死神説話 「死神の乙女」
※中の人あてんしょん※
この作品は、一部歴史物を扱っておりますが、時代考証を一切行っておりません。
また、創作を多分に含みます。
こんな世界もあったかもなあ、程度に雰囲気をお楽しみください。
むかしむかし、あるところに、齢100にも満たない、うら若き死神の乙女がおりました。
死神の乙女は、くる日もくる日も、現世に足を運び、毎日数えきれない位の人間の魂を、現世と常世の狭間へと導いていました。
当時、この日の本と呼ばれる国では、小国同士の小競り合いが多く、命を落とすものが少なくなかったのです。
ある日乙女は、現世で1人の人間を見かけました。その男は、いずれこの大国を治めんと夢見る、ひとつの小国の主でした。
乙女の目は、見慣れぬ異国風の衣を纏い、戦場に凛と咲く、1輪の真紅の花に、知らぬ間に奪われていました。
明くる日も、乙女は戦場に降り立ちました。
男は今日も、そこにいました。
生命の輝きに溢れ、死神である乙女には、とても直視できないほどです。
乙女は輝きに背を向けて、無心に魂集めに奔走します。けれどもどうしても、男のことが気にかかって仕方がないのです。
ある日は戦場に、またある日は居城に、時には同盟国の主と杯を酌み交わし……。
乙女が握り締めた鎌の届かない距離で、その男の輝きは、日に日に増していくのでした。
あの男に、死んでほしくない。
その輝きを、いつまでもいつまでも、失いたくはない。
ある日、乙女は気が付きます。
これは、恋心であると。
死神には、誰かの死を「悲しい」と思う気持ちや、人間を「愛しい」と想う心は備わっていないはずなのです。
乙女も、まさか自分が人間に恋をするとは、想像もしていませんでした。
けれど、気がついてしまった想いを掻き消すことは、できません。
死神の乙女は、一層仕事に励みました。
現世に降り立つ時間が長ければ長いほど、人間の男の側に居られるから。
所詮は死神と人間。
男が自分に気がつくことなどあり得ないと分かっていても、それでも、近くに居られるだけで満足でした。
乙女にとって幸いなことに、男は戦人。
いつだって男の側には、たくさんの仕事がありました。
やがて乙女は、多くの仕事を抱え込むようになりました。疲れて、うまく頭も働かないほどです。
それでも、良かったのです。男の側に居られる幸せがあるならば。
いつしか男は、いくつかの国を纏めあげる大きな存在となっていました。男の存在を快く思わない人間が、徒党を組んで男の命を狙うようになりました。
その事を知った死神の乙女は、くる日もくる日も、仕事で迎えねばならない魂の名簿を、穴が空くほどじっくりと眺めます。
そして、その日も、男の名前が名簿に載っていないことに安堵して、眠りにつくのです。
そんなある日のこと。
乙女は、自分の目を疑いました。
名簿には、はっきりと、男の名前が書いてありました。
乙女は何度も何度も自分の目を擦りましたが、男の名前は消えません。
ついに、恐れていた日が来てしまったのです。
男の死はつまり、乙女と男が相まみえる、最初で最後の機会です。
けれど、乙女は男と自分がまみえることを望んでいた訳ではないのです。
ただ男の生きざまを、側で見ていたい、いえ、ただ男に、生きて欲しかったのです。
乙女は悩みました。
あの輝きを失いたくはない、例え己の存在に代えてでも、と。
しかし、人間の男の瞳には、死神の乙女の姿は映りません。直接、危機を伝えることすらできないのです。
乙女は悩みに悩みました。
そして、あるふたつの禁忌を、侵すことにしたのです。
ひとつは、人間にとり憑くこと。
もうひとつは、人間の死期を操作すること。
ふつうの死神であれば、絶対に侵さない、侵す必要のない禁忌。
けれど、人間の男を深く愛していた乙女には、侵す必要のあった禁忌。
乙女は、深夜の現世にこっそりと降り立ち、同盟国とは名ばかりの、男に敵対する国の姫君にとり憑きました。
姫君は、男と、両親を同じくする妹でした。
男が無条件に愛情を注ぎ、信頼する数少ない人間のひとりです。
姫君の言うことならば、男はきっと信じてくれる。
乙女は夜のうちに、男宛の陣中見舞いを拵えて、翌朝侍従に託すと、姫君の身体からそっと出ていきました。
届いた陣中見舞いを見れば、聡明な男ならば全てを察するはず。
そうしたら、男は死の運命から逃れる道を選ぶはず。
かくして、事態は乙女の望む通りに動きました。
溺愛する妹から届いた小豆の入った袋を見て、男は、袋小路に追い込まれ、首を取られる己の未来を悟りました。
そうして、逃げる道を選んだのです。
乙女の犯した罪は、すぐに閻魔府に伝わりました。
そうして、乙女は捕らえられ、閻魔の前に引き出されます。
己の犯した罪の重さを理解しているのか、と凄む閻魔を目前にしても、乙女は優しい笑みを湛えて、小さく頷くだけ。
あの男の命さえあれば、自分はどうなっても、よかったのです。
満足げな笑みを崩さない乙女に、閻魔は呆れたようにため息をついて、語りかけます。
乙女はこれから、閻魔府の独房での生活が待っていること。
死神にとり憑かれた人間は、死を招きやすくなること。
人間の及ばない力で死期を違えられた人間に、安らかな死は訪れないこと。
乙女は、はらりと涙を流しました。
