【改稿前】チキン南蛮ブログ
「あれっ!?」
コンビニエンスストアのレジの前で財布を開いて、大地は驚いた。
小銭入れの中に、見たこともない金貨のようなものが入っていた。
「あ、すみません」
後ろに並んでいるお客さんがいたので、とりあえず支払いを済ませる。
購入したチキン南蛮弁当が電子レンジの中でゆっくりと回っている間、大地はもう一度小銭入れを眺める。
――なんだ? これ? なんで入ってるんだ? しかも三枚もある!
大地は動揺しながら記憶をたどる。しかしどうして入っているのか、それらがいったいなんなのかまったくわからない。
「お待たせしました。ありがとうございました」
店員の一言で大地は我に返る。おいしそうな湯気に包まれた弁当を受け取り、とりあえず外に出ることにした。
十二月の夜にしてはあたたかい空気。天気予報では夕方から雨ということだった。今のところ降ってはいないが、厚い雲がさえぎって月も星もまったく見えない。コンビニエンスストアの明るい光の前で、大地は再び小銭入れを開いてよく確認してみる。
その金貨のようなものは三枚とも大きさも厚さもちょうど五百円玉くらい、色あせていて、かなり古いもののようだった。金貨の片面は山と草原と川の風景が描かれ、その周りを植物の実や花や葉の装飾模様が縁どっている。そして裏面は翼の生えた獣のような不思議な動物の絵がデザインされていた。なぜか裏も表も数字も文字も刻まれていない。外国の金貨でもないようだった。
――メダル? でもなんで俺の財布にメダルが?
そのとき突然、大地の目の前に幻が現れた。
抜けるような青空、青い山々、草いきれ、鳥たちの美しいさえずり、川のせせらぎ――大地は金貨に描かれた風景と同じ大自然の中にいた。
――えっ!?
大地は思わず目をこすった。目の前にはコンビニエンスストアに並んで駐車している数台の車。冷たく湿った夜気に、かすかな排気ガスの匂い。
――なんだ!? 幻覚? 俺、相当疲れてんのか!?
もちろん、そんな体験は初めてだった。一瞬だったが、実際にその風景の中に佇んでいたようだった。幻覚、と思ったが、あたたかい日差しも全身に感じたし、自然の心安らぐ音も広がる豊かな香りも確かに感じていた。
もう一度、改めて辺りを見回す。駐車場には黒の軽自動車、大型トラック、白のワゴン車などが行儀よく並んでいる。そして店内には買い物をする人とレジを打つ店員、立ち読みをする人、弁当を選んでいる人――普段通り、なんの変哲もないごくありふれた日常の光景。
――そうだよな。なにも変化は起きていない。やはり俺だけが感じた幻か……。
財布の中に目を落とすと、謎の金貨のようなものは変わらず静かに小銭入れの中に収まっていた。幻覚などではない。念のため、財布の札入れやカード類も確認する。どこも異常はなく、変わったところはなかった。
誰かがイタズラで入れておいたのだろうか。でもいつの間に、そしてなんのために――大地は一人首をかしげる。
――もしかして、なにかの拍子に自分で間違って財布に入れてしまったのだろうか……。もしそうだとしたら早く持ち主に返さなくては……。でも、一体どこに返せばいいんだろう?
高価な品には見えないけれど、自分の物ではない得体のしれない物が手元にあるというのはどうにも落ち着かなかった。
――昨日までは確実になかった……はず――
昨日買い物をしたときにはまったく気付かなかった。小銭入れの中であきらかに異質な色、存在感、財布を開けて気付かないわけがない。
昨日は、会社帰りに中古の本やCDなどを売っているリサイクルショップで変わった本を見つけて購入しただけだった。
――『フィッシュアンドチップスアンドチップスアンドフィッシュ』――その本は、奇妙なタイトルが箔押しで記されていた。
――なんだ? この変な本。
なぜか本棚で、その一冊だけがスポットライトを浴びたように浮かび上がって見えた。思わず足が止まり、釘づけになった。
大地は、本を読む習慣があるほうではなかったが、自然と手にとっていた。本の心地よい重さがしっくりと手になじむ。
その本は、何十年も前に出版されたイギリスの小説の翻訳本らしかった。ふざけたようなタイトルのわりに、妙に凝った装丁の美しい本だった。
わけのわからない本だなと思いながら、なぜか強烈に惹きつけられていた。価格も安い。この本は今日自分が買わなければ――不思議なことにそんな思いが湧きあがって、気がつけばレジの前までまっすぐ足が進んでいた。
――あ。今日の昼に財布を開けた時もなかったな。
午前中、会社の皆と一緒にいつもの弁当屋さんの日替わり弁当を注文した。その際小銭入れから五百円玉を取り出していたが、小銭入れの中はいたって普通だった。
財布はずっとかばんの中、会社のロッカーは鍵がかかるし、かばんを出しっぱなしにしておいたこともない、誰かがイタズラできるような暇もなかったはず、まあそもそも会社にそんな意味不明なことをするヤツもいない、もし悪ふざけで俺にイタズラするんだったらもっとストレートに笑えることをやるはずだ――大地には、心当たりがまったくなかった。
「まあいいか」
試しに一人呟いてみるも到底納得できなかった。
「考えても仕方ない。わからないものはわからない!」
本当は気になって仕方なかったけれど、とりあえず自分に無理やり言い聞かせた。今はわからなくても、きっといつかは判明するだろう、そう考えることにした。
「あ。雨」
天気予報、当たったな、やっぱり傘を持ってくるべきだった、と大地は少し後悔した。レンジであたためてもらったばかりの夕飯のチキン南蛮弁当が濡れないよう気にしながら、走って家に帰った。
柔らかい揚げ鶏に甘辛いたれとたっぷりのタルタルソース。大地はチキン南蛮が大好きだった。特に、近所の食堂「おおのや」のチキン南蛮がお気に入りだった。健康面で問題がなければ、毎日食べたって構わないと思う。
――どうしてあんなにはっきりと幻覚を見たのだろう。
テレビをつけながらの一人の夕食。好物のチキン南蛮の味も、テレビの芸人たちの笑い声も大地の前をただすり抜けていくようだった。
大地はアパートで一人暮らしを続けているが、健康にはわりと自信があった。大病や大けがをしたこともなく、高校時代はラグビー部でそれなりの活躍をしていた。社会人になってからは毎日ではないが一応自炊もしているし、軽い運動もしている。仕事はなんとか普通にこなしているし、遊ぶ時も大きな羽目をはずすようなこともなく、割と規則正しい日々を送っている。一人暮らしの若い男性としては健康的な生活をしているほうだと自負している。
しかし、幻覚をはっきりと見てしまった。これは普通の健康状態ではないのでは――大地は危惧する。
――昨日買った本も少し読んでみたかったけど……。今日は早めに休もう。疲れているだけなんだ、きっと。
いつもより早く床につくことにした。普段どおりパジャマに着替えたつもりだったのに、ボタンが一つずつずれていた。苦笑しながら上から順番にボタンを留めなおす。少しだけ、指が震えていた。
ザー。
ザー。
ザー。
眠ろうにも雨の音が気になる。謎のメダルのことも、幻覚のことも気になる。考えを追い払うように寝返りを打ってみる。大地はしばらく眠れないでいた。
ザー。
ザー。
「どうしよう……。俺、もしかして脳の方の病気とか……」
恐ろしい考えが浮かび、不安のあまり思わず口に出していた。しかし言葉にしてしまうことで不安はより明確な形をとり、現実に実体を持って大地に襲いかかってくるような気がしてきた――ばかげている、と思いながらも大地は独り言を後悔する。
「あなたは、健康ですよ」
――えっ!?
