レモネードを待つ
いらしてくださり、ありがとうございます。
「お疲れさま。今レモネードを持ってくるからね」
からになったびんや皿を回収しながら、ローラがぼくにささやいた。
長いまつ毛にふちどられた大きな黒い目は、いたずらっぽくぼくを見つめ、これ以上ないくらい強く光っている。
子供の頃から大人になった今まで、ローラはしょっちゅう、何かしら楽しげなことを見つけ出してはぼくに報告してきた。
それらのときと同じように、ローラは今日も笑っている。
ペタールのところの子ヤギが自分の手からえさを食べた。
ちょっと山を登った辺りに、見晴らしが良く風が気持ちいい場所を発見した。
内容はどれもなんでもないようなことだった。
けれども、ローラの次々に変わる表情やばら色の頬、なまめかしい生きもののように形を変える唇を見ているといつも、ぼくは自分まで楽しい気持ちになった。
そして、悩んでいることが小さい事柄のように思えてきたものだ。
この少し前、ぼくたちは乾杯をしていた。
「それでは、ジョンの前途とわがゲレングラード王国の未来の勝利を祝して、乾杯!」
暑い夜、村長の野太い声が響き渡った。
「かんぱーい!」
居酒屋で大きな木のテーブルを囲む者たちがグラスをぶつかり合わせ、ビールをのどに流し込んだ――ぼくを除いて。
みんなの気持ちを考えて、口をつけるふりはした。
宴会で自分が主役になったことはなかった。皆の視線が集まるのがこそばゆい。
「今日ぐらい飲んだらどうだ、ジョン」
村長が、ビールびんを持って寄ってきた。
灰色の顎髭をたっぷりたくわえた顔は、すでに赤くなっている。笑うと出っぱった腹も揺れる。
「そうだそうだ。前線に出たら、酒だっていっつも飲めるわけじゃねえんだしよお」
鍛冶屋のトーマスおじさんも、丸眼鏡をずり上げながらぼくの肩に手を置いた。
日によく焼けたおじさんはどちらかというとやせている。でも、長年にわたりハンマーで鉄を打ち続けてきた肩や腕には筋肉がよくついていて、盛り上がるところはすごく盛り上がっている。
「はあ……」
ぼくは、金色の泡立つ飲み物でいっぱいになっていくグラスを見つめながら笑った。
「いくつになった? 二十歳か? 二十一か?」
「二十二です」
「わしが二十二の頃には、酒なんて水のかわりに飲んでたもんじゃぞ。さ、飲め飲め」
「もう! 無理じいしないでください!」
幼なじみのローラが、銀の皿に載った子ヤギの丸焼きをデン! と目の前に置いた。
つややかに焼けた肉と甘辛ソースの香ばしい匂いが、辺りに満ちる。
「ジョンは飲まないんじゃないんです。飲・め・な・い・んです!」
村長やトーマスおじさんを前にしても、ローラはまったくひるまない。
澄んだ声とはじけるような笑顔。それらとともに、彼女はあざやかな手つきで子ヤギを切り分けていった。
エプロンの下に着ている、花の刺繍がほどこされたブラウスとこげ茶色のスカートがよく似合っている。
愛らしく後ろで結わえた、金色がかった茶色い髪が揺れる。
「そうだったっけか?」
「こんなうめえもん、飲めねえの? もったいねえなあ」
「すみません。飲めたらいいのに、ってぼくも思います」
心を込めて彼らを見つめた。
「けど今日飲んで具合悪くなって、明日入隊できなかったら困るんで。……皆さんにも迷惑をかけてしまう」
ぼくは、口角を下げぬよう気をつけながら子ヤギを何きれか小皿にとり、彼らに差し出した。
「うーむ、確かにそりゃいかんな」
ようやく村長たちはビールから話題を移した。
ローラが、冷ましたジンジャーティーを持ってきてくれた。
次々に村の人たちがやってきた。
「体に気をつけるんだぞ」
「あんた子供の頃から目がよかったから、銃で撃つのなんざお手のもんだろ。早く勝って、早く帰ってきなよ」
