変えられる力があったら、自分ならどうするだろう?
*どこにでもいる少女*
退屈な日常。ありふれた環境。どこにでもいるような少女。やりきれない精神。どこにも行けないと嘆く心。自分には出来ない。誰かが羨ましい。見える全てがうっとおしい。
どこかへ行きたい。何にも出来ない。
こんな世界は大嫌い。
少女はいつもそう思っている。
世界はくだらなく、命もどうでもいい。
なくなってもかまわない――。
「くだらない」
彼女は呟く。手には鞄。学校から帰っていく途中だ。くだらないと言い、それでも毎日が過ぎていく。変わるものはなく、世界は自分とは程遠い。
誰もあたしを分かってはくれない。どれもあたしとは違う。だから自分は満足することはない。
だから世界はくだらない。
「つまんない」
つまらない日常。日々事件は起こるけれど、自分には関係ない。呟いて彼女は足元の石を蹴った。彼氏でもいたら少しは楽しいのだろうか。
でも、あまり興味は無かった。同級生は目の色を変えて恋人を探し、アレをしたコレをしたと騒いでいる。キスとか、それ以上とか。
雑音だ。
他人と触れ合うのがそんなに嬉しいのか。混ざってひとつになれるわけでもないのに。
すぐに別れるとか言うくせに。浮気された浮気したとかうるさいだけじゃないか。
人の心なんてすぐ変わる。信用できるものじゃない。
彼女は心からそう思っている。
人間なんてくだらない。つまらない。なくていい。違うのは、あたしだけ。
世界中であたしだけが、たった一つ違うもの。
何かが変わればいいのに。そうしたらきっとあたしがトクベツになる。
少女は自分から変えようとはしていないのに、都合よく考える。
彼女が愛しているのは自分だけ。
見えているのは自分だけ。
可哀想なあたし。誰にも理解されないあたし。誰もあたしを理解してくれない。
あたしのことなんて分からないんだ。
決め付けてしまっている彼女。彼女の世界には自分だけしかいない。ほかの人間は必要じゃない。閉じているのだ。何とも繋がらない彼女だけの世界。
誰にも理解されないと思いながら、理解されなくていいとも思っている。
だらだらだらだら。時間は過ぎていく。何の変哲もない、つまらない世界と、彼女は愛おしんでいなかった。
それが一番大切なんていう、ありふれた言葉は聞き飽き、彼女の中には残らない。
彼女にとって、世界は愛しいものじゃない。
*誰とも違う少女*
「あなたはそう思うのね」
空の高み、遥かな場所から細い声が落ちる。そこにいるのもまた少女だった。
だが、彼女はとても悲しい目をしている。聞こえてくるのは空っぽだと言う声。
中身がない、何にもない。わたしは違う。他とは違う。一緒にしないで。
つまらない。分かってくれない。分からなくていい。来るな。来て欲しい。分かってほしい。
そばに来るな。寄るな――っ!
「辛いのかしら。嬉しいのかしら。いらない、分からない、つまらないと言うのに、それでも何かが欲しいと思うのかしら」
白い手で、少女は自身がまたがる虎の背を撫でる。
「ねぇ、リュウ? ヒトはあなたのように、まっすぐに何かを為したいとは考えないものなのかしら」
虎の背には白い大きな翼があった。それはゆっくりと羽ばたき、風を切っている。
虎は自身の力で空を飛んでいた。自重から考えて、飛べるわけがない大きさの翼なのに、虎は空を飛んでいる。
そもそも虎が空を飛べるわけがない。だが、虎は飛んでいる。
少女はその背にまたがって、悲しい目で地上を見下ろしていた。
まるで神のようだが彼女は神ではない。彼女が空にいる理由は、空はまだ、地上よりは汚れていないからだ。
ヒトの声が届きにくいからだ。
ヒトは自力では飛べない。鉄の塊に乗らなければ空には届かない。
でも、やがて空もヒトのものになるだろう。ヒトはそれを望んでいるから。
この星を跳び越して、ほかのものまで手に入れたいと考えているから。
それで悲しみが減るのならかまわない。苦しみが減るのならいいだろう。
でも。
「リュウ、降りましょう? あの子の声が聞こえて辛いわ……とても痛いの。イヤね……こんな声が増えている。でも、似たようなことばかり。同じようなことばかり……ヒトは、全部が違うのにどこか似ているのね……」
彼女が虎の背をもう一度撫でると、虎は一声吼えた。彼女の意思が分かるのか、頭を下に向け、下降し始める。
翼持つ虎の背で、見る間に近付く地上を視界に、少女は呟く。
「わたしは、ただ静かに過ごしたいだけ……許して、くれないの?」
求める声が途切れたことはなく、彼女がそれに応えないこともない。
*どこにでもいる少女・菜穂と、誰とも違う少女・ありえ*
小さな家。両親が頑張って建てた家。何十年のローンまみれになりながら、やっと建てた小さなお城。
でも、彼女には牢屋としか思えない。
少女以外誰もいない家。彼女は一人っ子で、大事な大事な一人娘だ。
でも、両親ともに働いていて昼間は家にいない。孤独とは思わない。好きなことを好きなだけ出来る時間だからだ。うるさいことを言う親はいない。どうせ帰ってきたら勉強しろとか毎回同じことを言うだけだ。
傷のついたCDのように、繰り返し、繰り返し、雑音をうるさく騒ぐだけ。
うちの娘はいい子だから。
そんな風に他には言うくせに、家の中ではうるさく、あそこの子には負けるな、もっと成績を上げなさいと言う。
彼女は居間のソファに横たわる。くだらない両親。つまらない家。恋愛して結婚して子供が 生まれて、それでも幸せではないと泣く母親に、何が不満なんだと憤る父親。
あなたが相手だからでしょ?娘はいつも心の中で囁く。
お互いが相手だからでしょ?娘はいつも嘲笑っている。
納得できないのなら離婚したらいいのに、それすら娘のためにと言ってしない親。
うそつき。あたしのためと言って逃げているだけでしょ?
