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使命として(1)
 白飯の炊ける匂いに混じって、ふんわりと漂う味噌汁の香り。
 シワがよった青いバスローブから、太い尾すらはみ出ない様にきっちりと座り、階段をゆっくりおりてくる楓を見つめてくるコマ。
 そんな無言で何かを訴えるコマを横目で見やりながら、楓はキッチンへと顔を出した。

「おはよー、パパ」
「おはよう! 楓ちゃん! よく眠れたかい?」

 黒の上下に、大きな赤いチューリップ型のポケットがついたくすんだ黄色のエプロンを身につけた楓父が、おたまを握りしめ満面の笑みを浮かべて振り返る。
 違和感極まりない格好の楓父は、パジャマに赤いダウンジャケットをはおった楓に、しがみつくように抱きついた。

「またこんなの着て寝たのかい? 寒かったかな、毛布をもう一枚出しておくからね?」
「……ううん、違うの。毛布を布団の中じゃなくて、外にかけてもあったかいのかな、と思って実験してみただけ」
「そうか。楓ちゃん、チャレンジ精神が出てきたんだね! 偉いぞ!」

 離れるどころか、さらにきつく抱きしめられ、さすがに楓が小さく呻く。

「パパ、それよりも、聞きたい事があるんだけど」
「なんだい?」

 少しだけ腕の力を緩めて楓の顔を見下ろすと、楓は顔を上げる事もなく、

「コマさんのマットみたいになってたアレ。パパのバスローブだよね?」
「おや、気が付いたかい?」
「うん。パパとコマさん、仲良くなって嬉しいな、と思ったんだ」

 表情も変えずに言う楓に、またしても腕の力が元に戻る。いや、先程よりもきついかもしれない。
 頬を紅潮させて、楓父がウキウキと明るい声をあげた。

「よし! じゃあ今日は目玉焼きも付けてあげようね」
「……パパ、味付け玉子がいいな」
「よし! パパに任せなさい! 味付け玉子の十個や二十個、ちょちょいのちょいだ!」

 嬉々とした様子で、流しの下の棚を開けて醤油の一升瓶を取り出した。
 これでしばらくは、三食の付け合わせに味付け玉子が出てくる事、間違いない。
 楓はその様子にうなずいて、キッチンから出た。
 いまだ静かに玄関横にいるコマは、楓を見つけ少し困った顔をしたくらいで身じろぎ一つしない。
 楓は、コマの背中に手を置いて、人よりも高い体温に安心して少し笑顔になった。

「おはよー、コマさん」
「おはよう、楓様。毛布をちゃんとしなかったのか?」

 耳を澄ます必要もないほどの大騒ぎは、コマの元にも当然届いていたのだろう。
 そんなコマの言葉に、楓は素直にうなずいた。

「うん。掛け布団はがして敷き直すの、めんどくさかったの」
「そうか。ならしょうがないな」

 うなずきはしなかったが、呆れた声も出さないコマに、楓は両手でコマの両耳をつかむ。
 無表情で耳をつかんだまま動こうとしない楓に、コマも何も言わない。
 楓が目を少し細めて、口をとがらせる。

「ずるいよ、コマさん。寒かったなら毛布使えば良かったじゃない」
「いや、これは槙原様の指示……」

 コマは急に口をつぐみ、目を泳がせた。
 その態度が分からずに、首をかしげて楓が無言で先を促すと、コマは渋々といった調子で口を開く。

「槙原様からの、初めての好意だから、断り切れなくてな。仲良くした方が、楓様も嬉しいのだろう?」
「そうね。コマさんが家族になれたみたいで、すごく嬉しい」
「そうか」

 両耳から手を離し、コマの顔を嬉しそうに撫で回す。
 目を閉じ、されるがままになりながらも気付かれないように小さく嘆息した。

「楓ちゃん、もう少ししたらご飯が出来るから。着替えておいで」
「はーい」

 台所からのぞく楓父に返事をして、ゆっくりと階段をあがっていく。途中、玄関を見下ろせば、まだ座ったままのコマが楓とキッチンに視線を往復させていた。
 楓はくすりと笑い、階段上に目を向ける。
 手すりに体重を預けながら、いつもなら辛い階段も苦になっていない事に気づいた。

 生まれた時から足が悪く、毎日がリハビリのようなもの。
 コマも補助をしてくれるが、自力で階段をあがるのはひどく辛かったのに。
 コマを見ると、頑張らなくてはと、何故か心が引き締まる。
 自分を見守ってくれる者が増えれば、それだけ頑張りたくなるのかもしれない。と楓は思い、歯を食いしばって残りの段差に意識を集中させた。