唐突に、少女の明るい声がした。
大地は驚いて跳ね起きると同時に、急いで部屋の明かりをつけた。
目の前に、金色の髪の美しい少女がいた。その瞳は神秘的な湖を思わせる、澄んだ青い色をしていた。
――えええっ!?
一瞬にして総毛立つ。
「ついに出た! 家にも出た! アパートの心霊現象だ!」
大地は思わず叫んでいた。
――昨日も夜中のテレビ番組でやってた!一人暮らしのアパートでお化けが出たって話!そんなの嘘だろ、って思いながら見てたけど、ついに、ついに俺のところにもお化け、キターっ!
「あぱーとのしんれいげんしょう?」
謎の美少女は、小首をかしげながら大地の言葉をそのまま復唱した。
――あれ。お化けにしてはかわいいぞ。
十六から十八歳くらいに見えるその外国人とおぼしき美少女は、華奢な体に西洋の民族衣装のような不思議な衣装をまとっていた。豊かな金色の巻き毛、長い睫毛に縁どられた大きな瑠璃色の瞳、白くなめらかな肌に健康的な薔薇色の頬、ほのかに紅い愛らしい唇――とても幽霊には見えなかった。
「……外国のお化けはポップなのか?」
――よく見れば、ぜんぜん、怖くない。
「えーと。ここは日本ですよ。そして俺の家ですよ。今は夜だし、俺は男だし、君は女の子だし、早く帰ってください。ご家族もきっと心配しますよ」
ちょっと変てこな説得。大地の精いっぱいのジェントルマンな対応だった。
「驚かせてしまったみたいでごめんなさい。私は、イオといいます」
声もかわいらしかった。女と猫は声がずるいよなあ、と大地は思う。
――自己紹介したということは、俺もしておいたほうがいいのかなあ。いやいや昨日のテレビで幽霊は基本無視がいいって言ってたぞ。いくらかわいいからって下手に関わっては危険だ! 対処できるわけがないんだから。
そもそも、生きてる女の子にだってうまく対応できたためしがない、と大地は余計なことまで思い出す。
――ん? でも待てよ、これもやっぱり幻覚? それとも夢? 俺はもう眠ってしまっているのか?
夢であってほしい、大地はそう強く願っていた。そうでなければ病院で精密検査か――大地は怪奇現象の恐怖にうってかわって現実的な恐怖に襲われていた。
「大地さんに出会えて、本当に嬉しいです!」
輝く笑顔。飾り気のない無機質な自分の部屋全体が、急にいきいきと明るくなったような気がした。大地はただ戸惑う。
「えええ? 嬉しいって? どういうこと!?」
「私たちは、この日を待っていました」
――「私たち」?
「天に感謝します」
イオは、祈りを捧げる清らかな乙女のように頭を垂れ、瑠璃色の瞳をそっと閉じた。
「ちょ、ちょっと待って! なにがなんだかさっぱり……」
言いかけて大地は思い出す――あ、そういえばこれは幻なんだっけ――自分の頭の中から生まれたであろう産物に説明を求めてもなにもならない、そう大地は考えた。
大地の思考とは関係なく、イオは微笑みをたたえ穏やかな声で話を続ける。
「昨日大地さんが手にした本、あれは異界へと通じる扉なのです。でもあの本を入手した誰もが異界へ接することができるわけではありません。『選ばれし者』だけが異界へと通じる道を通ることができるのです。大地さんは『世界』に選ばれた者なのです」
「昨日買った……? あ、あの変な本!」
「書かれている内容は関係ないのです。大切なものはいつも奥深く、目には見えないところ、表層には現れないところにあるのです。あなたが本を手にしたのは、あなたが本を見つけたからではなく、本があなたを見つけたからです」
「よくわからん……」
大地は混乱していた――なにをどう理解したらよいのか、平凡な男であるはずの自分の身になにが起こっているのか。
――「選ばれし者」って、なんだか王道の妄想だよなあ……。俺、自分ではごくフツウなヤツだと思ってたけど、内心そういう「自分は他と違った特別な人間でありたい」というような欲求があったんだなあ……。
人間という生き物の複雑さ、業の深さというようなものをしみじみと噛みしめながら、大地は黙って布団にもぐることにした。明日は会社を休んで病院に行ってみよう。とりあえず、今は余計なことは考えず、ただ眠ろう、そう決めた。
「なに寝てるんですか」
「……」
「おーい」
「……」
「……」
ザー。
ザー。
ザー。
雨は降り続く。
「うわああああっ!」
再び大地は跳ね起きた。布団の中に、イオがもぐりこんできたのである。摘みたての花のような甘い、良い香りがした。
「なんで布団に入ってくるんだよ!?」
「なぜなにごともなかったかのように寝ようとしてるんですか」
――困った。幻覚が消えない。それどころかリアルに触った感じがある。
「俺、欲求不満なのかなあ……」
大地は前の彼女にフラれて一年が経っていた。彼女は大地より三歳年上の仕事のできる大人の女性だった。実はまだ彼女のことが忘れられない。大地は、背が高くがっしりしたスポーツマンタイプの好青年、女性にモテないというわけではなかった。しかし、失恋の痛手をいまだにひきずっており、新たな恋を見つけることができないでいた。
「でもなぜ俺の好みのタイプの女性の幻覚じゃないんだろう」
大地は人間の心理の奥深さに思いを巡らす。
「……喧嘩売ってます?」
イオはふくれた顔になる。まったく失礼な話だった。
「もう! 問答無用で連行します!」
イオは大地の腕をつかんだ。その瞬間、目の前に虹色の光が現れた。
――え!?
