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目を瞑っていただけなのか、本当に眠っていたのか。空白は曖昧だった。いきなり肩を揺さぶる手に驚くほどに気をやっていたことは確かで、突然の刺激に身体は感電したかのように飛び上がる。
「よぉ」
痛みを覚える動悸と、血が巡りきっていない脳のまま、ジョーは覗き込む顔をまじまじと見つめた。
「マット?」
この地域では珍しい清潔なワイシャツにネクタイ。
「何してんの」
「それ、俺の台詞だよ」
マットは昔と変わらぬ歪んだ笑顔で手を差し出した。強く握られた手に思わず顔を顰める。あまりにも唐突な展開に、全く頭がついていかなかった。
爽やかさを全面的に押し出し、ビーチバレーに興じていたのは2年ほど前の話。群がる女達は本物と紛い物の見分けがついていたのだろうか。
ジョーが出会ったとき、マットはアイヴィーリーグの大学院生だった。夏休みに料理も女もお手軽なこの土地に羽根を伸ばしに来るというお決まりのパターンを彼も踏み、海風のぬくもりが消える予兆を感じるまで、軽率の仮面を被って楽しむのだ。ジョーの場合、ビーチを去ることは出来ず、軽率をすっかり身体に同化させてしまったが。
「びっくりした、住んでるの」
「いや、出張で」
「内定決まったって言ってた輸入業者?」
「ああ、イーストロード・カンパニー」
「そうだそうだ。我慢してMBA行った甲斐あったじゃん」
借り物の派手なシャツに一瞬不審の色を浮かべたものの、すぐにまた笑みを作る。
「おまえは?」
「ん、ぼちぼち。新聞社で働いてる」
本来ならまだカレッジボーイであるはずのジョーに突っ込むような無遠慮さは、勿論ない。
「懐かしいな、何年ぶりだろう」
「2年かな。俺が卒業する年だったから」
「そっか、もうそんな……」
左手に光るエンゲージリングに目をやると、マットは初対面のときと同じく、充足感をめい一杯漂わせた顔ではにかんだ。
「先月婚約したんだ。取引先の子」
「あぁ」
おめでとう、という笑顔が彼に負けないくらい爛漫なものであることを祈るが、おそらく幾分か沈んでいたに違いない。
「実は、彼女がベガスに行きたいって言い出してさ。今丁度シーズンオフだし、明後日から一週間休暇とって合流するんだ。ベラージオにいるから、よかったらまた連絡くれよ」
「『オーシャンズ11』の」
「そう」
映画で見たあの場所に、こうも自然な顔で泊まると言ってのける男を、ジョーは生まれて初めて目にした。 「で……こんなところで一体」
漏れるあくびを手で押さえるという上品な仕草をするのは、見事に感化されている証拠だ。正しくは順応か。どちらにしても、ジョーはこの自らの性質を気に入っていない。
「だから、それはこっちの台詞だって」
持って生まれた快活さで、マットは何の苦もなく清爽な空気を作り出してしまう。ビーチで半年以上肌を焼いた経験のあるものには絶対真似できない、健全な空気だ。
「ここ、うちの会社の土地だぜ」
「え」
清爽を通り越し氷点下にまで下がる体感温度。
「映画会社が売りに出してる土地って聞いたんだけど」
「ああ。正式な契約は来月からなんだけど、社長が不動産屋と顔見知りで、少し早く使わせてもらってるんだ」
ドアに身をもたせたまま首だけで広大な土地を見回し、満足げなため息を漏らす。
「港が近いからな。積荷を収納するのにもってこいなんだ」
「でも、ここらへんって結構道狭いし、不便だろ」
先ほど通ってきたとき要した配慮を思い出す。あれだけ寂れた住宅街だ。トラック強盗の巣窟になるのは目に見えている。
「知らないのか? 土地開発事業が入るから、だいぶ道も広くなるんだ。どうせ誰も住んでないしな、あんなとこ」
灯台下暗しとは上手く言ったものだ。ヴァルの迂闊さを呪う。
「ロングビーチ港ね」
「社会科で習っただろう、太平洋岸最大の貨物取扱量を誇るって」
どうすればこうも善良なままで自らの力を誇示できるのだろうか。
彼が何食わぬ顔で手にしていた土地に取り残され、かざりっけのない朗笑に被曝し、ジョーは作為すら出来ず腑抜けた声で追従の笑いを発した。
「便覧に載ってたな、確か」
