―回想―
――高校三年、最後の夏休み。
わたし、明日香は――
そう、あの冷たい夏からわたしは明日菜になった。
*****
都会の夏はどこか異質だ。がなり鳴くセミの声は多くて二、三種類。よく聞いても、ほとんどアブラゼミの一種類だけ。百科辞典や図鑑の中に載ってるセミは一体、どこにいる。
あたしは学校の図書室に行く時、いつもそう思う。まあ、こうして歩いてる間に色々な鳴き声が聞こえてきたら、うるさくてしょうがないけど。
汚れたベージュのありふれた学校の壁が、だんだん近づいてくる。何の変哲も無い四階建て、L字型の校舎。視界いっぱいに入る頃には、夏虫のかわりに車がうるさい。たまらない。かなり大きいエンジンの音、嫌い。排気ガス、臭い。ああ嫌だ、嫌だ。
あたしの学校は区が認める主要道路の一つ脇に建っている。だからかなり環境が悪い。都内の割に校庭は広いらしいけど、もしグラウンドが教室との間に挟んでなかったら、騒音で先生の授業も聞こえないに違いない。
『おー、館山ぁ。また本かよぉ』
うわ、陣内だ。この男子も嫌い。ことあるごとに姉さんと比べるイヤなヤツ。おまけにスケベ。
『……あ、う、うん』
部活の練習の割にヒマしてる同級生に、フェンス越しから声を返す。
『あ? 聞こえねえよ。もうちっと明日菜みたくハッキリ返せよ』
『あ……ごめん。あの、あたし、もう行かなくちゃ……行く、ね』
これだから嫌だ。どもることを知ってるくせに。だったら話かけるな、と思う。
あたしは小走りで校門へと急いだ。途中、あせって空足を踏んで転びそうになる。後ろで陣内が何か言ってきてたけど、別にいい。車の音で聞えないし。それにどうせあたしを見て笑ってる。相手にしてられるか。
しかめっ面で自分の下駄箱に行き、上ぐつに履き替える。ちょっとだけ息が切れた。
『はぁ……』
ため息ひとつ。あたしは迷わず図書室がある二階校舎の奥を目指した。
夏休み中とあってか、廊下には誰もいない。ひっそりしてる。たまにグラウンドから野球部の金属バットだろう、カン高い音が窓を震わすけど、それぐらい。まあまあ静かな空間だ。
あたしは預かってる鍵を使い、更に静かな場所へと入っていった。
ちょうどL字の角に位置するこの図書室。住宅街に面してる教室だ。かなり静かで、あたしのお気に入りの場所。
そして最近、好んで読んでいるのはドイツ語辞典。クラスのみんなは変な顔してたけど―― そういえば姉さんも「頭、良くなりそう」って言ってくれる前に、一呼吸してたっけ。
――まあいいや。
読みかけの辞典を本棚から抜く。そのまま日陰になっている奥の机へと移動した。三方向に棚が設置してある、一番、涼しくて人目をさえぎれる机。まあ自分で勝手に持ってきたんだけど。
『……?』
何だろう。あたしは誰かに見られてる気がして、読み始める前に室内を見渡した。でも誰もいない。当たり前だ。あたしが開けるまで鍵、閉まってたんだし。
改めて辞典を置いて濃紺のカバーを開く。すると一枚の紙切れが挟んであった。四つ折りになってるそれは、大学ノートの一枚を破ったものだった。
――これ何だろ。あたしが紙切れを開くと、そこにはよく知ってる字が踊っていた。
『明日香へ。今年のキャンプ日程、決まったよ。高校最後のなんだから、今年は参加すること……か』
無意識に声を出して読む。黙読出来ないのは昔からのクセだ。みんなから指摘されるけど直ることがない。別にいいじゃない。この方が頭の中に入るんだから。
あたしは一人でぶつぶつ言いながら、紙切れを胸ポケットにしまった。誰からなのかは考えるまでもない。
『今度のキャンプのだろ、それ』
《ガタッ‥》
