旧王家の姫君
旧王家の末裔というものは、とても扱いに困るものらしく。
このセンティス国を現在治めるウィルアム王家は、キーリアが生まれた時、彼女という存在をとても持て余したそうだ。
キーリア・ケイロウ。
金色の髪に、薄い蒼の瞳を持つ、現在十六歳の彼女は、生まれてすぐに父母を失った為、ケイロウ家の最後の一人だ。
ケイロウ家はセンティス国が興った時に「じゃあ、この国も一緒に纏めてくれちゃいます?」ってウィルアム家の始祖に自分の国をお願いしたらしい。
だから、ケイロウ家は旧王家。
キーリアは旧王家の最後の一人。
家を継ぐ者が健在ならいざ知らず、言葉もわからぬ赤子が一人残されたのだ。家をとり潰そうにも、旧王家だから無下にも出来ない。
彼女とケイロウ家の処遇について、王様が家族会議を開いた。
そうすると、王様の弟で、公爵の位を授かっていたアンドリュー・ウィランが「うちの子にします」と言い出した。
彼は「ケイロウの家名は残しておいて、彼女が大きくなった時に嫁に行くなり婿をとるなり決めてもらいましょうよ。ああ、うちには男ばかり四人もいるから、女の子は嬉しいなあ」、そう言ってキーリアを抱き上げて帰って来たらしい。
乳母が舌を巻く程赤子をあやすのが上手かったとか。
そんなこんなで、キーリアはウィラン家の末娘として育った。
夕食も済んで家族の皆が自室に引き上げた後、キーリアは寝間着に肩掛けを巻いて廊下を歩いていた。
目指す扉はすぐそこだ。
黒い樫の、その部屋の主人の様に実直そうな扉を、こんこんとノックする。
「……はいどうぞ」
上の空、と言った風情の声が返ってから、キーリアはそっと扉を開いた。
部屋の中はオレンジ色のランプの明かりで中央のソファの周囲が照らされて、それから右側の壁にある暖炉の辺りだけが赤く明るかった。
部屋の主はソファに腰掛けて分厚い書物に見入っている。キーリアが来たというのに、本に夢中でこちらを見もしない。返事だってノックの音に反射的に言葉を返しただけなのだ。
でもそれはいつもの事で、キーリアは気にしたりしない。むしろ、書物にのめり込むその横顔がランプに照らされている風景が、彼女はとても好きだった。
ひんやり寒かった廊下から暖かな部屋の中にそっと入り込んで、扉を背にしてそこに座り込んだ。そのまま膝を抱えて、彼がページを捲るのをじっと見つめる。
じわじわと暖かくなる体とおんなじ様に、胸の奥が徐々に暖かくなっていく。きっとこれが『幸せ』というものなのだと、キーリアは思った。
ソファに座る彼が、また何ページか読み進めたところでうるさそうに黒髪をかきあげた。無造作に半分に分けている前髪は目元を超えるくらいまで伸びてしまっているから、落ちてくると邪魔なのだろう。
ピンで留めてあげようかとキーリアは思い立った。
そして彼女がその場に立ち上がって、彼はようやく彼女の存在に気がついた。
「あれっ、キーリア。……いつの間に来ていたの?」
読書を遮ってしまって申し訳無いという気持ちと、気付いてもらえて嬉しいという気持ちがキーリアの中でないまぜになる。
それでも“嬉しい”が上回るから、彼女はにこにこ笑いながら彼に近づいた。
「さっき。四の義兄さま、全然気付かれないのですもの」
ふわふわと軽やかにキーリアは歩く。
彼女を迎える為に、四番目の義兄であるリュードルは読んでいた本を正面にある机に置いた。
彼のすぐ脇に立って、キーリアはその前髪に指先を伸ばす。
「お邪魔でしょう? キーリアが押さえていて差し上げましょうか?」
冗談めかしてそう言うと、リュードルは翡翠色の瞳を細めて笑った。その色は、キーリアの薄蒼い瞳よりずっと深みがあって、温もりを感じさせる。
「お願いしようかな」
その返答に、キーリアの心はすっかり浮き立った。
「はいっ」
勇んで答えて、彼の膝の上にちょこんと横向きに座る。小さい時から義兄たちはキーリアを膝に乗せていたから、そこは彼女にとって抵抗を持つような場所では無い。
そして、左手で艶めいた黒髪を梳く様に持ち上げた。
「これで宜しい?」
小首を傾げて聞くが、すぐに机に置かれていた本の存在を思い出した。
「あ、本もどうぞ」
右手で重い本を懸命に持ち上げて膝の上に広げると、リュードルは目を見開いて固まっていた。
それから、眉間に小さな皺を作る。
「…………困ったな」
その一言に、キーリアは泣きたい気持ちになった。