そしてマットは、ジョーが今発した以外の選択肢を持っている事など夢にも思っていない。
内心の困惑を処理できぬまま、ジョーは気を落ち着けるため笑いに紛れて醒めた溜息を吐いた。
「休日出勤か、大変だな」
「そうでもないさ、それに、明後日からお楽しみだからな」
「羨ましいよ」
「3時半にトラックが来るはずなんだが、早く着き過ぎたみたいだな。編み物協会から頼まれた毛糸なんだけど、原価で一玉20ドルだぜ。一体何編むんだって話だ」
まずロレックスを覗き込み、次に入ってきたゲートのほうへ視線を走らせる。最後に、数十分前ジョーが散々汚し、今も秒単位で穢されていく倉庫を見上げた。
「掃除しときゃよかった。中、何も触ってないから」
受話器の向こうでボブがきぃきぃ声を上げている。ヴァルは一度送話口を手で押さえ、低く怒りを滲ませた声で何か一言叩きつけた。
「いつ来るんだ」
「予定では3時半らしいけど」
受話口から直に届く雑音と生々しい呼吸音におぞ気を感じ、ジョーは手触りの良い布の上から二の腕をさすった。
「今47分だろ、いつ来たっておかしくないよ」
ひさしが作る影ぎりぎりの場所にしゃがみ、苛立ち逸る手は雑草を抜いては積み上げていく。電話だと断りを入れるとき、自分は不審なそぶりを見せなかっただろうか。マットの返事や表情を確かめた記憶がないので、完璧だったとはいい難い。けれど、ポジションとしてはそこそこ良いところを押さえ込めたのではないかと思う。真正面には錆びたゲート、少なくともマットより先に来訪者を確認できる。
「したところで何か意味があるのか」
言葉に詰まる。その隙に浮かんだ自己嫌悪は、一瞬のちに倦厭にすり替わった。
「服着る余裕くらいはあるんじゃないの」
ジョーの諦観と同じ意の嘆息。
服を着たところで、聡いマットが事情を理解してしまうことは百も承知だった。カメラ。二人の女。犬。死体。その一部は不可抗力だったが、それを知っているのは第一発見者たる自分達以外にない。硬くて息苦しいカラーで締め上げたせいですっかり世間の常識に固まったうマットが、この状況を眼にして何を考えようと、末路は同じだ。私有地への侵入。違法なポルノの撮影。死体損傷。あちらこちらから舞い込む損害賠償請求。
大学で取った市民講座のようなレベルの法律入門の知識では、これらをあわせるとどの程度の判決になるのかは検討がつかなかった。
「ねぇ、さっさと引き上げよう」
指先についた泥を乱暴に擦り落とした。声のとがり具合をはっきり自覚する。
「ロジャー・コーマンなんだろ。今まで撮った分で何とかしろよ」
「あともう少しだって言ってるだろう」
ヴァルも負けずと刺々しい口調で返す。
「フェリーニ以来のデカダンス風に仕上げるには、あの最後が必要不可欠なんだ」
収容所、『死霊の盆踊り』、フェデリコ・フェリーニ。大いなる飛躍。
「15分で終わる。そうしたら、大急ぎで片付けて出るから」
「でも、入り口でマットが」
「適当なこと言って遠ざけろ」
舌打ちを一つ。
「トラックにでも飛び込んでその秀才君をちびらせてやれ」
「こちらハスラーの有料ダイヤル」
またコカインでもやったのか、ボブの声は不自然に興奮して上ずっていた。
「ただいまから実況中継を行います」
鼻音を効かせる気取った声は、フランス人のポン引きのようでこのくだらない映画の演出としてはなかなか似合っている。
「コリン、結局我慢したんだ」
携帯電話を肩と顎で挟み、ジョーは小さく笑う。
「ケッサク。ちょっと擦り寄ってきただけで飛び上がってさ。もっとも、しゃぶられてからはすっかり忘れたみたいだけどな」
ナズナの葉を一枚ずつ毟れば、爽やかな青臭さが鼻腔を擽る。爪を緑に染める汁が、車の中に残してきたリステリンを思い出させた。
マリアがどんな顔をして男のペニスを舐めたのか。あの赤い唇で、分厚い舌で。リチウムが効いてきたらしい。苛立ちが嘘のように消えていく。穏やかな精神では、大きく口を開けて頬張るマリアの像を上手く結べない。どうでもよかった。ジョーが嗅ぐ彼女の匂いは、健康的なフレッシュミントだ。
「で、バター」
「いや、普通にやる」
ボブも幸せそうに返した。
「ヴァルが持ち込んできたダンボールにあった秘密道具」
「そんなのあったっけ」