あたしのせいにしているだけでしょ?
周りには笑顔で自慢するくせにね。中身は空っぽなの。
「くだらない」
彼女はまた呟いた。あたしがこう言っていることなんて誰も知らない。
自慢できる娘なんてどこにいるのか。
あたしが笑っていることも知らないくせに。
「つまんない」
誰も要らない。必要ない。あたしはひとりでいい。ほかは全部無くなってしまえばいい。
「世界なんて、いらない」
何気なくテレビをつけた。映るのは夕方のニュース。また何か事件があったらしい。
でも、彼女は笑っただけだった。どれだけどこでヒトが生きようが死のうが、少女には関係ない。テレビ画面の向こう側の出来事だからだ。
「バカみたい」
世界は空っぽだ。
バサリ。羽音がした。聞こえてきた音は大きく、鳥の羽音とは明らかに違うのに、羽音だと分かった。少女はうっとおしげに窓のほうへ目をやる。
そこに、虎がいた。
真っ白い羽を生やした虎。大きな羽、大きな虎。ありえない光景。
「……なに、ソレ」
その背には、自分と同じくらいの年頃の女の子が乗っている。
「誰、あんた」
小さな庭だ。洗濯物を干すのがやっとで、園芸なんて到底不可能なくらい小さな庭だ。
こんな大きな虎がいられるスペースなどなかったはず。そもそも、どうしてこんなところに虎がいるのだ。しかも、羽の生えた虎で、背中に女の子を乗せている。
「ありえない」
住宅街の真ん中で、ごく普通の一軒家の小さな庭だったはず。
少女はよろよろと窓に近付いた。今何が起きているのだろう? あたしは一体何を見ているのだろう? そこまで考えて、少女は駆け寄った。
これは、非日常だ。ありえない光景だ。やっとそのときが来た。
あたしはトクベツになれる!!
がらりと窓を開ける。安物の窓がきしむくらいの勢いで。どうでもいい。壊れたっていいのだこんな窓。
だってあたしはトクベツなのだから。何かに選ばれたのだから。
「あなたは、だぁれ?」
虎の背にいる少女が、問いかけてくる。つまらないと呟いていた少女は即答した。
「あたしは菜穂。菜穂よ。ねえ、あんたはなに? 神様? それとも悪魔?もっとほかの何か?」
「わたしは『ありえ』見たままよ」
「見たままぁ? ……かえって分からないけど、ソレ」
虎の背に乗った少女は薄く笑った。どこか悲しく、優しく、そして儚く。
「あんたのことなんてどうでもいいや。ねえ、あたしを迎えに来てくれたんでしょ?」
少女――菜穂は嬉しそうに言った。この日常から逃れられるのならなんでもいい。
神でも悪魔でも、その誘いには迷わず乗るつもりだった。
連れて行ってよ。どこまででもいいから。こんな退屈な世界なんて要らないの。
「いいえ、違うわ」
ありえはそう答えた。迎えに来たのではない。彼女は神でも悪魔でもないのだ。
彼女の返答に、顔をしかめる菜穂。違う? 違うって何。こんな変な状況で、あたしを迎えに来たのではないのなら何をしに来たの?
「あなたは、世界を変える力があったら……何をするの?」
「はぁ?」
問いかけに、菜穂はもっと顔をしかめた。
「あんたバカじゃない?そんな力があったら、とっくの間に世界を滅ぼしてるわよ。あたしはこんなくだらない世界に生きていたくないもん」
「滅ぼすの?」
「……そうね、あたしだけ残して全部失くすわ。他は必要ないから」
「そう」
ありえは頷いた。そして両腕を広げる。そのちょうど中間に、丸く、透明な赤い色の球がふわりと浮かび上がる。どこから湧いたのか、宙に浮くその球体は、とても綺麗な赤色だった。
「あなたにあげるわ」
ありえはそう言って、その球体を菜穂に放った。咄嗟に受け止めた菜穂の手の中で、球はバラリとほぐれ、一枚の赤く透ける紙になった。
そ れを紙といえるのかは分からないが、菜穂が受けた印象は確かに『紙』だ。
「な、何よ、コレ?」
「世界のコトワリを書き換えるものよ」
ありえは即答した。
「コトワリ?」
「ええ。世界の決め事。ソレを書き換えることが出来るのが、わたし」
たいしたことではないように、ありえは言う。
「わたしはブースター。世界を書き換える者」
菜穂には聞いたことがない単語だった。ブーストとかいう単語なら聞いたことがあるけれど、『ブースター』?
