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はいそっ 作者:相野仁

九話

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7

 俺たちが通されたのは六畳間くらいの広さしかない、こじんまりとした部屋だった。
 畳ではなくフローリングであるという点にまず驚かされたし、掘りごたつのようなスタイルになっているのも意外である。
 もっとも過去に料亭など来たことがあるはずもなく、全ては勝手な脳内イメージだったのだが。
 靴を脱げば黒ストッキングに包まれた先輩の形のいいつま先がちらりと見える。
 そういう趣向はないはずなのにも関わらずドキリとさせられてしまったのは、彼女自身の魅力によるところが大きいのだろう。
 向かい合って二人が座ると、そっと女将さんが白い湯飲みが並べらてくれる。
 中に入っているのは緑茶だが、熱すぎないちょうどいい温度であった。

「本日はようこそお越しくださいました。精いっぱいのおもてなしをさせていただきます」

 女将さんはそう言ってていねいにお辞儀をして、部屋から出て行く。
 ずいぶんと簡単だったな。
 由緒ある格式ばった高級料亭ともなると、女将と板長(でいいのか?)が長ったらしいあいさつをすると、どこかで見た覚えがある気がするんだが。
 ……本当のところは言われてなくても先輩のおかげだと理解している。
 気品のある女将さんや他の人たちが、彼女の姿を目に映すとメチャクチャ緊張していたもんな。
 こんな料亭に来られたのも、ていねいな対応をされているのも、全て姫小路翠子という女性が一緒のおかげだ。

「先輩、今日の料理は決まっているんですか? それとも俺たちが選べるんですか?」

 こんな地味に立派な空間で彼女のような美人と一緒に無言でいるというのは、到底耐えられるようなものではない。
 とっかかりがほしくて話を振ってみると彼女はにっこりと微笑みながら教えてくれる。

「決めています。と言うのも、本来ここでは会席料理か時価の一品料理しか扱っていないのです。それですと赤松さんが困ってしまうのではと思い、申し訳ないのですがわたくしの一存で献立を決めさせていただきました」

 本当に申し訳なさそうだったので、まず気にしていないと答えておいた。
 どうせ訊かれたって何がいいのか分かるはずがないからな。
 日本料理なら日本語で書かれているだろうから俺にも読めるだろうし、どんな料理なのか想像するくらいはいけるだろうけど。
 しかし、それにしてもさらっと「自分の希望を通した」とこの人は言い放ったよな。
 表情も声のトーンもいつも通りで、まるで俺が「今日はバスに乗った」とでも言うように。
 この人にとってはこんな料亭で自分の希望をかなえてもらうのは、当たり前のことなんだろう。
 こういう場にくると目には見えない分厚い壁が存在しているという現実は、嫌でも分かってしまう。
 おそらく彼女はそのようなことを夢にも思っていないんだろう。
 自分や自分の家のすごさをひけらかすような人じゃないしな。

「ありがとうございます、先輩」

 そう言って礼を述べるとどういうわけか、不満そうな顔をされた。
 はっきりと表情が変化したわけではない。
 瞳にわずかな不満の揺らぎが垣間見えたと言うべきだろうか。

「いかがなさいましたか?」

 この人の怒りや不満のポイントは正直、とんと見当がつかない。
 「説明させるな察しろ」と言われてもかなり無理がある。
 妹や同級生ならまだ何とかなるかもしれないが、お嬢様たち相手だと困難至極だった。

「実は以前から気になっていたのですけれど」

 優しいけどはきはきとした言葉遣いのこの人にしては、珍しく歯切れがよくない。
 何か言いにくいことなのだろうかと思っていると、不意にきっと瞳に力がこもる。

「百合子さんや紫子さんは名前でお呼びなのに、わたくしに対してはずいぶんと他人行儀ですよね?」

「えっ?」

 正直その発想はなかった……。
 たしかに百合子さんたちは名前呼びしてるけど、この二人は姉妹じゃないか。
 まさかお嬢様を呼び捨てにするわけにはいかないし、名前で呼ばないと桔梗院さんと桔梗院さんになってしまう。
 なんていう理屈は少なくとも今の先輩に通じそうにはないと、何となく想像できた。
 直感してしまったと言う方が正しいかもしれない。

