大人の夏休み
お父さんは明日から長い夏休みです。そう母親に聞かされた子供の心境はどういう物だろうか。
幼稚園児なら、夏休みと言う単語をそもそも知らない可能性があるし、小学校低学年なら素直にその言葉を受け取るだろう。
「わあ。お父さんにも夏休みがあって良かったね」
笑顔でそう返す子供を見て、引き攣った笑顔で返す母親の顔が目に浮かぶ。
しかし残念ながら、その言葉を聞かされたのは現在中学2年生である高野雄介君であり、大人の夏休みという言葉の意味を、十分に理解できる年齢だった。
「あ、えっと。え?」
まあ、一般的な中学2年生が返す言葉としてはこれが正しい。視線は泣きそうな母では無く、リビングの机を見つめながら椅子に座り続ける父親へ向いている。
「父さんな。これでもしっかり働いてきたつもりなんだ……。会社に恩を感じて、一生勤めあげるつもりで居た。だけど、会社の方はそうじゃなかったらしい……」
その言葉は雄介君に向けられた物なのか。それとももっと別の物か。とにかく高野正二42歳は、その齢に似つかわしくない涙を机の上に垂らしていた。
「お父さん元気を出して。退職金だって一応貰えたんだし、失業保険だって入ってたじゃない。時間ならまだまだあるわ。家族一同力を合わせて、次の職を見つけましょう?」
この場において一番大変なのは、夫の心情が理解でき、息子にも配慮しなければならない母親、高野昌子である。昌子は夫の失業と言う事実を、ヒステリックにならずに受け止める度量があった。
現代家族にありがちな核家族である高野家に置いて、家の大黒柱と言えば、経済面を除けばこの母親なのである。
今は経済面の大黒柱が圧し折れた状況なので尚更だろう。
「ごめんね雄介。お父さんこんなだから、詳しい話は後になるだろうけど、しっかりと理解して欲しいの」
お父さん、無職になっちゃったわ。
その言葉は、確かに雄介の心に刻み込まれた。
どんな事件が起ころうとも、それが身内の問題であれば社会に変化など無く、休日でも無いため、雄介は学校に通わなければならない。
昨日よりは少し元気を取り戻した父親に見送られ、雄介は家を出た。
「よう、高野! どうしたんだ、元気が無いぞ?」
肩を落として歩いていたからだろうか、背後から背中を叩かれた。元気よく話しかけてくるのは雄介と同じ学年で、中学に通う様になってからの友人である、八坂翔太だった。
「いや、ちょっと、色々あってさ」
父親が会社をクビになったから。そんな話を高校の正門近くで話す程、雄介は無神経になれなかった。とにかく言葉で濁すしか無い。
「なんだなんだ。昨日までは、もうすぐ夏休みだからってんで、休みの間の予定を立てたり、出される宿題のサボり方で盛り上がってたじゃないか。一体どうしたんだ?」
「夏休みねえ……」
今ではその単語は不吉な言葉である。父親の夏休みは何時まで続くのか。学生の夏休みは、何時までも続いてほしいが、大人の夏休みは……。
「おい、本当にどうしたんだ? なんだったら話して見ろよ。俺はこの通り元気だからさ、何時だって相談に乗ってやるぜ?」
雄介の様子を本気で心配したらしい翔太。覗き込むように、雄介の顔を見てくる。
「いやあ、どう言ったら良いのか……」
翔太が相談に乗ってくれたところで、解決できる問題でも無かろう。なにせ、雄介自身で無く、その父親の問題なのだから。
「まったく。夏なんだぜ? 学生なんだぜ? そんな時期に、どいつもこいつも暗い顔をしてどうするんだ!」
どいつもこいつもと言われて顔を上げる。周囲を見渡してみれば、通学している学生の半分くらいが、雄介と同じ様に肩を落としている。
「なんだか、みんな不景気な顔をしているね」
「だろう? ほら見ろよ。俺達のアイドル。名和さんだって、肩を落として歩いている」
俺達のアイドルと言うのは、雄介のクラスに置ける、名和絵梨香を現す言葉だ。その言葉の理由は、クラスで好きな女性は? と聞かれて、とりあえず名前を上げる相手だったからだ。
綺麗な顔立ちで物越しも穏やか。長い黒髪を染めずに凛と歩く姿は、男子で無くても惹かれる姿をしている。そんな彼女が、どうした事か、今日はふら付きそうな足取りで歩いている。
いつも一緒に通学している女子、青木清子も心配そうに見つめている。
「どうしたの、絵梨香? 何時もより力が無さげよ?」
気分が悪いのなら、保健室に連れて行こうか? そんな心配をする清子へ首を振り、絵梨香は話す。
「ううん。保健室なんて良いわ。私は大丈夫だから……」
大丈夫で無さそうであるが、気丈にもそう答える絵梨香を見ると、やはり彼女は綺麗だと思う雄介。
「でも、やっぱり心配だわ」
確かに心配だ。雄介などは、父親が首になっただけであり、雄介自身は健康体である。一方で絵梨香はどうだろう。女性があの様によろよろと歩く姿は、見ていて安心できる物では無いだろう。
「本当に、私は大丈夫なの。大丈夫じゃないのは、私のお父さん」
なにやら聞き逃せない単語が雄介の耳に入る。お父さんが、何だって?