次の瞬間、大地は大自然の中にいた。
「どうなっているんだ……、いったい……」
目の前に広がる光景は、コンビニエンスストアの前で見たものと、まるで同じだった。美しい稜線を描く青い山々、心地よい風にそよぐ鮮やかな緑の草原、降り注ぐ日の光はあたたかく優しく大地を包み込む――イオは大地にぴったりと身を寄せ、大地の腕をつかんだままだ。
――うわ。女の子がこんなにくっついて……、
「あれっ!?」
目の前の風景に驚いたが、自分の姿にも大地は驚いた。いつのまにか大地の服が変わっていた。パジャマではなく、なぜか西洋の民族衣装風の衣服を着ていて、ちゃんと靴も履いていた。自然の素材で作られたであろうその服と靴は、大地のサイズにぴったりと合っていて、着心地も良く、活動的に動きやすい感じだった。
「な、なんで! いつの間に……!」
「外にいるのに、眠るときの服を着て裸足、ではなんですからね」
服も靴もとってもお似合いですよ、と言わんばかりににっこりとイオは微笑む。
「ここが異界です。まあ私にとってはここが私の住む世界、そしてあなたの暮らす世界が私にとって異界なのですが」
「もしかして、死後の世界……。俺、死んだのか……?」
広がる緑の中に、様々な野の花が彩りを添えている。美しい自然の色彩に満ちた風景は天国の花畑を連想させた。
「……まったく私の話を聞いてない」
「あ! ひょっとして、あんたは俺を迎えに来た天使なのか!?」
柔らかな陽光に、長い金の髪をきらめかせながら佇むイオは、天使のような美しさだった。純白の翼こそ生えていなかったが。
大地はうなだれていた。人生が終わった、そう思い込んでいた。
「最後の晩餐がコンビニのチキン南蛮か……。まあそれはそれで俺らしいけど」
「……どうしたら話をわかってもらえるのかなあ」
イオは溜息をつく。
「あっ! わかったぞ! あのメダル、あれは三途の川の渡し賃だったのか!」
ちょうど、すぐ近くに川が流れていた。
「なんのことかわかりませんが、違います!」
イオはいつの間にか大地の財布を手にしていた。
「あっ! それ俺の財布!」
イオはあの三枚の謎の金貨を財布から取り出す。
「あの本がこの世界に通じる扉なら、この金貨はその扉を開く鍵なのです。一枚は、こちらの世界にくるための鍵、もう一枚は案内人――つまり私のことなのですが――を呼び出すためのもの、そしてもう一枚は元の世界へ帰るための鍵です。一枚一枚違う透かしが入っています。陽に透かすと丸、星、四角とそれぞれ模様が入っています」
金貨を陽にかざしてみると、確かにそれぞれ模様が入っていた。
「なんで金貨なのに透けるんだ!? すっげえ不思議!」
そもそもがありえない状況なのでいまさらな気もするが、とりあえず透ける金貨の不思議さに驚く大地。
「と、いうわけですので、この金貨はしっかり持っていてくださいね」
イオはこぼれるような笑顔で三枚の金貨を手渡す。
「いや金貨じゃなくて財布を返してくれよ!」
「これは一応私が持ってます。あなたが私のもとを勝手に離れないように」
あっという間にイオは、大地の財布を自分の白い胸元にすべりこませる。
「ああっ! なんてことを!」
にっこりと微笑むイオ。大地が女の子の胸の中にいきなり手を突っ込むような野蛮な男ではないと、イオにはわかっていた。
「……こいつは天使じゃなくて悪魔だ……」
大地はふたたびうなだれた。
「さあ、では参りましょう」
「……いよいよ閻魔様のところへ行くのか」
「違います。アルデバラン様のお屋敷です」
「アルデ……バラン様?」
「この世界に住む偉大なる魔女です。」
「魔女?」
「アルデ様は、強大な力をお持ちなのに、とっても楽しい素敵な方なのですよ」
「……怖くないのか?」
「怖いだなんてとんでもない! 私はアルデ様に仕える従者でもあります。アルデ様のお人柄は私が保証いたします。すぐ着きますから楽しみにしていてくださいね」
うららかな日差しの中、二人は草原の中を歩いていく。薄紫の小さなかわいらしい花や白い花、桃色の花などたくさんの花々も咲いている。大地は草花に詳しくないので、実際に身近に咲いている花かどうかわからない。でも、どの花もちょっと見たことがないな、と思った。とても綺麗だ、こういう素晴らしい景色の中を最愛の人と歩けたらどんなにいいだろう、とふと思う。
――でも、俺は死んでしまっているんだろうか。死んでしまったら、そんなささやかな夢でさえもう叶わないということだろうか。それとも、死んでからもこうして意識があるんだから、死んでからの人生があるってことなんだろうか? でも、イオはなんだか変なことを言っていた。イオが言うように俺は、生きたまま別の空間とやらに迷い込んだんだろうか?
異界、とイオは説明していたが、そうなのだろうか、と大地はぼんやりした頭で考える。夢や幻覚など脳が生み出した世界にしては、体の感覚がはっきりある。土を踏みしめ、一歩一歩自分の足で歩いている確かな感覚がある。肉体の感覚が普通にあるということは、死後の世界でもないのかもしれない。ということは、SFやファンタジーの物語のように――そんなものが存在するとは信じられないけれど――イオが言うとおり、どうやら俺は本当に現実とは別の空間に迷い込んでしまったのだ、と大地は思いはじめていた。大地の中では、死後の世界が存在するというより異界というもののほうがはるかに信じがたいという感覚だったが。
少し歩くと小道に出た。爽やかな風が吹き抜ける。優しい花の香りがした。
「……イオ」
初めて大地が名前を呼んだ。
「はい?」
大地をまっすぐ見つめ返すイオ。瑠璃色の瞳はどこまでも青く透明だ。
――この子は、本当に、本当に、存在するんだろうか。
大地は手を伸ばし、そっとイオの頬に触れてみた。
――あたたかい。ちゃんと生きている。イオも、そしてそれを感じられる俺も。
「き、急になんですか? いったい?」
イオの頬が赤く染まる。瑠璃色の瞳が初めて動揺の色を映し出す。長い睫毛の下でかすかに揺れている。
「いやあ、ほんとにイオはいるんだなあと思って」
さらにまじまじとイオを見つめる。
「なにを、いまさら……」
――ほんとに、綺麗な子だな。花や青空、自然豊かな景色がよく似合う――
そんなに長い時間ではなかったのかもしれない。
しばし、時間が止まっていた。
見つめる大地と、ただ見つめられるイオ。空の高いところでゆっくりと雲が流れていた。蜂蜜のように輝く長い金の巻き毛が、柔らかな風に揺れる。
イオは動揺しているのを気付かれないように大地の視線をふりほどき、とりあえず前を見つめ歩くことに専念することにした。足元にはひときわ鮮やかな赤い花が咲いていたが、イオはそれにも目をくれず歩いていく。
小道の両脇に、林檎のような実のなっている木々が並んでいる。林檎に似ているが、よく見ると違う果物のようだ。この木も見たことがない、と大地は思う。
「この実、食えるの?」
「はい。とても美味しいです。人はもちろん、鳥や動物たちの大好物です」
「鳥も動物もいるんだ」
――そういえば、コンビニエンスストアの前で感じた幻でも鳥のさえずりが聞こえていたっけ。ああ、そうか。あれも幻覚じゃなく、あのときも実際にここに来てたんだ――
「なぜ、俺はここに来ることになったんだ? なぜ? いったい、なんのために?」
「それは、これからアルデ様が説明してくださいます」
常に目を見てにこやかに説明してくれるイオが、前を向いたまま答えた。
前方に石造りの塀が見えてきた。その中央には、美しいアーチを描く門が見える。
「イオ」
「はい」
イオは正面を向いたまま、優美な佇まいの門に向って歩み続ける。大地はイオの半歩後ろを歩きながら、少しためらいがちに声をかけた。
「……もしかして、怒ってる?」
「え?」
足を止め、イオが振り返る。金の巻き毛が揺れ、甘い香りがほのかに漂う。
大地は、イオが自分に対して怒っているのだと思っていた。よく考えれば――というかよく考えなくてもわかることだが――、知らない人物、しかも異性に頬を触れられるなんて嫌に決まっている、大地はイオに不躾に触れてしまったことを反省していた。
――デリカシーに欠けるところが、きっと女性とうまく付き合えない原因の一つなんだ。
「……ごめん」
「えっ? どうして謝るんですか?」
イオは驚いて大地を見た。
――よかった、怒ってはいないようだ。
イオの反応を見て、大地は安堵する。
「ほんと、ごめん」