知らない。
「なによそれ?」
「言ったままよ」
ありえはそれ以上説明する気がないようだった。
まるで常識だとでも言うように。
誰もが知っているとでも言うように。
「……こんな紙で何ができるっていうのよ?」
ありえの正体なんてどうでもいい。菜穂は考えを変えた。手の中に浮かぶ赤く透明な紙を見下ろす。紙が浮かぶなんてこともありえない。何か変な手品だろうか。でも、タネがあるとも思えない。だって翼の生えた虎に乗る女が出したものだ。
「あなたの思いをそこに書き込めばいい。注ぎ込めばいい。それであなたの世界の形は変わるわ」
ありえは悲しい瞳でじっと菜穂を見る。
「そんな簡単なものなの?」
菜穂は気付かない。自分の手の中にあるものが、世界を変えるものだというのなら、喜んでやってみようと思っている。くだらない世界。つまらない世界。無くなってもいい。いらない。
「そんなんで世界は終わるの? 簡単な物ねぇ、ま、世界なんてその程度のモンってことか」
菜穂は楽しそうに笑った。世界の命運が自分の手の中にある。
あたしが世界を消せる。トクベツなあたしが、あたしだけに出来ることだ。
彼女は世界を消すことしか考えていなかった。
自分以外を否定することしか考えていなかった。
誰かのために力を使おうなどとは考えてもいない。思いつきもしない。
「ねえ、それでいいの?」
ありえが問う。菜穂は即答した。
「いいわよ」
突然現れた少女を疑うこともなく、怯えることもなく、つまらない世界がなくなるのなら、くだらない世界がなくなるのなら、菜穂は喜んでそうする。
「もう一度訊くわ。ほんとうに、いいの?」
わたしは神でも悪魔でもない。“ほんとうに、あなたはそれでいいの?”
ありえの問いに、菜穂は見下すように笑った。
「あんたも要らないわ」
だってあたしの手の中には世界を変える力があるんだから。
菜穂は確信していた。手の中の紙。これは本物だ。触れたその瞬間に分かった。
これはあたしのものだ。このありえって女から、あたしに移った。
だから、ありえも必要ない。あたしだけがいればいい。
――赤い紙が光を発した。細かい文字が浮き上がっていく。それは菜穂の望み、願い。彼女が考えていることがそのまま文字になって、ひとりでに書き込まれていく。
“誰も要らない。あたしだけでいい。ほかには何もいなくていい!!”
世界に必要なのはあたしだけ。
赤い光が世界中に放たれた。
そして世界は変質する。少女が望んだままの世界へ。
*ハザマ*
――菜穂は一人、庭に立っていた。いまさっきまで目の前にいたありえという少女も姿が消えている。周りを見てみた。何の変哲もない自分の家の庭だ。
「……ありえないよね。バカみたい」
都合のいい夢を見ただけだ。あの女も何かの手品を使ってさっさとどこかへ行ったに違いない。
バカみたいだ。騙された。今度会ったらあの女にビンタくらいはしてやろうか。
とは思うものの、菜穂は実際会ったら何もしないだろう。自分から何か行動する少女ではない。
彼女が抱くのは不満だけ。それも自分ではどうにもしない。出来ないのではなく、しない。
面倒だからだ。自分以外の誰かがなんとかしてくれると思っているからだ。
自分以外はいらないというくせに。
菜穂は家の中に戻った。つけっぱなしだったテレビが砂嵐の画面に変わっている。
チャンネルを変えてしまったのかと、菜穂はリモコンを手にした。今の時間だとどうせニュースしかやっていないだろうが、砂嵐よりはマシだ。
「? 壊れたの? ポンコツテレビ!」
ザザザザザー。どこを入れても砂嵐だ。ヒトの声はしてこない。
テレビが壊れたのかと菜穂は考えた。いらついてテレビの側面を叩くが、画面は戻らない。
「ふっざけんな、このボロ!」
乱暴にスイッチを切った。親が帰ってきたら電気屋に言ってもらおう。
自分で何かするつもりはなかった。もう少ししたら母親が帰ってくる。面倒なことは全部押し付けるつもりだ。窓を閉めて、二階の自分の部屋に入った。その辺に投げ捨ててあった雑誌を拾って、適当に目を通す――つもりだった。
「……なによ、これ」
雑誌は白紙だ。何も書かれていない。昨日見たときは確かに、今人気のタレントが表紙で笑っていたのに、表紙も真っ白だ。ばらばらとめくる。
どこにも何も書かれていない。
愕然とした。冗談だろうと頭の中で呟く。
本棚を見た。好きな漫画の背表紙が並んでいるはず。全三十六巻だが、途中で集めるのがめんどくさくなって十六巻までしかない、その棚。
本はある。小さな単行本。でも、背表紙は真っ白だ。タイトルも、作者名も、出版社名もない。
一冊引っ張り出した。めくる。どのページも白、白、白。
何も書かれていない。
「なによ、これ……!」