ああ、やっぱり困らせてしまうのだ、と。
実はほんの三日前、キーリアは四番目の義理の兄であるリュードル・ウィランにずっと胸に抱いていた恋心を打ち明けていた。
義理の兄妹である事は、随分前から知っていたのだ。
なにしろ、家族全員ウィラン姓を名乗っていると言うのに、自分の名前はキーリア・“ケイロウ”なのだ。不思議に思わない方がおかしいだろう。
四歳か五歳の頃だったろうか、二番目の義兄の膝に乗って、一番目の義兄が差し出したクッキーを頬ばっていた時だ。
もぐもぐこっくん、と飲み込んで、「どうしてキーリアは“ウィラン”じゃなくて“ケイロウ”なの?」と尋ねたのだ。
そうすると、一番目の義兄が目尻を下げて、「キーリアはうちの養女で、旧王家のお姫様だからだよ」と答えてくれたのだ。
養女の意味がわからなかったキーリアは目をぱちくりさせるばかりだったが、正面の椅子に座って本を読んでいた四番目の義兄、つまりリュードルが酷く驚いていた事が印象に残った。
なんと、大事にしていた本に紅茶をだばだばと零していたのだ。
一番上の義兄・アレクはキーリアと十五歳違い。
二番目の義兄・ドーレクは十歳違い。
三番目の義兄・ナーリックは五歳違い。
四番目の義兄・リュードルは二歳違い。
つまり、キーリアがウィラン家に迎え入れられた時、リュードル以外の兄弟たちはみんな物心がついていて、キーリアが義理の妹である事を知っていたのだ。
あの驚いた顔を見た時から、キーリアは彼を意識し始めた。
異性として。
年が近いせいか、はたまた彼の性格によるものか、他の兄たち程スキンシップが激しく無かった事も要因の一つかもしれない。
年頃を迎えたキーリアは、すっかり彼に心奪われていた。
恋物語を読めば、主人公と自分を重ね合わせて、相手役はいつもリュードルだ。
仲のいい家族だから、学校から帰って来た彼と抱擁したり、頬にキスをし合ったりもするが、それで物足りなくなっていった。
もっとぎゅうっと抱き締めて欲しいし、恋人のキスをして欲しい。……唇に、して欲しい。
兄妹なのだからいけない、という考えと、血は繋がっていないのだから思い切ってしまえ、という考えが半年くらい彼女の中でせめぎあっていた。
そうして秋も深まったあの日、黄色や赤に色づいた木の葉落ちる庭で、キーリアは彼に「好きです」と言ったのだ。
リュードルはしばし黙り込んで、少しぎこちなく笑った。
「僕もキーリアが好きだよ」
彼が言うのは家族としての好きだ。
そう思ったキーリアは、必死で首を振った。
「違います。四の義兄様じゃなくて、リュ、リュードル様として好きなんです。こ、恋人になりたいのですっ」
真っ赤になって、涙を浮かべて、キーリアは訴えた。
それを見て、リュードルは強ばっていた頬から力を抜いて、ぎゅうっと目をつむった。
再び開かれた翡翠の瞳には、柔らかな感情があった。
そっとキーリアの頬に手を添えると、彼は微笑んだ。
「嬉しいな。うん、嬉しい。キーリア、僕は君を、キーリアをとても好きだ」
感極まって胸に飛び込んだキーリアを、彼女が望んでいた通りにぎゅっと抱き締めてくれた。
それから、頬と唇に、触れるだけのキスをくれた。
その日から、キーリアは夜眠る前に彼に会いに来る様になったのだ。
初めはさっきみたいに扉の前で彼の横顔を見つめて、気付いてもらえたら隣に腰掛ける。少し話をしたら、お休みのキスをして自室へ帰るだけ。
そんな触れ合いの中で、彼女が気になったのは、リュードルが少し困った顔をする事だった。
キーリアが近づいて来た時や、お休みのキスをねだると一瞬浮かべるのだ。
だから彼女は、義理とはいえ兄妹で恋人になった事はリュードルにとっては困った事だったのでは無いかと考える様になった。とても優しい人だからキーリアの望みを叶える為に彼女に付き合ってくれたのだ、と。
キーリアが泣いたりしたら彼はきっともっと困ってしまうから、彼女は哀しげな顔を隠す為に彼の首筋に頬をすり寄せた。
ぎくりと、リュードルの体が強張る。
ああ、やっぱり迷惑だったのだと、キーリアは悲しくなった。
しがみついた事で自然と左手は彼の前髪から離れていたため、彼女は両手で彼の胸元にしがみつき、覚悟を決めて言った。
「四の義兄様。……今晩は、今晩だけは一緒に寝て下さいませ」
ぶっ、と彼が横を向いて噴き出した。それからごほごほと咳を繰り返す。
「キ、キーリア、一体何をっ」