「え? そんな、信じられないのは当たり前です。私に謝る必要なんてないですよ」
自分の話をまったく信じなかったことを大地は謝っているんだ、とイオは理解した。
「えっ? いやそうじゃなくて、その……」
つい、触っちゃって、ごめん、と大地は説明しようと思ったが、言葉にするのはためらわれた。
キイイ。
かすかな音をたてて門の扉が開いた。扉の向こうには、幾重にも花びらが重なりあった美しい深紅の花々が咲き誇る、見事な庭園となっていた。濃厚な花の香りが辺りを包む。門の外の明るい春の光景とは趣の異なった、深く静かな緑の空間になっていた。
「これはまた、すごい雰囲気のあるところだなあ」
思わず率直な感想を述べる大地。
――俺の人生には無縁の場所って感じだ。
俺の日常にはまずない世界、そう大地は思った。自分が似合うのは、日本の郊外のどこにでもある風景、日本国中よくある平凡な街並み。暮らしやすさだけが取り柄の、特にとりたてて特徴のない住居――洒落た雰囲気や、高級な空間、重厚な空気はどこか自分の世界とは遠いものと感じていた。
正面には石造りの古い洋館のような建物が見える。二人はゆっくりと玄関まで続く石畳を歩いていく。
「前のかたも、やっぱり私の話を信じてくださるのに時間がかかりました」
「……前のかた?」
「ええ。あなたの前に、ここにお越しになったかたです」
「俺と同じようにここに来た――つまり、『選ばれし者』?」
「そうです」
「……俺が『選ばれし者』ってのはピンとこないんだけど」
「大地さんは間違いなく『選ばれし者』……特別で尊いひとです」
「へっ!?」
思わずなんとも間抜けな声が出てしまった。
「人は、誰でも一人ひとりが異なる物語を持つ特別で尊い存在ですが、大地さんは私たちにとって特に重要で、かけがえのないひとなのです」
木製の大きく重い扉を開く。
ビロードのような絨毯が敷き詰められた広間に、一人の美しい女性が立っていた。
「いらっしゃい。待っていたのよ」
まるで、美しい名画のようだった。圧倒的な強い存在感――それは単に外見の美しさによるものだけでなく、内面の計り知れない奥深さ、魂の強さというべきもの――を感じさせた。
黒のロングドレスに身をつつんだ、長身の妖艶な美女――艶やかな黒髪は長く美しい首元を引き立てるようなショートカットで、黒い瞳は宝石のオニキスのように深い光をたたえている。なまめかしい白い肌と赤い口紅が黒の配色に鮮烈な印象を与えていた。
低めの艶のある美しい声が、静寂な空気に妖しさを漂わせる。
――うわあ。ほんと、「魔女」って感じだ……。
アルデバランという大魔女――大地はいいしれぬ迫力に、圧倒されていた。
大きな窓からは深緑の庭園が見渡せ、広い部屋の隅まで明るい陽光に満たされている。
部屋の中央には白いクロスのかかった大きなテーブルと美しい装飾の椅子がいくつか置かれていた。部屋の調度品はどれも上品な美しさだったが、とりわけ印象的だったのは部屋の隅に飾られている六角柱のアメジストのような石。大きさは二十センチくらいだが、紫色の神秘的な輝きが目を引く。
「お茶をご用意いたしますね」
イオはそう言って部屋を後にし、大地と大魔女アルデバランは二人きりでテーブルにつく。
――って、二人きりにされても……。
ただでさえ見知らぬ美女と二人きりになったら緊張するというのに、相手が「魔女」だなんて――魔女!? ほうきにまたがって闇夜を飛び回るというあの魔女!? そんなものを相手にいったい俺はどうしたらいいんだ――大地はおおいに困惑していた。
「本当は、もう寝ている時間でしょ?」
唐突に大地に話しかけるアルデバラン。
「えっ!?」
アルデバランの口元には微笑みが浮かんでいるが、その眼差しは射抜くような鋭さがあった。大地という人間の、本人も自覚していない深い部分をあまさず掴み取ろうとするような鋭い目だった。
――まるで、凄腕の面接官みたいだ。もしかしてこれは「魔法使いの面接」なのか?
大地が委縮しているのを察してか、アルデバランはふっと表情を緩めた。
「あなたの住む世界では今頃夜中よね」
「あ……!」
――そういえばそうだった。眠気を感じなかったのですっかり忘れていた。
「ここで眠っても構わないわよ。身の安全は保障しないけど」
「ええっ!?」
アルデバランのエキゾチックな黒い瞳が妖しく輝く。
「食べちゃおうか」
「な、な、な、なにをっ!? ですかっ!?」
「ふふふ。冗談よ」
不敵な笑みを浮かべるアルデバラン。艶やかな赤い唇。男を惑わす涼やかな流し目は、本当に冗談なのかどうかよくわからない。また、「食べちゃおうか」が単に食事の意味なのか、それとも大地を食事として食べてしまう意味なのか、はたまた情欲のほうなのか――ちょっと判別しがたい笑顔だった。
――怖くないって言ってたのに、超怖えーよ! この人!
大地は心の中で、イオの嘘つきー! と叫んでいた。
外見は、大地のまさに理想のタイプの美女だった。端正な顔立ちは他者に媚びる様子を微塵も感じさせず、内面のぶれない芯の強さを物語っているかのようだ。漆黒のドレスは身体に合うよう仕立てられ、女性らしい滑らかな曲線を優雅に描き出している。耳や首元にはダイヤモンドのような宝石が七色の光を放っているが、アルデバランはそれらの宝石に遜色ない美しさと風格があった。
――でも、
大地は思う。
――イオのほうが、かわいくて素敵だ。
大地は、春の野の花のようなイオの笑顔を思い浮かべる。
――あれ? なんでイオと比べてるんだ?
イオの笑顔を思い浮かべたとき、あたたかな光が一瞬心に灯ったようだった。
――あれ? どうして――
意外な自分の心の動きに大地は動揺する。
――どうして、今――
青い空と、金色の輝く髪の少女が、大地の心の中にあった。
「……ここの時間とあなたの住む世界の時間は、スピードが違うのよ」
「えっ!?」
深みのあるアルデバランの声で大地はハッとする。
「ここにいる間はまったくわからないだろうし、今までの時間の感覚と違いはないと思うけど。あなたの世界に帰ってみてはじめて、まったく時間が経ってないことに気づいて驚くと思うわ」
――なんだか浦島太郎の話の逆みたいだな。……こちらとあちら、二つの世界は「夢」と「現実」、みたいだ。
もう、大地は今までの体験が自分の夢や幻であるとは思っていなかった。自分自身もイオもアルデバランも、そしてこの少し不思議な空間全体、すべてが血の通った確かなものとして感じられていた。
「前の人は知的な感じだったけど、あなたは体力がありそうね」
「えっ?」
「ふふふ。あなたに会えて本当によかった」
アルデバランもイオと同じことを言う。
「あの、それで俺はなぜ……」
「失礼します」
ガチャ。
イオがお茶とケーキを乗せたワゴンを押しながら部屋に入ってきた。
――女の子が見たら大喜びしそうなケーキだな。
色とりどりのフルーツがたっぷり乗ったタルトケーキだった。実際、アルデバランはともかくイオはいそいそととても嬉しそうだ。
アルデバランは微笑みをたたえながら、飴色をしたお茶とタルトケーキを勧める。豊かなお茶の香りがゆっくりと広がる。
「どうぞ召し上がれ。これ、あなたの世界の葡萄やベリーや洋梨なんかとそっくりでしょ?でもこれらは果物じゃないの。実はこれ、とっても新鮮な虫なのよ」
「そっ! そうなんですかっ!?」
虫、と聞いて大地は反射的にテーブルから身を離す。
「アルデ様! 変な嘘はやめてください!」
間髪いれずイオが否定したので大地は心底ほっとした。
――よかった……! 虫を食わされるのかと……。
アルデバランは、大地が想像通りの反応を示したので、愉快そうに笑う。
「ふふふ。色々こちらの世界とあなたの世界は似てるのよ。あなたと言葉が通じているのは私たちがあなたの意識に合わせているからなんだけど、自然も植物も動物も多少の違いはあるけれど、本当にそっくり。それは、二つの世界がとても近いところにあるからなの」
「近い……ところにある?」
「そう。そのため、こちらの世界はあなたたちの世界の影響を強く受ける」
アルデバランの瞳に、一瞬深い影がよぎったように見えた。
「影響を受けるって……。どういうことですか?」
「……こちらの世界はとても繊細なの。こちらは受ける一方。あなたたちはとても力強いわ。世界も、人も」
ふとイオを見ると、イオの表情にも深い悲しみのような色が宿っていた。
――繊細? 世界も、人も、強い?