菜穂はわめいた。
「冗談でしょ!あたしこんな世界を望んだんじゃない!!」
自分の意思で世界を書き換えた、その結果だと、彼女はようやく気がついた。
これは、あの紙に書き込まれた自分の望み、願い。
“ダレモイラナイ”
テレビが砂嵐だったのも、雑誌や漫画が白紙なのも。
菜穂以外のヒトが居ないからだ。
テレビを放送しているのは菜穂以外のヒトで、雑誌や漫画を書いて作っているヒトも菜穂以外のヒトだったから。
「ちょっと、待ってよ! ふざけないで、こんなのあたしは望んでない!」
叫ぶ菜穂の周りで、家具が次々と消えていく。
作ったのは菜穂ではないからだ。家具が消え、次は家の壁が薄くなってきた。
家。建てたのは菜穂ではない。
「うそ……!」
自分の足元が消えていくのを感じたとき、菜穂は絶望的に呻いた。下の階が透けて見える。
ここは二階だ。
体が浮いた。一瞬の浮遊感の後、彼女は足から地面にたたきつけられる。
「いた……やめてよ……こんなの、冗談でしょ……?」
何とか起き上がるが、足が動かない。右足首が変に曲がっている。折れたのか。
目をやる菜穂の視線から、はいていた靴下が消えた。
「うそ!」
身体を覆っている制服も消えていく。
服を縫ったのも、材料になる布を作ったのも、菜穂ではないのだ。
「やだ、ちょっと、待ってよ!いや!!」
消えていく制服を何とかして掴もうとするが、ままならない。
下着まで消えてしまってから、菜穂は絶叫した。
「こんなの、いやだぁ!!!」
……夜が来た。月のない夜だった。菜穂は足の痛みに呻きながら、誰かが来るのを身体を丸めて待っている。周りに残っているのは植物や土だけ。人工的なものは全て消えてしまった。
「……作ったのが、あたしじゃないから、みんな消えた……」
母親は帰ってこなかった。父親も帰ってこない。
誰の声も聞こえない。風が木々を揺らす音だけが、音だ。日が落ちるまでは鳥が鳴く声や音がしていたが、日が暮れてからはそれもない。
車が走る音もない。闇を照らす街灯もない。誰かが歩く音もなく、声は菜穂の物だけだ。
気が狂いそうだった。
いや、遠からず狂うだろう。間違いなく発狂するだろう。すでに少女は壊れかけているのだから。
「はは、あははは、はははは」
うつろに笑い、菜穂は周りを見た。
「ねぇ、いるんでしょ!? 見てるんじゃないの!? こういう場合、大体誘惑してきた悪魔が見守ってるのよね!? あざ笑っているもんでしょ!? ねぇ、ありえ!!」
声は返らない。
「ありえ!! あんたやっぱり悪魔なんでしょ!! あたしにあんなコト言って、こんなことさせて楽しい!? 笑ってるんでしょ!?」
菜穂はありえを悪役にした。自分が望んだ世界だということを忘れ、ありえが誘惑したからこうなったと決め付けた。
彼女は自分を神でも悪魔でもないと言っていたのに。
誰もいらないといったのは自分だと、覚えているのだろうか。
「神様……! 助けてよ!! あたしが何をしたって言うの!?」
ああ、あの赤い紙さえあったら。
もう一度書き換えるのに。
救いが欲しいと少女は思った。漫画や小説なら、ここで主人公には救いの手が差し伸べられるはずだ。悪魔が笑っているのなら、神様が助けてくれるはずだ。
“誰カガ助ケテクレルハズダ”
彼女以外には誰も居ない世界で、彼女は救いを待っている。
けれど、自分以外は誰も居なくていいと思っていた少女が作り出した世界に、神も悪魔も居るはずもなく。
いつまで待っても救いの手は来ない。
「……赤い紙をちょうだい……! あの紙さえあれば……!!」
喋っていなければ自我を保てない。何か言葉にしていなければ壊れてしまう。
広い広い世界の中で、菜穂は熱に浮かされるように呟く。
あの赤い紙をください。もう一度世界を変えさせて。
あたしが望んでいたのは、こんな世界じゃない。
頭を抱えて首を振って、全部を否定して、それでも世界は戻らなかった。
「なんでよ!? 作ったヒトが否定すれば元に戻るんじゃないの!?」
泣き喚きながら周りを見る。真っ暗な闇が広がるだけだ。人工的な明かりもなく、月さえない夜がこんなに暗いものだと、菜穂は知らなかった。家の近くにあった街灯が明るすぎて眠れないと文句を言っていたのが、幸せなことだったのだと思い知った。
「ねえ、ありえ!! 赤い紙をちょうだい!! 聞こえているんでしょっ!?」
すがれるものはありえと名乗ったあの少女だけだ。大体あの女が来なければこうはならなかった。菜穂は不満を抱いたまま、それをどこにも出すことはなく、偽りだと思う平和な日常を過ごしていただろう。
いつか爆発していたかもしれないが、それでもこの状況よりはマシだ。爆発してもぶつける相手すら居ないこの世界よりはずっとマシだ。
