気付けば講堂には誰もいなくなっていた。
卒業式の準備は毎回その年の2年生がすることになっている。
いくつかの班に別れて、それぞれが椅子を並べたり舞台の掃除をしたりするのだ。
あとを任せた監督役の教員が去ってから、まだ20分もたっていないはずだ。
適当に自分たちの仕事を終わらせて、不真面目な生徒達は皆帰ってしまったらしい。
「アイツら……」
ため息を吐いたつもりが、自然と本音が漏れていた。
粗雑に並べられた机や椅子の向きを一人で直す。
誰もいない講堂は怖いくらいに閑散としていて、自分の息遣いまでもが聞こえそうだった。
ふと、物音がしたので振り返った。
講堂の隅で紅白幕を丁寧に画鋲で張っている生徒。
見覚えのある後ろ姿に、彼女が誰であるのかすぐにわかってしまった。
彼女は自分の身長よりも遥かに高い位置まで手を伸ばし、一人で壁に幕を張り付けていた。
気付かれないよう、一歩一歩近づいてみる。
画鋲を押そうと背伸びする彼女。
そのスカートの裾は少し上がって、そこから普段は見れないような白い膝の裏が覗く。
それだけで見慣れたはずのこの後ろ姿が、どうしていつもと違って見えるのだろう。
目のやり場に困りながらも思いきって彼女の後ろに立ってみた。
彼女の手から画鋲をとって、正しい位置に押してやる。
ハッと気付いたように彼女が振り向いて、
「邪魔しないでよ」
と唇を尖らせた。
それは最後のひとつだったようで、見渡せば講堂の壁一面が紅白に覆われていた。
「一人で全部やったのか?」
「あんたが余計なことをしなければね」
彼女はため息混じりにそう呟くと、壁にその背中を預けた。
疲れたあ、とだらしなく語尾を伸ばしてそう言うと、今度はズルズルと腰を落としてしゃがみこむ。
「皆が帰ったからじゃないわよ?自分から一人でやるって言ったんだから」
白い歯をニッと見せて彼女は笑う。
「なんで……」
「ずっと前から決めていたの。私たちの入学式の準備をしてくれたのは、今の3年生でしょ?だから恩返ししなくちゃって。それで、一番大変な仕事はなんだろうって考えたの。
これを一人で張り付けたら、きっと苦労するけれどやり甲斐もあるだろうなって。
それに、紅白幕って卒業生を見守っている感じがしていいじゃない」
なんともくだらないと思った。
しかしだ。普段の彼女からは想像もつかない律儀な一面に、微笑ましいとも思ってしまった。
「知ってる?紅白幕ってね、人の一生を表しているんだって」
足の疲れが癒えたのか、そう言いながら彼女は勢い良く立ち上がった。
「赤はね、赤ん坊の赤。白は武士が切腹をするときの、死装束の白なんだって」
「へえ」
「それで、白のあとにまた赤があるでしょう。これは『人は死で終わりじゃなくて、また生まれかわる』から。それを何度も繰り返すって意味だと思うの」
あくまで私の考えだけど、と照れくさそうに彼女が言う。
「ねぇ、アンタはどう思う?」
「どうでもいいや」
「なぁによ、それ」と彼女はまた唇を尖らせた。
いやでもその唇に視線がうつる。
強気な印象とは裏腹に、そこだけが果てしなく柔らかくて優しいように見えた。
いつも勝ち気なその体を抑えつけて、ガタガタと騒ぎたてる口を塞いでやったらどんな顔をするだろう。
そんな妄想を膨らましたなら体は硬直した。
奥の奥の、自分でも気付かないようなところから熱がじわじわと込み上げて身体中を熱くする。
慌てて俯いたが、逆に彼女の注意を引いてしまったらしい。
「あ、なに赤くなってんのよ」
馬鹿にしたように彼女が顔を覗き込んできた。
「別に、なってねぇよ!」
「うそ。なってる!あは!なに考えてんのよ?かぁわいい!」
「なってない」
「なってるって。鏡見る?」
いい加減にしろよ。
そう口に出したか、出していないかは分からない。
ただ気付けば自分は彼女の肩を掴み、その身体を壁に押し付けていた。
そのときに彼女は小さく悲鳴をあげたかもしれない。
鼻先が触れるくらいに顔が近づいたとき、薄く開けた瞼の間から彼女の顔が伺えた。
しかしそれは怯えの表情に変わる。
初めて見る彼女の表情に動揺し、俺は何も出来なくなってしまった。
女として意識していたはずなのに、彼女の「女」の顔を初めて見た気がする。
瞳は涙でうっすらと潤んでいて、白い頬は紅潮して赤く染まっている。
掴んだ肩と、唇が小さく震えていた。
「しねぇよ、馬鹿」
ゆっくりと離れた自分の身体は、彼女以上に震えているものだから驚きだ。
彼女が俯いたまま走り去って、その後ろ姿を眺めていた。
また白い膝の裏を自分の瞳に残して、彼女は見えなくなった。
疲れたわけでもないのに自分の身体はその場にガクンと崩れて、視界はただひたすら赤と白が続く。
『ねぇ、アンタはどう思う?』
まだ鮮明に、彼女の声が残っている。
彼女に思いを寄せていた自分が「生」で、今が「死」ならば。また自分は生まれ変わるのだろうか。
まだ知らない誰かを思って、また自分はこんな気持ちを募らせるのだろうか。
それでも、もうその相手が彼女でないことが悲しかった。
彼女が過去の記憶に埋もれていくようで、知らない誰かと出会うのは怖い。
出来れば訪れて欲しくない。
しかし、今自分は確実に「白」なのだ。訪れるべく「赤」をただひたすら待っている。
紅白で区切られるほど、人間単純なものではない。いや、そう思いたい。
赤と白のその閉ざされた隙間に、自分はどれほどの思いを抱いてきたのだろう。
それすら紅白幕は表してはくれない。
自分の人生のなかではちっぽけな、それでも忘れたくない時間。
その「ちっぽけ」たちを紅白幕は全て切り捨てる。
はじめと終わりだけを色に残して、その間は見ないふりをするのだ。
悔しさと、悲しみに近い何かが込み上げてくる。
その何かが溢れてしまいそうで、上を向いた。
赤と白の世界が、自分を急かしたてる。
それでもまだ、夢から醒めないでいる自分の心。
もう少しだけこうしていたかった。まだ身体が熱い。
『なに赤くなってんのよ』
彼女にそう言われた気がして、慌てて俯いた。
我慢していた涙に彼女への思いを溶かして、それが落ちてゆく様子を見ていた。
床に溢れたその世界は赤でも白でもなくて、少しだけ俺は安心した。
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