祝福の神子 2
かつて私に与えられた私室で再び生活をするようになって一月が過ぎた。
余りにも目まぐるしく状況が変わっていく為、事後処理が追い付かず、執務室に籠りきりとなって私室へ帰ることも少なくなっている今日、本当に久しぶりに、心から安眠を貪っていた。
この状況を招いた元凶でもある、カナシュタ義兄様が襲来するまでは。
「テルミナ」
安らげる空間で耳を擽る心地良い重低音に、私は思わず手を伸ばした。
それが何か、なんて普段ならば考えれば直ぐに分かる事なのに、疲労困憊だった私は微睡む意識の中、甘えるように擦り寄った。
「もう少しだけ、寝かせて下さいませ」
私が伸ばした手をぎゅっと握りしめた何かは、くすくすと秘めやかな声を上げて笑い、私の頬に指を滑らせた。どうしたの、という言葉は唇に降りてきた温かな体温によって消える。唇を食むように温かな吐息が唇を掠め、どうにも重たい瞼を押し上げようとしていた私の瞼に、温かな体温が押し当てられた。
「お休み、テルミナ」
柔らかなその声は、じんわりと私の胸に温かなものを呼び覚ます。心地良いその声に返事をした所で、私は未だ覚醒には至らない意識を睡魔に身を委ねた。
*
―――テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女がアナスタシア皇国第二十九代皇帝として皇位継承なされた事が国内外に向けて正式に発表されたのは、ドロワー王国の兵士達によって皇城が占拠された僅か二日後の事だった。
同時に、アナスタシア皇国内では暗黙の了解で秘されていたテルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女が、カナシュタ・フロンタール元第一皇子に続く二人目の祝福の神子であることが他国へ向けて発表され、その事実は瞬く間に大陸中のあらゆる国々とその民へと伝わっていった。
その事実は多くの民を揺るがし、その殆どが好意的に受け止められていたものの、実質、ドロワー王国が祝福の神子を二人も擁している事が明確となった今、勢い付くドロワー王国に攻め入ろうとする国々はその殆どが戦意を消失し、融和政策へと移行を始めていた。
元々、アナスタシア皇国は他国間の争いとは無縁の立場にあったが、隣国たるドロワー王国は国境を介して複数の諸外国と接している立地にあり、その為他国間との小競り合いは毎年のように国境付近で繰り広げられていた。
ドロワー王国は、そのような経緯もあって、軍事国家という面が強く、肥沃な大地と豊かな鉱山を有してはいるものの、財政面では常に逼迫し、また文化的な教育面でも他国とは比べ物にならぬ程遅れている。
なにせドロワー王国の民は他国のそれよりも多く、高等教育を受けさせる事が出来るのは一握りの高級軍人やその家族のみである。
周辺諸国とは常に睨み合っているため、他国へ留学させることも難しい。
そんな中で今回、カナシュタ義兄様と利害関係が一致したことでアナスタシア皇国を攻略し、大陸中で最も古い歴史を持ち、豊かな財力を有するアナスタシア皇国を属国としたドロワー王国は、これによって更に領土を拡大し、アナスタシア皇国のあらゆる歴史的な書物や大陸中で最も進んだ教育文化を手にする事となる。
これはドロワー王国の歴史上、最も大きな転換点といえる出来事であった。
それは言わば、軍事国家から平和な民主国家への移行でもある。
戦ばかりの日常を過ごしていたドロワー王国の民にとって、これは歓迎するべき出来事であったらしく、ドロワー王国の現国王とその体制に対する民の信頼は厚く、王都は歓喜の渦に包まれている…らしい。
それは特に、これまでの小競り合いの如く兵士の血を流すことなく素早く事を納めた手腕が大きく関係している。
