鼓動走る
隣の席の松尾さんは、とても大人しい子だった。
学校にいる間はほとんど一人でいて、授業以外で声を聞くことは滅多にない。
ただ、話しかけられればごく普通に返事をしている様子から、人が嫌いだとか苦手だとかいうわけではなくて、単に一人が好きなのだろうと思った。
まぁ、そんな様子を知ったのも、つい最近のことだ。
松尾さんは本当に目立たないから、僕が彼女の観察を始めるほんの一週間前まで、隣の席に座っているというのに名前すらろくに思い出せやしなかった。
本当に、その程度の薄い認識しか持っていなかったんだ。
ずっと無いものみたいに扱っていた彼女に唐突に興味を持ったからには、そこにはやっぱりと言うべきか、きっかけがある。
もちろん、ただの中学生の身である僕らなのだから、そんなに劇的な出来事があったわけじゃあない。
単に、一週間前の放課後に、古墳を囲むように作られた森公園で、偶然ジョギングをしている松尾さんに出くわしたというだけの話だ。
走るのに夢中だったのか彼女が僕に気が付くことはなかったけれど、いつもは無表情でぼうっと外を見ているような子が、いかにも楽しそうに微笑んでいたのがすごく印象に残って……それで、その日から彼女のことが気になるようになった。
あの時の笑顔が頭に焼き付いて離れなくて、松尾さんという存在から目が離せなくなったんだ。
好きなのか、と聞かれたら、正直分からない。
だって、僕は彼女のことを何も知らないし、彼女だって僕のことを何も知らないんだ。
ただ、知りたい、とは思うようになった。
あの日から今日までの一週間、どれだけ観察を続けても彼女が僕の存在に気が付くことはなく、また、学校における彼女の行動はひどく単調で、そのうちに僕の中の何かが物足りないと感じるようになってしまった。
おそらくこのまま松尾さんを見続けても、自分が知りたいと思った彼女のことは何も分からないんじゃないかって、そんな風に考えて、僕はその翌日からあることをしようと決心した。
ちなみに、松尾さんがジョギングしていた例の場所には、あれから一度も行っていない。
多分あそこは彼女の完全なプライベート空間だから、踏み込むにはまだ早いと思ったんだ。
順番に、慎重に、僕は人付き合いの基本、挨拶から彼女との関係を始めることにした。
朝、松尾さんは遅刻こそしないけれど、いつも時間ギリギリに登校する。
普段通り席に着いた彼女に、僕は「おはよう」と一言声をかけた。
彼女はこれまで一切関わってこなかった僕に突然挨拶をされたのが不思議だったのか、小さく首を傾げながらも「おはよう」と返してくれる。
それだけのことなのに、ごく普通のことのはずなのに、何だか妙に気分が高揚した。
仲が良いわけでもない男子から急にベラベラ話しかけられても気持ち悪いかもしれないから、しばらくはこれだけだ。
あと、周囲から下世話な勘ぐりを入れられて変な噂になったり、茶々を入れられたりしたくないって理由もちょっとはある。
続けて四日目には、松尾さんが首を傾げることはなくなった。
その日から、朝だけじゃなくて帰りに「さようなら」と言うことも追加した。
彼女は当たり前のように「さようなら」と返してくれた。
まだこの程度なら、クラスメイトに囃し立てられることもない。
上々だ。
それから二週間が経った辺りで僕と松尾さんはゴミ捨て当番となり、例の日から初めて彼女と二人きりになる機会が訪れた。
これは、またとないチャンスだ。
ゴミ捨て場付近に人気がないことを確認して、僕は勇気を振り絞って松尾さんに話しかけた。
「あの、前に松尾さんが森公園で走ってるのを見てさ、ちょっと聞きたかったんだけど」
「あぁ、うん。なに?」
彼女は特に気負うこともなく頷いて、次を促してくる。
さぁ、質問タイムだ。
いつもあそこで走ってるの、走るの好きなの、陸上部には入ってないの、大会とか出てるの……なんて色々考えた僕だけど、そんなこと空しく勝手に口から出てきたのはこんな質問だった。
「どうしてあの時、笑っていたの」
それは、僕が彼女から目が離せなくなったきっかけ、この気持ちの原点だった。
対する彼女は、ごく自然にこう答える。
「……好きだから」
「走るのが?」
反射的に聞き返していた。
その後、珍しく饒舌になった松尾さんの言うことには、すごく開放された気分になる、ということらしい。
走って、走ることだけに集中して、無心になって、その瞬間、自分が人間だってことすら忘れて、この世のしがらみの何もかもから解き放たれて、最高に良い気分になれるのだとか。
あと、走った後の筋肉使ったーって感じの爽やかな疲れも好きなんだって。
走るという行為をただ苦しいとしか思わない僕には、到底分からない感情だ。
でも、そのことを説明する松尾さんは学校では珍しく楽しそうにしていて、それが嬉しくて、僕もつい笑ってしまったのだった。
どれだけ時が経っても松尾さんは学校では相変わらずぼうっとしていて、僕はそんな彼女に折を見ては質問を繰り返した。
