地上の王と楽園の人魚
私がまだ幼かった頃のこと。倉庫の奥深く眠る、それを見つけたのは彼だった。
多くの人は倉庫と呼んだが、実際は書庫と言った方が正しいかもしれない。読まれなくなって久しい書物が所狭しと積み上げられた薄暗い場所。
私たちは大人たちの監視の目をかいくぐり、探検と称してよくそこで遊んだ。だから、倉庫に入ったのも一度や二度ではない。
なのに、明らかに異質なその存在に気付くまでに、かなりの時間がかかった。
一目で、それは書籍の類ではないとわかった。
時折兵士たちが使う大剣が収まるくらいの、けれど、それよりも少し深さのある、細長い箱。意を決して棚から引きずり出そうとした時、あまりの軽さに拍子抜けするとともに、訝しく思った。
そっと指を這わせると、うっすらと積もった埃の下に木目が覗いた。埃のせいだけではなく、どこかくすんだ色をした木箱は、それなりに年を経たものなのだろう。錆びきった金属製の留め金もついていたが、鍵自体が壊れてしまったようで、封はされていない。
私と彼は顔を見合わせた。薄暗い倉庫の中でも、不思議とその瞳の奥に灯る明りはしっかりと見てとれた。もしくは、彼の眼にも私はそう映っていたのかもしれない。
やがて、私たちはそっと蓋を押し上げた。
錆ついた留め金が僅かに軋んだ音を立て、その中身が露わになる。ぼんやりと白いものが目の前に浮かび上がったが、最初は、何かよくわからなかった。そばに置いたままのランプを引き寄せて、目を凝らす。
それが何かを理解した時、私は思わず叫びだしそうになった。
そこには骨があった。赤いビロードに守られるようにして、そっと横たえられた白骨。
一瞬、背筋に寒気が伝わったが、次第に恐怖よりも疑問が頭の中を支配した。
「何の骨だろう」
問いかけたのは彼だったのか、それとも私だったのか。
どちらにしても、私たちは存外冷静だったといえるかもしれない。感情に任せて叫び、逃げ出していたなら、すぐに大人たちに見つかって、倉庫に立ち入ったことを咎められただろう。それどころが、その後彼と遊ぶこともままならなくなっていたに違いない。
私たちは自然と互いに顔を寄せ、じっと箱の中を覗き込んだ。
その骨は奇妙な形をしていた。一瞬、人間の骨なのではないかと思ったが、すぐに違うとわかった。頭蓋骨は確かに人間のもののような気がしたが、ずいぶんと小さいし、何より下半身の形状が全く違う。そう、あれは、まるで魚の尾びれのようだった。
私たちはもう一度顔を見合わせた。そうして、ひっそりと囁くような、けれど興奮を抑えきれない声で、彼は言った。
「人魚だ。きっと人魚の骨だ」
*
蒼海の果てには、人魚が棲んでいる。
完全に信じていたわけではない、と思う。けれど、それ以来、私は時折夢を見た。
海の果て、まるで楽園のような場所に、歌う人魚の姿を。
*
「こんなところにいたのか」
ふ、と意識を眼下の海から後ろに向けると、簡素な皮鎧を纏った兵士がひとり。少し癖のついた蜂蜜色の髪と、柔和な顔立ちのせいで幼くも見えるが、その雰囲気はどこかけだるく、憂いを帯びたまなざしのせいで一掃されている。
最近になって、ようやく見慣れるようになった顔だった。身分からすればまずありえないその物言いが不思議と心地よく、少し前からよく傍に置いている男だった。
「また探させてしまったね、申し訳ない」
護衛の目をかいくぐり、出歩いては連れ戻される。
そう、それはいつものこと。なぜかいつも、彼が私を最初に見つけてしまう。
最近では、もう諦めの境地に達したのか、彼以外の人間が私を探すこともなくなったらしい。
「何見てたんだ」
本気で思ってもいない言葉にさすがに呆れているのか、彼はひとつ溜息をつき、私の隣へと足を進めた。まるで深海を思わせる深い色の双眸が、私の見ていたものを探そうと、せわしなく辺りを見渡していた。
「人魚を見たことがある?」
「いや。どうした、急に?」
怪訝な顔に、私は何も答えない。うっすらと微笑して、彼からゆっくりと視線を外す。
