メントール
それは丸いわっかだったり、少しゆがんでハートのかたちをしていたり、一瞬だけのスマイルマークだったりする。
キンと張りつめた夜の空気に、煙草のけむりがふわりと浮かんでは、消える。
「ヒロノ、寒くないの」
僕は首をかしげるように、ベランダの手すりに頭をおいて、隣をのぞきこんだ。
「寒ぃよ」
「冬くらい中で吸えばいいのに」
「部屋で吸うと嫌がるんだよ」
あ、彼女来てるんだ。
いけない、顔に出てしまいそうになった。ヒロノはつかの間の沈黙を不審に思ったのか、眉間にしわを寄せて俺を見た。
「おまえこそ寒くねえの、顔。手すりめっちゃ冷えてるぞ」
「だよな」
顔を上げた。いまの角度、けっこう評判がいいんだけど、やっぱりだめだな。
その気がないやつに誘いをかけたって、誘われてるって自覚がないわけだから、まあ仕方ないでしょう。これで腹をたてたら逆恨みだ。
「ヒロノの彼女って、会わせてもらったことねぇな。どんな子?」
「……ふつう」
「ふつうって実は失礼な言い草だよ。顔は? 芸能人だったら誰似?」
「それ聞いて、似てたやついるか?」
「女はいねーなあ。あ、でも女芸人って言われた子はだいたい激似」
ヒロノの眉間のしわはまだ消えない。
怒ってるわけじゃなくて、考え事をしている時のヒロノはいつもこんな顔だ。
ああ、さわりたいなあ。あの眉間、ぐりぐりしてみたい。馬鹿みたいなことばかり考えちゃうのは、さっきビールを飲んだせいだ。
僕は缶一本もあけられないくらい、アルコールには弱い。
会いたいなあ、声聞きたいなあ、なにか隣に行く用事ないかな、って思っていたから、ベランダの端にぷかぷか浮いているわっかを見つけて、何の用意もなく飛び出してきてしまった。
「ヒロノ、貸して」
僕は胸ポケットからくしゃくしゃになったソフトケースを取り出し、煙草を一本くわえて、ベランダから身を乗り出す。
「ホストかよ。ライターならやるから、手」
「見てみ。両手はふさがってますー」
「ポケットから出せ」
「無理、寒いもん。なーヒロノ。ヒロノさんつけてよ。あ、つめて」
ベランダの仕切りのふちもステンレスで、手すりと同じくらい冷えていた。ぶつかったほおが、痛いくらいだ。
火がともる。ヒロノは短くなった吸いがらを捨て、新しく取り出した煙草に火をつけた。
「部屋、早く戻んなくていいの? 彼女ひとりじゃつまんないだろ」
眉間のしわはまだ取れないし、返事もない。心ここにあらず。
「あ、喧嘩中? いいなー喧嘩」
「は?」
「仲直り盛り上がるじゃん。静かにやってくれよ。うっすい壁一枚挟んで、僕のベッドがあんだから。ぎっしぎしされたら、こっち気まずいだろ」
「聞こえるか?」
「次の日、ゴミ捨て場で会ったけど、ヒロノさんの顔見れなかったよ。走って逃げたことあっただろ。覚えてない?」
「嘘つけ」
「あ、ほんとに覚えてないんだ。なあ、あのときの彼女とは別の子?」
「……」
なんで表情なくなるの。
いつもひどいしかめつらだけど、今夜は本当にひどいな。
「喧嘩って、ヒロノがなにかやらかしちゃった? 僕が相談にのってやろうか。女の子なだめるのは、わりとうまい方だよ」
「…そうだな」
「え、やっぱおまえもそう思う?お礼なら煙草1箱、成功報酬でもいいよ」
「くち堅い?」
「相談屋さんは守秘義務ありますから。さあさあ、心置きなくどうぞー」
ヒロノはおかしそうに、ちいさく笑った。
「先生、口説き方がわからねえんですけど」
「……もしもし、ヒロノくんは今おいくつ?え、あんなにアンアン言わせておいて、なにあれAV!?ベッドぎしらせすぎだろ、きっも!」
「守秘義務野郎、声でかいぞ。あとAVは持ってない」
「だよねーだよねー、ああびっくりしすぎて落ちそうになった。殺人未遂」
そんなまさか、童貞とかまさか嘘ちょう喰いたいって、ハッピーすぎて飛びそうになった。
けど、幻だった。そもそも、僕は喰えないし。
はああ。ため息隠しのけむりが、湯気みたいにふくらむ。
「で? ベッドへの誘い方がわかんないとか、いうの。その怖い顔で?相手の子、その眉間みてびびったんじゃない?」
「やる気満々で、風呂入ってる」
「あー…逆に萎えちゃった?」
「……いや、やる気はある」
「待って。のろけは別料金だよ。うわさによるとヒロノさんはなかなかのモノをお持ちだそうで。据え膳はきれいきれいしているそうで。20分後にはアンアンなるわけなのに、なんでそんな怖い顔?」
「童貞だから」
「え、それ持ちネタ化するつもり?」
「男相手は、童貞だよ」
タバコが手すりのむこうに落ちた。さいわい道路に人はいない。
「……彼女?」
ヒロノは俺をじっと見つめて、眉間に刻まれたしわをといて、ゆっくりと微笑んだ。
「女じゃなければ、彼氏っていうのか?」
「へ……へええええ――――――」
「……もう戻るわ。相談料は今度払うからいいよな、センセ。お世話さまでした」
「ま、待って待って待って!」
くるりと背を向けられて、僕は焦った。
「ワセリンいる!? ないときっとはいらなくて困るよ!」
「……………なんで、おまえは持ってるんだよ」
「冬はくちびるが荒れやすいから!」
僕は部屋に取って返すと、震える手でバッグをあさって、ワセリンの入ったケースを取り出した。
これ、あげるの?まじで?