パリンッ!
突然、大きな音がした。紫の石の六角柱がまっぷたつに割れたのだった。
「なっ!? なんだっ!? なんで急に壊れたんだ!?」
なにも触れていない、周りになにも変化が起こっていないのに突如割れた石。石がまん中から二つに割れた以外、周りになにも不自然な点はなかった。床に落ちた紫のかけらが、淡い光を四方に放って――どこか不吉な未来を暗示しているかのようだった。慌てる大地をよそに、アルデバランとイオは静かに顔を見合わせる。
「思ったより早かったわね」
「では、私たちは参ります」
「しっかり頼んだわよ」
「アルデ様もどうかお気をつけて」
アルデバランとイオは何事か頷き合う。
「えっ? なに? いったいなんの……」
イオはすっと立ち上がり、戸惑う大地の横に来た。
「では、大地さん。行きましょう」
「えっ? どこへ?」
「大丈夫です。私についてきてください」
――だからどこへ? 大丈夫ってなにが大丈夫なんだ? 大丈夫ってことは、逆になにか問題があるということなのだろうか?
「大地。これを」
アルデバランは大地になにかを手渡す。
「これは……?」
掌に収まる、透明なハートの形をした石だった。
――これは……水晶、かな?
「あなたに託します。どうかよろしくお願いしますね」
アルデバランはまっすぐ大地の瞳を見つめた。強い眼差しだった。
「託すって、なにをですか?」
「私は、あなたを信じている」
「えっ? 俺になにができるっていうんです!?」
アルデバランは、大地の問いには答えずただ静かに微笑む。
「急ぎましょう」
イオにうながされ、アルデバランの話を、言葉の真意を聞けぬまま、大地は屋敷をあとにした。
一陣の風が吹いた。深い緑に囲まれた深紅の花が揺れていた。
「イオ。結局俺、なんの説明もされてないんだけど……」
「ああ! 本当! そうですね!」
「そうですね、って!」
――いったいなんのためにアルデバランに会いに行ったのやら……。
大地は苦笑しながら、ポケットに手を入れる。先ほどアルデバランより手渡された、ハート形をした石が手に触れた。これになんの意味があるのだろう、と大地は考える。お守りのようなものなのだろうか――お守り、と考えると、なんだか少し心強いような気がした。
「それに、これからいったいどこに向かおうとしてるんだ?」
イオは早足で歩いていく。道はなだらかな傾斜を描き、小さな丘へとつながっていた。道の両脇には白樺のような木々が立ち並ぶ。
「これから、大切な出会いがあります」
「出会い?」
「ええ。きっと、素敵な子です」
「え? 『きっと』? イオも初対面の人に会いに行くってこと?」
「人ではないですけど」
「え? なにに会いに行くっていうんだ?」
みずみずしい緑の葉が生み出す新鮮な空気は心地よく、上り坂でも歩くのはまったく苦にならなかった。
イオは丈の長いスカート姿だったが、ペースを落とさず砂利道を登っていく。
――まるで羽根が生えているみたいに軽やかに歩いてるなあ。
大地は木漏れ日の中、きらきらと揺れる金の巻き髪を見つめ、やっぱり、この子は天使なのかもしれない、そんな考えがふと浮かぶ。
「大丈夫。すぐに会えますよ」
イオの声は明るく弾んでいるようだが、いくぶん緊張していることが大地にも伝わった。
――なんだろう? 大切な出会いって……。
わけもわからずアルデバランの屋敷や小さな丘と、イオに案内されるがまま歩いてきたわけだが、大地は不思議と心が落ち着いていた。そして、この奇妙な冒険がしだいに心地よくなっていた。明るい陽光に満ちた美しい風景と温暖な気候が、気ままな旅のような安らぐ気分にさせるのかもしれない、と大地は思った。
――旅。そういえばずっと旅行とかしてなかったなあ。
仕事中心の毎日。こんなに自然の中を歩くのは大地にとって久しぶりだった。
急に、辺りが開けた。丘の頂上に着いたのだった。
「うわっ! すごいな!」
平らな頂上には、丈の低い草むらが広がっていた。その中心に、巨大なまっ白の卵のような物体があった。細いほうをまっすぐ天に向けた形で安定して立っている。近づいてみると、それは六メートルくらいの高さがあった。
「これは……卵?」
圧倒されるような存在感。大地は思わず息をのんだ。
「ええ。卵です」
「生き物の?」
「正確にいうと、普通の動物というわけではありませんが……、生き物、といっていいでしょうね」
「ん? それってどういうこと?」
「大地さん。触ってみてください」
「卵に?」
「はい。お願いします」
おそるおそる、大地は巨大な卵の表面に触れてみた。表面は少しざらついていて、人工物ではない自然のもの、という感触がした。
「……あたたかい」
手のひらに、命の脈動――確かな鼓動が伝わってきた。
――本当に生きてるんだ。でも、これは……、いったいなんの卵なんだ……?
大地は少し恐ろしくなった。巨大な、生き物の卵。大地は畏敬の念を抱いていた。
ピキ。
かすかな音がした。
「えっ!?」
ピキピキピキピキ。
「ええっ!? この音! もしかして、う、生まれんの!?」
「はい」
イオは笑顔で答える。その微笑みは、あたたかく美しく――母のような慈愛に満ちていた。
バキッ!
ひときわ大きな音の後、ひび割れた裂け目から何かが見えた。鳥類のくちばしのようだった。
「うわっ! 生まれたっ!」
大地は手を離し、思わず後ずさる。謎の生物は一刻も早く外界に出ようとさらに動きを激しくした。
「なに!? 鳥!? 鳥の卵だったのか!?」
トリ、と思った瞬間、大地はとっさに「チキン南蛮」を思い浮かべていた。こんなに大きなトリだったら、いったい何人前のチキン南蛮が作れるだろう、いやたぶん、ニワトリではないだろうから「チキン南蛮」とは呼べないか――まったくその場にそぐわないそんな想像をしてしまった自分に、大地は一人失笑してしまった。人間は、あまりにも常識を超えた不可思議なものに出会うと、即座にまったく関係ないのんきなことを思い浮かべて心の均衡を図ろうとするものなのかもしれない。
「大丈夫。怖くありませんからね。この子は、私たちの味方です」
「み、味方?」
バリバリバリッ!
かぶりを振りながら、ついに謎の生物が卵の殻から頭を出し、ほどなくその全身を現した。
「なっ! なんだこれは!?」
クアーッ!