これまで兵達に多くの犠牲が出て来ていた戦とは違い、疾風の如く短期間に皇城を制圧し、兵達の被害を最小限に抑えて最大限の戦果を上げたその手腕は見事という他なかった。
そのため、此度のアナスタシア皇国攻略の立役者でもある、元アナスタシア皇国第一皇子であり、此度の総司令官、カナシュタ・フロンタールの名はドロワー王国の国王の名に続き、英雄の如く讃えられているという。
―――事実とは小説よりも奇なり。
救いであるのは、アナスタシア皇国民に対し、ドロワー王国側が武力による弾圧の意志が無い事と、これまでのアナスタシア皇国領にある程度の自治権が与えられていること。
何よりアナスタシア皇国の皇族がドロワー王国によって手厚く保護されているという事が、現在アナスタシア皇国領に住む民達の心をとき解していることは事実だ。
そうして、アナスタシア皇国が属国となって半月が過ぎた現在、武装蜂起等の大きな混乱はなく、アナスタシア皇国は緩やかにドロワー王国へと併合して行っている。
〝例え国に何かがあろうとも、アナスタシア皇国民の心は、常にアナスタシア皇国と共にある〟
それは民がアナスタシア皇国を支える皇族や重臣達へ向けて放った最大の賛辞でもあった。
夜が明けきらぬ早朝、ひっそりと皇城から四台の馬車が連なって出て行った。
馬車の横面に刻まれた紋章は、アナスタシア皇国皇族が持つことを許されたユニコーンとリリーの紋章である。その中に座っているのは、前皇帝陛下の弟であり、陛下亡き後は皇帝陛下代理としてアナスタシア皇国を治めてきた人物でもある。
つまるところ、テルミナにとって叔父たるその御方が向かう先は、ドロワー王国の王城だ。
別の馬車には、叔父の妃でもある叔母とその子息達が乗り込んでいる筈だった。
それらの馬車を見送るのは、当直として皇城入り口に控えた兵士二人だけという、何とも寂し過ぎる人数だ。けれどこれは、ドロワー王国との兼ねてからの密約なのだから、仕方がないと言えば、仕方がない事なのだ。
叔父の人となりは清廉潔白とは言えないものの、穏やかな気質を持ち、平和への一方ならね思いを抱いた叔父の才覚は非凡そのものだった。
賢王と名高い前皇帝陛下と比べれば、そのカリスマ性も重臣や民への采配も幾段か劣るものの、叔父のそれは確かに非凡で優秀であったのだ。
『叔父上は確かに優秀な方だね。平和な世にあれば、幾世にも渡って、長く天下泰平の世を花開かせる事も出来ただろう。だが、生まれてくるタイミングが悪かったね。後五十年、早く生まれていれば、叔父上は後世の史実にも残る文化を花開かせる事が出来たかもしれないのに』
不要な人間であれば直ぐ様切り捨てるカナシュタ義兄様があれほど迄に惜しいと思われる叔父様を、今は宗主国とはいえ元敵国のドロワー王国へと送らねばならぬなど、断腸の思いであった。
―――あの日、カナシュタ義兄様と不運にも再会した私は、女皇陛下となって直ぐに叔父様と久方ぶりの再会を果たした。叔父様の複雑そうな表情には、深い安堵と不安で満ちており、それが私を気遣う物であることは明白だった
『テルミナ・ローズ・アナスタシア女皇陛下。此度の御就任、お慶びを申し上げます』
丁寧に頭を下げた叔父様とは裏腹に、私の隣に立つカナシュタ義兄様からはまごうことなき鋭利な刃にも似た殺気が叔父様へ向かって放たれている。
それを向けられていないにも関わらず、私の背筋には凄絶な悪寒が走り抜けていた。
叔父様はそれを受けても尚涼しい顔をしていたものの、額にうっすらと浮かぶ冷や汗が内心の動揺を如実に表しているようだった。
『本来であれば、皇帝陛下が崩御なされた時点で皇位継承権を持つ嫡子、テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女殿下へ席をお譲りするべき所を、私欲を用いてこれを阻み、皇帝陛下代理として不当に采配を振るっていた罪は大きい。それは貴公もご存知ですね、皇帝陛下代理、ノブリス・ライヒ・アナスタシア』