「分かったから……幸せだって分かったから……もとに……戻してよぉ……ッ!!」
ヒトは一人では生きていけない、なんて、菜穂は鼻で笑っていた。
そんなわけがない、あたしは一人で生きていけると思っていた。
だが、この現実はどうだ? 菜穂は一人で泣くだけだ。
怪我をした足を手当てする方法も知らず、知っていたとしても道具がない。
裸の身体をすくめて叫ぶだけしかしていない。できない。
泣いて反省しても、世界は戻ってくれなかった。
すでに変質してしまっている世界は、菜穂の甘えを許してくれない。
これは彼女が望んだことだからだ。赤い紙は一枚だけ。それを作り出せたのはありえだけ。
菜穂には何の力もなく、これは現実で、お話の中の世界のように都合よく助けが来ることもなかった。
何故ならば、菜穂は『ありえの存在まで拒絶してしまったから』だ。
だからありえはここには現れない。赤い紙も作り出せない。
世界は元に戻らない。菜穂は永遠に一人だ。
せめてありえの存在を容認していたら、何かが変わったかもしれない。
菜穂はもう一度世界を書き換えられたかもしれない。
けれど、もはや叶うことがないお話。
やがて夜が明ける。ヒトの声はない。昨日までしていた鳥の声も消えている。這いつくばって菜穂はどこかへ進みだした。どこへ行けばいいのか本人も分かっていない。
足が痛い。服がないからとても寒い。
喉が渇いた。おなかも減っている。
でも、何もない。
菜穂はうつろな瞳で這いずる。
どこかへ。
どこへ?
*変わらない*
「ただいま」
「おかえり、お父さん。今日もお疲れ様」
「お帰りなさい、お父さん、もうすぐご飯できるからね」
何の変哲もない家族の会話。
「今日は珍しく菜穂がおかず作ってくれたのよ、お父さん」
「おお、楽しみだな。何が出てくるのかな、ちゃんと食べられるのか?」
「……おとーさんは食べなくていいよっ」
「冗談よ、菜穂。お父さん楽しみで仕方ないんだから」
「ははは、すまんすまん」
「もー、全部食べないと許してあげないっ」
仲睦まじい家族の会話。
*ありえ*
「でも、あなたはこれを望まなかった」
虎の背で、空中から、少女は見下ろす。そこにはごく普通の一軒家が建っている。
窓から明かりがもれ、かすかに聞こえる会話は明るく幸せそうだった。まるで理想を描いたかのような会話。
「でも、あなたの代わりはいる……」
カーテンの隙間から見える少女は先ほどありえが会った少女とは違う顔をしている。
だが、彼女も『菜穂』だ。世界から消えてしまった菜穂のかわりに、世界が生み出した代替品の『菜穂』。
家族は娘が変わったことに気がつかない。世界自体が修正されたから。
菜穂が願ったことは、世界と自分を切り離すことだった。
だから、世界から消えたのは彼女のほうだ。彼女は彼女だけの世界にいる。
「これで、幸せ?」
ありえは呟く。彼女はこの世界から消えてしまった。
コトワリを覆そうとしていくつも存在するハザマのひとつへと行ってしまった。
ありえは腕を広げる。そこに現れるのは透明な赤い球。
世界を書き換える力。
コトワリもハザマも関係ない、彼女だけの力。
もう菜穂の声は聞こえない。ここにいる彼女は『菜穂』で、菜穂ではないから。
空ろに、でも激しく、何も要らないといいながら何かを求めていた少女の声は聞こえない。
「還ってきたいと望むのかしら。それとも満足しているのかしら?」
ありえは呟く。そうして『球』を『面』に変えた。
この『球』は“存在”の『意味』だ。
球のままだと何も変えられない。あるがままの世界のままだ。
だが、ありえはそれを『面』にする。
そこに、菜穂の姿が浮かび上がった。ここにはいない彼女は、ひたすらにどこかへ行こうとしている。
彼女の中には何も無くなっていた。だから、ありえにも何も聞こえてこない。
「……これも、何かを得たということになるの?」
それとも、何もかもを失ったということだろうか。
ありえは『面』を閉じた。もう菜穂からは何も感じなかったから。
「リュウ、行きましょう?」
虎は翼を羽ばたかせた。
地上からは、幸せな家族の声がかすかに聞こえてきていたが、それもわずかの間だけだった。
*BとBQ・長月とありえ*
バサリ。羽を羽ばたかせ、宙をかけてゆく虎。
その背には年若く、でも悲しい瞳をした一人の少女。
「やあ、ありえ」
宙を行く彼女に、声をかけるのは一人の青年。彼は雲の上に立っていた。
ありえは虎の背を軽く叩いて止まってもらう。
「久しぶりだね、BQ?」
「そう呼ばれるのは好きじゃないわ。長月」
ありえは軽くため息をついた。BQ―――ブースタークィーン。そう呼ばれるようになったのはいつからだったろう?