天に向かって、大きく吠えた巨大な怪物――生まれたばかりでまだ濡れた姿だが、トリではないことは大地にもわかった。
「で……、でかい……」
卵の大きさからも巨大な生物だろうと想像できたが、実際の姿は想像以上の迫力を感じさせた。誕生したばかりだが、それはひ弱な赤ちゃんとか子どもなどではないようだった。力強い筋肉のつきかた、しっかりと安定感のあるその姿は、成熟した状態で誕生したとしか思えなかった。
――ありえない……。怪獣……?
全身白い豊かな毛で覆われ、くちばしがあり、猛禽類のような顔、巨大な翼を有するが、たくましい肉食獣のような胴体と四肢があった。
「翼の生えた獣……! あっ! あの金貨の裏側に描かれていた動物……!」
「そうです」
それは、首から上と翼の印象は鷲、胴体と四肢はライオン、尾は狼、といったような外見をしていた。
「大地さん。あなたの手がなければこの子は生まれませんでした。本当に、ありがとうございます」
「えっ? なにそれ! 俺はちょっとだけ卵に触っただけだよ!? それに、すでに生きてたし自然にもうすぐ生まれそうだったじゃないか」
「いいえ。あなたのエネルギーが触れなければ、永遠にこの子は卵のままです。誕生のためには、あなたとの接触が不可欠だったのです」
「そんなばかな!」
イオは愛しげに巨大な翼獣のくちばしを撫でた。翼獣も、嬉しそうにイオに顔を寄せる。その怪物は、恐ろしい外見とは裏腹に、とても優しい穏やかな目をしていた。
「大地さん。この子に素敵な名前をつけてあげてください」
「えっ?」
「名前をつけるということは、大変大きな意味を持ちます。それは、運命を紐付けする重要なものです」
「そんな! 俺が名付けるって!?」
――俺が思いつくのは、せいぜいポチとかタマとかピーちゃんとか……。
大地は、自分のネーミングのセンスのなさに呆れてしまった。
「……そんな大事なことなら、今思いついたものなんでもいいってわけじゃないんだろう?」
「大地さんが真剣に考えてくださった名前なら大丈夫です」
「でも、俺センスないし……」
謎の生物は、金色の瞳でまっすぐ大地を見つめた。なんとなく大地はちょっと居心地が悪くなる。
「そんな期待をこめた目で見つめないでくれよ」
困惑しながらも大地は、こいつ、案外かわいいかも、と思いはじめていた。
――『早くぼくに名前をつけて』、なんだかそう言ってるみたいだ。
「……そうだなあ。俺が『大地』だから……。空……。ソラっていうのはどうだろう?」
ちょっと安直かな、と思いながらも翼を有するこの生物にはぴったりな名前のような気がした。うかがうようにイオを見ると、イオは明るく顔を輝かせていた。
「とても素敵ですね! ソラ、あなたの名は、ソラよ!」
クエーッ。
満足そうにソラは天に向かって声をあげた。
「こいつは話してることがすっかりわかるみたいだな」
かなり知能の高い生物なのかもしれない、大地はソラの様子に感心していた。
「ええ。私たちの言葉、意思を感じ取ることができます」
「すごいなあ。ソラは賢いんだな」
自分が名付けたこともあり、大地はソラに親しみを覚えていた。
「ソラ。私たちを連れて行って」
そうイオが話しかけると、ソラはすぐに前足を曲げ、低い姿勢をとった。
「えっ? 今度はどこに行くんだ? しかもソラに連れて行ってもらうって……」
大地が言い終わらないうちに、イオはスカートをふわりとなびかせソラによじ登り、その背にまたがった。
「大地さんも乗ってください」
「えっ!?」
「大丈夫です。ソラが私たちを運んでくれます」
「ソラの背に乗るの!?」
「ソラの首の辺りをしっかりつかんでいれば大丈夫ですよ」
おそるおそる大地もソラの背に乗る。イオの前に座り、ソラの首にしがみつく格好になった。イオは後ろから抱きつくように大地の体に腕をまわし、ぴったりとくっついた。
――え。
大地は思わず顔を赤くする。大の大人の男である自分が、少年のように緊張し、すっかり意識してしまっている――だけど、後ろにいるイオにはわからないだろう――そう思うとちょっとだけほっとした。
ソラが巨大な翼を広げる。
――え。まさか、俺たちを乗せたまま空を飛ぶってこと!?
バサッ!
ゾウほどの大きさのソラが、力強く羽ばたき、地面を蹴り勢いよく飛び立った。
「うわあああ! 飛んでる! ほんとに飛んでる!」
先ほどまで見上げていた木々の緑が眼下へと変わり、ぐんぐん地面は遠ざかる。大地はしっかりとソラの首にしがみついていた。ふわふわとした白いソラのたてがみは、お日様のにおいがした。冷たい風が大地の全身を勢いよく通り過ぎていく。背中にはイオのやわらかな体のぬくもりを感じていたが、大地はその点についてはあまり意識しないように努めていた。
――ソラは、どこに行けばいいのかわかってるみたいだ。迷いもなく飛んでいる。
森が、川が、小さく見える。よく見れば、緑の間に家や人工的な建造物も点在している。
――イオやアルデバランだけでなく、他にも大勢の人々が暮らしているんだ。
当たり前のことだろうが、なんとなく意外な気がした。不思議なこの世界にも、地に足をつけた生活があるのだ。
――他の人が俺たちを見たらびっくりするのかな。それとも、こうして空を飛んでいるのは、ここの人たちにとってはごく普通の光景なんだろうか。
豊かな緑の平野を過ぎると、ごつごつとした岩場が多くなり、ほどなく海が見えてきた。グランブルーの海は、日の光を浴び穏やかな輝きを放っている。白い帆を張った船もいくつか見受けられた。
――本当に、ここはなんていいところなんだろう。とてもきれいだな――
大地は、海を見るのも久しぶりだった。磯の香りが胸いっぱいに広がる。全身に海を感じる。広大な海の上を飛んで渡っていくなんて、数時間前の大地には想像もできない体験だった。
――気持ちいい。鳥は、いつもこんな気分なのかな。
ソラは大地とイオを乗せ、青空の中を駆けていく。
――ああ。心がどんどん解放されていく――
大地は、まるで心の中が青一色に染まっていくような清々しさを感じていた。どうしてここにいるのか、どこに行こうとしているのか、それから、仕事のこと、日常の生活のこと、過去のこと未来のこと、さまざまな疑問や思いは大地の頭からすっかり消え去っていた。ただ、そこにあるのは自然の中に溶け込むひとつの生物としての体の感覚だけだった。
そのとき、ポケットの中で、アルデバランより渡された小さなハートの石が密かに熱を帯びていたことに、大地は気付いていなかった。
険しい岩山の上を飛んでいた。いつのまにか、空は黒い雲に覆われていた。
――だいぶ遠くまできたなあ。空模様も怪しくなってきた。
ソラはゆっくりと下降していた。少しずつ地面が近くなってきた。
「あれ。もしかして目的地に着くのか?」
ソラは静かに大きな岩の上に降り立った。
辺りは枯れ木と岩だらけだった。今までの色鮮やかで生命力に満ち溢れた景色とはまるで違っていた。
「ここは……、いったい……」
「……『影』の影響で荒れ果ててしまったんです」
「『影』?」
「ここも、少し前までは豊穣な土地だったんです」
「『影』ってなんなんだ?」
少しだけ、沈黙が流れた。冷たく湿った風が吹いた。
「……大地さん。アルデ様は『こちらの世界はあなたがたの世界の影響を受ける』、そうおっしゃっていましたよね?」
「うん。それって、どういうこと?」
「ソラは、あなたがたの放つ明るく前向きな想念により生まれたものなんです」
「え?」
突然のイオの思いがけない言葉に大地は当惑する。
――「あなたがたの放つ明るく前向きな想念」? 「あなたがた」って……? 世界中の人々ってことか? それに、「想念によって生まれる」って、いったいどういうことなんだ?