いつも穏やかな彼が取り乱している。
ああ、そんなことをさせてしまってごめんなさい。と心の中で謝りながら、彼を見上げる。
「キーリアの告白が四の義兄様を困らせているのでしょう? 今晩、一晩一緒に眠って頂ければ、キーリアはきっぱりと四の義兄様の事を諦めますわ。小さい頃のように、ぎゅっとして頂ければ満足、しますわ。きっと。……だから」
「待って」
ぐずぐずと泣かないように、なるべく毅然としている様に言っていたというのに、それはリュードルの厳しい声に遮られてしまった。
「待つんだ、キーリア。僕が、君の告白に困っているって?」
「だって、四の義兄様、キーリアが恋人っぽくしたいって頑張ったら、困った顔をされるわ」
責めるつもりは無くても、つい唇が尖ってしまう。末っ子として甘やかされて来たからだろうか。
ところがリュードルは大きく目を見開いて、それからそっぽを向いてしまった。
怒らせてしまったのかと思ったキーリアがおろおろしていると、盛大な溜め息が彼の口から吐き出された。
深い息を吐ききったリュードルは、キーリアの腰を持ち上げて、自分の足をまたぐ様に姿勢を変えさせた。
「よく、見て、キーリア。僕はこれから嘘を一つも言う気は無いよ」
立ち膝の姿勢になったキーリアは、リュードルの顔を真上から見下ろす体勢になる。少し高い位置から照らすランプの明かりで、彼の顔は長い睫毛まで数えられそうな程よく見えた。
突然の展開に、ぱちぱちと瞳を瞬くキーリアを見据えて、リュードルは再び口を開いた。
「僕は君を愛しているよ。この世の誰より大切な女の子だ」
真っ直ぐな言葉に、どくんどくんとキーリアの胸が強く脈打ち始めた。
その頬が、大きくて暖かい手に包まれる。
「一の兄様が、君が養女だって言った時、僕は最高に嬉しかったんだ。ずっと、誰より大事にしたいって思っていた女の子と血が繋がっていないってわかったんだからね」
リュードルの綺麗な翡翠の瞳が放つ真摯な色は、虚言など無い事を示していた。
キーリアは嬉しくて、瞳からぽろぽろ涙が零れ落ちてきた。
自分がリュードルを意識し始めたあの日、彼もまたキーリアを想ってくれていたなんて。
彼女の頬を包む手がそっと引かれる。少し下ろされたキーリアの顔にリュードルの唇が寄せられて、薄蒼の瞳から流れ落ちる涙がすいとられた。
いつもは固い指先を避けて手の平で彼女の涙を拭うのに、今日は違った。
「ちゃんと、恋人の扱いですね」
泣き笑いでキーリアが告げると、リュードルは何とも言い難く凪いだ笑みを浮かべた。その右手は頬に残して、左手だけを彼女の背中に回す。
「そうだね。だって僕らは恋人同士なんだから……」
そっと囁くリュードルの唇が移動して、キーリアは慌てて瞳を閉じた。
真っ暗な世界の中で、唇に柔らかな感触がした。
穏やかな、優しいキス。
少しの時で離れていった唇に、キーリアは瞳を開いた。
物足りなさを、そのまま口にする。
「四の義兄様、もう少し……」
その艶めいた瞳に、リュードルは抑えが利かなくなった。
頬に添えていた手がキーリアの耳を掠めて首の後ろに回り、自身の唇でしっかりと彼女の唇を塞いだ。
時折角度を変えて、先程より深く、口づける。
キーリアの感じているものが陶酔感から困惑に変わる直前に、リュードルは唇を離した。
乗り出していた身を戻す瞬間、彼は自覚の欠片も持たない恋人にちょっとした意地悪を思いついた。
彼女の下唇を軽く歯で噛んだのだ。
ぞわりと、キーリアの体に震えが走る。
「んっ…………」
情欲で潤んだ瞳が責めるような目をした。
その様子に、困ったものだとリュードルは嘆息を吐いた。
きちんと言い聞かせないと、この少女は何時まで経っても気がつかないのだろう。
「あのね、キーリア。ここまでしておいて言うのは何だけれど、その、幾ら家族だからって、夜中に男性の部屋に来るものではないよ」
どれだけ僕が我慢を強いられていると思っているの? と言外に匂わせる。
十八歳の彼に、恋人となったばかりの少女は眩しいのだ。
瞬いたキーリアは、うーん、と首を傾げる。
考える事、しばし。
やがて、ぽんっと手の平を打った。
「わかりましたっ。四の義兄様はキーリアに欲情なさるのね?」
輝く様な笑顔でそう告げる。
ぐっと、リュードルは喉の奥に何かが詰まった様になった。そして、激しく咽せる。
直球にも程があるだろう?! 誰だ、キーリアにそんな言葉を教えたのは!