ヒロノが男喰うのに協力するの?2秒くらい逡巡したが、またベランダに戻った。
「がんばれ」
「おまえ気持ち悪いとかねえの。ネタじゃないぞ? 隣人が実はホモで男連れ込んで、これから壁越しにアンアンやる話してんだけど」
「好きなら抱きたくなったって、しょうがないじゃない!」
あ、声が裏返った。
ヒロノもびっくりして、タバコを取り落した。
「人間だもの?」
「や、ディレクティッドバイ僕」
「おまえいつも声でかすぎ。近所迷惑だろ」
「ご、ごめん。なか、聞こえちゃってないといいけど」
「あー…そうだな」
ヒロノは部屋のなかを伺った。
冷たい仕切りのせいで、中の様子は全然見えないけれど、ヒロノの少しだけ心配そうな横顔で、どれくらい大事に思ってるのかは伝わった。
目が優しい。いいな。そんな風に思ってもらえて、いいなあ。
いいなあ、僕もそんなやわらかい顔でみてほしいなあ。瞬間的に妄想したら、胸がふるえすぎてきゅんきゅんする。
「僕、しばらく出かけてようか?」
「……それなら俺が出ていく。気持ち悪いならそう言っていいんだぞ。無理して、へんに気ぃつかうなよ」
「あ? え、違う。緊張してる時に、隣に声とか気にしてたら余計落ち着かないかなって、思ったんだけども…じゃあ、ヘッドホンして大音量でAV見てるから。えーと、さっき言ったことは忘れて、がんばれよ」
「がんばれは…ああ、まあ的確だな」
ヒロノは呆れて、やっぱり眉間にしわを寄せた。
「なあ」
「なに?」
「……ありがと。おまえに軽蔑されたら、さすがにへこむ」
かっわいい。
ああ、でも息が苦しい。どうして切ないんだろう。
こんなにこんなに好きなのに、ヒロノは今夜、僕とは別の男と寝るとか、それが壁一枚でつながった部屋で行われるとか、いったいどんな拷問でしょう。神様。
ベランダの仕切りは相変わらず無慈悲で冷たい。
「ヒロノ、これって火事の時とかに、蹴破って隣の部屋に行けるんだよな」
「相変わらず脈絡ないな。俺、いまけっこういいこと言ったぞ」
「けいべつなんて、絶対しねえから」
ヒロノが小さくほほえむ。
いつも怖い顔ばかりしているから、だから笑顔はとても貴重でやわらかで。
こんな顔を見せてもらえるまで、僕はしつこくしつこく話しかけて、警戒をといて、男友達の顔して部屋をたまーに行き来したりして。
料理なんかしないのに、みりん借りに行ったりして。そんなもん、うちもねーしと言われて、無理にスーパーに付き合わせたりして。一緒にご飯食べて。煮物作ってるって嘘ついたのに、煮物なんか作れないから鍋になったり。
でも、なにせ隣だから、部屋に長居はできなくて、もちろん泊まったこともない。
「いいなあ、ヒロノのベッドか」
「ベッドが何?」
「くやしー、僕もそのへんでひっかけてくるか。アンアン対抗戦してやる」
「最低野郎」
「いや、せっかく男前に生まれたんだから、使わないと持ち腐れになる。うまれたときからの僕の使命だよ」
「男前が『僕』とか言うなよ。まあ、おまえが言うとなんか可愛いけどな」
「え?ほんとに」
素、出た。
まずい思いきり嬉しい。
「最初会った時から、きもいとは思ってるけど」
「ヒロノくん、もう戻れば?」
「ああ、じゃあな」
「あ、やっぱ待って」
手を伸ばす。ヒロノの手は冷たかった。
「火、貸しといて」
「なんでさっき、ライターも持って来なかったんだよ」
「動揺しちゃって、ワセリンでせいいっぱいさ」
ヒロノは苦笑をこぼし、「じゃ、しょうがねえな。ワセリンの礼にやるよ」と、100円ライターを恩着せがましく僕の手に握らせた。僕の手も冷たかったはずだ。
「くれるの? ワセリン返さない気? おまえどんだけがんばるんだよ」
カラカラと引き戸が閉まった。
僕はベランダに座り込んだ。
ワセリンあげちゃった。応援してあげちゃった。馬鹿か。これは失恋なのだろうか。
アンアンやってた夜に、布団に丸まってめちゃくちゃに泣いて嫉妬した以来の、二度目の失恋?
こんなに好きアピールして、ノーマルだからって諦めて、でも未練たらしく顔見れるだけでいいとか思ってたのに、ヒロノは僕じゃない男によろめいてホモ道まっしぐら…か。死にそう。
今夜もアンアンやられたら。
いや、男同士だしオウオウやられたら、けっこう心臓痛いけど、でも泣くっていうかどっちかっていうと笑えそう。
明日、ヒロノとゴミ捨て場で会ったら、「脱童貞だからって飛ばしすぎだろ」って、嫌味言ってやれそう。
挨拶もできずに、走って逃げだした時よりマシなのかもしれない。
ぐず、と鼻をすすった。外、寒い。薄荷の味がすうすうしみる。煙草なんかほんとうは吸いたくないのに、ヒロノとベランダでおしゃべりするために、買った。
なんで? こんなに隣にいたのに僕じゃなかったんだろう。僕はヒロノに選ばれたかったなあ。
「ヘッドホンなんか…持ってねえし」
冷たい壁が立ちはだかってる。
今すぐこの仕切りを蹴破って「火事だ――!」ってさわぎたい。
そんなこと出来やしないから、僕はヒロノのぬくもりが残る安物のライターで火をつけ、いくつものハートマークを作って、空に浮かべた。