「そうだったね、でも、君は特別だから」
長月と呼ばれた青年は笑んだ。ありえは無表情で答える。
「そうでもないわ。あなたたちの思い込みよ」
「いいや、違うよ。だって君には制限がない」
青年は言いながら腕を広げる。その間の空中に、ふわりと浮かぶ透明な緑色の球。
彼もまた、ありえと同じような力の持ち主なのだろう。
球が『面』になり、それに文字が書き込まれ、青年が乗っている雲が形を変えた。
雲は真っ白い馬になり、青年を背に乗せる。
「僕は雲を変化させられるだけ。それもこうやって乗れたり出来るのは僕だけだ。食べ物の形に変えても、食べられるのは僕だけ。雲にだけ、僕にしか適用されないブーストなんて、ほとんど意味がないだろう?」
「でも、あなたはそれを楽しんでいるわ」
ありえが指摘するとおり、青年、長月は楽しそうだった。
「まあね、僕にしか当てはまらないとはいえ、遊び用はあるからね……残念なのは、これを誰かと共用できないことだけど」
苦笑して、長月はありえの乗る虎に目を向けた。
「君のように、相棒と一緒にいることもできやしないよ」
雲の上で、長月は一人だ。彼は地上に戻れない。雲の上にしか、彼の居場所はないからだ。
雲の上、一人で雲を変え、一人で過ごし……もうずっとひとりだ。家族も友人も、雲の下にいる。地面に足をつけている。
「さびしい?」
ありえが首をかしげる。長月は首を振った。
「戻れないのは分かってるからね。利用しようとする連中がいるのはいやってほど知っているよ」
雲と僕にしか通用しないのにね、と長月は笑った。
いつも、いつだって、彼らは追われる立場だ。
世界を書き換えるその力、ブーストを持つ限り、彼らブースターはいつも追われる。
「この力がなければいいと思ったことはあるけれど、なくなった自分も考えられないし」
長月は達観しているようだった。
「そう。それも生き方ね」
ありえは頷き、長月の生き方を否定はしない。彼女はいつも否定しない。
どんな生き方も、考え方も、ただ、問い、見ているだけだ。
彼女は神でも悪魔でもないから。
ただ、ヒトの呼びかけに応え、それに応じて『面』を渡すだけ。
最初からそう生きることを決められているかのように、いつもそれを繰り返すだけ。
「ありえ、最近もブーストしているのかい?」
「ええ。女の子の声がしたから、行ったの」
ありえは淡々と菜穂の話をした。なんの共感もなく、実際に起こったことだけを簡潔に。
世界を否定してしまったせいで、世界と切り離された少女の話を。
「……その子はその狭間に行ったきり?」
「ええ」
「そうか。可哀想にね」
長月はそう言っただけだった。ありえに少女を戻せとも、返せとも言わない。
「そうね、可哀想ね」
ありえもそう答えただけだ。少女を戻す気も、返す気もない。
だってそれは彼女が望んだことだからだ。
何よりも強くそう望まないと、ありえには届かない。
そう望んでいたからこそ、ありえに声が届き、彼女は菜穂の元を訪れた。
彼女の思いは叶ったではないか。
ありえは神でも悪魔でもないから、その後のことにまで責任は持たない。
ありえは聞こえてくる声が痛くて辛かったから、声の元を消そうとしただけだ。
菜穂の呼びかけに応えただけだ。
責任など、どこにもない。
彼女は世界のコトワリの外にいるのだから、コトワリで計ろうとしても意味がない。
そのコトワリですら、書き換えてしまうのだから。
彼らブースターの力、それをヒトは奇跡と名付けて勝手に追うのだけれど。
「ああ、そう言えば、ヨーミがありえを探していたよ。会えたら伝えてくれと言っていたな」
菜穂のことなど忘れたように、長月は言う。ヨーミ、彼女もブースターだ。
「ヨーミ? わたしに何の用事かしら」
「さぁ……用件までは聞かなかったよ。でも、ありえにしか出来ないことを頼もうとしているのかもね」
長月は苦笑して、過去の出来事を思い返した。
「……また、どこかのヒトに惚れて、そいつを不老不死にしてくれとか言い出すかもしれないよ」
ありえも淡々と言い返す。
「すぐ飽きるのに」
「あはは、彼女惚れっぽいしね」
「懲りないのね、ヨーミは」
「彼女はそういう人だからね。僕が僕で、君がありえであるように」
「……そうね」
ありえは頷き、ふと顔を下に下ろした。
雲が広がる下から、また声がする。
「呼ばれているのかい?」
「そうみたいね」
「今度はどこ?」
「分からないわ」
ありえは虎の背を撫でた。応じるように虎が吼える。
「呼んでいるのはヒトかな? それとも君の相棒のように、動物かな」
「分からないわ」
行ってみないと分からない。
「リュウ、行きましょう?」
虎は翼を動かし、宙を蹴った。瞬く間に長月の視界から少女と虎の姿が消える。そんな速度で移動できるのは、虎をブーストしたのがBQのありえだからだろう。
長月がいくら全力でブーストしても、あれだけのものにはならない。
それがBQと普通のブースターの差だ。
「すごいな、さすが、ありえ」
長月は呟き、雲で出来た馬の腹を蹴った。
馬は長月の意志に反応して走り出す。やはりありえの相棒ほどの速度は出ない。
長月は楽しそうに笑った。
「ありえはいつも世界に応えるけれど、世界は僕たちを必要としているのかな?」
地上に戻れない彼の声は雲の間に溶けていった。
かえられるちからがあったなら、じぶんならどうする?
