大にちぎったパンをそのまま口にした。
「ボクたちのパンー!」
「チャムたちのパンなのにー!」
悲嘆に暮れる精霊たちは、放っておくとまた以前のフィルのように暴発しそうだ。
レナリアは何とかなだめないと、と思って、慌てて提案する。
(落ち着いて。また今度作るわ。……えーと、パンは大変そうだから……。そう、クッキーなんてどうかしら)
作ったことはないが、確か以前、アンナがクッキーは簡単に作れると言っていたような気がする。
多分、初心者でも何とかなるだろう。
「……でも、レナリアのパン……」
「チャム、クッキー大好きー」
フィルは渋ったが、チャムはクッキーでもいいらしい。
「その代わりねー。レナリアの魔力いっぱいがいいのー」
「……それなら、ボクも、いいかな」
何とかフィルとチャムをなだめている間に、セシルはレナリアのパンを一切れ分、全部食べてしまっていた。
「とてもおいしいね。また機会があればご相伴に預かりたいな」
そんな機会なんて、一生こなくていいです!
レナリアは心の中でそう叫んだ。
一方のセシルは、レナリアのパンを食べたことで不思議な感覚を味わっていた。
遠い記憶のどこかで、触れたことのある何かを思い出させるのだ。
味ではない。そうではなくて、もっと違う――。
「懐かしい魔力……?」
フィルたちをなだめるのに疲れていたレナリアは、セシルが小さく呟いた言葉には気がつかなかった。