「申し訳ありません。先輩相手に理由もなく、なれなれしくするのは失礼だと思っていまして」

 こういう場合は悪くなくても謝った方がよいのだ、たぶん。
 どうすればいいのか教えてくださいと下手に出た方がいいのだ、おそらく。
 そうすればこの人の性格なら教えてくれるのだ。

「そうですね……わたくしも突然理不尽なことを申してしまいましたわ」

 こっちが謝って下手に出たおかげか、先輩は冷静になってくれたらしい。
 そう思ったものの、それは完全ではなかったようだ。

「でもわたくしは気にしません。むしろ名前で呼んでいただいた方が嬉しいです」

 今度は一転してすねたような、あるいは甘えているかのような表情になる。
 これはこれで破壊力があって困ってしまう。
 それでいてこれは譲歩されているというのは分かるのだ。
 この人なら一言そう呼んでくれと命令すればよい。
 俺には決して逆らうことはできないのだから。
 それをしないのは仲のよい相手に権力を振りかざしたくはないという、この人の性格ゆえだろう。
 それはとても好ましく思うし、そのような関係はなるべく維持したいものだ。

「えっと……翠子お嬢様?」

 ささやかながら反撃を試みると、先輩は可愛らしく口をとがらせる。

「怒りますよ、赤松さん?」

 この反応は予想していたのでさらに切り返す。

「だって先輩も俺のことを赤松さんって呼んでいますよね?」

 この言葉は深い意味などない、何気ない一言のつもりだった。

「えっ……」

 しかし、どういうわけか先輩は珍しく大きく目を見開き、口元を手で隠す。
 それから耳たぶまでりんごのように真っ赤になってしまう。
 あれ、何か変なことを言っただろうか?
 先輩たちも他のお嬢様たちも、お互いは名前呼びなのに俺だけ苗字呼びというケースは多い。
 唯一の男だからと諦めていたのだが、俺に変えてほしいならそっちだって……とは思うよ。
 そのことを伝えると彼女は小さくうなずきました。

「わ、分かりました。や、やしゅひろさん……」

 どうしていきなりガチガチになって噛みまくっているんだろうか。
 いや、指摘したら危険な予感がするからそ知らぬ顔をしておくけども。
 きっと年頃の男を名前で呼んだ経験なんて、あまりないんだろうな。

「それじゃ俺も名前で呼ばせてもらいますね、翠子さん」

「は、はい」

 そう呼びかけると先輩……翠子さんは体をびくりと震わせながら返事をする。
 恥ずかしそうにモジモジしている様が相変わらず可愛らしかった。
 とびぬけた美貌を持っているのに愛嬌が同居しているとか、これを反則と言わずに何と言えばいいのだろうか。
 その後は簡単な話をする。
 先輩じゃなくて翠子さんに尋ねられたのは、新生徒会についてだった。

「どうしてもお嫌でしたら、辞退なさってもよいのですよ?」

 彼女は俺が断れずに引き受けてしまったのではないか、と心配してくれているらしい。
 この気遣いには感謝しつつ首を振って断りを入れる。

「いえ、大丈夫です。必要とされているなら頑張りたいと思います」

 異分子である俺を認めて輪に入れてくれのは、英陵の皆だ。
 そのおかげで何不自由のない学校生活を送れている。
 ならば皆の為に生徒会役員として頑張っていく、というのが俺のできる恩返しではないか。
 そう思うのである。
 この気持ちを説明すると翠子さんは「そういうことであれば」と理解してくれた。

