―火種―
まとわりつく空気が重い。何でこんなに湿っぽいのだろう。あたしの汗のせいだろうか。陣内 明。あたしの同級生が今、、灼熱の火花を飛ばすような目つきで、睨みつけてきてる。ドイツ語辞典はどこかに転がってると思うけど、探せない。怖いから、怖いのに陣内から目を放せない。
――どうしよう。どうすればいいの、姉さん。
陣内が無造作に机を蹴飛ばす。本棚にぶつかり、細かな塵が舞った。あたしと陣内の間には、もう何も無い。逃げ出したいけど、そんなすき間も見当たらない。ううん、それ以前にひざが震えて、走れっこない。腕が……、出血してない方の陣内の腕が、ゆっくりと伸びてきた。そのまま動けないでいるあたしの肩を押し込むようにつかまえる。駄目だ、やっぱり動けない。声も出ない。誰か、誰か――
『おとしまえ…… 分かってんよな』
あたしが知ってる声より低い声で陣内は言った。
おとしまえ。何のことか分からない。付けた傷のこと? でもそれは、あたしをからかったアンタが……
『――痛っ』
肩に痛みが走る。
陣内の親指が鎖骨を強く圧迫してきてる。額に張り付いた前髪が揺れた。陣内の息のせい、こんなに、こんなに近い!?
『あ、あ、あ……』
まともに声が出るわけない。普段だって上手く話せないのに、どうしよう、どうしよう。
『ご、ごめんなさい』
悪いなんて思ってない。思ってないのに、あたしの口から出たのは不本意な謝罪の言葉だった。
『ふん、口下手の言うことなんか信用できっかよ』
『え、だ、ど、どうすれば……いい、の』
『あ〜? 態度で示すんだよ、態度で』
陣内は語尾を強めながら、あたしの頬を、横髪を撫でてきた。
『ひぁっ……』
思わず漏れたのは気持ち悪さもあるけど、眼下に接近した腕の傷のせいだ。
止まらない血液。赤く流動する液体が目に痛い。
『あぅ……あ……』
出血する腕を気にする素振りもなく、骨ばった手で陣内は執拗にあたしの顔をなぶった。
嫌だけど、嫌だけど、肩から浸透してくる膂力の前に抵抗が出来ない。陣内が吐いてくる生温かい息を避けたくて、あたしは瞼の裏に視界を閉ざした。
――考えるな。考えちゃいけない。
あたしは身にかかるであろう危難を前に、頬照る思考も閉ざすことで抵抗しようとした。
『んぁっ……』
それは陣内があたしの首すじから、制服の中に指の先を滑り混ませた時だった。
『あれ? 陣内君もいたんだ。何やってんの』
こもる空気を一変させた声は、あたしと同じ姿を持つ姉の明日菜だった。
瞼の先の気配が離れる。あたしが両目に光を取り戻した時、陣内は明日菜と二言、三言、会話を交わして肩をすぼめていた。
『……でよ。ちっと保健室に行ってくらあ』
『そうだね。結構、血出てるみたいだから、早く行った方がいいよ』
声のトーンが普段になってることに気がついた時には、もう陣内は図書室から出てしまっている。出る直前の振り向き様、明日菜の背中越しに見せた表情だけは、嫌なままの気になる笑みだった。
『キャンプのこと書いたメモ読んだ……って、聞いてる明日香?』
『…………』
『明日香?』
『あ、うん。あ、見たよ、うん。』
明日菜の様子を見ると、あたしが陣内を傷付けたことは聞いてないみたいだった。
『うん、でもどうせいつもみたく出発前に熱出たり、具合悪くなったりすると思うから……』
陣内が何を考えてバラさなかったのか見当がつかないけど、あたしも余計な心配はさせたくないから黙ってることにした。
『そんなこと良く知ってるわよ。でもね、今回は少し体調崩してでも参加した方が、逆にいい感じになれるかもよ』
『何それ。どうゆう意味?』
毎年、夏になると神奈川の丹沢にある湖畔のキャンプ場に、同級生数人と泊まり込みで遊びに行く。一昨年も去年も辞退したけど、今年は最後だからと明日菜は熱心に誘ってきていた。
『ふふん。今回は明日香が好きな、ほら、ラグビー部の燐堂君も参加するからさ、介抱してもらえるかもよ』
『えっ、そ、そうなの』
あたしの驚きは密かに想ってる燐堂恭介がキャンプに参加するからというより、好きなことを知られてることによるものだ。もっともすぐに仕方ないか、とは思う。あたしも明日菜のことは誰よりも知ってるけど、反対に明日菜があたしを熟知しているのは比ではないぐらいなのだ。
燐堂恭介。多分、生まれて初めてあたしが心を奪われた同学年の男子。二年前の体育祭、他校との対抗試合で感情をむき出しに走る姿を見てから、これまでずっと、好きになった想いを抱えてる。今のところは挨拶程度の仲だけど――
――けど、その燐堂君がキャンプに参加する。
あたしは今さっきまで支配されてた、怯えの感情を霧散させていた。
『それじゃあ今回は参加することで決定ね。さて、そろそろ休憩終わるから戻るわ。具体的な日程とかは後で例のケーキ屋に寄った時に話すから』
そう言い残して明日菜が背中を向けた時、肩にかかる髪が湿ってることに気付いた。所属する水泳部の練習途中に、わざわざメモだけじゃなく足を運んでくれたのだ。
『あ、ありがと……姉さん』
顔全体が火をかざされたように、湯でってる気がする。そんなあたしに気を使ってか、明日菜は振り向かずに図書室を後にした。
『はぁぁーー……』
深いため息が出た。吐息中には色々なものを内包してる。明日菜がくれた配慮、燐堂君への想い、陣内が残した嫌な笑み。それらはまだ実をつけてないし、発芽する前の種でしかない。いずれ芽吹いて根を出すにしても、つける実は選びたいと思う。けど、どうなるだろう。
窓ぎわに転がっていた辞典を拾いあげ、あたしは室内を見渡した。板ばりの床に陣内の血痕が、点々と連なっている。それが毒づく火花のように見えて、あたしは妙な胸騒ぎを覚えた。
帰宅する間にも、うごめき続けた苦い後味みたいな感触。それは明日菜と一緒に馴染みのケーキ店に寄っても、夕食後に新メニューだった季節のタルトを口に運んでも、消えることは無かった。
明日菜から聞いたキャンプに参加するメンバー。憧れの燐堂君に続いたアイツ―― 陣内 明の名前。思い出したくないのに、数時間前の出来事がよみがえる。
首すじに這うように伸びてきた、粘り気を含んだ指先。自分の手以外、触れたことなんかなかったのに、躊躇なく侵入してきたアイツの、アイツは。
もしも明日菜が教室に来なかったら、アイツにどうされていたんだろう……
胸に落とされた種で最初に根を張った嫌悪感と罪悪感は、薄れることなくベッドに横たわっても襲いかかってきた。それは数日後アイツに持ち掛けられた“ある提案”を受けることによって、芽先が自分に向かうことになるけど、この時点では気付きようがなかった。
やがて迎えたキャンプに出発する当日の朝。あたしの胸の内を映すように、空はどんよりと、水で薄めた墨汁のように曇りを演じた。
初めての旅行。最後の夏休みが始まろうとしている。
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