『カナシュタ義兄様!』
『……仰る通り、皇女殿下の就任を遅らせ、不当に扱っていた事は事実です』
『叔父様』
『済まない、テルミナ』
ただ一言、静かに謝る叔父様に私はそっと首を振る。
それを聞いても、隣に立つカナシュタ義兄様の冷気が和らぐ事はない。
不甲斐ない自分が情けない。
私は六年、ただ無為に日々を過ごしていたというのに、これまでアナスタシア皇国を二年に渡って支えてきた功労者へ向けるには、余りにも無礼に過ぎる待遇だ。
けれどもカナシュタ義兄様は、『当然の帰結だよ』と囁くのだ。
『皇帝陛下亡き後、テルミナを世に引き戻す事が決まっていたにも関わらず、これを封じてまで国家の安定に力を注いだ。それは国を導く者としては当たり前の決断だけど、テルミナをその間二年にも渡って私欲で虐げていた事実は変わらない』
砕けた口調で、私に言い聞かせるようにカナシュタ義兄様は、事実を口にする。確かにそれは、客観的に見た事実だった。けれどその事実を、私自身も望んでいたのだ。
ならばそれは、私も叔父様と同罪なのでは無いのだろうか。
美しい容貌を歪め、激しい怒りを秘めたカナシュタ義兄様の言葉に、私はただ黙って聞き流す事しか出来なかった。
その裏には、叔父様が私を世に戻し、嫡子として直ぐに女皇に就任させてさえいれば、これ程迄に長い間、カナシュタ義兄様と離れる事など無かっただろうにというある種の八つ当たりのような思いを抱いている事は知っている。
けれどそれ以上にカナシュタ義兄様は、純粋に、私を貶めた叔父様が許せないのだろう。
例え私が本心からそれを望んでいたと、知っていても。
『ノブリス・ライヒ・アナスタシア。貴公には、ドロワー王国へ向かい、その地でこれから生涯を送って頂く。無論、貴公の妃とその子息子女も同様に』
『承りました』
『カナシュタ義兄様、それも国王陛下の御意思なのですか?』
『無論、その通りだよ。さて、テルミナ話は済んだだろう? 申し訳無いがテルミナにはまだやるべき事が山積している。これ以上此方の方々に時を割くのは惜しい。さあ、行こうか』
でも、と声を上げる間もなく、カナシュタ義兄様から立ち込める冷気は私の言葉を封じた。
叔父様は、床に跪き深々と頭を下げているせいでその表情は読めなかった。身内として、恐らくは今生の別れとなる叔父様とは最後に話をしたかった。これまでの出来事を、そしてこれからについても。
けれどカナシュタ義兄様はそれを良しとはしない。
強引に腰を引かれて引きずられるように退出する中、私はただ黙って顔を伏せる叔父様のこれからの日々が平穏である事を祈る他なかった。
馬車がゆっくりと皇城から離れ、門を潜って皇城を出ていく。馬車の周囲に居並ぶドロワー王国の騎兵達は馬車と同じ速度を保ちながら、警戒するように視線を走らせて馬車と同じく皇城から出て行った。
それらを眼下に納めながら、テルミナはそっと両手を握りしめた。
さようなら、叔父様。どうぞご健勝であらせられますように。
「これで、宜しかったのですか?」
「ええ、ザイツ侯爵。これはドロワー王国から自治権を与えられた際の約定でもございますから」
歴代の皇帝―――現在の女皇陛下に与えられた執務室で、テルミナはそっと息を吐いた。
馬車が窓から見えなくなると、漸く執務室の椅子に座り直し、側で控えていたザイツ侯爵にも椅子に座るよう促した。
此度の一件でドロワー王国の外交官が行った手腕には、テルミナ自身驚嘆せずにはいられなかった。
ザイツ侯爵は些か心配そうに眉を寄せているけれど、それがどうにも申し訳なくて、安心させるように微笑んだ。
「これで民も人心地が着けるでしょう」