「本当に入学したての頃は不安と緊張でいっぱいいっぱいだったんですよ」

「ええ、それは存じております。やしゅひろさんの顔から力みがとれたのは、七月くらいからではなかったかしら」

 笑顔でさらりと言われてしまい、言葉に窮してしまう。
 よく観察されていたのだなと思ったが、考えるまでもなく当然のことだった。
 初めてのことに戸惑っていたのは、実のところお互い様だったのだろう。

「小早川やデジーレが世話を焼いてくれましたし、生徒会に入れてもらえたのも大きかったですね」

 本当にありがたかったと翠子さんに礼を述べる。

「どうしたのですか、改まって」

 くすくすと上品に笑いながら訊かれたので、はっきりと告げた。

「だって翠子さんたち、もうすぐ引退で卒業でしょう? 今を逃がすといつ言う機会があるのか、分からないと思ったものですから」

 本当ならば高遠先輩もいるのが理想だったが、ないものねだりであろう。

「そうですね」

 ふっと彼女の秀麗な顔に影が差す。
 三年間過ごした場所を去るというのは、やはり寂しいのだろう。
 友達と二度と会えなくなるわけではないのだが、それとは問題が別なのではないだろうか。
 あまりこういうことを言葉にするのはどうかと思ったので、口にしたのは一言だけだが、翠子さんはちゃんと読み取ってくれたらしく、若干口元をほころばせる。

「わたくしもまどかさんもおそらくはこのまま大学に進学すると思います。康弘さんはどうなさるおつもりなのですか?」

 どうするのかと言われても困るんだよな。
 そりゃ無料で入学できて卒業もできるそれなりのレベルの大学に行けるなら行きたいけど、英陵の大学は女子大じゃないか。

「少なくとも女子大のままですと俺は通えませんね」

 冗談めかして応じると、彼女は真顔で言った。

「康弘さんにその意思がおありでしたら、わたくしが父に頼んでみましょう」

 姫小路家の力を使って女子大を共学に変えてしまうということか。
 そう言えばそんな話が以前に出た気がするな。
 俺一人の為にそのようなことが許されるのか分からず、何とも言えなかった。
 しかし、ここで沈黙するのもあまりよくないような気がする。

「何と言えばいいのか分かりません……俺一人の為にそのようなことが許されるのかという思いが強いんです」

 散々庶民だからと言ってきたんだし、翠子さんはこちらの気持ちを汲もうとしてくれる人だ。
 少なくともむげにはされないと思っていたんだが、彼女はどうしてか怪訝そうに小首をかしげる。

「そのようなことを許されない方でしたら、すでに退学になっていると思いますよ?」

「えっ」

 彼女の美しい唇からとんでもない発言が飛び出したせいで、二の句が継げなかった。
 お嬢様たちに不埒なまねをしたり、英陵の生徒にふさわしくないと判断されたら退学もありうるとは思っていたんだが……俺なんかの想像よりもずっと厳しかったのか?
 今までセーフティゾーンを選んで歩いていたつもりだったけど、実はそこもセーフティゾーンとは言えなかったらしい。
 そう知ると思わず唾を飲み込む。 

「ですから大丈夫です」

 翠子さんは俺がびびったことに気づいていないのか、微笑みかけてくる。
 安心させようとしてくれているんだろうが、どちらかと言えば恐怖心を煽られてしまう。
 まさかこういうところで感覚にズレがあるとはな……。

「どうもありがとうございます」

「では伝えておきますね」

 翠子さんは間髪入れずにそう言う。
 何だろう、何かちょっとおかしいぞ。
 この人はこんなせっかちな性格ではない。
 時間をくれと言えば、いつまでもじっと待っていてくれるようなタイプのはずである。
 どうして今回にかぎって急いでいるんだろうか。
 ……まさかと思うが、俺が英陵の大学に進学することを決めてしまいたいのか?
 いや、さすがにそれはないよな。
 どちらかと言えば英輔さんに俺の意思を聞いてこいと頼まれていたんじゃないだろうか。
 今の時期が時期だけに、できるだけ早く共学化するのかどうかを決めておきたいのかもしれない。
 いきなり共学化宣言して明日から共学になります、なんてできないことは俺でも想像できることだ。
 そう思えば、今まではっきりとしたことを言わずにいたのは、配慮不足だったと言える。
 またしても反省する材料が増えてしまった。

