耳環と片腕 ~万葉浪漫譚~
この作品には残酷表現が含まれます。
萌え出づる
春の色を
共に見ようと誓った
私の左耳に光る翡翠と同じ色の
お前は憶えているだろうか
雄高
*
霊亀二(716)年八月。
優れた歌人として知られ、志貴皇子と称せられた人がその生涯を終えた。
天武天皇の御代に移り、華々しき栄達には恵まれなかったが、清らな生き様で時代を吹き抜けた彼の歌の才は、後世にまで受け継がれた。
妻・託基皇女と仲睦まじく、春日王など子にも恵まれたが、どこか寂しい、儚い笑みの絶えぬ人であった、と周囲の者たちは彼の人柄を偲んだ。
繊細で玲瓏な玻璃細工のような面影は、何時もあらぬ方を見遣り、物思わしげであった。
歌を詠み、珍かな香を取り寄せては室内を芳香で満たす。
贅の極みを許される皇族にしてはささやかな嗜好を持つ、風流人だった。
だから、そんな穏やかに慎み深い彼の寝台の下から、白木の長方形の箱が発見され、もう色褪せた若草の紐を解いて中を見た人たちは、仰天した。
そこには皺だらけに干からびた、一本の、元は腕であったかと思しき物が異臭を放ち納められていたのだ。
まるで秘めた宝のように。
*
白鳳時代(645~710)。
中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我蝦夷・入鹿父子を討った乙巳の乱(大化の改新)は、政権の表舞台を塗り替えた。
栄耀栄華を誇った蘇我一族は645年、完膚無きまでに叩きのめされ、傀儡の天皇を戴き、世と言う玉は今や中大兄皇子と中臣鎌足の手中にある。
そんな世にも、貴種に変り種はいるもので。
大権力者・中大兄皇子の第七皇子として生まれながら、志貴皇子は政権というものに凡そ興味が無かった。
彼の心を捉えるのは、笹の葉を揺らす風であり。
皓々とではなく、淡く柔らかに照る月であり。
楚々と頭を垂れた撫子の花であった。
第七皇子という立場の気軽さ、幸いにして恵まれた歌の才もあり、父にも臣にもとやかく彼の素行を咎める者は無く、志貴皇子は伸びやかに生きていた。
取り立てて執着する物と言えば、百済の職人から献上された、金の環に、翡翠の勾玉が下がった装飾品くらいだ。彼の白い左の耳朶には常にそれが光っていた。
春の息吹が左耳の穴から体内に吹き込まれるようで、好ましい。
本当は一対を献上されたのだが、なぜだか片方だけが良いと思ったのだ。もう一粒のほうは、采女(宮中の女官)に無作為に与えてしまった。
長閑さと伸びやかさがまだ許される時代だった。
やがて来る嵐も知らず。
*
「あれぇ?おい。此処は俺の縄張りだぞ」
宮中から出て気儘に一人歩きしていた志貴皇子は、山野に美しい小川のせせらぎを見つけ、其処で寛いでいた。
空が健やかに蒼ざめた、爽やかな初秋のことだ。
素っ頓狂な声に志貴皇子は驚き、思わず、腰に佩いていた剣の柄に手を掛けた。
驚いたのは、相手も同じだった。
上等な油で手入れされているのであろう、艶やかな角髪を結った、神霊と見紛うような少年が、白い脚を水に晒しているのだ。着崩してはいるが、一見して豪奢と判る衣服を纏っている。
明らかに鄙の里人とは違う、と志貴皇子を値踏みする目で見る。
「どこの皇子様だよ」
「…………」
形良い細工物のような唇を迷い動かしながら、答えにくいな、と志貴皇子は思う。
相手は冗談で皇子などと言っているのだろうが。
しかし、真っ向から尋ねてくる少年の瞳は、志貴皇子の心の琴線に触れた。
果ての無い、大空のような明るい眼であったのだ。
こちらを見る目も、好奇心が多分に勝っているように思われる。
考えあぐねた皇子は答えた。
「……私は、志貴」
「しき。……志貴。志貴皇子?本物の皇子様か。へえ。俺は雄高だ。大陸と商いをしている豪族の倅」
まだ警戒を解かずに名乗ったのだが、相手はあっさり彼の身分を見破り、物怖じせずに自らも名乗った。
それから雄高が志貴皇子の耳環の細工を褒め、それが話の糸口となって次第に二人は打ち解けた。同年代の少年らの、身分を超えた気安さだった。
上等な露草色の志貴皇子の衣と、雄高のくすんだ蘇芳色の衣が並び、笹や灌木にふわと覆われ、透明の水に陽の煌めく様は、少年らの一つの世界を創り出していた。