「そうであれば、良いのですがね」
対面式のソファーに腰かけたザイツ侯爵の右頬には、一筋の太刀筋が刻まれている。その傷は頬の中程からざっくりと裂かれて顎にまで達し、美しい容貌に深い傷を残している。
それは先日、カナシュタ義兄様がザイツ侯爵の命を助ける代わりに、ザイツ侯爵へ与えた代償でもある。
誓約と代償。それらによって生まれた傷は、魔術であれ、医術であれ治す事は出来ない。
それと引き換えに、褒美としてザイツ侯爵が今後どのような理由であれ、カナシュタ義兄様から命を奪われる事は無くなった。
それが、祝福の神子たるカナシュタ義兄様が成した誓約。
それは同じ祝福の神子たる私でも手出し出来ない領域だ。既に成された誓約と代償を破棄することは、神でなければ出来ないのだから。
「ああ…陛下、此方の傷でしたらもうすっかり良くなっております。化膿もしてはおりませんし、何よりもう痛みも感じません。腕の一本、足の一本位取られるかと思っておりましたが、五体満足でこの場に在る事は僥倖と言う他有りません」
淡々とそう言ってはいるものの、微笑む度に引きつれるその傷は、否応もなく人の目を引く。元の顔立ちが整っているが故に、その傷は悲しい程にザイツ侯爵の品の良い美しさに傷をつけているのだ。
「ごめんなさい、ザイツ侯爵。私が治せれば良いのだけど」
「いえ、お気になさらず。あの御方の御前で吐いた言葉は、私の命を懸けておりました。然し今、私の命が在るのは、テルミナ様のお陰なのですから」
柔らかく微笑んだザイツ侯爵は、「それよりも、」と素早く話題を切り替えた。
「そろそろ、領地の再編に着手しなければなりません。ドロワー王国からは皇国の領土は不可侵であるという言質を頂いてはおりますが、今後皇国の貴族達が反乱を起こすとも限りませんから」
「そうね。皆、保身が第一ですもの。とりあえず、皇族の直轄地はそのままに。貴族方が持っている領地はどのように割り振れば良いのか使者方と詰めていきましょう」
一度言葉を切った所で、執務室がノックされる。外に立った護衛武官から、「ドロワー王国の使者様がお越しです」という声が掛かる。
何ともタイミングが良いことだ。
苦々しい表情を浮かべるザイツ侯爵を視界に入れながら、「どうぞお入りなさい」と声を掛ければ、静かに部屋に入ってきたのは以前謁見の間でカナシュタ義兄様と話していた片眼鏡を掛けた青年だった。
既に幾度か面会した事のあるこの青年の名は、クロード・ヘンベルク。ドロワー王国の正規軍人にして監査官。今現在は、属国となったアナスタシア皇国とドロワー王国の戦後処理の為に残った使者の一人だ。元は文官の出だというクロードは、カナシュタ義兄様直属の部下でもある。
詰まる所、カナシュタ義兄様が私の側を離れている間の監視役という役目も担っているようなのだ。
当のカナシュタ義兄様は、アナスタシア皇国を攻略した総司令官としてメイナール王女と共に一度ドロワー王国へ帰国している為、現在アナスタシア皇国に残っているドロワー王国の使者筆頭がクロードでもあった。
「失礼致します、女皇陛下。本日もご機嫌麗しく」
「ええ、貴方も。ヘンベルク監査官」
慇懃に一礼したクロードは、いつもと同様に紺の軍服を纏っている。怜悧な表情を保つクロードにザイツ侯爵が怒気も露わに鋭く睨むものの、クロードは気にした様子もなくさっさとソファーに腰掛けた。
「さて、それでは本日の処理を始めたいのですが。宜しいですか?」
「ええ、勿論。ザイツ侯爵、始めて」
「畏まりました。陛下」
ふっと息を吐いたザイツ侯爵は手持ちの資料を広げてクロードの前に座った。
「それでは先ず、皇国が持つ領地の件ですが―――」