先の比では無く咽せ続けるリュードルに、キーリアは眉を落とした。
「まあ、義兄様、大丈夫? しっかりなさって」
背中に手が届かない為、仕方なく彼の黒髪を撫でる。
「お水いりますか?」
中々治まらない様子にいよいよ心配になって、彼女はリュードルの膝から立ち上がり、水差しに近寄ろうとした。
しかし、くいっと手を引かれて、すとんと元の位置に戻ってしまう。
「あのね、キーリア……」
まだ少し苦しかったが、リュードルは切れ切れに、彼女に語りかけた。
「君の言う通り、僕は、君に欲情するよ。もっとキスしたいし、抱き締めたい」
はっきり言わなければ彼女はまた曲解してしまう恐れがある。
そう告げると、意外にもキーリアは、ぽっと頬を赤らめた。
欲情なんて言葉をあっさり口にするかと思えば、それを肯定すると照れ始める。十年以上義妹だったが、なんとも不思議な子だと、リュードルは思う。
だけど、それを可愛いと思ってしまうのだから。僕はすっかりキーリアに夢中なんだな。
心中で苦笑した。
そして、こんな姿勢で言い聞かせる事じゃ無いと、自分で思いながらも話を続ける。
「ちゃんと節度のある付き合い方をしたいんだ」
「は、はい」
リュードルの方を見る事が出来なくて、キーリアは俯いたまま頷いた。
そんな恋人に微笑ましさを感じながら、リュードルは言う。
「だから、今度のお休みはデートをしよう?」
がばっ、と勢い良く彼を見上げて来たキーリアの瞳は期待で輝いている。
「いや?」
ちょっとからかって聞いてみると、彼女は首を振った。
「いいえ、いいえ。嬉しいです、四の義兄様!」
「それ」
「えっ?」
眉間に皺を寄せて指摘されて、キーリアは聞き返した。
「恋人なのに、義兄様は無いよ。ね? せめて二人きりの時は名前で呼んで欲しいな」
彼の、名前。
キーリアは、心の中で何度も呼んでいた名前を、そっと口にした。
「リュードル、様」
思わずリュードルは笑ってしまった。
「様なんて、いらないよ?」
「で、でも。ずぅっと義兄“様”でしたから、その、慣れるまではつけても……?」
彼の機嫌を伺う様に見上げてくるキーリアに、リュードルはまた笑ってしまった。
「じゃあ、そのうち呼び捨てで呼んでね」
「努力します!」
こくこくと、彼女は頷いてみせた。
その様に満足げに微笑むと、リュードルはキーリアを立たせた。
自分も立ち上がって、彼女の上からその小さな顔を覗き込む様にして言う。
「ではそろそろお休み、キーリア」
本当なら、彼女はとっくに夢の中にいる時間なのだ。
けれどキーリアは、先程の自分の台詞がどうなったのか気になっていた。
「リュ、リュードル様?」
「うん?」
さらりと流れた髪の隙間から、翡翠の瞳がキーリアを映す。
「一緒に寝ては、駄目……?」
ぎゅっと抱き締めて貰って寝ると、昔の様にとてもよく眠れると思うのだけれど。
リュードルは目元を押さえて「はぁ――――――……」と深い溜め息を吐き出した。
「キーリア、さっきの僕の話、覚えている?」
「でも、でもですね、小さい頃の様に……」
必死で良い募るキーリアに、リュードルはきっぱりと言う。
「もう、小さい頃とは違うんだよ」
そして再び彼女の唇を己のもので塞いだ。
瞳を閉じて、リュードルの動きに翻弄されて、キーリアは彼にしがみつく。
ばくばくと、強く早く打ち続ける心臓に、負けてしまいそうだ。
ちゅっと、音を立てて離れた時、彼女の膝からはすっかり力が抜けていた。
「まだ、言う?」
どこか余裕があるように言い放つ彼に、キーリアはぶんぶんと首を振った。
安心して眠るなんて、絶対に出来そうに無い!