「ありがとうございます」
ぼくも、自分のために集まってくれた村の人たちにビールを注ぎかえした。
小さなポールも、口の端にソースをつけたまま寄ってきた。
「ジョン兄ちゃん、元気でね。ぼくも、早く兄ちゃんみたいに大きくなって、敵をやっつけてやる」
「それまでにはさすがに戦争は終わるだろうけどね。いい大人になれよ」
ぼくはしゃがんで、ポールの頭を撫でた。
あっという間に時間が過ぎていく。
そして。
「お疲れさま。今レモネードを持ってくるからね」
からになったびんや皿を回収しながら、ローラはぼくにささやいたのだった……。
でも直後、ぼくは見てしまった。
厨房に入っていく彼女が一瞬うつむき、顔を起こすときに鼻をすすり上げたのを。
後ろ姿ではあったが、彼女は素早く片手で目の辺りをこすってもいた。
結婚してくれ、ともっと早く言うべきだった。
油がはぜる音でよく聞こえないけれど、厨房でローラが、料理を作っている彼女の父親と何か言い争っているようだった。
自分の席に戻り、ジンジャーティーを飲みほした。
村の人たちは、皆もう酔っぱらって大騒ぎで、ぼくのことなどどうでもよくなっている。
――いや、やっぱり、結婚してくれ、と言わなくてよかった。
皿に残っている子ヤギ肉の切れ端に視線を落としたまま、ぼくは、長く息を吐き出した。
食堂兼居酒屋の娘であるローラと薬屋の息子であるぼくとは、年も家も近い。
幼い頃から一緒に過ごすことが本当に多かった。
ポールくらい小さかった頃、今より内気でしりごみするぼくの手を引き、アーサーら村の男の子たちが遊んでいるところに連れ出してくれたこと。
ニックと取っ組み合いのけんかをして膝や頬を派手にすりむいたとき、泣いているぼくの傷口を水で洗ってくれたこと。
ローラがぼくにしてくれたことが、次々に頭に浮かんだ。
十代前半の夏、川辺に二人で並んですわって、ローラの話に耳をかたむけたこともあった。
ローラが一本のびんに入れ革袋で包んで持ってきてくれた自家製レモネードを、ぼくらはかわるがわる飲みながら話をした。
彼女は、友達や病気の母親のことで悩んでいた。
目を伏せぽつりぽつりと話すローラの横顔が、燃えるような夕日に照らされていた。
いつもの強気なローラとは、まるで違う。
胸の鼓動が速くなった。
鼻の穴までかわいい。
ぼくにとってローラはもう、ただの幼なじみ、ただの姉貴分ではなくなっていた。
おずおずと彼女の肩に手をまわすと、彼女はびくっとした。
「ごめん。いやだった?」
「ううん」
それからぼくがそっとローラの体を引き寄せると、彼女もぼくの肩に静かに頭を乗せた。
体が触れ合っているところから、ほのかなぬくもりが伝わってくる。
ぼくたちは長い間じっとしていた。そしてそのあとも、ときどきすわり直したりしながら、体を寄せ合って話を続けたのだった。
オレンジがかったピンクの空が白っぽくなり、澄んだ青になって星がまたたき始めた。
それから何年もして、木洩れ日が美しい森で初めてキスしたときは、見慣れた森が特別な世界に思えたものだ。
あのときも、二人で、びんと革袋入りのレモネードを飲んでいた。
レモネードの味のキスだったかは、残念ながら覚えていない。
けれども、レモネードの爽やかな香りや酸っぱさは、今でもぼくに初めてのキスを思い起こさせる。
レモネードはローラもぼくも好きな飲み物で、暑い夏には、彼女が作ってくれたそれをよく一緒に口にしたものだ。
砂糖はいつも、少なめだった。
レモネードはまだ来ない。
あとどれくらいで来るだろうか。
銀の大皿に、金髪で青白く、ひょろっとした自分の姿がゆがんで映っている。
「大丈夫? 起きてる?」
連れ合いの声に、わたしははっと顔を上げた。