ザイツ侯爵とクロードのやり取りを聞きながら、私は手元の資料に視線を落とした。本来ならばこれは、その他の重臣を交えて行われるべき事なのだろう。けれど、そう多くはないアナスタシア皇国の重臣達の半数は此度の一件に伴い、空席となっている。
それは一重に、皇城を見捨てて逃げた重臣がカナシュタ義兄様の手によって、いやドロワー王国の手によって処刑されてしまったからに他ならない。
守るべき皇族を見捨てて逃げた重臣達。或いは、皇族を守りながら敗走した者達は、属国となったアナスタシア皇国にとって今後重要視するべき人間ではない。寧ろ、邪魔になるだけだ。
それが分かっているからドロワー王国は容赦なく処刑という手段を取った。
属国となり下がったアナスタシア皇国に必要なのは、ドロワー王国に与しながらもアナスタシア皇国を内部から支え守る人間だけだ。一瞬でもドロワー王国へ刃を向けようとする人間など必要無い。
もし今後そういった者が出てくれば、今度こそアナスタシア皇国はその全ての領地を奪われ、アナスタシア皇国という国は地図上からも、歴史上からも消え去ってしまう。
後に残るのは、旧アナスタシア皇国領という名と、最早意味の成さない旧皇族という存在だけ。
アナスタシア皇国という名が残り、直系の血筋を残す私という女皇が居る今、私がするべき事はドロワー王国から出来る限りの譲歩を捥ぎ取る事だけだ。
そういう意味ではドロワー王国のやり方は上手い。武力で皇城を制圧したが、民へその刃を向けることは無かったし、アナスタシア皇国が持ち得るカードをすべて奪うことはせず、こちらが飲み込むことの出来るギリギリの所で協力を引き出している。
決してそれは宗主国だからと権利を翳し従属を強いるものでは無かった。
それが逆に不気味だと溢したのは、何を隠そう目の前で交渉を続けるザイツ侯爵だ。
その言葉に内心で同意したものの、私自身ドロワー王国の考えが読めないのは事実だ。確かに先に言った通り、ドロワー王国にもアナスタシア皇国を属国とする上で大きな利益はある。けれどそれ以上に、此度の出来事が、そういった利益を度外視した、一種の感情のままに突き動かされた結果の産物であるかのようにも思える。
これを引き起こしたのは、間違いなくカナシュタ義兄様だ。祝福の神子たるカナシュタ義兄様は、人を意のままに操る術を持っている。いや、術というよりも、そうなるべき事を分かって行動していると言って良い。
〝祝福の神子が望めば、それは直ちに現実となる〟
これは単なる言葉遊びではない。事実、そうなるのだ。
祝福の神子とは文字通り、神に祝福された神の子。それは同時に、神の力の一部を受け継ぎ、この世で唯一その力を振るうことの出来る人物を表す。
それは即ち、どのような事柄であれ、祝福の神子が望んだ出来事は必ずそうなる、という意味でもあるのだ。そこに例外はない。
昔、古の時代。アナスタシア皇国が建国して間もなく、祝福の神子が生まれた。
彼は男性であり、美しい容姿を持った皇族の一人に恋をした。
女性は既に思い合う男性と幸せな婚姻し、子も成していたため、彼の求婚は退けられた。彼の好意は女性を喜ばせた。それは無論、友人として。親しい友としてのそれ。だから女性が彼の思いを受け入れる事は無かったのだ。
それが悲劇の始まりだった。
彼は女性との婚姻を望んだ。然し女性には相思相愛の男性が居たのだ。男性は、彼の願いによって若くして急死。女性は悲嘆に暮れる。夫を亡くした女性は、子を連れて市井へと下った。女性は夫を愛していたのだ。夫の死後も求婚する彼を受け入れる事など出来なかった。
けれどそれから一月が経ち、女性は彼の妻となっていた。女性が心変わりした訳ではない。だが女性は、『彼の側に居なければ。彼にそう望まれたから』と虚ろな目をして繰り返した。
女性は心から彼を愛する事は無かったが、現実として女性は彼と子を成し、表面上は幸せな生活を過ごした。