二人は度々そこで逢うようになった。
約束をしている訳ではない。
行けば、相手がいて、お互いに心の中だけでほっとして、その癖、口では「何だ、また来たのか」などと減らず口を叩くのだ。
一人待つ間の心細さなど、決して知られまいとする。
雄高は、志貴皇子の翡翠の耳環を頻りと欲しがった。
そう熱心にねだられると、皇子としてはどこか焦らしたいような、意地悪な心が湧いてくる。
「これは、私も気に入っているのだ。ゆえに、ならぬ」
「じゃあ、こんなのはどうだ?志貴はいずれ、国の礎の一つになるだろう?その時は、及ばずながら俺が、志貴の片腕になってやるよ」
「礎になど、なるまいよ」
笑いながら志貴皇子がそう言うと、雄高は、大人びた眼差しで尚も主張した。
「なるよ。志貴が望むと望まざるとに関わらず。中大兄皇子と大海人皇子(中大兄皇子の弟)の相克は根深い。国は今一度、荒れるだろう。俺は志貴に、その嵐の中で消えて欲しくはないんだ」
「…………」
雄高の指摘は、志貴皇子が宮中で耳にする不穏な噂の正鵠を射ていた。
再び、多くの血が流れる予兆は、誰より志貴皇子自身が感じ取っている。
「……私は、そのように生まれついた宿命ゆえ、仕方ない。雄高は私に構わず、賢く立ち回って生き延びろ。栄誉、栄達……聡いお前ならば、望めば手に入れられよう」
雄高の双眼が血走った。
「俺が欲しいのはそんなんじゃない。知らない顔をするな」
雄高の真っ直ぐな瞳は、翡翠よりも上等な玉石のようだ、と皇子は思った。
美しい玉石が悲しかった。
「…………私には妻がいる」
「俺が欲しいのは地位じゃない。――――――――志貴の、心だ」
最後はぽつりと、小さな雨粒のような声だった。
翡翠の耳環を欲しがることで、彼は志貴皇子に想いをほのめかしていたのだ。
志貴皇子は雨粒を掬うように慈愛めいた微笑を浮かべ、素直に告白した。
「私もお前が好きだ。奔放として、活き活きとして。……政は醜い。雄高に関わらせたくないのだ」
言葉を全て言い終える前に、雄高の屈強な腕が志貴皇子の体躯を押し包んだ。
草の、青々しい香りに皇子は目を閉じた。
「……雄高。いつか、穏やかな春の日に、野の草原を共に見よう。芽吹いたばかりの早蕨を見たことがあるか?瑞々しくて、美しいのだ。雄高と共に眺めたいよ」
雄高は答えず、志貴皇子の翡翠をかちりと噛んだ。
しかし年始は何処も忙しい。
二人の春の予定は喰い違い、並んで早蕨を眺める好機は中々訪れなかった。
彼らとていつまでも子供ではいられず、大人として担うべきそれぞれの役割が生じるようになった。
志貴皇子は、朧な風や月、花を愛でる暇を奪われていった。
国の中枢に蠢く駆け引きや策謀に囲まれ。
水を得られぬ花のように、彼の心は萎れていく。
今では、ほんの時折り、政務の間を縫って雄高に逢える時間だけが、皇子の心に滾滾と水を湧かせていた。
初めて出逢った頃と変わらぬ、雄高の曇りなき眼がこれ程に得難い宝となるとは、志貴皇子は想像だにしていなかった。
雄高と逢えていなければ、私はどうなっていたやら知れない、と言う志貴皇子の憔悴した顔を、雄高は何かを測るような眼差しで見て、顎に手を添え思慮に沈むようだった。
異国に興味はないか、と彼に訊かれた皇子はきょとんとして、面白そうだと思う、とだけ答えた。
やがて二人の危惧は形と成り、天智天皇(中大兄皇子)と大海人皇子の対立は避けられないものとなった。天智天皇は、志貴皇子の兄弟でもある実子・大友皇子に皇位を継がせたいと望んでいた。その望みの前に、大海人皇子の存在は不都合でしかない。
身の危険をいち早く察知した大海人皇子は先手を打って、現在の奈良県・吉野山に出家・隠棲する体裁を整えた。
天智天皇十(671)年のことである。
これが世に名高い壬申の乱の幕開けであった。
志貴皇子の住まう館を夜風が揺らす。
風音は皇子の心をも揺らめかしていた。
雄高の声が胸奥に何度も木霊する。
〝百済の商船に渡りをつけた。密航船だ。百済は敗戦国だが(663年における白村江の戦いで、日本と百済の連合軍は新羅・唐の連合軍に敗れている)、俺たちの生きる隙間ぐらいはあるだろう。難波から、この国から出よう。志貴。俺は親父の商いを見てきたから、あちらの言葉も話せる〟
