―邂逅―
人間の心理というものは酷く厄介で、時として思いもよらぬ現象を導き出す。それは体現させた本人のみならず、回りの環境をも覆す大きな力と成り得る。
だが、その対象の内面と思考を詳しく正確に読み取ることが出来たなら、矯正することが可能ならば、その行いは悪魔の所業ではなく、称賛と畏敬に属する行為となるだろう。
榊 祐成
【明日、二人で】
―邂逅―
白濁とした煙が外からの視界を奪っていた。蔓延する湯気のわりに流れるシャワーの温度は熱くない。浴室内の気温が低かったのだろう。嫌味なほどクリアに保たれていた無色透明なガラス張りの浴室内は、設計者の思惑通りの機能を果たせずにいた。
秘めたる慕情を抱いて来るもの。後ろ暗い愛情に流されて来たもの。つかの間の休息に人目を阻んで訪れるもの。いずれにしても想いびと同士が生まれたままの姿で交わえるホテルの一室で、明日菜は適温に落ちた滝糸に、みずみずしい肢体を晒していた。
『……』
肩で揃えてある黒髪が水分を含み、質量を増していく。そこから滴り墜ちていく水泡への落とし子たち。細かな編み目が様された床に、激しく叩きつけられ、四散する。瞼を半分閉じたまま明日菜は右手を掲げた。頭へと傾れるシャワーの水先が首筋に向かう。
『……』
曇るガラス壁に仕切られた反対側の空間で、等身大の影がゆらゆら揺れた。明日菜は虚ろな瞳でその影を観察すると、空いている方の手のひらで自分の顔を撫で剥いていく。中指と薬指で鼻筋を挟み、小指の先で濡れた薄い唇の端をなぞる。
『…………』
ゆっくりと影に背を向け、明日菜は全ての垢を取り除くように、丁寧に、丹念に、全身を汲まなく洗っていった。それはどこか身体に染み憑いた業を削ぎ落とす、巫女の禊にも似ていた。
『ごめん、姉さん』
かすかな呟き。飛沫が跳ねる水音で消された声、自身にすら届いていない。ただ頭を下げ、懺悔の念を内に響かせる。
(本当にいいの。このまま抱かれていいの?)
答えは返ってくるはずもない。問いかけの意味の愚問さを知りながら、それでも明日菜は浴室を出るまでのあいだ、いや、出てからも問わずにいられなかった。
『綺麗だ……』
浴室から出て来た明日菜を認めると、恭介は笑顔で軽く頷いた。その言葉は心の奥底から飛び放たれた質感を持ち、ホテル備え付けのバスローブに包まれる明日菜を貫く。
恭介の言霊。秘められた想いには嘘の欠片も織り込まれていない。そのことを明日菜は熟知していた。
『明かり、消して』
恭介が照明に向けて手を翳す。すると暗くなった部屋に連動して、無数の配色を施された光のビームが彩り散った。訪れた幻妙な闇の世界。時折、二人に当たるミラーボールの小さな光点が、せばまっている距離を伝えてくる。
明日菜は三年振りに出会った恭介の肉体を瞳に残していた。学生時代にラグビーで鍛えあげた鋼身は未だ健在のようで、ややもすると堅い筋肉は鈍重そうに見える。しかし明日菜の覚えてる限り、身長こそ180センチより僅かに届かないものの、S・Oとしてフィールドを駆け抜けていた姿は俊敏な獣ように軽くしなやかだった。
ストン、と朱色の絨毯にリモコンが落ちた。恭介は両手を腰の高さで広げ、明日菜が自分でローブから身を放すのを待った。
――振動。
にわかに細かく震える明日菜。その揺れは怯えを隠すローブに伝わり、逆に裸身を晒す結果に繋がってしまう。絹製のローブが音もなく落ちた。
『あ……』
一瞬、足下のローブに目を奪われ、息を飲む。しかし明日菜が隠したのは微動する乳房でも臍の下部に群生する繁みでもなく、顔から首にかけてだった。
かたくなに拒む、ひどくやわで華奢な腕。扉は倍以上に太く逞しい腕によって開かれていく。明日菜は初めてここで恭介の彫り深い顔に頭をあげた。漆黒の髪が目に飛び込む。恭介は屈んで明日菜の首筋に緩やかな口づけを被せてきていた。
『……ん……』
明日菜は思わず、目の前にある恭介の短髪を右手で掴んだ。左手は恭介の右手に抑えられ、身動きを封じられている。続く震えは先程とは意味合いを異なくしていた。
『ま、待って』
声は弱々しい。だが恭介の耳は確実に捉え、全身の神経に引け、という命令を下した。
『……すまない、もっと優しくする。ごめんよ』
決して恭介が乱暴だったわけではない。それは誰より明日菜が、その身体が知っている。それでも抵抗を見せたのは、せめてこのためらいを今は亡き分身への免罪符としたかったからだ。
明日菜の胸中深く、心の奥に秘めた、うねり潜む感情。
誰にも知ら“れる”ことなく。誰にも知ら“せる”ことなく。押し殺し続けている本当の自分。
明日菜は下唇を強く噛んだ。にじみ出る赤い発露。それは恭介が抱こうとしている明日菜と、今ここで抱かれようとしている明日菜という人間が、別人故に漏れる背徳のあかしだった。
手招きをする恭介。波打つベッドが明日菜を呼んでいる。二人は重なりお互いの唇を求めた。重心を下げた腰が着く先は不安定だったが、絡み合う男と女には些末なことでしかない。
交互に舌先を愛し合い、たゆたう液体を撫で合い啜る。不意に明日菜は涙腺に別の液体を感じて面を下げ、強く恭介にしがみついた。
そんな明日菜を意に介さず、恭介は薄く髭が残る顎先を下げ、傾く小山に忍ばせた。
『恭……さん』
じわじわと疼き、まとい生まれる快感という名の快楽。
恭介が明日菜を想い焦がれたように、明日菜、を装う女も、この逞しい男を瞳に宿してから今という時を渇望して止まなかったのだ。
女は表に出ようとする真の意識を、ただ封じることだけに専念した。例え全身が痺れ、脱力しても、意識だけは失わせない。そんな女の心意を知ることなく、恭介は抵抗を無くした女体を、思うままに蹂躙する。だがそれは荒々しいものではなく、いたわり尽くす優しさに溢れていた。
やがて女に訪れた悦びの絶頂―― 涙で視界がぼやけ、声を発する。充足感に満ちて漏らす吐息。しかしそれは儚い霧のように暗中に散華した。
数年振りに出会った想い人同士の、夢の交わり。
それでも女が自分で搦めた罪の鎖から解き放たれた気を持つことは――
――なかった。
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