「大地さんの生きている世界の常識からみると理解しがたいことだろうと思います。でもこちらの世界では、あなたがたの強い気持ちの集合体がこちらの世界に流れ込むと、時間をかけ、生物として実体化してしまうんです」
「そ、そんなばかな……!」
――俺たちの気持ちが生き物になるって!? そして、それがソラだっていうのか!?
「え!? それじゃ『影』っていうのは……」
「あなたがたの放つ暗く破壊的な負の想念です」
「負の想念!?」
「ええ。負の……。不安や恐れ、悲観的な気持ち、絶望……。それらネガティブなエネルギーが集合して生まれた生物です」
――明るく創造的な気持ちがソラになったということは……。破壊的な想念が形作る生物って……。
人間の負の想念の塊の生物――大地は想像して恐ろしくなった。
「大地さん。私たちが大地さんにお願いしたいのは、あなたがたの負の想念によって生まれてしまった生物、『影』を正しいエネルギーに変換していただきたいということなんです」
「な、なんだって!?」
――退治とかじゃなくて『変換』!? てゆーか退治だって俺にはできるわけないだろうけど……。『変換』ってなんなんだ!?
負の想念によって誕生した怪物を退治する、できるできないは別として、それだったら大地にも話として理解できる。エネルギーを変換、とはどういうことなのか、大地には見当もつかなかった。
「『エネルギーの変換』ってなんなんだ?」
「ソラが卵の状態から誕生できたのは、大地さんが卵に触れることにより卵の内部でエネルギーの変換が起こったからなんです」
「へええ!? つまりそれは、化学反応が起こったっていうような感じか?」
「はい。それはとてつもない大きな変化です」
「でもまてよ。ソラは俺が触れたことで誕生したっていうけど、じゃあ『影』はどうやって生まれたんだ? 『影』はソラと同じような存在なんだろ?」
「『影』はとても強力なエネルギー体です。卵の状態から破壊的なエネルギーを外部に放出し続け、私たちの負の想念も取り込み、時が満ちると自らの力で誕生してしまうのです」
「そ……、そんな……!」
「負のエネルギーから生まれた『影』は破壊を糧として生きていきます。土地を荒廃させ、人や生き物の命を飲み込んでいきます」
――俺たちのネガティブな想いが、そんな恐ろしいことになるなんて……!
「アルデ様のお屋敷で紫の石が割れたのは、あれは『影』の誕生を知らせるしるしでした。『影』はもう誕生してしまいました」
「あ! あの石が割れたのはそういうことだったのか……! それにしても……、アルデバランはすごい魔女なんだろう? アルデバランの魔力とかでなんとかできないのか?」
「アルデ様のお力で、ある程度『影』の影響を抑えることはできます。でも、根本的な解決をするためには、あなたがたのお力をお借りするしかないんです」
「……俺たちの想念から生まれたものだから……か?」
「はい。今、アルデ様はお屋敷で私たちを遠隔サポートしてくださっています。それは、集中できる場所と道具が必要な強力な魔術です。とても精神力、体力を必要とする危険な術です」
「危険な術……」
ドオーン!
轟音。そして振動。
「なっ!? なんだっ!?」
「『影』です……! 『影』が動き出しているんです」
「すぐ近くにいるのか!?」
「大地さん、アルデ様より託された石を握っていてください!」
大地はすぐにポケットに手を入れ、アルデバランより渡された石を握りしめた。
「あれっ!? あったかい……!」
ハート型の石は熱を帯び、ぼんやりと光を放っていた。
バサバサバサッ!
ドオンッ!
空から巨大ななにかが降りてきた。漆黒の体を持つ怪物だった。
「うわあああああっ!」
その怪物は黒い四枚の翼を持ち、黒く光る鱗で全身覆われたトカゲのような顔と体をしていた。瞼のない冷たい銀色の目で大地たちを睨み付け、大きく裂けた口から見える細く赤い舌は絶えず蠢く。左右に振った長く大きな尾は木々を簡単になぎ倒しそうな力強さを感じさせる。
「か、怪物……!」
「大地さん! これが『影』です!」
――こんな怪物相手に、どうしろって言うんだ!?
掌の中のハート型の石がさらに熱くなった。石であるはずなのに脈動も、感じられた。
次の瞬間、大地の頭の中に、アルデバランの声が聞こえた。
「大地! 恐れてはなりません! 『影』は不安や恐怖を糧にします!」
「そうは言っても、こんな怪物をまのあたりにしたら……!」
「大地。あなたは、恐れを感じたとき、心を落ち着けるためにどのようにしていましたか?」
「恐れ?」
「ええ。たとえば日常の中の、小さな恐れに直面したときのことを思い出してください」
大地は「日常の中の小さな恐れ」と聞き、学生時代のラグビーの試合中に感じたプレッシャーを思い出していた。
――「まずは自分を客観的に眺め、そして今やるべきことに集中しろ」、昔、ラグビー部のコーチにそう叩き込まれたっけ――
大地はまず自分の体の感覚に集中した。地面に足をつけ、しっかりと立っている自分。なにも考えず、ここに存在する自分――そんなことを強く意識するだけで、なんとなく心が落ち着いてきた。
――そして「今やるべきことに集中」……。ん? 今やるべきことって、なにをどうやればいいんだ?
そのとき、イオが大地に向かって叫んだ。
「大地さん、ソラに触れたように、『影』に触ってください!」
「えっ!?」
「エネルギーの変換を起こすのです!」
――そんな無茶な!
しかし、心を落ち着けたおかげで、大地の心の中に、冷静なもう一人の自分が現れた。
――それが、俺が今やるべきこと、か。
静かに、冷静に、大地は決意した。
――どう考えても襲われたら助からないだろう。逃げ切ることも不可能だろう。選択肢はない。ならば、今俺がやるべきことをやるだけだ。
ドドッドドッドドッ!
『影』が大地に向かって突進してきた。
今やるべきことに集中しろ! ――大地は自分に命令した。
大地は手を前に出した。まっすぐ怪物を見つめ、余計なことはなにも考えず、触れるためにただ手をつきだした。
噛みつこうとする『影』の下顎に手が触れた。
――触った……!
大地は、イオやアルデバラン、先ほど上空から眺めた点在する家々を思い出していた。
――この世界が、人々が、これで救われるなら……!
次の瞬間、ハートの石から強い光が放たれた。
強い、強い光。
大地の掌から溢れ出た光は、たちまち付近一帯に広がっていった。
――え!?