それは、安堵の涙でした。
自分のわがままだとわかっていても、それでも。
人間は、いずれ死ぬ。理由は違えど、時期が違えど。
死なない人間など居ないから。
少しでも、ほんの少しでも。男の命が永らえるならば、よかったと。
閻魔は乙女に、憐れみに似た視線を向けて、最後にこう告げました。
貴殿には、男の最期を見届ける義務がある、と。
乙女が独房で過ごすようになってから、現世ではおおよそ、10と少しの年が経った頃です。
いつものように、過ぎてゆく時間を、ぼうっと、そして時折男の事を想い涙を流す日々を過ごしていた乙女は、重たい独房の戸が開く音を聞きました。
わずかに差し込んだ光に、乙女は目を細めます。
光の中に立つ鬼は、静かに告げました。
乙女が逃がした男の名が、再び閻魔帖に載ったことを。
ついに恐れていた日が、来てしまったのです。
乙女は大きく目を見開き、呼吸を忘れました。
須臾の時とは思えないくらいに、たくさんの想いが乙女の脳裏を去来します。
ふらつく脚で立ち上がり、鬼におとなしく付き従い、十数年前と同じ廊下を歩きます。
永劫とも思える時を歩き続け、案内された先には鎌を携えた青年の死神が待っていました。
鬼は手短に、青年が男の魂を刈ることと、乙女には鎌の持ち込みおよび男との会話は禁止されていることを説明します。
しかし鬼の声は、乙女の耳をすり抜けていくばかり。
これから目の前で、恋焦がれた男の命が奪われる。見知ったばかりの、素性も知れぬ死神に。
乙女の心に、少しばかりの後悔の念が沸き上がります。
声も交わせず、散りゆくばかりの命を見届けるだけならば。
なぜあの時に、自分のこの手で、魂を刈り取ってしまわなかったのか。
それでも乙女は、首を小さく横に振り、自分に言い聞かせます。
自分の判断は誤ってなどいなかった。男はきっと、意図せず伸ばされた10年という歳月の中で、きっと己の野望を成就させているはずだ、と。
時間です、と青年が告げ、誘われるまま伴って現世へと降りる。
道中、ふたりはひとことも言葉を交わしません。
暗闇を超え、視界に飛び込んできた現世は、夜だというのにちっとも暗くありませんでした。
乙女の瞳に映り込む、明々とした、赤。
青年は臆せず、炎の中に飛び込んでゆき、乙女も慌てて後に続きます。
炎の中心にひとり佇むのは、乙女の恋焦がれた相手。
今まさに命尽きんとしているのに、その輝きは、今も増すばかり。
ふたりは、男から少し離れた所に降り立ちます。足元には、弦の切れた弓が、無造作に置かれていました。
「……人間五十年」
男が、謡いながらゆっくりと舞い踊ります。
何かを覚悟したような、それでいて、とても満ち足りた瞳で、見えているはずのない死神たちを見据えています。
その瞳は、乙女が男にもたらした年月が、無駄ではなかったことを物語っているようです。
乙女の心臓はいたく締め付けられるような思いでした。
ゆっくりと、男が腕を下ろし、最期の舞が終わりを告げます。
青年が時間であることを告げると同時に、男は座り込み、寝間着の襟を掴んで、乱暴に、丁寧に腹の辺りを晒します。
傍らに置かれた刀は鞘から抜かれ、最期に弱々しく微笑んだ男の命を、鮮やかに刈り取りました。
乙女は、その時のことを何も覚えていません。
ただ、気が付いた時には、青年が持っていたはずの鎌を両手に握って、男の亡骸のすぐ隣に、へたり込んでいました。
伸ばされた青年の手は、空をつかんだまま静止しています。
乙女は、己の行動を理解しました。
そして静かに、泣きました。
呆気に取られていた青年は自らの役目を思い出し、二言、三言、男と事務的な会話を交わします。
白く輝く魂だけの姿になった男は、存外話の理解が早いようで、頷くように何度か揺れ、己だったものに寄り添う乙女を見て、青年に問います。
「これは、何ぞ?」
青年は、乙女が犯した罪について端的に述べると、なおも乙女が握ったままであった自身の鎌を取り返し、腕を掴んで立たせます。
そうして、乙女と男の魂を連れて、閻魔の元へと帰ってゆきました。
青年から事の顛末を聞いた閻魔は大層怒り、侍らせた鬼たちに、乙女を独房に連れ戻すよう命じます。
乙女は、己の腕を捉える鬼の手を振り払い、生前の姿を取り戻した男の元へと駆け寄ります。
震える手で男の手を握り、弱々しい声で、ずうっと、胸に秘めてきた想いを伝えます。
そして最後に、涙を流して頭を下げました。
かんかんに怒った閻魔は、大音声で怒鳴りました。
刹那、乙女の、男に触れた右手は霧散し、男に語りかけた口が崩れます。
鬼に引き離されながらも、乙女は初めて、己に向けられた男の声を聞きました。
「なに。家臣の謀反などこの目で幾度も見てきた。此度の件も、このおれの目が曇っていただけのこと。
なかなか、浮き世も面白かったが、これが非業の死というのなら本望だ」
「達者であれ、死に神の小娘」
それから幾ばくかの刻を、乙女は暗い独房で過ごしました。
けれどある日、乙女は忽然と、その姿を隠したのです。
それは奇しくも、乙女が憑いた姫君が、燃え盛る炎のなかで自ら命を断った、その日なのでした。
死神世界に伝わる説話。
死神の在りようを問う出来事として、説話として編纂され、今日まで伝わる。
弔野が生まれる、だいたい200年くらい前のお話。