女性は心を壊し、彼へ愛を紡ぐ口しか持たず、彼とひと時も離れることは出来なかった。
女性の父、時の皇帝はこれを訝しみ、女性に『本当に彼を愛しているのか?』と問うた。女性は『勿論ですわ』と答えたが、後に体を壊して女性が亡くなると、一冊の本が出てきた。
女性の子を連れて姿を消した祝福の神子に気付かれることなくひっそりと納められたその本には、驚くべき事実が記されていた。
『私が彼を拒むと、彼を愛する言葉しか紡げなくされた。彼を私は愛していないのに、口から出る言葉はいつも彼を愛しているという睦言しか紡げない。いっそ狂いたいのに、彼は私にそのままで良いという。そのままの貴女であれと言う。私はもう、どうすれば良いのか分からない。彼は私の心を欲している訳ではないのに。彼は私を愛せと、愛する言葉だけを紡げと言う。もう私は狂っているのかもしれない。彼を憎悪したいのに、彼のせいで出来ない。殺してと泣き叫ぶことすら、もう出来はしない。祝福の神子とは、神の模造品。常々そう言っていた彼は、望むことは何でも叶うのだといつも言っていた。神は安らぎを与えるのではなく、私に彼を愛せと言う。そう出来れば私も楽になるのだろうか。心が変わっていく恐怖を、私は生涯耐え続けなければいけないのだろうか。ああ、そうなのであれば私は心から彼を愛していると言おう。そうすればもう、私は変わっていく恐怖を覚えずに済む。愛しています、祝福の神子。神の愛する子よ』
そんな言葉で締めくくられたそれは、祝福の神子という存在が決して善ではないことを初めて公に示した最初の記録となった。
そこから、アナスタシア皇国の皇帝は代々、祝福の神子に関する書物と記録、そしてそれに対抗する術を研究し引き継いできた。創世記まで遡って研究されたそれは、漸く祝福の神子の望みに対抗する術を生む。但しそれは、心を変容させられない物というだけで、祝福の神子が願う出来事を形作る行いには然程意味を為さなかった。
それでも、祝福の神子によって感情や思いを作り変える事を阻むという点では、その術は大いなる遺産となった。そうして受け継がれたその術を用い、私の父たる皇帝陛下はカナシュタ義兄様の手によって変化する周囲とは裏腹に、最後までカナシュタ義兄様の願いに抗うことを許されたただ一人の人でもあった。
その術は祝福の神子が付ければその力を振るうことを制限する。これは私が幽閉されている間に、カナシュタ義兄様からその存在を隠すために着けていた手枷にも刻まれていた。これが無ければ私は、六年もの長きに渡る年月を、同じ祝福の神子たるカナシュタ義兄様から逃げることなど出来なかっただろう。
「―――ということで、宜しいでしょうか。陛下」
急に水を向けてきたクロードに、私は静かに頷いた。
「それでは本日はこれまでと致しましょう、陛下。私はこれで失礼致します」
「ええ、ご苦労様でした。ヘンベルク監査官」
労いの言葉を述べると、間もなくクロードは資料を纏めて席を立った。同様にザイツ侯爵もその背を追って、書記官達に今回詰めた案件の指示に向かうという事でクロードよりも先に執務室を後にした。
執務室のドアに手を掛けたクロードは、静かに凪いだ瞳を私に向け、ただ一言不穏な言葉を落としていった。
「カナシュタ・フロンタール様は今夜にもお戻りになられます。そうしましたら私はお役御免となりましょう。どうぞ女皇陛下に置かれましては、フロンタール様を怒らせる事の無いようお願いしたい。私ではそれをお止めする事など出来ませんので」
「……肝に銘じておきましょう」
それでは御前、失礼致しますとクロードが立ち去った室内で、私は柄にもなく、心地良い椅子の背に身を預けた。
ずきずきと痛むこめかみを揉みながら、私は最後のクロードの言葉の意味を考えずにはいられなかった。
