表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あぁ苦労

作者: 篠原 ひなた

 娘は笑っていた。

 一点のくもりもないにこやかさで、笑っていた。


「はい、お母さん」


 差し出された小ぶりな紙袋を受け取りながらなんとなく聞き逃していた言葉を思い返してみる。


「これ、お母さんが言ってた請求書」


 領収書の聞き間違いだと思っていた。

 何しろ、3ヶ月ぶりに帰省した娘がまた一人暮らしに戻ろうというのだ。

 電車の発車時刻まであと20分を切っている、そんなドタバタした最中に、娘のささいな"言い間違い"に気をとめている暇などなかった。

 忘れ物がないか(何しろ切符を忘れて帰ってきたこともある天然娘だ)確認して、あわただしく家を出る。車で駅に送りつけたのは発車時刻の5分前。


「ままり〜ん、ありがとぉ〜」


 そう叫びながら娘は去っていった。

 山ほどの本が詰まった袋を2つも(読みもしないのに!)持って帰ってきた娘は、案の定手付かずのその袋を背負って行くことになっていたが、それをまったく苦にしていないかのようなさわやかな笑顔を残して。

 

 そういえば、と私は思い出す。

 出発前ににこやかに写真まで撮った。

 あの瞬間のさびしさはどこへ行ってしまったのだろう。


 あらぬところを漂っていた視線を、机上に戻す。

 

「・・・・・・」


 ため息すら、こぼれなかった。

 そこにあったのは、本当に請求書だった。

 電気代、ガス代、インターネット代金、電話代、水道代など・・・5月から7月まで3ヶ月分がそろっている・・・それも、すべて未払いで。

 封書がきられていないものも2通あることに気づいて、私はとうとうため息をついた。そのまま手を伸ばして折りたたみ式の携帯を開く。とにかく事情を聞いてみなければならないだろうと思ったからだ。リダイアルで電話をかけかけて、ハタと気づく。

 今、娘は電車の中だ。

 速やかにCメールに切り替えて、なれない手で文字を打ち込むのに数分かかった。


『何で請求書ばっかりあるの。何で払ってないの』


 とにかくメールが娘の携帯に届いたことを確認して、私は携帯を折りたたむ。

 堂々と視界に広がってやまない請求書の山に、1ヶ月ほど前のことを思い出す。


「ままりーん、どうしよう」

 大学に合格して一人暮らしをはじめて2ヶ月目の娘は、いつものように半泣きで電話をよこした。この間は小麦粉を床にぶちまけたがどうしようという相談内容だったことを思い出して、げんなりしながら続きを促す。今回は、米に白くてにょろにょろとうごめく虫が大量にわいたことにパニックを起こしたようだった。とにかく根気強く話を聞いて対処法を教え、やれやれと思いながら電話を切るタイミングをうかがっていたそのときだった。あらぬ言葉が聞こえたのは。


「夏でよかった〜。やっぱり冬だと水風呂はきついもんね」

「どういうこと?」


 耳を疑いながら、私は尋ねた。食べること読むことの次に長風呂が好きな娘が、水風呂?