「お父さんが、どうかしたの?」
当然、話の展開から聞き返す清子。最初から話すつもりだったのだろう、絵梨香は清子に向かって話し出した。
「あのね、お父さんが、会社をクビになってしまったの……」
どうやら彼女、名和絵梨香。雄介よりも大分無神経な性格をしているらしい。
「おい聞いたかよ。うちのクラスでも半分くらいが、親が会社をクビになったって話だぞ?」
憂鬱な学校の昼休み。未だに気落ちして机に突っ伏す雄介に、翔太が詰め寄る。
「それは、なんとも……」
信じられない話だ。なんと言う偶然。いや、もしかしたら必然かもしれぬ。
「不況、不景気、人員カット! ブラッディーマンデー!!! 世の中どうしちまったんだ!」
騒ぐ翔太だが、それに乗ってくる生徒は居ない。クラス全体が暗い雰囲気に包まれていた。
「本当、どうしたんだろう。ニュースでやってたりして……」
どうせ家庭内の問題だろうと思っていたが、どうにも規模が大きい気がする。雄介はなんとは無しに携帯を取り出して、今日のニュースを確認する。
この携帯も、明日か明後日かには、贅沢だからと止められる可能性があるので、名残惜しい相手だった。
「ええっと、画期的新発明『仕事をする君』全世界で大量生産開始? これじゃないよなあ。うん? あった、世界的大規模リストラ。失業者は日本だけで30万人以上!?」
雄介はつい声を張り上げてしまった。30万と言う数は想像し難いが、一大事件である事はすぐに分かる数だった。
「雄介くん。それって本当なの?」
「うちの親父もその一人かも!?」
「おい、他に携帯持ってる奴、調べて見ろ!」
雄介の声に釣られて、クラス中が騒ぎ始めた。騒いでいる生徒は専ら、先程まで落ち込んでいた人間であった。
誰もがどうして親がクビになったのかと、自問自答していた人間なのだろう。昼休みが終わる頃には、一体世の中どうなってしまったのかと言う疑問に、答えが出ていた。
事の始まりは、とある発明家が、通称『仕事をする君』と言うロボットを作った事に始まる。
この『仕事をする君』。名前の通り、なんでも仕事をしてくれる。勿論、複雑な発想や、職人芸を再現する事は不可能なのだが、単純作業は一通り完璧に行い、複数集まれば、分業によって、人間と同じ様な生産活動を、人間よりも高効率で達成してしまう。
『仕事をする君』の生産自体を、『仕事をする君』で行えるのだからたいした物だ。この発明品は、一年程前に発表され、じわじわと経済の中に浸透して行った。
そして今日、『仕事をする君』の影響が表面に出始めたのだ。
「そう言えば父さん、確か家電メーカー勤務で、下請けの工場を管理する仕事だった様な……」
しかしそれらの工場は、今では『仕事をする君』が働く場所であり、ロボットの『仕事をする君』は、ミスしないサボらない文句を言わない、労働者の鑑の様な存在だ。つまり、しっかり仕事をしているのか管理をする必要が無い。必要なのはロボットをメンテナンスする様な技能を持った者であり、その技能者も、別の『仕事をする君』が居れば事足りるのだ。
「家は土建屋だよ……。大半の仕事がロボットで代用できるじゃねーか!」
「私のお父さんは運送業だわ。このロボット、自動車の運転までできるのかしら……」
再びクラス中が騒ぎとなる。しかし、たかが一地方の学生が騒いだところで何かが変わる訳が無く、結局、教師が騒ぎを聞きつけ怒鳴り込んだだけで終わってしまった。
その日から、『仕事をする君』の影響は全世界で表面化しだした。多くの労働者が、仕事を奪われ失業者となり、企業が労働者管理について、楽な道を選び始めた。
しかし企業側にも問題が出始める。いくら物をロボットで生産しようとも、それを購入する相手が居ないのだ。なにせ、購入者であるはずの労働者を、企業は自ら手放してしまったのだ。
このままでは経済が停滞してしまう事を懸念した政府は、一定の買い物ができる購入券を、全世帯に向けて発行する。
政府の決定に文句を言う人間は殆ど居なかった。なにせ、もう国中、大半の人間が失業者であり、購入券を貰えなかったら暮らしていけない人間ばかりになっていたのだ。
当然、その状況を不安に思う者達も居た。国がいくら購入券を発券しようとも、何時かは経済的限界が来る。そう考える者達だ。