「コマさん、散歩に行こ」

 朝食後、ピンク色の細いリードと、お散歩カバンを手に持ち、オレンジ色のコートを着た楓が声をかける。
 バスローブの上から解放されたコマは、伏せている状態で頭だけ持ち上げ、小さく首をかしげた。

「……いや、今日から散歩はしなくていい」

 その言葉に、楓の目が見開いた。リードを強く握り、コマの傍にしゃがみこむ。

「コマさん、どうしたの? どこか苦しいの?」
「いや、どこも悪くない」
「じゃあ、散歩行こ」

 大きな獣は考えるように、困ったように押し黙る。
 チラリと楓から視線を外し、楓の背後――一階奥の部屋を見たコマ。
 コマの視線をたどる様に楓が振り向き、閉まっている扉越しに声をかけた。

「パパ。散歩に行ってくるね」
「ダメだ、今日は家にいなさい」

 音もなく扉が開き、楓父も困った顔でそう告げる。

「誰かお客様がくるの? 大丈夫よ、近所をグルッと回ってくるだけだから」
「……コマ。ちょっと来なさい」

 一歩もひかない楓に、待っておいでと声をかけ、楓父は左腕でコマと肩を組んだ。
 楓に背中を向けて、声を落とす。

「お前、分かっているな?」
「はい。道路に出たら、すぐ引き返してきます」
「よし、五分待って戻って来なければ……分かっているな?」

 さらに声を低くして、組んでいる腕に力を込めた。
 楓の足では、五分で戻るのは不可能だという事は、コマは理解していた。
 要するに五分後、帰ってくる姿が門の前から見えなければ『分かっているな』という事になるのだろう。
 門の前で待っている楓父の姿を想像して、コマは嘆息を噛み殺し、声を絞り出した。

「……はい」
「パパとコマさん、本当に仲良しだね」

 真後ろから声がして、二人とも内心、飛び上がりそうなほど驚いた。
 態度に出なかったのは、長い年月生きてきた賜物たまものだろう。

「そうだよ。パパとコマは仲良しだ。でも一番は楓ちゃんだからね!」

 コマの背中に手を置いて、笑顔で振り返る楓父。 

「うん。分かってる」

 楓も小さくうなずいて、コマの首輪に細いリードを繋いだ。
 コマはされるがままに、大人しく従っている。
 ゆっくりと玄関に向かい、楓は振り向いた。

「パパ、すぐ帰って来るから」
「すぐだからね? 危ないモノには近付かない事、分かったかい?」
「うん。コマさんもいるし、大丈夫だよ」

 コマの頭に小さな手を軽く乗せ、楓は微笑する。
 楓父もそれを見て、柔らかい笑顔を浮かべた。

「ああ……楓ちゃん、そんな顔も出来るようになって!」
「うん。行って来ます」

 目元を押さえ出した楓父に挨拶して、楓は黒い扉を開けた。
 やっぱり行かないでという声も、扉の向こうに消える。
 大きく息を吐いたコマに、楓がくすりと笑い、ゆっくり歩き出す。

「コマさんも外に出たいでしょ? ずっと家にいると、考えなくてもいい事。考えちゃうもの」
「……何かあったのか?」

 声のトーンを落とした楓に、コマが歩みを止めず振り返った。
 そんなコマの背中に手を乗せて首を振った。ショートボブの黒髪がサラサラと揺れる。

「ううん、いいの」
「そうか」

 コマはしつこく聞く事もなく、前を向く。
 深くは立ち入らないでくれるコマの後ろ頭に向かって、言葉を発する事なく、楓は小さくうなずいた。
 二人とも、ゆっくりと門から足を踏み出す。
 出勤、通学後であるのか、道に知った人影はない。
 しかしここ数日、少し離れた空き地から、こちらを面白そうに見てくる三人の人間がいる。こちらを見ては何やら囁き、笑い声をあげ、見ているだけの男達。
 年の頃は、十七、八といったところか。知らぬ振りをしながらもコマは意識の片隅には置いていた。
 楓父の言葉もある。どんな若い人間だとて、見知った近所の人間すらも、今のコマの中では、警戒対象になっている。
 自然と彼らと楓の間に入るように、移動するコマ。
 学生服を着た三人は、お互いの目を見てうなずき合い、気持ち悪い笑みを浮かべながら、コマと楓の方へと歩き出した。

・******・
HPやってます。
□ むぎの書庫管理 □


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