「なんかね〜、ガス止められたみたい」

「はぁ?」


 あっちへこっちへ飛ぶ脈絡のない話を総合するに、どうやら娘はガス代を払い忘れていたようだった。


「だって。夜8時まで学校があるんだよ〜。銀行も郵便局も行けないし〜」

「ガス代くらい払え。今すぐ払え!」


 思わず電話口に向かって叫んだ私の気持ちを、分かっていただけるだろうか。

 何しろ娘の部屋から徒歩5分圏内に、銀行も郵便局もコンビニもあるのだ。

 いくら我が娘のすることとはいえ、いや、我が娘がすることだからこそ、こうも間が抜けた理由でガスを止められるなどという珍事を許容するいわれはなかった。


「はぁ〜い」


 返事だけは明るく、娘は通話を切った。


 一ヶ月前の顛末を思い返して、私は着信のない携帯に向かってため息をつく。

 あのときに、聞いておくべきだった。

 他に未払いの請求はきていないのか、と。


 とにかく、どうにかできるものはどうにかしなければ。

 そう思いながら私は目の前の請求書に目を通す。

 ガス代2021円、徴収期限5月28日。手遅れだ。

 ガス代2321円、徴収期限6月28日。手遅れだ。

 ガス代2210円、徴収期限7月28日。これも手遅れ。

 電気代、電話代、水道代、とどうにもしようがない請求書の山にげんなりしながら、インターネット代の徴収期限を見つめる。

 321円。徴収期限、昨日。


 これだけでも、どうにかならないだろうか。

 とりあえずいつもの鞄に入れた瞬間だった。

 ようやく携帯が間の抜けた着信音を響かせたのは。


 ひったくるようにつかんで、メールを開く。

 開いた瞬間に脱力した。


『げ、そうだったぁ〜?』


 ご丁寧に、首をかしげる猫の絵文字がついている。

 私は、携帯を壁に投げつけてやりたい自分をなんとかおさえることで精一杯だった。

 「そうだったぁ〜?」じゃないだろう、そうだったぁ〜? じゃ。他にもっと書くべきことがあるのではないか、と思いながら私はもう一度メールを送りつけた。


「そうだった、じゃないでしょう! 何で払わなかったの!」


 時計を見れば午後2時。

 そういえば今日は銀行に用事があったのだった、ととりあえず立ち上がる。

 はっきり言えば、不貞寝したい気分だった。

 誰に似たんだうちの娘。




 それからのことは、はっきり言って思い出したくない。

 件のインターネット代は、「申し訳ありませんが、期日がすぎたものはお取り扱いいたしかねます」と、アルバイトの女性にものすごく申し訳なさそうな声音で丁重に支払いを拒否された。

 ガス代と電気代にいたっては、問い合わせの電話をかけた時点で「お母様でございますか。申し訳ありませんがご本人にしかお答えできないんです」とやはり丁重に謝罪され、むしろこちらの立つ瀬がなかった。

「悪い子じゃないんです。ただ単に、払い方を教えてなかっただけなんです。悪気はなかったんです」

 思わずそう言って平謝りして電話を切ったあとで、沸々と湧き出してきたこのやるせなさをいったいどこにぶつければいいというのだろう。

 娘は未成年。監督責任はまだ私と夫にある。

 だが、18のそれなりに分別もあるはずの娘がこんな珍事を引き起こすなんて予想できるはずがあってなるものか、と言いたい。


『私が持って帰ってきなさいと言ったのは、領収書であって、請求書じゃないのよ』


 改めてメールを送りながら、私はひっそりとため息をこぼした。

 はっきり言って、本社まで行かなければ支払えないこの請求書の山はここにあってもどうしようもない。

 かと言って、あのあほ娘に送りつけたところで、支払いが一人でできるとも思えない。

 こうなったら、あの娘の近くで同じく一人暮らしをしている長女に後を任せるしかない。

 ・・・あの長女に任せていいものか、ひどく心配だが、この際そこには目をつぶることにして、私は携帯の短縮ボタンを押した。


 あぁ、苦労。


 はじめまして。もしくは、お久しぶりです。

 水音灯と申します。

 あなたがそこに居てくださることが嬉しいです。

 この物語を読んでくださってありがとうございます。


 当人にとってはシリアス、でも傍から見るとコメディーってこの世の中にはあふれているような気がします。今回は、そんな事件の一つをフューチャーしてみました。

 ご感想・ご批評、誤字・脱字のご指摘などいただけると嬉しいです。(明日への活力になります)

 どうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
[一言] ああ、こんなことがあったら洒落にならない。とニヤニヤと笑いながら読ませてもらいました。 日常(?)の一こまにのほほんとした幸せな気持ちをもらえました。ありがとうございます。
[一言] こういう娘に育てた親にも責任ありますよね…。この子の将来が心配です。 親の立場としては、二十歳過ぎた子供の責任をとる必要はないんで、後二年の辛抱ですよね。 ラストですが、「苦労」で締めるより…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