*名もない花*
風に揺れる小さな花。名前があってないような花。アスファルトの上に咲く、小さな花。
花は泣いていて、花は唄っていて、花は笑っていて、花は呼んでいた。
誰を?
誰かを。
バサリ。翼の音がして、小さな花の前に少女を乗せた虎が舞い降りた。
翼の生えた虎。ありえないもの。
花は言う。
”いいな。いいな。とべていいな”
風に揺れながら言う。唄うように言う。
”わたしもいきたい。とんでいきたい。
いつもわたしをみてくれる、あのこのところへ”
花は泣く。
”あのこがこない。きてくれない。おひさまがのぼっても、おつきさまがかおをみせても。
わたしはまっているのに、きてくれない”
花は笑う。
”だからあのこのところへいこう。
あのこがこられないのなら、わたしがあのこのところへいこう”
花は呼んでいた。
”ちからをちょうだい、ぶーすたーくぃーん。わたしはあのこのところへいくの”
昼も夜もかまわず、花はありえを呼んでいた。
その声がありえに届くまで。
そして、声は届いた。
「……あなたは、世界を変える力があったら……なにをするの?」
虎の背の少女に問われ、花は迷わず答える。
”あのこのところへいくの”
風に揺れながら、ゆらゆら揺れながら、花は迷わない。
”わたしをかわいいといってくれたあのこのところへいくの”
道端に咲く、小さな花。小さな願い。自分では動くことが出来ないから。風に舞うことも飛ぶことも出来ないから。
ただ、あの子のところへ。
それは小さな恋に似て、強く愛のようだった。
「そう」
ありえは頷いて、腕を広げた。透明な赤い球が表れる。
「あなたにあげるわ」
透明な赤い球は、花の花びらの上でバラリとほぐれた。
花は喜ぶ。
”ありがとう、ありがとう。これでいける、あのこのところへ”
「ねえ、それでいいの?」
ありえが問う。花は答えた。
”いいの、いいの。こうしたかったの”
「もう一度訊くわ。ほんとうに、いいの?」
神でも悪魔でもない少女に訊かれ、花は答える。
”いいの、いいの。これであのことまたあえるなら”
『面』に花の思いが書き込まれていく。世界を書き換えていく。
“あのこにあいたいの。あのこにあいにいきたいの”
赤い光が放たれて、小さな花の願いどおりに世界は変質した。
*ねがいのはて*
ありえの目の前、翼生えた虎・リュウの足元には小さな花。枯れ果ててしまった、名もない花。
“おはなさん、かわいいね”小さな子供が言ってくれたその言葉を喜んで、その子が来ることをずっと待っていた小さな花。
毎日のたったひとこと。それだけで、その子を愛した小さな花。
花は知らなかった。
あの子が遠いところにいってしまったことを。もう決して戻っては来られないところにいってしまったことを。
花は待っていた。
あの子が来るのを、毎日、毎日―――お日様が沈んでお月様が昇って、お月様が沈んでお日様が昇っても。
花は決心した。
あの子が来ないなら、自分が行こう。
花は知っていた。
世界のコトワリを変えられる存在のことを。
訪れた少女に、花は願う。
あの子の所に行きたいの―――。
花の、願いは。
「これで、幸せ?」
ありえは小さな花に問う。一瞬で枯れてしまった花に問う。
あの子のところへいってしまった花に問う。
答えは返らなかったけれど。
「……これも、何かを得たということかしら」
アスファルトの上に咲いていた花は土にも帰らない。
道行くヒトにはただのゴミ。
それでも、花は満足したのだろう。きっと何かを得たのだろう。
だって、花は嬉しそうに唄っていた。
“あのこにあえるの。もういちどあえるの”
素朴な花、小さな願い。ヒトとは違う、小さな想い。
ヒトではないのに、ヒトを愛しみ、ヒトのところへいってしまった。
小さな花。
「リュウ、行きましょう?」
ありえは虎の背を撫でた。虎は翼を羽ばたかせ、空に戻っていく。
間近の虎の羽ばたきで、枯れた花はちぎれ飛んだ。
そうしてどこかへ消えていった。
風に揺れる小さな花。誰も覚えていない花。
名前もない、そんな花。
……変えられる力があったなら?