「お、お部屋で眠ります……」
力無く言ったキーリアの体は、ひょいっと持ち上げられていた。
驚いて見上げると、リュードルが悪戯に成功した子どもの様に微笑んでいた。滅多に浮かべないその笑みにキーリアが目を奪われていると、彼は口を開いた。
「部屋までお送りしますよ、我が姫君」
嬉しい、と笑って、キーリアは彼にしがみついた。
余談ではあるが、キーリアとリュードルの仲は両親公認である。知らぬは兄たちばかり。
それと言うのも、リュードルへの告白を成功させたキーリアが真っ先に向かったのは義母であるマリアヤ・ウィランの元だったからだ。夫婦の為の居間にいた彼女の傍らには、もちろん夫であるアンドリュー・ウィランの姿もあった。
キーリアはその部屋にしずしずと入ってくるや否や、マリアヤに嬉しそうに報告した。
「お義母様、四の義兄様がキーリアの事を好きと言って下さいました!」
アンドリューは口に含んだ紅茶を盛大に噴き出した。
恋する乙女には義父の奇行など目に入らないようで、彼女はマリアヤに駆け寄って、その隣に腰掛けた。
「お義母様のアドバイス通り、頑張ってみて良かったですっ」
頬を染めて言うその姿はすっかり大人の女性に近づいている。
頭を撫でてやると相好を崩すその姿はまだまだ子どもだが、十五年間も彼女を育てて来たマリアヤは、キーリアの成長への喜びを噛み締めていた。
「は? リュードルがキーリアを好きって、……………………え?」
困惑する夫に、マリアヤはそっとハンカチを差し出した。
まあ、このハンカチがあろうとも、彼女が選んだ赤いチェック柄のタイに染みがつく事は避けられそうもなさそうだ。
意趣返しも込めて、何にも知らなかった夫に、マリアヤは微笑んだ。
「これで、晴れてキーリアとリュードルは恋人同士という事ですわ」
隣で、キーリアは顔を真っ赤に染めていた。
基本的に末娘が悩み事を打ち明け、相談するのは義母であるマリアヤである。
かなり早い段階で相談を受け、「苦しくてたまらないのなら、口にしておしまい為さい」とアドバイスをしたのはつい昨日の事だ。
もちろんリュードルの心がキーリアにあるとわかっていての助言ではあったが、娘の行動力は抜群のようだ。
未だに困惑のただ中にある夫と、ふわふわと夢の中にいるような表情の娘に挟まれて、母たる彼女は考える。
さて、残る息子たちには一体どんな状況でこの事実を明かすのがいいだろうか、と。
もちろん、この時点では誰も予想していない。
初春にやってくるキーリア十七歳の誕生日のその席で、初めて飲んだお酒で酔っぱらった彼女がリュードルにべったりと甘えてキスをねだり、兄弟四人が真っ青になるだなんて。
という夢を見ました。
……半分冗談です。
最近見た変な夢を参考に好き勝手に書き上げました。
こんなに甘えたで天然な女の子は初めて出現しました。笑。
以下はちょっとした後日談です。
宜しければどうぞ。
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冬の初め、寒い廊下での出来事だ。
「リュードル君、リュードル君」
背後から声を掛けられたリュードルは、振り向いた先に、廊下の影で手招く父親を見つけた。
「そんなところでどうされました、父様?」
首を傾げながら近寄ると、近くの小部屋に連れ込まれた。
十八年間住んでいて初めて入る、と言うよりも、初めて存在を知ったその部屋は酷く小さな空間だった。二人でいると少し息苦しい気さえする。
ぐるりと見回して、自分好みの本が何冊か小卓に置かれている事に目敏く気がつき、そっと手を伸ばそうとした彼に、アンドリューは「まった」を掛けた。
「あの、だね。リュードル君は、キーリアとその〜……」
本から父親に意識を変えて、リュードルは彼が自分とキーリアの関係が変わった事に感づいているか、知っているという事に気がついた。
兄たちならいざ知らず、相手は父親だ。
彼は毅然と顔を上げて言った。