「おまえがさっき腰掛けてた木箱の近くにおいてあった奴だよ」
歌うような口調に、興奮した犬の鳴き声が被る。
「そういえば」
いくら頭を捻っても思い出せないが、至福感を途切れさせたくなくて適当に答える。
「ああ、あれの中に入ってたもの。ヒントは三つ」
ボブはまた貧乏ゆすりでもしているのだろう。ノイズはますます頻繁に入るが、気にならない。
「ひとつ、レズご用達。ふたつ、前にも使った。みっつ、男は本物をもってる。四つ。ベルトがついてます」
「四つじゃん」
「あー」
語尾は遠くまで伸びて消えた。
「いいじゃないの、そんなこと。で、答えは?」
「わかったわかった」
「そう、偽物のペニスをつけたわんころは、頑張ってる」
ジョーは自分で驚くほど大きな声で笑った。いつもなら眉を顰める言葉が簡単に耳を通り過ぎていく。舌はむしろ重く縺れているが、心だけは炭酸ガスでも入れたかのようにふわふわと浮き上がっている。状況としては今日一番危ないにも関わらず、頬が緩むほどのポジティブな高揚を感じていた。普段はなかなか見つからない言葉も、滑らかに出てくる。
「血は使ったの」
「ちょっと、な」
「効果は」
「うーん、まぁ、そこそこじゃないか?」
「メスでも効くんだ」
「みたいだな」
「今最中?」
「うん……」
数秒の沈黙。ボブの息遣いが空気を引っかく音になり電波に乗ってやってくる。
「今マリアが四つん這いになってる」
「犬は?」
「お前、なんでそんな犬ばっかり気にしてるんだよ。怒ってるぜ。相当無理してベルトつけさせたからな」
振動の後、周囲の音がより鮮明にこちらへ伝わってくる。
「今は……聞け」
ボブが電話を振り回す。切り裂かれたの空気の中に、様々な音が入り混じっている。ヴァルの指示、マリアの喘ぎ。一番大きいのは太い吼え声で、まるですぐ傍にいるかのように野卑な巨大さを持っている。ぎょっとして受話器から頭を離し、茫洋とした空気に耳を傾けた。倉庫の外には、聞こえていない。実際に映画を撮影していた場所だ。それなりの防音設備を備えているのだろう。壁一枚隔てているだけなのに、中の狂態は一分も漏れることがない。淡い疎外感を素直に表して唇を尖らせても、含み笑いだけで受け流された。
「聞こえた?」
「音は聞こえたけど、声は分からない」
「あー……ヴァルが犬の首を引っつかんで……上手いもんだ、さすが愛犬家、って、いっつもあんなことやってんのかな」
「それで」
「それで、そう、マリアの背中に乗っけた」
「背中」
「そう。で、あ……マリアが動いてるな。喜べ、お前の女は積極的だ」
「今積極的になられてもなぁ」
「自分から腰を、こう……前へ、後ろへ。相手はメス犬だしな。動けってのが無理な話だろ」
「顔は」
「犬のか」
「マリアに決まってるだろ」
「待て、今見るから」
ボブがスキップでもしている間に、ジョーは壁に凭れかかったままずるずるとその場に腰を落としてしまった。見上げた空にはとってつけたかのような千切れ雲がいくつか置いてある。空の色が濃い。もう太陽の絶頂は過ぎ、そろそろビーチのヌーディストたちもシートを丸めて退散の準備を始めている頃だろう。皮膚に当たると気に障った風もほのかにぬくもりをなくし、逆に気持ちよいくらいだった。
この柔和な気落ちが、せめて今日の夜眠りに落ちるまで続くことを、ジョーはまた不安の予兆を覚える心の中で切に願っていた。毎度の懇願が叶えられることはない。安定と不安定の周期は徐々に後者が優位を占めるようになり、憂鬱に慣れていった。
世界と心を上手くシンクロさせられなくなったのは、いつごろからだったか。そんな重要なことに限って、真っ先に忘れていく。
「いい顔してる。ああ、背中にほくろがあるんだ。脇のちょっと下」
延々と続くボブの電話案内を聞き流しながら、目だけはずっとゲートの向こうに注ぎ続けている。黄色い光に晒された鉄骨の看板からは「PICTURES」のRがなくなっていた。夢と現実の境目にはっきりとした線を引いていたそれは開け放たれ、抱えていた偽の夢を外界へ放つと引き換えに、容赦ないむき出しの現実を受け入れた。だから、このあたりは半分ネバーランドみたいになっているのか。話のつじつまは全部合う。
「覚えとく、暗闇でも誰抱いてるか分かるように」