「なんか金髪碧眼のあおじろーい青年になってて。彼の目線でものを見たり人と話したりしてた」
「夢見てただけでしょ! よく食べながら寝られるね」
連れ合いは、なに言ってるのこの人、という顔でわたしを見つめた。
「あ」
わたしは、ナイフとフォークを握りしめ、名物のキドニーパイ――牛や豚などの腎臓を煮込んでパイ皮で包んだもの――に突き刺したままであったことにようやく気づいた。
顔が赤くなるのがわかった。
「レモネード、まだかなあ」
キドニーパイを口に運んだ。
わたしたちは、ようやくとれた長めの夏休みを使い、ゲレングラード王国に来ているのだった。
互いの勤め先の仕事が忙しく、新婚旅行にも行けぬまま、気がつけば結婚して数年がたっていた。
日頃の生活とかけ離れたところ――緑豊かなところに旅に出ようということになり、山の方にある有名な古い橋をぜひこの目で見たいと意見が一致した。
自分たちが住んでいるヤピアーネ共和国からこの峡谷までは、飛行機や列車を乗り継いでも何日もかかった。
けれども、それもまた楽し、だ。
数百年前に作られた橋は、うわさにたがわぬ見事なものだった。
緑あふれる峡谷に架かり、鉄でできていて、色は青みがかったグレーだ。
上は両端から中央に向かってほんの少し盛り上がり、下は優美なアーチを描いている。
おとずれた人は、下を流れる川やそれを取り囲む山々の濃淡さまざまな緑を見ながら、澄んだ空気の中で、橋を行き来できる。
アーチと上路との間には、大小の輪やくさびと、それらにからみ合う蔓草、花などがバランスよくしつらえられていた。
現代の鉄の橋よりも細い部材が多く用いられ、その側面にぶつぶつとたくさんの穴があいているのが、遠い日の製鉄を生々しく感じさせた。
山の緑、川、ミルクチョコレート色とダークチョコレート色からなる建物群。
橋を中央に据えた風景全体が、月並みな例えだけれど、一枚の絵のようだった。
単体で見るとややぼんやりした橋の色も、山の色にも、空の色にもなじんでいる。
ふだんコンクリートやガラスに囲まれて暮らしている身には、それらを眺めているだけで目が休まる気がした。
けれども橋を渡りながら、はるか下を流れる緑がかった川を見下ろしたときには、足がすくんだ。
自分の家のように蒸し暑くはないけれど、夏なので少しは暑い。
橋やその近くの博物館などをまわっているうちに、かなり汗をかいた。
連れ合いと二人、橋から程近い、古い石造りのレストランに入ったとき、メニューにレモネードがあるのに気づいた。
高校生の頃、校外学習で夏に山登りをしたとき、引率の教師が持ってきてくれたレモンスライスを、皆で山頂で食べたことを思い出した。
雪がたくさん残っているところまで上がっていったり、歯を食いしばり、鎖をつかんで少しずつ岩場を登ったりしたあとでは、不思議なことに、レモンはまったく酸っぱくなかった。
タッパーにまだたくさん入っている薄い果実片をまじまじと見つめると、隣にいた友達も同じことをしていた。
「酸っぱくないよね?」
「むしろ甘いよ。なんでだろ?」
疲労の極致だからだ、と教師が笑いながら言った。
わたしはレストランで、ステーキアンドキドニーパイのランチとともに、レモネードを頼んだ。
パイに包まれたキドニーすなわち腎臓の煮込みには、飴色のソースがかかっていた。それは、付け合わせのにんじんやグリーンピースの鮮やかな色と見た目も調和していて、皿全体が幸せな色合いだった。
パイ皮はサクサクして軽かった。
中身も、腎臓以外の肉も入っているせいかどうか、予想していたような臭みやえぐみがなく食べやすかった。
やわらかくジューシーで、ほのかな塩気とまろやかなコクが、歩き疲れた体にちょうどいい。
栄養が、静かに体にしみていくのがわかるようだった。