なにが起こったのか大地には理解できない。
強い光と掌の中の熱しか感じられず、目を閉じることしかできない。
光の洪水。
――ああ。俺、ほんとに死んだのかな。……とりあえず、痛くなくてよかった。やっぱり、最後の晩餐は、コンビニのチキン南蛮だったか――
ふと、大地はいきつけの食堂「おおのや」のチキン南蛮を思い出していた。あそこのチキン南蛮はタルタルソースにゆで卵がいっぱい使われていて、めちゃくちゃおいしいんだよなあ、と大地は思う。昭和の雰囲気たっぷりの、食堂のテーブル。明るい店内、おかみさんと大将の元気な声。そして、大地の隣には、イオが座っていた。
――ん!? なんでそこでイオが出てくるんだ!?
「大地さん、これがチキン南蛮ですか。とってもおいしいですね」
満面の笑顔で微笑むイオまで頭に浮かんでいた。
――なんで……。イオが――
光。
――たぶんイオも、気に入るだろうな――
光の中で、イオが笑っているような気がした。
「大地さん! 本当にありがとうございました!」
――え? なに? チキン南蛮の、こと?
ぼんやりした頭で大地は目を開ける。
「本当にありがとうございます! 無事『影』のエネルギー変換が成功しました!」
「えっ!? 本当に!?」
目の前に、体の色が純白に変化した『影』がいた。
「あれっ!? こ、これが『影』!?」
『影』と呼ばれていた生物は、雲間から差し込む日差しを浴び、目を細め気持ちよさそうな穏やかな表情をしていた。変わったのは体色だけなのに、どこかのんびりとしていて、先ほどまでの恐ろしい印象はまったくない。
「あれだけで、触っただけで、本当によかったのか!?」
あまりに短い時間で、しかも少し触れただけだった――大地は「選ばれし者」と呼ばれるような勇者らしいことをした実感が湧いてこなかった。
いつの間にか、ソラもつい先ほどまで『影』と呼ばれていた生物も、並んで日向ぼっこをしていた。
「あなたが触れることに大きな意味があるのです。前向きな強い意志で『影』を見つめ、触れる――それによって大いなる癒しと変革が訪れるのです。『負のエネルギー』は人の力で変えられるのです」
イオは、仲良く並ぶ二頭を優しい眼差しで見つめていた。
「大地さん。『影』にも名前をつけてあげてください」
「えっ!? また俺が!?」
「はい。『影』にも素敵な未来が訪れるよう、名付けてあげてください」
「ええと……」
――確かに『影』じゃ、かわいそうだ。
「『影』じゃなくて……、ええと……。『ヒカリ』、はどうかな?」
やっぱり俺は単純思考だなあ、と大地は少し恥ずかしくなる。
「とても素敵です! 『ヒカリ』、今からあなたの名は『ヒカリ』、ね!」
ヒカリは眠そうな顔をあげ、イオと大地を交互に見つめた。大きく裂けた口の端は、ちょっぴり微笑んでいるように見えた。
「さあ、アルデ様のお屋敷に帰りましょう!」
そう言うやいなや、イオはヒカリの体を登り、背に乗った。大地は再びソラの背に乗る。
――ヒカリ、ついさっきまでの恐ろしい印象とは全然違う。まるで、最初からいい子だったみたいだ。
茜色になった空の中、流れる雲のように白い大きな二頭の生き物が飛んでいく――二人の若い男女を乗せて。
「大地。本当によくやりましたね」
アルデバランは大地に優しく微笑みかけた。
「俺、でも、ただ触った、それだけなんですけど……」
「ふふふ。でも、あなたは自らの意志と力で成功させた」
なんだか大地は決まりが悪かった。
――せめて、イオを守るとか、少しでもヒーローのような動きができればよかったんだけど……。
イオもアルデバランの隣で微笑んでいる。
アルデバランが大地に深々と頭を下げた。
「大地。本当にありがとうございました。お礼にあなたの望みを叶えてあげましょう」
「えっ!? そ、そんないいです! ほんと、俺なにもしてないし……」
大地の言葉を聞き、アルデバランは意味深な笑顔を浮かべた。
「あるでしょ。あなた。望みが」
「えっ?」
「このままなにもなしに元の世界に帰るのは嫌でしょ?」
「え……。いや別に……」
――なにか、褒美の品とかくれる気なのかな。でも、ほんと俺、なにもしてないようなもんだから、もらうのはなんだか……。
「大地。あなたに、その三枚の金貨をあげるわ」
「へっ? これ?」
「アルデ様!」
イオは驚いてアルデバランの顔を見つめた。イオは頬を真っ赤に染めていた。
「ふふふ。イオ。あなたも望んでいるんでしょう?」
――ん? それって、なにを意味してるんだ?
「大地。イオ。あなたたちは、これでいつでも二つの世界を自由に行き来できるのよ」
「えっ!?」
大地は思わずイオの顔を見つめた。
イオは恥ずかしそうに瑠璃色の瞳を伏せた。
――あれ? あれ? イオ……!?
「ふふふ。大魔女のこの私が見抜けないとでも思って?」
――えーっ!? まさか、まさか、イオも俺のこと……!?
大地も思わず真っ赤になっていた。
街はすっかりクリスマスムード一色になっていた。
「雪……」
イオは、大地の部屋の窓から外を眺めていた。白く輝く雪を潤んだ瞳で見つめている。
「とっても綺麗……」
思いがけずクリスマス前にできた恋人を、愛しそうに大地は見つめる。
――不思議だなあ。出会ったときは、お化けとかタイプじゃないとかとんでもないことを思ったのに、美しい花咲く道を一緒に歩いていたいと思い合える相手になるなんて――
イオは輝く巻き毛を揺らし、振り返った。
「大地さん。いつか世界に発信してくださいね」
「えっ? なに? なんのこと?」
「どうしても、大地さんの住むこちらの世界の人々の想念は、私たちの世界に流れ込み、蓄積してしまうんです。こちらの世界の時間で数十年の間は問題ないでしょうが、また新しい『選ばれし者』に来ていただく必要があるんです」
「あっ……。それで『前の選ばれし者』って……!」
「前の『選ばれし者』のかたは、本を出版されました。そして、その本が扉となりました」
「えっ!? 俺に本を出せって!?」
――そんなの絶対無理だって! 俺、国語の成績サイアクだったんだから!
国語だけじゃない、体育以外は軒並み残念な成績だった――大地はまた余計なことまで思い出す。
「形はなんでもいいのです。本じゃなくても。大勢の人がなんらかの形で大地さんの発信する言葉を目にすることができたら、それで大丈夫です。発信する内容も、なんでもいいです。異界を体験した大地さんという人間が、なにかを人に文字で伝える形をとったら、それが扉になります」
――大勢の人が見る? たとえばネットとか、か? それなら世界中の誰かがきっと見てくれる。
「……ブログ、でもいいのか?」
「ぶろぐ?」
「ブログだったら世界中に向けて、俺でもなにか発信できそう」
「ほんの少し、一文でもいいですよ。誰かが目にすることができたら。見る人の人数が少なくても大丈夫です。『選ばれし者』は自然と扉に出会うよう導かれるのです」
テレビからクリスマスソングが流れてきた。いかにも楽しげな雰囲気でフライドチキンを宣伝している。
――フライドチキン。チキンか。チキン、おいしそうだなあ……。
大地は早速パソコンに向かった。思いついた言葉をキーボードに打ち込む――ブログ名として。
――『チキン南蛮ブログ』
――まさか俺がブログを開設することになろうとは……。
そうだ、今晩「おおのや」にイオを連れてってみよう、そう大地は決めた。
――チキン南蛮を食べたら、イオはどんな顔をするだろう――
いつの間にか雪はやみ、穏やかな光が差し込んでいた。