『――痛っ』
声をかけられて大きくのけ反ったあたしは、したたかにひざ小僧を机の下に打ちつけた。
『痛たた〜』
打った反動で体が机に突っ伏す。あたしは頭だけを上に向けた。
『じ、陣内…… 君?』
そこには学校に来る途中、グラウンドのフェンス越しに声をかけてきた、あたしが嫌いな同級生が立っていた。
シャツの胸ボタンを三つぐらい外し、まるであたしを舐めるようにして見下ろしている。何だかすごく嫌な感じ。
『な、何、何のよう』
さっきまでの涼しげな空気は、一体どこに。風の流れが止まったようで、少し暑くなってきた。あたしは上目づかいで、陣内の様子をつぶさに観察した。
『よくもまあ、飽きずに本読むよ。んなに楽しいか、それ』
日焼けした腕が無造作に伸びてくる。何でコイツが近づくまで気がつかなかった、あたし。
『ん〜 どれどれ。何かよく分かんねえな〜』
あたしから勝手に辞典を取り上げる。何なのコイツ――って。言いたいけれど声が出ない。
『へえ、男語と女語ってあんだ。ぷっ、中性って何だよ。オカマ語か? やるね〜 ドイツ』
コイツはバカだ。それは名冠詞のことだ。だいたい日本語だって主語の性別あるじゃない――って。叫びたいけど、やっぱり出るのはどもった声。
『あ……部活。野球、い、いいの。練習サ、サボると――』
『あ? 馬鹿か、おまえ。この時期、三年が練習するかよ。まして弱いのに』
『な、あ……ば、ばか? あた、あたしが』
『そうだよ、見りゃ分かんだろ。ユニフォーム着てないコトぐらい』
冷静に見ればそうだし、おかしいことも理解できる。でも脳みそ筋肉バカの陣内に言われて、あたしはすぐに平静さを取り戻せなかった。
だって陣内、コイツは、いつもあたしをカラかって。姉さん、明日菜をやらしい目で見たり。だいいちアンタの倍はあたしの方が頭がいい。
『も、もう返してよ。それ』
机を挟んで、目一杯に届けと腕を伸ばす。
『おっとぉ〜 こっち、こっち』
辞典を頭の上に上げて、素早く机の横に回り込む、陣内。ガキだコイツ。
『惜しい〜 もうちょっと』
あたしはムキになって、体をひねり倒しながら、もう一度、伸ばした。――かすっただけ。
『惜しい。もう少し、もう少しで』
『も、もう。けどもみたいに、やめてよ』
しまった。言ってすぐに気がついた。
『はは、けどもって何? ドイツ語? ははは』
頬に熱を感じる。きっと今、赤い。
『こ、このっー!』
もう一度、鋭く。――つかめ!
『お〜し。今度は見えた、見えた。薄いピンクか。下もおそろいか〜?』
ハッとする。陣内は最初に立ってたトコに戻り、あたしが伸ばして大きく広がった、わき袖から下着を覗いてきてる!
『――いやっ』
慌てて腕を引っ込める。でも動かない。陣内が、コイツあたしが伸ばした手首、つかんでる!?
『これならガキじゃねえだろ。なあ』
つかまれた手から、陣内の汗がじんわりと伝わる。気持ち悪い。
あたしは陣内を睨みつけた。イヤな腕を振り払おうと、自由な手を水平に払う。
《キシュッ……!》
思いのほか強く、当たった――というより引っ掛けた。爪と指。その間に異物が詰まった感触。
あたしの手首を放した陣内の腕からは、予想通りの赤い液体が皮下から湧き上がってきていた。
突き刺すような視線を感じて、あたしは陣内の顔を見上げた。
そこには傷から流れ落ちてる血液以上に、真っ赤な顔をした陣内が映った。見たことの無い目つきで、あたしを凝視している。
『あ……』
それはあたしが初めて知る、怒りを覚えた男の顔だった。
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