「その点は問題ないだろ。レニーとじゃ脂肪が雲泥の差だ」
晴れ晴れとした気分にそぐわない低いうめきが鼓膜に届く。
「なに、なに」
「イった」
小さく口笛。
「これが演技だったらオスカー確実」
低められた声に、こん、と頭を壁にぶつける。たった一枚の壁を隔て、内側のマリアは犬に襲われ、外側のマットは噴水ショーの白昼夢を見ている。そして、ジョーはひんやりとしたコンクリートと同化寸前まで進んでいた。
「お」
頭皮に感じる硬さと冷たさの中から、ボブの絡んだ息が響いてくる。
「レニー、すっごい」
「交代した?」
「マリアは隅っこのほうで芋虫みたいに転がりまわってる。あ、演技だ、心配するな」
スクリプトのラストあたり。レニー、自らシェパードの下にもぐりこむ。
「服の上から見る以上にホットだぜ」
唾を飲み込む音まで聞こえてくる。
「やっぱりレニーの方がいい身体してる」
「でもマリア、バストもヒップも大きいし」
思わずムキになって言い返してしまう。
「そういうのをデブっていうんじゃないか、世間では」
「骨と皮のミイラみたいな奴抱くよりもマシだよ」
「結構。貧乳も時には悪くない。キーラ・ナイトレイとセックスしたい」
「ああいうのはまた違うだろ」
「とにかく、実物見たら絶対思うって」
ジョーのプライドごとさえぎる。
「自分から犬に足を絡めてる奴、初めて見た。いや、待てよ」
ボブは低く呻いた。
「マジかよ。尻のほう使ってやがる」
見つからないどころか言葉そのものが消失し、ジョーは目を閉じた。
「凄いな、こりゃ。フィルム買った爺さんも泣いて喜ぶぞ」
フェデリコ・フェリーニも地下で泣いている。
レニーが2回オーガズム。今、マリアを撮影中。仰向けになり、汗をたらたら流して、ローションまみれの縫ぐるみを股に挟んでいる。編集のとき、動物ドキュメンタリーの犬の出産のシーンと差し替える。どれだけリアルに女囚が犬の子を産んでいるように見せるかは、現代のロジャー・コーマンの腕の見せ所だ。
「ということで、もうそろそろトラックに飛び込む時間だ」
今まで見ていた夢をあっさり断ち切って、ボブは言った。
「まだ来てない」
今日何度目か分からない憂鬱の波に呑まれ、ジョーは吐息と共に答えた。
「じゃあ割と楽だな。例のマイケル」
「マット」
「そいつの注意を逸らすだけで良いんだから」
「でもさぁ」
いらだって人差し指を噛んだら、まだ土の味がした。唾を吐き出してもろくに飛ばず、口の中にねっとりとした感覚が残っている。
「絶対バレるって」
「バレねぇよ」
「その自信の出所がわからない」
「お前を信用してるってことさ、ところで」
都合の良い言葉を適当に発し、ボブは声をひそめた。
「その荷物の中身って、何なんだ」
「ボブ」
ジョーはため息をついた。
「もしあんたが倉庫泥棒しようって気で、実際にそこらのギャングスタ・ラッパーみたいにこそこそ箱を担いで出て行ったら、疑われるのは僕だし、僕は警察で乱暴なアイルランド訛りに晒されたとき、黙秘を貫く自信がないんだ」
「分かってる、分かってるって」
即座に苦い笑いが返ってくる。
「それに、売ったところですぐにアシがつくよ」
「だから何なんだよ」
「毛糸だってさ、一巻き20ドルの」
「うへっ、何だそれ」
全てが収まるまでこの場に蹲っていたい。無駄なことを考え、ジョーは勢いよく立ち上がった。
「どれくらいで出てくる」
「あと15分で撤収完了」
「『コンバット』みたい」
「そんな楽しいもんじゃないぞ、カービー上等兵」
確かにこれはドラマではない。ボブの口調には全く誠意がこもっていないし、ジョーのボルテージも最低だ。最大の違いは、ドラマならカメラから一歩外れれば周りがどんな状態か予想もつかないが、現実なら分かりきっている。民事訴訟。
尻についた泥を叩き落し、携帯電話をポケットに突っ込む。だぶついたシャツの隙間を通ってしつこい海風が肌を撫で、塩分だけ残していく。
終わったらまず食事だ。メニューに文句は言わない。そしてシャワー。ちゃんと温水が出るモーテルを選ぶ。希望観測、セックス。
+注意+
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