海は、今日も凪いでいた。空は高く、雲ひとつ見当たらない。
遠く、はるか遠くまで目を凝らしても、果ては見えない。潮風はそっと髪を撫でてゆき、鼻孔をくすぐる潮の香りは泣いた後のようなけだるい切なさを感じさせる。
「こどものときのおとぎ話だ。昔、城の倉庫で人魚の骨を見つけたことがある」
「ああ、昔、ひとつふたつ売っているのを見た。なかなかいい値だったな」
「そうか」
淡々と彼は言う。
予想はしていたが、胸がかすかに軋んだ音を立てたような気がした。あれは人目を避けるようにひっそりと眠る宝物ではなくて、ごくありふれた商品なのだと改めて突きつけられる。
「買う方も売る方もわかっているんだろうね。だけど、こどもは違う」
「信じていたのか」
呆れや嘲笑でも、そして驚愕でもなく、単純な疑問。
私は首を振った。縦でも横でもなく、曖昧に斜めに。
「さあ、忘れたよ」
父が崩御し、いろんな事の対処に追われているうちに、気付けば彼は居なくなってしまった。
城の人間に尋ねても満足に答えは返らず、今ではその顔もはっきりと思い出せない。そうして、私はひとりになった。
あれだけはまだ覚えている。揺れるランプの炎と、それよりももっと鮮やかな、吸い込まれそうなほどまっすぐな彼の瞳。
私と彼が共有した秘密は宝石ほど煌びやかではないが、硝子玉ほどありふれたものでもなかった。まるで捉えどころのない、水面に映る光を見るような眩しさがそこにあった。再び手にすることは叶わない、遠い思い出。
あの時の一瞬のきらめきがあまりに鮮烈すぎたせいだろうか。私は彼が人魚に魅入られて城を飛び出したように思えてならなかった。あの骨が紛いものではなければいい。彼が居なくなったのは自分の意志ではない、人魚の魔力のせいだと思いたかった。
やがて彼を探すのを諦めた時、私は人魚を箱ごと海へ流してしまった。
薄暗い夕闇の中、それが小さく消えていくのを、たったひとり、いつまでもいつまでも見ていた。けれど、あるいは私は、骨だけになった人魚が海に還りさえすれば、たちまち彼のもとへと連れて行ってくれないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
「その骨。今も城にあるのか?」
「いや」
どうにも、どこか思考を見透かされたようで落ち着かない。自然、言葉も短くなる。
それに何か思うことがあったのか、彼は逡巡するように地面に目を落とす。
しばらく波の音だけが辺りを支配していた。意識は、自然と海に引き込まれる。人魚にすれば単なる伴奏にすぎない潮騒にすらそんな気になるのだから、彼女らの歌は一体どれほどのものなのだろう。
「なら、探しに行けばいい。あんたの人魚を」
あんまりその言葉が唐突に思われて、数度、瞬いた。驚きはすぐに、苦笑に代わる。そんなことを考えていたなんて、思いもよらなかった。
「簡単に言ってくれるね」
「そんな顔するくらいなら、探しに行けばいい」
思わず頬に手を当てた。自分が一体どんな表情をしていたのか、確かめるために。
私の様子を見、傍らの青年が思わず忍び笑いを漏らしたのを感じたけれど、不思議といやな感じはしなかった。何より、さっきの言葉は、奇妙に力にあふれていた。
どこからその力が生まれるのだろうかと、思わずまじまじと彼に目を向けた。私よりも彼の方が僅かに背は高く、自然、見上げるような形になる。
「探して、見つけて、その後は?」
「見つけてから考えりゃいい」
虚を突かれたような心地がした。顔に出ていたのだろうか、彼はまた可笑しそうに笑う。
「なにも探すのは人魚じゃなくたっていい」
向けられたまなざしの奥には、目を逸らすことが叶わないような、煌々とした明かりが揺らめく。目の前の男と在りし日の彼とが、一瞬、重なった。
「見つかるだろうか」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くくらいに弱々しい。
「さあな。だけど今のあんたはどこだって行ける。空の果てだろうと、海の果てだろうと」