「先日から恋人になりました。将来は結婚するつもりです。……お許し頂けますか?」
ああ、しまった。まだキーリアにプロポーズしていなかった。と思った時には言い終わっていた。
目の前ではアンドリューが、あんぐりと口を開けている。
「もちろん、キーリアの意思を確認してからですが」
そう付け足すと、父親はようやくその口を閉じて真剣な表情を浮かべた。
「そうだね、キーリアの意思は大切にしないとね」
目の前で頷く息子は、アンドリューの子どもたちの中で最も穏やかな性質の持ち主だ。
だからと言って可愛い娘をほいほいとはあげられない。
「だけど、ケイロウ家の方はどう考えているんだい?」
まだ十八歳で、学校も卒業していない息子に少し意地悪だったかな、とアンドリューは考えた。
しかしリュードルの返答は全く澱みがなかった。
「キーリアが望むなら、僕が継ぎます。でも、彼女は家名に拘るような子ではありませんし、ケイロウ家を残せば煩わしい事の方が多いでしょう。それなら、僕は順等に行けばチェカル伯爵位を頂けると思うので、……頂けますよね?」
息子たちには、自分の持つ複数の領土と爵位を上から順に分け与えていくつもりだったアンドリューは、こくこくと頷いた。
「では、キーリアにはウィラン家にお嫁に来てもらって、チェカル領でのんびり暮らそうと思っています。必要なら僕にもお金を稼ぐ当てはあります」
力強いその台詞に、アンドリューはこう言うしか無かった。
「そうか。そこまで考えてくれているのなら、君に任せても大丈夫そうだね。……ちょっと早いかもしれないけれど、キーリアの事を頼むよ」
「はい」
答えたリュードルは何とも嬉しそうに微笑んでいて。
やれやれ、変な気を揉み過ぎたかな、とアンドリューは安堵の息を吐いた。
「では、失礼します」
軽く頭を下げて立ち去ったリュードルの背中を見つめながら、父は思った。
キーリア、君の選択は決して、そう決して間違っていないよ。それどころか、英断と言ってもいい!
父親から見たって、四兄弟はいずれも劣らぬ才覚と容貌の持ち主たちだ。
一番目のアレクは寡黙だが、王宮では文官として重職を任されている、将来有望な青年だ。
二番目のドーレクは華やかで、社交界の花形である。芸術方面に優れた才を持ち、絵画に彫刻、詩歌の方も最近よく売れているようだ。
三番目のナーリックは武に優れている。王宮騎士団の第二騎士団の副長を任され、年に一度の武術大会ではここ三年負け無しである。
四番目のリュードルは学校では経済学を専攻しているというから、アンドリューは親馬鹿の視点を抜きにしても良い領主となれるだろうと期待している。
しかし、現在進行形で華々しい活躍を誇る兄たちに比べると、まだ学生のリュードルは霞んでしまうだろう。
だが、アンドリューは親として知っている。
一から三番目の息子たちが、キーリアに関わった途端に豹変する事を。
アレクは普段の寡黙さをかなぐり捨て、キーリア賛美に口が閉じなくなる。彼の同僚の間では、「仕事を円滑に進めたければ、アレクに妹の話は振るな」が合い言葉だ。
ドーレクは妹可愛さに、彼女の褒めたものや感心したものはなんだって買い与えようとしてしまう。一度キーリアが「この小さいお花は可愛いですね」と微笑むと、翌日王都中の花屋から買い占めて来た。困った顔のキーリアと怒るマリアヤに挟まれた息子は、満足げだった。
ナーリックは、と言うと、力が全てと考えている。力さえあればキーリアを守れるのだと頑なに信じている。だから、彼は騎士団の団長の座を虎視眈々と狙っている。暴走し始める前に何とかしないといけない。それがここ最近のアンドリューの悩みだ。
それを考えると、冷静に物事を判断して将来の事まで考えられるリュードルという息子は、誰よりキーリアを任せるに相応しい。
残り三兄弟の為にも、彼らの手綱をしっかり握れるお嫁さんを探してあげよう。
廊下の端っこで、父は決意した。