*谷間の水*
水は言った。こんな窮屈なものをヒトが作った。
だからわたしは流れることが出来ない。
留まってしまう。どこにも行けない。行くべき場所、行かねばならない場所があるのに。
水は怒っている。
流れていなくてはならないわたし。
それをせき止めるヒト。
たまたま通りがかった、羽ばたく虎に乗る少女に、水は訴える。
力を貸してはもらえないか、ブースタークイーンよ。ヒトのような体をもち、ヒトではない力を持つのならば、ヒトの創ったコトワリを変えてくれ。
わたしを留めるこれを取り去ってくれ。
憎しみのような怒りと、悲しみのような憤りを、水は彼女に訴える。
「それはコトワリではないわ」
彼女は告げる。
「ヒトの創るものにコトワリはないの。だからそれはコトワリではないわ。あなたの力で覆せるものよ」
ヒトはコトワリには敵わない。決して敵うことがない。だからそれはコトワリではないのだと、少女は言う。
成程。水は納得した。
ではこれは、わたしが壊せるものなのか。
水は唸る。大気が震え、空には雲が渦巻き始めた。水に呼ばれたものが唄う。
雲の中で喉を鳴らすように唸り、輝く。ヒトはそれを稲妻と呼んだ。
ああ、壊そう。
空と地面で共に歌いながら、唸りながら。
ヒトの創ったものなど、脆いのだ。
豪雨が降る。地面に溜まる水が呼んだ水が降る。
ヒトが作ったものを全て壊して、わたしはゆこう。
ゆこう、ゆこう。
水が渦を巻いた。ヒトが作った騒音が、山々にこだまする。
“ウ〜ウ〜、ウ〜ウ〜”
“だむノ水ヲ放出シマス。近クニイル方ハ、大至急、避難シテクダサイ”
水にはたわごとにしか聞こえない。雑音にしか聞こえない。
ヒトの作ったものなど、くだらないものだ。
さぁ、壊そう。
水は唸りをあげてヒトが作った自分を留めるものに体当たりした。
さぁ、ゆこう!!
ヒトが作った固まりが壊れる。水は歓喜の声を上げて流れ出した。
轟々、轟々、すさまじい音を立てて進む途中、水の中に入っていたヒトがいた。
水は迷わずヒトを呑み込んだ。
ヒトよ、お前たちがわたしを留めた。わたしは流れていなくてはならないものなのに。
ヒトよ、わたしを留めたお前たちをわたしは連れてゆこう。
わたしは流れていなくてはならないと、お前たちに思い知らせてやるために。
さぁ、共にゆこうではないか。
大いなる始まりの場所へ。
罪深いお前たちさえも、わたしは連れて行ってやろう。
たどり着いた場所で、許しを請うがいい。
わたしはお前たちを愛してはいないが、大いなる場所ならば許すやもしれない。
許されることを祈れ、ヒトよ。
進む度に、何人ものヒトを呑み込みながら、水は体内のヒトに語りかける。
ヒトが水の中で息を止めても、それが『死』だと水は気がつかない。
水は流れている限り死なないからだ。
何度も何度も生き返るからだ。
大いなる場所にたどり着き、そこから宙に溶け、天に上り、また降り注ぐからだ。
だから水には分からない。ちっぽけなヒトの命など。
水には分からない。
ヒトは、水の言葉など聞き取れないということも。
虎の背に乗る少女は激しい雨風にも揺らがずに、喜びの声を上げて流れていく水を見下ろしている。水の中に巻き込まれたヒトを、悲しい瞳で見下ろして。
「……それでも、ヒトはまたあなたを留めるわ。何度でも、いつまでも。そうやって……生きてゆくのよ」
語りかけてきた水はもう彼女の視界からは遠い。でも、どこかで途切れることもない。
「次に生まれるあなたは、人に対してどう思うのかしら?生まれるたびに考えの変わるあなたを、ヒトは必死で留めようとする……そのたびにあなたは違うことを言うわね。いつも、いつも、あなたは違うモノだわ」
流れる水に固定された考えはなく、ヒトがそれに気付くこともない。
だから、水は水なのだ。
「さよなら。でも、きっとわたしはあなたとまた会うわ。今のあなたとは違うモノでしょうけれど」
水は水。いつも水。
虎が羽ばたき、その場から少女と共に姿を消しても、水は水。
いつも、水。
*ありえ*
星空の下、ありえはリュウと二人、雲の上に座っている。
今夜は静かだ。声もない。
雲の切れ目から地上が見えた。夜なのに明るい光が輝く。
ヒトは闇を恐れる。だから光で照らしている。
もっと濃い闇を作り出していることにも気がつかないで。
「ねえ、リュウ。ヒトってなんなのかしらね……」
コトワリに縛られているヒト。それがイヤだといいながら、ハザマでは生きていけないヒト。
自分のことしか考えられないヒトがいて、ヒトのことしか考えられないヒトもいる。
そんなヒトを、愛するモノも嫌うモノもいて、世界はひとつではないのだと知る。
ありえは微笑んで虎の背を撫でた。
「いつか分かる日が来るかしら?」
それまで彼女は続けるのだろう。声に応え続けるのだろう。
たとえば世界が滅ぶ日が来ても。
彼女は変わらず訊くのだろう。
世界を変える力を貸し与えて。
「それでいいの?」
「ほんとうにいいの?」
ありえは神でも悪魔でもない。
だからこそ、訊くのだ。
「これで、幸せ?」
まるでそれが、彼女が生まれた理由のように。
――世界ヲ変エラレル『力』ガアルノナラ、アナタナラ何ヲシマスカ?
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