しかし、意外にも不安に思う未来は来なかった。何故なら、大半の労働を無償で行ってくれるロボットが居るのだ。殆どの生産品が、実はほぼ無償で買える程に大量生産されていた。しかも、生産者に賃金を払う必要が無い。
そんなこんなで、多くの大人が長い夏休みに入る中、それでも社会は回り続けていた。
「いやあ、今月は国から購入券が大量に貰えたから、来週あたり家族で旅行に行かないか? 公共交通は『仕事をする君』が運転しているから、運賃も殆ど掛からないぞ」
少し前まで、暗い表情しか浮かべなかった父、正二が笑顔で食卓に座る。それを見る母親も元気そうだ。
「あら、良いわねえ。来週から雄介も夏休みでしょう? 予定、空けて置きなさいね」
「う、うん」
雄介“も”夏休みと来たもんだ。結局、無職やら大人の夏休みやらと言っても、それに対する悪印象は、世間体の問題であり、世の中すべてが夏休みとなれば、それを気にする状況では無くなるのだろう。
「で、でも、良かったよね、最低限の保障は国がしてくれて、こうやって普通の生活ができる」
一応、家のローンは残っては居るのだが、それも今後、国発行の購入券で代用できる事になるらしい。
これが内だけの話では無く、全世界でも似た様な状況になっているのだから、随分と短期の間に、世の中様変わりしたものだ
季節もあってか、大人から子供まで絶賛、夏休みであった。
「こんな世の中なんだから、子供も夏休みの宿題くらいしなくても大丈夫だよね」
「「それはちゃんとしなさい」」
叱られてしまった。
始まった夏休みは、社会が大きく変わったはずだと言うのに、特に普段と変わらぬ物だった。朝昼と自堕落に過ごし、時たま友人と遊びに行く。そこに何時もと違う部分を見つけようとすれば、父親までもがそんなだらけた風景の一部になっていた事だろうか。
「ほらほら、雄介もお父さんも。掃除の邪魔だから、どきなさい」
そんな母の言葉にどやされて、部屋から一旦出て行く。まあ、こんな日々が続いていた。
それが変わり始めたのは、夏休みも終わる最終週からだった。
「雄介。父さん、新しい仕事を見つけたから」
何時もの食卓で、何時もとは違う発言を口にする父。
「え? 仕事って、『仕事をする君』に殆ど取って代わられたんじゃないの?」
意外な父親の言葉に疑問符を浮かべる雄介。
「どうやら、営業の仕事や量販店の店員まで『仕事をする君』じゃあ、味気ないと言う話があったらしくてな、父さんが働いていた家電メーカーから、そっち方面の仕事をしないかと話が来ていたんだ」
このまま、ずっと休んでいては自分が駄目になると考えた父は、その話を受ける事にしたらしい。
「お給料は、前よりずっと安いらしいんだけど、足りない分は、国からの購入券でなんとかなるから、私から言う事は無いわね」
父の話に母も賛成している様だ。そうなれば、雄介に文句を言う資格は無い。ただ、夏休みに入る前の日常に戻るだけであった。
その戻りは高野家だけの話では無かった様だ。仕事と言うのは探せば有る物。レストランの料理人は、やはり人の手でなければと文句を言う人間がいれば、料理人に人間を使う需要が生まれ、宝石店や服飾品店などでは、ロボットが作った効率的な物でなく、人の手が入る非効率的な物が売れる様になった。そうなれば、作り手側も人を欲するようになる。
そうして世の中、『仕事をする君』と言う存在は認知したが、それでも以前と変わらぬ状態へと戻って行ったのである。
全世界に訪れた大人の夏休みは、こうやって終わりを告げた。
「なんだかなあ。仕事をしなくても良い世の中になったんだから、しなければ良いって思うのは、俺が子供だからなんだろうけど」
夏休みと言う物は、何時かは終わる。それは大人の夏休みでも同じだったらしい。目まぐるしく変わる世の中は、目まぐるしく元に戻った。それは期間にして子供の夏休みとほぼ同じ期間。
「やっぱり、休みは限りがあるものなんだなあ。俺もこの夏休み、終わりは近いけど、精一杯楽しむ事にしよう!」
そんな決意を新たに、残りの夏休みを過ごす事にした雄介。
彼が夏休みの宿題にまったく手を付けていない事に気が付いたのは、休みが終わる一日前だった事を、ここに書き記しておく。