〝……妻子を捨てては、行けない。伴うことも無理だ……〟
〝この機会を逃せば、お前は柵だらけの人生になる。幼い頃のように、お前に容赦などしなくなる、時代も、人も皆!もう、解っているだろう?……待っている。頼むから来てくれ、志貴〟
志貴皇子は寝台から床に足を降ろし、垂れ幕を捲った。
忍び歩きは慣れているので、着替えも一人で出来る。
夜闇に溶け込みそうな色の布地を選び、身に纏う。
館から出る時、左耳の翡翠を軽く撫でた。
雨風の中、難波津(港)まで、志貴皇子は馬を飛ばした。
奇しくも季節は二人が出逢ったのと同じ、秋。
冷たい雨だった。
見通しの悪い紺青の向こうから、蹄の音が聴こえてきた頃、雄高はほぼ諦めていた。
まさかと思い、船のもやい綱を解こうとしていた水夫を手で制止すると、馬から降りた志貴皇子が駆けて来るところだった。
濡れそぼりながら、自分をひたすらに見詰めて。
「――――――志貴!」
「雄高。すまぬ。遅れた……」
水浸しで二人、感極まる間も無く乗船せねばならない。
その時、一本の矢が雄高の肩を掠め、船体の柱に突き刺さった。
水夫や、百済の民も混じっているのであろう乗客たちから悲鳴が上がる。
「皇子様っ、何処へ行かれます!」
「おのれ、皇子をたぶらかす逆賊かっ」
志貴皇子の館の衛士たちだった。
皇子の不在に気付いた舎人(下級官人)が知らせたのだろう。
只でさえきな臭い情勢下だ。不審極まりない雄高を完全に敵視している。
「止めよ、矢を射かけるな、剣を納めよ!!」
皇子の制止も虚しく矢はびゅうびゅうと雨を裂いて雄高に向かう。
足元を滑らせた雄高に、志貴皇子は迷わず腕を伸ばした。
船と、岸の間の陥落に雄高の身が吊り下がっている。
支えは華奢な志貴皇子の腕一つ。
皇子は死にもの狂いで雄高の腕を放すまいと掴んだ。
息を堪えて顔が赤黒くなり、爪が肉を抉るくらい、雄高の腕に喰い込むのも構わない。
「―――――――――手を放せ、志貴」
こんな状況にも関わらず、雄高の声は今までで聴いたどれよりも、静かで凪いだ声だった。
声を出す余裕とて無い志貴皇子は、只、弱く素早く首を横に振った。
暗くて深い場所で、雄高が苦笑したのがなぜだか判った。
見開き通しで乾き、涙が滲みそうな皇子の眼球に、明らかに映る筈もないのに。
「しょうがないよねえ、お前」
雄高は腰の剣を右手で引き抜くと、志貴皇子がしがみついていた左腕を、自ら切断した。
急に軽くなった反動で仰向けに引っ繰り返る志貴皇子の耳に、どぼん、と無情な水音が響いた。
*
それから、長い歳月が流れたが、志貴皇子の時間は、あの嵐の晩に止まったままだ。
何度も春は廻ったが、共に喜びを分かち合いたい人間は、もういない。
翡翠の耳環くらい、どうしてくれてやらなかったのかと、幾度も幾度も悔やんだ。
雄高は彼の全てを、志貴皇子にくれようとしたのに。
血生臭い抗争を横目に見ながら、皇子はひっそりと生きた。
雄高を失って以降の年月が、彼の余生だった。
皇子は次第に、床に臥せるようになった。
典薬寮(宮内省に属し医療関係を管轄する役所)から馳せ参じた薬師(医者)は、志貴皇子の容態を診て沈鬱な表情になった。その様子により、雄高との再会が近いことを悟った皇子は、逆に、花開くように口元を綻ばせた。
今度こそ、耳環をくれてやれる。
今度こそ。
〝及ばずながら俺が、志貴の片腕になってやるよ〟
その声を思い出し、寝台の下に置いた物を想う。
腐臭を誤魔化す為に、随分と色々な香をきつく焚いて過ごしてきた。
(ああ。雄高。ずっとお前の片腕と共に在ったよ)
死肉すらも愛おしい。
*
待ち侘びた春風が吹く
お前が、右の手を大きく振っている
これでようやく誓いを果たせる
いよいよだ
春の色を見よう
生きて芽吹く翡翠色の鮮やかさを
なあ雄高……これからだぞ
共に
共に見よう
*
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
本作は志貴皇子をモチーフとしたフィクションとご了承ください。
絵は樹里さんが描いてくださいました。