その後は私室に下がるまで、胸の奥に暗雲が立ち込め、常よりも倍以上の疲労感を感じながら執務に没頭した。
―――そして時は冒頭へと戻る。
目を覚ました私の目に飛び込んできたのは、私の側で静かに腕を組んで窓の外を見つめるカナシュタ義兄様の姿だった。
薄暗い室内では小さなランプの灯が点り、カナシュタ義兄様の横顔からはその表情は伺えなかった。
「カナシュタ義兄様」
少しだけ掠れたその声は、カナシュタ義兄様の元に正確に届いたのだろう。ゆっくりと振り返ったカナシュタ義兄様は、私の側まで来ると、ベッドに腰掛けて、上半身を起こした私の頬を片手でそっと包み込んだ。
「疲れていたようだな。ゆっくり休めたか?」
「ええ、勿論。まだ少し体が怠くはありますけれど、特に問題はございません」
「それは良かった」
にこりと微笑んだカナシュタ義兄様は、丹念に私の顔の輪郭をなぞると、静かに私を抱き寄せた。
カナシュタ義兄様の胸板に顔がぶつかり、私は慌てた。
「カナシュタ義兄様、」
「クロードは、よくやってくれていたか?」
「ええ、ヘンベルク監査官ならば、とても良くお働きに…っっつ!」
ぎゅうっと私の手首を掴んだカナシュタ義兄様は、抱き込んでいた私の体を離し、ベッドに縫いとめた。
「カナシュタ義兄様、痛いっ…!」
「クロード、と呼んでいたと聞いたが、それは本当か?」
「なんの、こと、ですかっ?」
「クロードと呼んでいたと、私の部下が聞いたと言っていたが。確か、クロードと顔を合わせた時だったな。テルミナ」
ぎしりとベッドに乗り上げたカナシュタ義兄様は、私に覆いかぶさりながら、鋭い眼差しで私を射抜いた。
その目は確かに、言い逃れは許さないと物語っていた。
クロードと正式に顔合わせをした時、私は一度だけ名を反芻するために呟いた。「クロード」と。
けれどそれはただその一度きりで、それ以後はきちんとヘンベルク監査官と呼んでいるし、誰に向けたものでもない呟きをドロワー王国の兵士が聞いていた事が驚きだった。
「テルミナ。私以外の者の名を、親しく呼ぶなどあってはならない事だよ」
そう囁いたカナシュタ義兄様は、私の首に顔を埋め、ぺろりと首筋を舐め上げて喉へ滑り、薄い皮膚に歯を立てた。
「カナシュタ義兄様」
「約束、出来るね?」
ぷつりと、喉から血が流れ出す痛みを感じながら、私は押し黙った。
誓約と代償、そしてその褒美。
カナシュタ義兄様は、私に、これからどんな理由があれ親しく名を呼ぶことは許さないと、そういう誓約を課そうとしている。現にカナシュタ義兄様の周囲には美しい金の粒子が輝き、宙を舞っていた。
押し黙ったままの私に、カナシュタ義兄様は甘い睦言を囁くように言葉を重ねた。
「テルミナがそうしてくれるのであれば、私が今後、アナスタシア皇国の誰をも傷つける事は無いと誓おう」
はっとカナシュタ義兄様を見つめれば、うっとりとした表情で艶やかに微笑むカナシュタ義兄様の美しいルビーの瞳とぶつかった。
誰をも傷つける事は無い。そう、カナシュタ義兄様が誓うのであれば、私が名を親しく呼べなくなったとしても、それ以上の望みを叶える事が出来る。
「テルミナ」
答えを急かすように、私の耳たぶを食んだカナシュタ義兄様に、私は望む答えを返した。
同時に、二人の間に金の粒子が一気に増え、舞い上がり、私とカナシュタ義兄様を柔らかく包み込んだ。
「良い子だ、テルミナ」
そう呟いたカナシュタ義兄様は、流れ出た血で汚れた喉を舐め上げて、同時にその傷を癒し、私の口唇を静かに奪った。
情欲も露わに私の唇を翻弄するカナシュタ義兄様は、ただ静かに微笑んだ。
「これで私の名以外、呼ぶ事は出来なくなったね、テルミナ」
その言葉は、カナシュタ義兄様の美しい微笑みと共に、あらゆる情熱と昏い欲望を秘め、美しくも妖しい毒のように私の心の奥底へと沈殿していった。