ふ、と外れた視線の先を追う。
彼の目の色と良く似た紺碧は、いつしか薄く淡く光にけぶり、空との境目をひどく曖昧に塗りつぶしていた。何度見慣れたと思っても、いともたやすく裏切られる。海も、空も、同じ姿を二度と留めない。そんなことに、今更のように気がついた。
「あの骨は、」
言葉にしてしまうのを、ひどく躊躇った。あちこちに目を泳がせ、唸るように低く呟く。
「人魚の骨なんかじゃない。偽物だ」
初めてはっきりと声に出した。今の今までそれができなかったのは、言ったらあの日の全てを否定してしまいそうだったからだ。
「ああ、そうかもな。だが、夢を見るのを止める権利なんて、誰にもありはしない」
反論しようとして、そして私は一瞬口をつぐむ。
夢。そう、あれは夢なのだ。猿の骨に、魚の骨をつけただけのまがいもの。
だけど確かに、それは夢の中で深紅の鱗を煌めかせ、時折虹色に光る飛沫を上げては泳いだ。陶器の人形を思わせる肌を薔薇色に染めては、小さな唇を開き、白い喉を震わせて歌を紡ぐ。
それは、まるで夢のように美しい、不思議な光景。
彼はどんな夢を託したのだろうか。きっと、私の想像の及ばないほど、ずっとずっと美しく、胸の躍るような光景を描いていたのだろう。
「夢、か」
かつての私という存在そのものが、母の、あるいは母の一族の夢のうつしみにすぎなかった。それは、王の椅子という高みに据え置くために仕立てられた人形そのものだった。
窓の奥深くで花を愛でるはずの手には剣を、そして、色とりどりの布や糸の代わりには、うずたかく積まれた書物を与えられた。今でこそ結い上げるほどに長い髪は、そこらの草よりも短く切り揃えられていた。
王たる器を示せと強いられ、こどもでいられた時間の長さは瞬く間に過ぎた。虚構に彩られた王冠を手にした時間は、もっと短かった。
なのに、とうに手放したはずのそれは、今もなお、どこかで私を縛り続ける。
きっと、あの日の思い出があんなに眩しいのは、彼だけが私を自由にしたからだ。身分も性別も、全てを越え、あるがままに振る舞うことを許してくれた唯一のひと。
まるで彼こそが人魚のようだと思う。たとえ泡となって消えてしまったとしても、心だけは偽らない、そんな強さが。
眩しすぎて手の届かないものだと諦め、そうして私は思い出の形見を手放した。残ったのは、ひたすらに身をあぶるような空虚だけなのに。
だから、私はきっともう人魚にはなれない。
「とうに忘れたものだと思っていたよ」
私はもはや、王ですらない。どこへだって行けた。それこそ海の果てだろうと、空の果てだろうと。
歩くための両足は確かにここにあった。なのに、なくしてしまっていた。望みを伝えるための、声を。
「今更かもしれない。だけど、探しに行くよ」
強く、つよく、高らかに私は告げる。
人魚の歌のような美しさなんてない。だけどそれは静かな水面を揺らし、やがて大きな力を生む。波が静かに囁くように、広がってゆく。それこそが、地上に縛られた私たちが唯一持つ力。
海をたたえた瞳が、まるで砂金を落としたように煌と輝く。涙したように揺らぎ、そうして、それが逸れた、と思った。
けれど、違った。次の瞬間、彼は跪き、頭を垂れていた。
「我が王の望むままに」
彼が私に膝をついたのは、これが最初で最後だった。
私の姿や立場がどうであろうと、彼はただ私の隣にいた。なぜかずっと気付けなかったのだけれど、ひとりではなかったのだ。今も、昔も、ずっと。
*
蒼海の遥か彼方。空と海の交わるところには、人魚が棲んでいる。
その白い手には、虹色に輝く小さな冠がひとつ。
ふわり、と花がほころぶように笑うと、やがて人魚はゆっくりとその手をのばした。
地上の娘は、夢を見る。
虚構の冠を投げ捨てた果てに待つ、楽園と人魚の夢を。
俯いていた顔を上げ、彼女はまっすぐに果てを見据えた。頭上には、水面に映る七色の光が、王たる証であるかのように輝く。
それはまるで、やがて訪れる、果てへの旅路の先の出逢いを約束するかのようだった。
(2010.08.26)