放課後も休日も、彼女は毎日あの森公園を走っているらしい。
あ。でも、ちゃんと雨の日はお休みするって。
ジョギング用に地面が整備されていて、一周辺りの距離もちょうど良くて、家から近くて、いっとう気に入っているコースなんだとか。
部活はノルマとか人付き合いとかが必要になるから、それが面倒臭くて入っていないみたい。
大会はたまにだけど出るらしい。
上位に入れたりするわけじゃないけど、途中棄権はしたことがないから、それだけは自慢だって言ってた。
あんまり人目につかない場所で、周りを気にしながら慎重に話しかけてたから、たったこれだけ聞くにも随分と時間がかかってしまった。
そんなこんなで月日は流れて、あっという間に三学期だ。
そして、それが過ぎれば進級、クラス替え。
このまま松尾さんとクラスが別れてしまえば、今のように話しかけることさえ出来なくなってしまうのかもしれない。
微妙な焦りを覚えながらも、僕はいつも通りの簡単な質問だけを彼女に投げかける。
特別なアクションを起こす勇気は出なかった。
まれに話をする程度の同級生ごときが、一体何を期待しろと言うのか。
「ジョガーって知らない人同士で挨拶し合うみたいなイメージあるけど、松尾さんはジョギングしてて仲良くなった人とかいるの?」
「うん、いるよ。
さすがに同年代はあまりいないけど、高校生からご老人まで色んな人と仲良くなったよ。
みんな走ることが好きな人たちだから、話してて楽しいの」
「……ふぅん、そっか」
「足立くん?」
その人たちは僕の見たことのない活き活きとした彼女を知っているのだろうと考えると、毎度のように笑って話を聞いてあげることなんか出来やしなかった。
次の瞬間、ふっと脳内に浮かんだ嫌な想像に、さらに僕は苦虫を噛み潰したかのような酷い表情になってしまう。
「……それってさ、当然男の人もいるんだよね?」
「そりゃあ」
「ねぇ、松尾さん」
「なに?」
「付き合いたい」
「……え?」
気が付けば言っていた。
高校生の男の人と、仲良く笑い合う松尾さんの姿を思い浮かべて、知らず内にそう呟いてしまっていた。
どう誤魔化したら良いかと、僕は慌てて頭を振る。
「やっ、待、今のはっ」
「いいよ?」
「……えっ」
今……何て?
どこに付き合えばいいのと勘違いされているパターンや、からかわれているパターンなんかが即座に頭の中をかけ巡ったけれど、そんなネガティブな考えは、真っ直ぐに僕を見つめる彼女の真剣な瞳を前に雲散霧消した。
「……っえ。いいの、ホントに?」
「うん」
「え、だって、あの、言っちゃアレだけど、僕らたまにちょっと話すくらいで全然仲良いわけでもなかったよね?
そ、それに、僕いつも松尾さんのこと聞くばっかりで、僕自身のこと全然話したことないし」
せっかく色良い返事をくれているのに、テンパって「やっぱり止めた」と言われかねないことを次々口走ってしまう僕。
すごく情けなく見えていただろうと思うのに、彼女が答えを覆すことはついになかった。
「うん。でも、足立くんのこと、いいなって思ったから」
「えっ」
「走るのが好きって言っても、引いたり、バカにしたり、呆れたりしないで、いつも笑って話を聞いてくれたから、それが嬉しかったから。
だから……いいよ」
たったそれだけのことで、とか、ジョギング仲間となら普通なのでは、とも思ったけれど、そういえば、僕もたった一度笑顔を見ただけで、彼女のことが頭から離れなくなったのだった。
恋のきっかけなんて、案外そんな程度のものなのかもしれない。
薄っすらと頬を朱色に染める彼女を見て、すごく自然に、そして心の底から好きだと思った。
しばし見詰め合う僕と松尾さん。
「……ふふっ」
「えっ、な、なにっ」
彼女が急に笑うので、僕は驚いてひっくり返った声を出してしまった。
うぅ……は、恥ずかしい。
なんだか、今日はやたらと格好悪いところばかり見せている気がする。
そんな風に僕が内心で落ち込んでいれば、松尾さんは笑みを浮かべたまま爆弾発言を投入してきた。
「走ってもいないのに、走ってる時以上にドキドキしてて、それが何だか可笑しかった」
クスクスと楽しそうな彼女に、心臓が一際激しく収縮した。
心臓発作の痛みってきっとこんな感じだとか、バカなことを思った。
松尾さんは天然の小悪魔に違いない。
これから先も、彼女はきっと意図せず僕を翻弄してしまうのだろう。
でも、走っている時しか笑わないはずの松尾さんが僕の隣で笑っていて、なんだかそれがすごく幸せだと感じた。
「あの、松尾さん。て、手を、つないでも……っあ。
やっぱダメだ。今すごい手汗すごい。ごめん、忘れてっ」
「大丈夫。私もすごいから、どっちのとか分かんないよ」
「あ、えっと。じゃ、じゃあ。あの、お願いします」
「うん」
……あぁ、松尾さん。
どこまでも駆けていく君の隣で、僕はいつまでもこの鼓動を走らせていたいです。
おわり