「俺としてはできれば、無料で大学に行けた方が嬉しいんですよ。英陵の大学でしたら、知り合いも多くなりそうですし」

「そうですね。わたくしが知っている範囲では、全員そのまま大学に進学しますね。まれに医学部を目指す方もいらっしゃいますし、そういう方は国立大の医学部を受験なさるようですけれど」

 さすがに医学部はないのだという。
 医学部以外は外部に行く必要を感じないと言われるあたり、大学のレベルも高そうだな。
 そもそも英陵のお嬢様がわざわざその手のことを大学で勉強する必要なさそうではあるが。
 だってその気になれば、世界から優秀な教授たちをかき集められそうだし。

「その後はどうなさるおつもりですか?」

「その後ですか?」

 話についていけず、瞬きをしながら聞き返す。

「はい。大学に進学して卒業した後のことです」

 いきなり何を言い出すんだろう、せんぱ……翠子さんは。
 さすがにそこまでのことは考えられないよ。
 そう答えたいところだったが、目の前にある美貌からはシリアスな空気がひしひしと伝わってくる。
 ここは真剣に考えて答えないといけない場面だと直感した。

「そうですね。まだ何も決めていません。正直、毎日暮らしていくだけでいっぱいいっぱいだったので」

 そしてかっこつけたりしてはいけないとも思う。
 そもそも翠子さん相手に俺がかっこつけたところで、たかが知れている。
 ありのままを素直に打ち明けた方が、のちのち困ったりしないはずだった。

「そうでしたか。これだけ会社を持っている家の者と知り合う機会が多かったのにですか?」

 彼女はどこか不思議そうである。
 お嬢様たちと知り合っているのに、コネを使うつもりはないのかと本気で思っていそうだ。

「そう考えたことがないと言えば、嘘になりますね」

 できれば父さんと母さんたちにいい職場が見つからないかな、と考えたのは一度や二度ではない。
 だが、それは果たして許されるのだろうか。
 学校側、あるいは各家の素行調査に引っかかったりするんじゃないのか?
 という懸念があるのだ。
 ……可能なかぎり黙っていたかった件なんだけど、目の前にいる女性はそれを許してくれそうにない。
 どうせ今、我が家の家計が楽じゃないことも知られているのだろうと思えば、全部話してしまった方がいい気がする。
 あるいはこれも何かのテストなのかもしれないが、その時はその時だ。
 さすがにこれだけで人生を破滅させられたりはしないだろう。
 少なくとも翠子さんはそんな人じゃない。
 そう確信を抱けるだけのつき合いをしてきたつもりだった。
 重い口を開いて胸のうちを吐露すると、どういうわけか彼女は硬直してしまう。

「え、ご両親の就職先ですか……?」

 思わずといった風に反芻するが、他に一体何があると言うんだろうか。
 そう考えてすぐにあることに気づく。

「あ、妹のことを忘れていました」

「え? 妹さん?」

 だからどうしてそんなびっくりしているんだよ。
 クールなポーカーフェイスか優しく上品な微笑を浮かべていることが多いこの人が、今は「その発想はなかった」とでも言いたそうな表情になっているのは新鮮だけど、何か釈然としない。
 俺も不思議そうな顔をしてしまったのだろう。
 彼女は咳払いをして言った。

「お気持ちはわかりました。やはり康弘さんはとてもすばらしい人なのですね」

 えっ? 何で今褒められたんだ?
 そしてどうして嬉しそうに笑うんだろう。
 家族の心配をしたから? でもそれって別に珍しくはないような……。
 クエスチョンマークが脳内で乱舞しているが、それを態度に出さないように頑張る。

「失礼いたします」

 何となく沈黙が舞い降りた時、女将さんの声が聞こえてきた。
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