一緒に来るはずのレモネードは、まだ来ない。
「どうしたんだろ、レモネード。レモン、買いに行ってるのかな」
「それはなんですか?」
連れ合いが、あらたまった口調で言った。
彼の視線は、わたしの目の前にある、背が低いグラスに落とされている。
「水だけど」
「俺には来てないよね」
「あれ、ほんとだ」
彼の前には、細長いグラスに入ったアイスコーヒーしかない。
「飲んでごらんよ」
面長の彼は、腕組みをして唇の両端を上げ、ちょっと悪そうな上目づかいでわたしを見た。
わたしは、ずんぐりしたグラスに口をつけた。
「んっ!」
目と口が反射的に閉じ、高い声が漏れた。
酸っぱい。かすかに甘みもある。にしても酸っぱい。涙目になりながらわたしはまばたきをした。
「でもこれ、無色透明だし、炭酸とかレモンの輪切りとかサクランボとか入ってないし、背が高いグラス入りでもない。わたしの知ってるレモネードじゃない」
「じゃ、水だと」
「いや、レモンの味するんで……ごめんなさいレモネードです」
レモネードは、とっくに来ていたのだった。
何度見ても、見た目はやはり水。無色透明だ。
でも、飲むとさっぱりした酸っぱさに目が覚め、生まれ変わったように体がシャキッとし、汗が引く。
鼻を近づければ、爽やかで尖ったみずみずしい香りもする。
さっきの夢の彼――ジョンが待っていたレモネードも、これと同じものだったのだろうか。
ジョンはその後何回、レモネードを飲むことができたのだろう。
レストランに来る前、橋のたもと近くに、黒っぽい石碑が空に向かってそびえているのを見つけた。
刻まれている文章から、それは、先の戦争でこの村から出征し命を落とした人々を悼むものだと読み取ることができた。
石碑に足を止める人は、ほかにいなかった。
皆、橋やみやげもの屋、食べもの屋などに流れていく。
数十年前、ここゲレングラード王国と、わたしや連れ合いが生まれ育ったヤピアーネ共和国は戦争をしていた。
勝ったのはゲレングラード王国だ。
ヤピアーネ共和国は負け、あちこちが焼け野原になった。
この戦争で、わたしの祖母のいちばん上の兄と二番めの兄が、出征して帰らぬ人となった。
とはいえ、写真でしか見たことのない人々のことを、リアルに思い出すことはこれまでなかった。
でもさっきわたしはリアルにジョンで、村長やトーマスおじさんやローラと話をしていた。
ジョンとして過ぎ去った歳月を振り返り、ローラを見て言葉にならない感情で胸がいっぱいになっていた。
ジョンが戦争から帰ってこなかったとしたら、それは――。
ヤピアーネ共和国の人間が原因である可能性がかなり大きいだろう。
「おばあちゃん、あれお願いねー!」
会計のとき、わたしたちよりだいぶ若い、金髪を後ろでまとめた店の人が奥に向かって呼びかけた。澄んだ空よりやや冷めた青い目が、くるっと動いた。
ゆっくり歩いてきた銀髪の品がいい女性は、どこから来たのかとわたしたちに尋ねた。
「そう。ヤピアーネから来たの」
彼女は、大きな黒い目でじっとわたしたちを見つめた。まつ毛がかすかにふるえている。
言葉を尽くしても完全には表しえない感情が、またこみ上げてきた。
彼女を知っている。
彼女もこの気持ちも、ずっとずっと前から知っている、とはっきり思った。
銃声や爆音がとどろく中、土煙にむせながら塹壕に身を隠し、音が鳴りやんだすきに銃を持って躍り出たことや、撃たれたときの焼けつくような熱さと痛みも思い出した。
「遠い所からありがとう。また、来てね」
女性は、庭に生えている草花を押し花にしてつくったという栞をわたしたちそれぞれにくれた。
しわの一本一本に深みと気品が感じられる、これ以上ないくらいおだやかで、温かい笑顔とともに。
レモネードの強烈な酸味が、ふたたび体じゅうを駆けめぐる。